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造化の神秀




人間は本質的にとんでもない間違いをしているのです。人間は自分の意志で生まれてきたのではありません。生まれたいと思ったのではないのです。また、両親も私たちを産みたいと思って産んだのでもありません。

 人間は生まれてきて自然に人間の仲間入りをしている訳ですけれど、これがどういうことなのかということが分からないままで、人間の仲間入りをしているのです。

 人間は幼年時代から少年時代、青年時代を経て大人になるのです。そうして人間の仲間に入り込んでいるのです。世間の人々がしている生活をそのまま受け継いでいるのです。それぞれ職業の相違とか思想の相違がありますが、本質的に世界中の人間は同じような生活様式によって生きているのです。

 ところが一般の人間が生きていることは、とんでもない間違いをしているのです。それは死ぬということです。人間の本質、実体は死なないのに、死ななければならないと考えているのです。人間は死なねばならないものだと思い込んでいるということです。

 世間一般の人がそう思い込んでいますから、自分もそう思い込んでいるのです。これは非常に無責任な、また無定見な、無自覚な考えです。

 生まれてきたと言います。生まれてきたというのはどこからか来たという意味です。死んでいくと言いますが、どこかへ行くのです。どこかから来てまたどこかへ行くのです。その中間の現世を今経験しているのです。

 現世だけが人生ではないのです。生まれてくる前の過去世があったのです。そして現世があり、死んだ後の来世があるのです。過去世と現世と来世の三つの世があるのです。これを仏教は三世というのです。

 三世全体を人生というのです。過去世、現世、来世の全体をひっくるめて人生というのです。現世だけが人生ではないのです。人は生まれて来る前の世界、死んだ後の世界をひっくるめて考えなければいけないのです。そうしなければ正しい人生観が成立しないのです。

 現世だけが人生だと思っている価値観と、死んだ後のことを考えた価値観とでは、価値の相違が出てくるのです。こういうことについて真面目に考えようとしないのが現代人です。

 ルネッサンス以降の近代文明は、白人主義の即物的な考え方、唯物的な考え方、現世本位、現象本位の考え方が中心思想になっているのです。

 基本的人権という考え方、自由、平等、博愛という考え方はフランス革命の思想から出発しているようです。フランス革命の思想はユダヤ人の世界革命による思想でありまして、これは非常に顚倒した考え方なのです。

 こういうことを日本人は知らないのです。ユダヤ人の世界革命という思想は、どういうことに基づいているのか、どういう価値観に基づいているのか分からないままで生きているのです。

 自分の意志で生まれたのではない人間が、自分の考えだけで生きている。これが間違っているのです。



造化の神秀を集めて

 皆様の目が見えること、心臓が動いていることが何であるのか。これが造化の神秀です。中国の杜甫の詞に、造化の神秀をあつめてという文句がありますが、人間の五官は神秀としか言えないすばらしいものです。

 造化という考え方が今の日本には全くないのです。造化の神秀ということが分からないのです。

 例えば皆さんは山の景色を見るとします。山の上にある青空が目に入ります。また、森とか川とかが目に入ります。人間は山を見ているつもりですが、実は皆様の目は山の景色を見ているのです。

 景色とは何であろうか。これが般若心経でいう空(くう)です。これは造化の神秀です。造化の神秀が皆様の目を通して魂に感じられているのです。皆様の魂に造化の神秀が語りかけているのです。

 桜の花を見ても、菊の花を見ても、ユリの花を見てもそういう花を通して非常に偉大なもの、宇宙の神秘と言えるものが皆様の精神構造に重大なことを訴えているのです。

 造化の神秀がはっきり分かれば、人間は死ななくなるのです。

 私は死ななくなるという事実を体験しましたので、これを体験した者の義務として、責任として黙っている訳にはいかなくなったのでこうしてお話ししているのです。

 私が黙っていたら、皆様は死ぬに決まっているのです。死ねば必ず地獄へ行くに決まっているのです。絶対に行くのです。

 皆様の魂は皆様の現在の人生観や世界観が間違ったものであることをよく知っているのです。皆様の顕在意識、欲望、感情が皆様の指導権を持ってしまっている。そのことについて皆様の魂は非常に深い虚無感と絶望感を持っているのです。

 自分の顕在意識、常識は魂の声を無視して強引に欲望主義の人生を送っているのです。これは真面目な潜在意識を無視した、めちゃくちゃな生き方なのです。

 そういう欲望主義、現実主義の人生観は必ず裁きを受けることになるのです。皆様の魂はそのことをよく知っているのです。だから死にたくないのです。死んだ後には地獄が待っているからです。

 私がいう地獄は宗教でいうような地獄ではありません。もっともっと辛辣なものです。もっと惨烈なものです。人間は造化の神秀をばかにしているのです。造化の主を人間は無視しているのです。これが地獄へ行く原因になるのです。

