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あとがき

 


宗教と真実の違いがなかなか分からない。それから、西洋文明の土台になっているキリスト教と、東洋文明の土台になっている仏教との違いがはっきりしない。さらに、西洋文明の基本的な思想である神と、東洋文明の仏という概念が、どういう関係になるのか分からないのです。

 現在の世界では、テレビやラジオの発達、飛行機の発達によって、西洋文明と東洋文明の境がなくなっているのです。言葉としては、西洋、東洋と言いますけれど、実は東洋文明の本質が、世界ではまるで分かっていないのです。東洋人が東洋文明の本質を知らないのです。

 東洋文明の本質は東洋無です。無の見方です。これは物質はないという見方です。これは、仏教だけでなく、中国の老子という学者が、無の働きがすべてのものを産むというように説いているのです。

 これは東洋文明の本質であって、無為の為は何か仕事をする場合に用いるのですが、無為とは仕事をしないというように読まれているのです。ところが、老子が言っている無為というのは、仕事をする方なのです。

 無為とは無の働きということです。無の働きが有を産むと考えるのです。これが東洋思想の特長なのです。

 西洋思想には、無の働きというような考えはありません。般若心経の空は、老子の無為という思想と非常によく似ているのですが、少し違う所があります。

 色即是空は、空即是色とひっくりかえっているのであって、目に見えるものは空である、ゼロである、からっぽであると言っています。からっぽのものが、目に見えるものになって現われている。これが空即是色です。

 そうすると、おかしいのです。色は空であるということは、何となく分かるのですが、空が色であるとはどういうことか。色即是空というのなら、わざわざ空即是色と言う必要はないのではないか。どちらか一方にしておかないと分からないというのです。ここに、般若心経のあやふやさがあるのです。

 こういう言い方をしますと、抵抗を感じる人がいるかもしれませんが、実は、般若心経は非常に鋭い感覚で、文明を批判しているのです。しかし、答を出していないのです。色即是空は分かりますが、空即是色ということ、なぜ、空が色になっているかが分からないのです。空とはありもしないものですが、ありもしないことがなぜ現われているのか。

 現在、私たちは地球があると思っています。地球がどうしてできたのかという説明が、般若心経には全くありません。地球が空だと言います。それで終わりなのです。それで終わりでは困るのです。現在の科学をどう説明するのか、これが問題なのです。

 日本人は命という言葉は知っていますが、命とは何かということを正しく説明することができないのです。生きていながら、命が分かっていないのです。これは正確に言いますと、生きていないことになるのです。本当に生きているのでしたら、命についての説明ができるはずなのです。ところが、できないのです。これは命を正視していないからです。

 そこで、般若心経によって、人間の常識が間違っていることを、まず、認識することです。目で見たとおりのものがあるという考え方は、おかしいのです。現在の科学では、物質は存在しないことになっているのです。原子の運動はあります。しかし、物質はないとはっきり言っているのです。

 物質がないという証拠に、原子爆弾ができているのです。原子爆弾や水素爆弾があることが、物質が存在しないという証明になるのです。般若心経が、色即是空と言わなくても、原子爆弾が存在する事実によって、物質が存在しないことを証明できるのです。

 京都大学の故湯川秀樹さんが随筆で、大学では物質は存在しないと学生に教えているが、家に帰ると物質があるような気持ちで生きている。学者として恥ずかしいと書いていました。

 原子爆弾を製造している学者は、物質はないと思って製造していながら、家へ帰ると、やっぱり物質はあると思っているのです。奥さんの肉体があると思っている。目の前にご馳走があると思うのです。

 物質があるというのが科学なのか、物質がないというのが科学なのか、どちらでしょうか。どちらも科学でしょう。科学は一方で認めて、一方で否定しているのです。これが文明というものなのです。文明は、理論で成り立っているのです。実体によって成り立っているのではないのです。

 現在の専門学は、すべて理論であって、仮定をふまえているのです。時間が存在することを、初めから鵜呑みにしているのです。だから、物理運動があると考えている。

 ところが、時間が存在するという証明は誰にもできないのです。時間が存在することを証明した学者は、世界に一人もいないのです。

 いくら頑張っても、時間を証明することは今の人間には不可能なのです。時間があることが証明できなければ、時間が無いことになる。時間が無いことになると、物理運動は成立しないのです。そこで学問は困るのです。

 そのように、人間の学問では、人間が生きているということを説明できないのです。近代文明の学問は、これほど信用できるものではないのです。

 学問は、生活の役には立ちますが、生命の役には立たないのです。学問というと、いかにも立派そうに見えますが、生活する知恵なのです。こういう考え方をユダヤ主義というのです。ユダヤ主義が近代文明を造っているのです。専門学は、ほとんどユダヤ人が造ったものなのです。

 ところが、般若心経はユダヤ人が造ったものではないのです。般若心経は人間が生きている事実をそのままずばっと説いているのです。目で見ていることは間違っている。耳で聞いていることが間違っている。人間の感覚は、空なのだと言っているのです。

 聖書は何を説いているのか。実を説いている、有を説いている、神はあると言っているのです。有りて有るものは、神だと言っているのです。

 般若心経は、人間の考えている思想は無だと言っているのです。そこで、般若心経の無という考え方をしっかり踏まえて聖書を見ますと、初めて、キリスト教ではない聖書が分かるのです。

 聖書から見ますと、プロテスタントもカトリックも皆間違っているのです。

 「悔い改めて、福音を信じなさい」と新約聖書に書いていますが、悔い改めるということが分からないのです。泥棒をした、親と喧嘩をした、人の物を盗んだという事に対して謝ることが悔い改めだと教会は言います。それも悔い改めの一つでしょう。

 それは小さいことであって、今まで考えていた常識が間違っているのです。自分が生きているという考えが間違っているのです。

 自分が生きているという事実はないのです。人間は自分が生まれたいと思って生まれてきたのではありません。生まれたいと思わないのに生まれてきたのです。そうすると、今いる自分の命は自分のものではないのです。

 これは簡単なことです。この簡単なことが、世界中の人間に全く分かっていないのです。イエスはこれが分かっていたのです。自分の命がないことをはっきり言っています。私の命は父の命だと言っているのです。父の命が私という格好で現われていると言っているのです。イエスの命に対する見方の他に、正確な命の認識はないのです。

 父とは何かというと、神のことをいうのです。神がなぜ父になるかと言いますと、人間はこの世に生まれたいと思って生まれたのではありません。親が産みたいと思って産んだのでもないのです。

 人間は生理現象によって生まれてきたのです。自然現象によって生まれたのです。自然現象によって生まれたということは、人間の命は本質的に自ずからのものなのです。自分というのを、自ずからの分と読めばいいのです。

 自ずからというのは、天然自然ということです。天然自然が神なのです。天然自然から生まれた私たちは、天然自然の分を自分というべきなのです。

 自分の自をみずからと読むから間違ってくるのです。おのずからと読みますと、命が自分のものではなくて、神のものだということが自然に分かるのです。そうすると、死なない命を見つけることができるのです。イエスがなぜ復活したかというその原理が、はっきり掴まえられるのです。これはキリスト教ではないのです。聖書そのものを言っているのです。

 般若心経は仏教ではないのです。人間が生きていることの実体を言っているのです。聖書も宗教ではないのです。般若心経は、命の事実を空の立場から説いている。聖書は実の立場から説いているのです。この二つをひっくるめなければ、命の実体は分からないのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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