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はじめに



般若心経は五蘊皆空を基本にしていますが、五蘊皆空というのは、人間の思考方式、経験の内容が全部間違っているというのです。

 般若心経の思想は、釈尊の思想を基本に要約したものと言えるのです。現在まで、人間は六千年の間、文明社会を造ってきましたが、未だに人間が何のために生きているかについての端的な結論が出ていないのです。

 日本の国ができてから千二、三百年になりますが、日本の国が何のためにあるのか、全然分からないのです。

 六千年もの経験をしていながら、基本的なテーマが未だに分かっていない。分かっていないだけならいいのですが、だんだん間違った方向へいっているのです。現代文明になってからは、とても歪んだ状態になっているのです。

 人間は目的なしに生きています。家を建てる、貯金をする、仕事で成功するという目の前の目的はありますが、人生の目的、永遠の理想がありません。

 目的なしに生きているというのは、とんでもない間違いです。二、三日の旅行をする場合でも目的をはっきり決めて行くのです。

 人間は六千年もの間、旅行をしているのです。

 個人的に言いましても、七十年、八十年の間旅行をしていらっしゃったのですが、その旅行の目的がなかったのです。こういう間違った状態を、般若心経は五蘊と言っているのです。

 目的なしに生きている人間の心理状態、思考方式が般若心経でいう五蘊です。五蘊とは目で見ている世界、意識している世界、つまり、眼界、意識界が間違っているというのです。

 どう間違っているかと言いますと、無眼界乃至無意識界です。人間が目で見ている世界、意識している世界はないのです。

 皆様は今日まで、社会的に、また、職場的にいろいろな経験をされたのです。そういうご経験を自分の人生だと思っているのです。これが間違っているのです。それは人生航路であり、人間としての経験だったのです。しかしそれは、皆様の人生の本質ではなかったのです。

 皆様の人生の本質は何かと言いますと、皆様が現在生きていらっしゃるということです。これを英語で言いますと、ザ・リビング( the living )ということになります。皆様が今生きていらっしゃることの実体、実質、本質がザ・リビングです。

 自分自身のザ・リビングが人生の本質です。ところが、このザ・リビングがさっぱり分からない。分からないままで生活しているのです。生活の経験が皆様の精神の基盤になっているのです。

 生きているということは命を経験していることです。リビングを経験していることです。生きているという事実を経験していることです。これがはっきり分かればいいのです。

 生きているということが、どこから来て、どこへ行くかがはっきり分かれば、皆様は死なない命が分かるに決まっているのです。

 ところが、自分の人生経験、家庭の経験、学校の経験、現実に生きている生活経験が自分だと思っていますと、リビングの実体、生きていることの実体が全く分からずじまいになってしまうのです。

 そういう状態を般若心経は五蘊と言っています。新約聖書では肉の思いと言っています。五蘊とか肉の思いというものは、人間の生活的な妄念です。

 生存、生活は人間の本質を意味していません。人間が社会的に、また、国家的に家庭的に生きている状態は、本体ではないのです。

 自分の生活経験を自分の本体だと考え込んでいると、死んだらどうなるかという疑問にぶつかるに決まっているのです。人間は死んだらどうなるかを考えざるを得ないのです。

 人間の霊魂は、経験の主体となる機能性です。この霊魂が今の人間に全然分かっていないのです。一万七千六百巻といわれる膨大な仏典の中に、魂という文字が一字もありません。魂のようなことを言っていますけれど、魂という文字がないのです。魂という文字がないので、困っているというお坊さんがいるのです。

 日本人でも大和魂とか農民の魂とかいう人がいますけれど、魂とは何かというと、分からないのです。分からないままで使っているのです。

 新約聖書には魂という文字がたくさんありますが、それについての明確な定義をキリスト教の牧師さんは持っていないのです。

 こういう考え方を五蘊と言います。釈尊は、五蘊で生きている人間は空だと言っています。

 釈尊は明けの明星を見て悟りを開いた。そうして、現在の人間は空だとはっきり言い切ったのです。単なる悟りではなくて、彼自身が生きている実感としてそう言っているのです。

 空という言葉の意味が分からないのです。空はからっぽではないと言います。それで何かというと分からないのです。今の人間が生きていることが空であるとすれば、人間の実体は何か。これが分からないのです。

 聖書なら説明できますが、日本人は聖書に対して親近感を全然持っていません。般若心経に対するような親近感を、聖書に対しては持っていないのです。

 現世の常識を持っている人間が、イエス・キリストを信じることは不可能です、できないのです。それをキリスト教はできると言っています。全世界に十数億のキリスト教信者がいますが、全部誤解しているのです。これが宗教です。

 信じているような気持ちを持っているのです。現実に生きている人間の実体が五蘊です。五蘊を持っている人間がそのままの状態で、まともに神が信じられるはずがありません。それを信じているような錯覚に陥っているのです。

 常識を持ったままの人間が、まともに神や仏を信じられるはずがありません。それを信じたつもりで自分自身を誤魔化しているのです。宗教は自分自身に嘘をついているのです。だから宗教を何年も信じていますと、だんだん分からなくなるのです。

 釈尊は明けの明星を見て悟りを開いた。これはイエスが現われる四、五百年前のことですが、釈尊は明けの明星を見たことによって、今生きている人間はすべて無能だ、空だと言っているのです。ところが、空の実体は何であるかを全然説明していないのです。

 新約聖書の終わりの方に、ヨハネの黙示録があります。そこで、キリストとなったイエスが、「私は輝く明けの明星である」(22・16)と言っています。また、他の所で、ペテロというイエスの弟子が、「自分の心に明星が出るまで、聖書を読みなさい」(ペテロの第二の手紙1・19)と言っています。これがキリスト教では分からないのです。明けの明星が出るまで、聖書を読んで、読んで、読みこなせという意味が分からないのです。

 釈尊はイエスを見たのです。イエスが、自分のことを輝く明けの明星であると言ったのはどういう事なのか。釈尊はそれを見て、どのように感じたのか。ここに人間歴史の決め手があるのです。

 東洋文明と西洋文明と、非常に深い関係があるのです。これが現代文明では全然分かっていません。これが分からなければ仏教もキリスト教もだめです。

 仏教の真髄はどこにあるのか。釈尊の空という悟りの実体は何だったのか。イエスが「私は輝く明けの明星である」と言った意味は、何だったのか。釈尊が輝く明けの明星を掴まえていたということを、キリスト教の牧師さんは一人も知りません。キリスト教の立場から釈尊の悟りの説明はできません。仏教の立場から、イエス・キリストの説明も全然できないのです。こういう状態を五蘊というのです。

 五蘊皆空、人間の思いは皆間違っている。人間の魂は現世に生きている間だけではすまないのです。その証拠に弔いをします。弔いとは共に習うということです。死んだ人の亡骸を見て、自分たちもこのようになるということを考えることです。

 皆様は今、現世で肉体的な条件で生きていらっしゃいます。この世では常識は通用しますが、この世を去ってしまいますと、それは役に立たなくなるのです。この世を去って、寺も教会もない所へ行くのです。そこでは、この世の理屈が通用するはずがありません。

 イエスは宗教の宣伝に来たのではありません。宗教は間違っていると言いに来たのです。そこで宗教家に殺されたのです。このことをよくお考え頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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