 皆様の心臓は造化の神秀によって動いているのです。皆様の耳は造化の神秀によって働いているのです。ところが皆様の常識や知識が造化の神秀を無視しているのです。これは自分自身の魂を無視して、自分自身の命を無視して生きているのと同じことになるのです。

 このような根本的な間違いが、現在の日本人の常道になっているのです。

 日本人全体で宗教に関心がある人は一割弱のようです。アメリカでは四割か五割になるのです。イギリスではもう少し高いようです。

 日本人は八卦占いとか呪いとかを信じる人は大変多いのです。正当な意味での宗教を尊ばないで、邪道的なものに頼っているのです。

 私は宗教の宣伝をしているのではありません。宗教は本質的に曖昧不完全なものです。般若心経を宗教の経文だと思っているために、般若心経の字句をよく承知しておられながら、本当の意味が全く分かっていないのです。

 色即是空、空即是色という言葉は、有名すぎるほど有名です。日本人ならたいていの人はこの言葉を知っているのです。ところがこの意味が全く分かっていないのです。

 なぜこういうことになるかと言いますと、般若心経は仏教の経典だと思っているからです。仏教だと思っているから、本当の意味を知ろうとしないのです。知らなくてもいいと考えているのです。

 信教の自由という考え方がありますから、仏教の経典くらいは知らなくてもいいと考えているのです。こういう考え方で般若心経を読んでおいでになるとしますと、般若心経の五蘊皆空とか色即是空という大精神が全く認知されないのです。字句を読んでいながらその意味が全く分かっていないのです。

 論語読みの論語知らずと言いますが、心経読みの心経知らずということになっているのです。般若心経が宗教であると考えられているために、般若心経の真意が分からないのです。

 聖書もそのとおりです。聖書をキリスト教の教本だと考えている。従って聖書の真意が全く分かっていないのです。今の日本のキリスト教は全部間違っているのです。これは確信を持って断言できるのです。

 例えばキリスト教では神を信じよと言いますけれど、神とは一体何であるかが分からないのです。この重大なことが分からないのです。神が造り主だということくらいは言います。天地の創造がどうしてなされたのか。何のために天地が創造されたのか。こういう基本的なことが、全く読み落とされているのです。

 人間とは何かが分かっていないのです。キリスト教の人々はキリストの福音によって天国へ行けると考えている。こんなことは聖書に書いていないのです。これはキリスト教の教義です。そのように誤解される字句はあります。例えば神の国に入るとか、天国に入るという言葉はありますけれど、これは死んでから天国へ入るという意味とは違うのです。

 現世において、顕在意識がある状態で霊の眼が開かれて、神を見ることができるのです。イエスは、「心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう」と言っています(マタイによる福音書5・8)。このように神を見ることができるのです。

 キリスト教は神を見ることができません。宗教観念でごまかされているからです。仏教であるために般若心経が分からない。キリスト教であるために聖書が分からない。こういうことになっているのです。

 私たちは宗教ではない聖書、本当の命としての聖書、哲学としての般若心経を強調せざるを得ないのです。このことを時間をかけて勉強すれば自ら造化の神秀が分かるのです。

 造化の神秀という言葉の中には神の完全なすばらしい優れた全能者の力が現われているのです。皆様の目が見えるという事がらの中に神のすばらしい全能力がこもっているのです。

 イエスは「あなたの目が明らかであれば、全身が明るくなる」と言っているのです。全身が明るくなるというのは、全人生が明るくなるという意味です。生まれてくる前の人生、生まれてきてからの人生、死んでからの人生の三つが、すっかり明るくなるというのです。

 仏典の中には造化という言葉はありません。これに似たような思想がないとは言えませんが、とにかく人間の常識や知識が五蘊でありまして、これが空であると言っているのです。

 人間の常識や知識が空であるとしたら、空ではないものは何なのか。この説明が般若心経にはされていないのです。

 地球の存在は造化の神秀によってなされているのです。また、人間存在も無窮の造化の神秀によってなされているのです。

 時間とは何か。人間とは何か。時間の間、人間の間、空間の間、すべて間がありますが、この間ということが存在という意味になるのです。

 存在の実体は何であるのか。このことを自分の存在を通して、時間、空間を通してその実体を見極めることができるのです。これを命というのです。人間が死ななければならないと思い込んでいるのは、人間の業の結果です。業の結果、人間は死なねばならないと考えてしまうのです。

 これは負けるに決まっていると思って戦闘しているのと同じです。これは敗北主義です。人間は考え方が間違っているから死ぬのです。



無明煩悩

 罪の結果が死です。罪ありて死に到るのです。罪があるために死があるのです。罪の本源を突き止めていけば、罪は消えてしまうのです。

 罪は観念である。観念的に罪がないというようなことをいう教派がありますが、そういうものではないのです。人間の常識が罪です。人間の知識が罪です。人間の常識、知識は無明煩悩から涌いて出ている思想です。

 無明煩悩から涌いて出た思想に基づいて生きていれば、霊魂の裁きに向かって進んでいるに決まっているのです。死とは一体何であるか。これを究明していけば、人間は死なない人生を発見できるに決まっているのです。

 皆様が自分だと思っている人格は、無明煩悩から湧いて出た人格です。自我意識は無明煩悩から涌いて出た意識でありまして、自我は本当は存在していないのです。空なるものです。

 自分自身の魂をもう一回見直してご覧になれば、自分は死なないということがはっきり分かるのです。

 禅宗では大悟徹底とか、大解脱とか、大悟一番と大袈裟な言い方をしますけれど、何でもないことです。自分はいないということが分かればいいのです。

 皆さんはほっておけば皆死ぬのです。日本人も世界中の人も、ほっておいたら皆死ぬのです。なぜ敗北主義に屈しているのでしょうか。そういう敗北主義から抜け出して頂きたいのです。

 人間は死なないのが本当です。私はこれが分かっていますから、黙っていることができないので、やむを得ず皆様にお話ししているのです。皆様に人間は死なないものだということを訴えているのです。

 皆様に魂とは何であるか、自分自身の存在とは何であるかを悟って頂きたいのです。皆様の本心はどこかから出てきたものです。皆様の魂はどこかから出てきたものです。皆様の魂は神の子です。だから神を知っているのです。常識、知識の虜にならないで、皆様の本心を本当に掘り起こして頂きたいのです。

 皆様の本心に従ってご自分を見て頂きさえすれば、自分の本性がはっきり見えてくるのです。

 道元禅師「正法眼蔵諸悪莫作巻」の中で、「生を諦め死を諦めるは、仏家一大事の因縁なり。生死の内に仏あれば生死なし。但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし。是時初めて生死を離るる分あり」と言っています。

 諦めるといのは明らかにすることです。生ということを明らかにする。明らかにすれば人間が考えている生死がなくなってしまうのです。

 生死の内に仏あれば生死なし。生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし。是時生死を離るる分ありとあります。現世を離れてしまった人生があるのです。

 道元禅師の説は非常に高度なものですが、実際に皆様に命をご案内する具体性に欠けているのです。道元禅師の正法眼蔵にはそういう具体性に欠ける所があるのです。どうしたら人間が永遠の生命の実体を掴まえることができるのか。人間の魂と現代文明とはどのような関係があるのか。文明と人間の霊魂がどういう関係があるのかということです。こういうことになりますと、聖書を勉強しなければ分からないのです。

 そこで私たちは般若心経の悟りと聖書の救いの両方を勉強しなければならないと考えているのです。これは前編と後編の関係になるのです。般若心経には五蘊皆空という非常に重要な断定があります。これは単なる断定ではなくて、宇宙の真理です。宗教ではない真実です。真実そのものです。これが五蘊皆空です。

 人間の常識や知識が皆空であるということを、はっきり知らないままの状態で、キリスト教の人たちは聖書を勉強しています。人間の常識、知識は五蘊ですが、これを皆空だということを承知しないままで聖書を勉強しています。そこでキリスト教の人々は皆間違ってしまうのです。

 キリスト教の人々が間違っているというのは、キリスト教の人々の責任ではなくて、宗教の教義の責任です。宗教はすべて教義を教えているのです。人の教えです。宗教教団にある教義を教えているのです。

 共産主義のことを教条主義と言いますが、教条主義が教義主義でありまして、この意味ではマルクス主義も宗教だと言えなくも無いのです。

 教義、教条は人間が造ったアイデアです。人間が造った観念、理念が宗教になっているのです。これを信じる人間が良いのでも悪いのでもない。宗教の教えが悪いのです。宗教教義が神の名(実体)に反するから悪いと言っているのです。

 ザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)がキリスト教では分かっていないのです。神の名、神の実体がキリスト教では分かっていないのです。これはキリスト教の教義が間違っているからです。こういうことをキリスト教で言いますと、教会から追放されることになるのです。私はキリスト教の人々から蛇蝎のように嫌われているのです。

 神の実体がはっきり分かってきますと、現在のキリスト教の教義は消えてしまわなければならないことになるのです。従ってキリスト教という教義を信じている人々には、本当のキリストが分かっていないことになるのです。

 イエスがパリサイのパン種と言っています。パン種ということが宗教観念を意味するのです。

 正当な宗教を勉強している方から見ますと、お稲荷さんとかお地蔵さんはただの偶像ではないかと考えるのです。ところがお稲荷さんもお地蔵さんも神の御名の一部を表現しているのではないかと考える面があるのです。だから人間が考える色々な思想の中に、全く間違っているというものはないのです。

 問題は私たちの魂の完成のために絶対必要なポイントは何かということです。色々な思想をよくよく検討していけば、結局一つのポイントに到達できるのではないかということができるのです。

 例えば自由という言葉を誰でも使いますが、自由の自をみずからと読むか、おのずからと読むかによって、意味は正反対になるのです。例えば共産国で考えている自由の概念とアメリカで考えている自由の概念とでは全く違います。

 幸せと言いましても、現世主義の幸せと、過去、現在、未来の三世を貫く幸せとでは、価値の基準が全然違ってくるのです。

 造化の神秀そのものを詳しく考えると、神の名が分かるのです。「御名を崇めさせたまえ」という言葉が聖書にあります。イエスが祈る時はこのように祈れと教えるのです。「天にいます我らの父よ、御名が崇められますように」とあります(マタイによる福音書6・9)。

 天にいますとはどこにいますことなのか。天とはどこなのか。いますとはどういう状態なのか。こういうことが分かってこなければいけないのです。

 その次に御名を崇めさせたまえとありますが、御名を崇めるということが、人間完成の最も重大なポイントになるのです。

 マルクスの資本論と般若心経や聖書の関係を簡単に申しますと、資本論には人間の本質が全く考えられていません。マルクスは経済生活の形態だけを問題にしているのです。経済生活は人間生活の一部です。全部ではありません。人間生活の中には義理人情の世界とか、好き嫌いの世界とか、四苦八苦の世界がありますが、マルクスはこういうことをほとんど取り上げていないのです。

 人間の本性を検討しようとしていないのです。人間の社会生活、経済生活のみを取り上げようとしているのです。マルクスなりの真理はありますが、人間の本質を十分に究明していないという弱点があるのです。

 人間の生活には有形的な面と無形的な面とがあるのです。先に言いましたザ・ネーム・オブ・ゴッドは存在そのものになるのです。「我は有りて在るものなり」と神は言っています(出エジプト記3・14)。これが神のネーム(実体)です。

 有りて在るということは存在それ自体ということです。地球であること、人間がいること、あるということが神です。存在ということが神です。

 般若心経は、「無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界、無無明亦無無明尽」と言っています。無、無、無、無と言っています。聖書は存在、存在、存在と存在を主張しているのです。般若心経と聖書が鋭く対立しているように見えるのですが、実は同じものなのです。

 地球が丸いように、大宇宙が大円形であるように、有も無も同じことを言っているのです。人間の心理生活と経済生活は同じものなのです。心理生活は観念論だというマルクスの言い方は一つの欠点です。

 神の実体が分かりさえすれば、心理的な面と生理的な面が完全に一致することが分かってくるのです。

 造化の中には精神的なものも、物理的なものも完全に含まれているのです。融合した形で含まれているのです。これが存在の実体です。

 死は人間が間違った生き方をしているから生じるのです。間違った生き方をしていることがに既に死んでいることなのです。

 大乗起信論には人間は無明から涌いて出たものだとあるのです。妄念が妄念を受け継いで、無限の無明に沈んでいると言っているのです。無明煩悩のへどろの中に沈没しているのです。これが人間なのです。

 これは人間が死んでいる状態です。皆様の常識、知識の状態が既に死んでいる考え方です。「肉の思いは死である」とあります(ローマ人への手紙8・6)。肉体存在の人間を人間だと思っていると、死んでいる思いになるのです。

 実は人間の魂の本質は霊なるものです。このことが分かれば死ななくなるのです。

 肉体人間が人間ではなくて、肉体は魂の着物です。不死の命を簡単に申しますと、イエスがヨハネによる福音書の第三章五節で、人間が新しく生まれたら神の国に入ることができると言っています。



衣替え

 これを分かりやすく言いますと、肉体を着たままの人間を自分だと思い込んでいると、とことん死んでしまうと言っているのです。だから衣替えをしなさいと言っているのです。肉体ではないもう一つの体を着るのです。イエスの復活の栄光体を着るのです。

 イエスは生きている間に、変貌の山で変わってしまった。白く輝く肉体になったのです(マタイによる福音書17・1~8)。イエスは生きていながら永遠の生命の実物を持っていたのです。皆様も持つことができるのです。イエスと皆様は同じ人間ですから、彼も人なり、我も人なりとお考えになれば、イエスが持っていた命を持つことができるようになるのです。

 イエスは復活して、彼の主張が正しいことを証明したのです。日曜日は彼の復活を記念する日です。一週間に一回ずつ休んでいることは、イエスの復活を記念していることになるのです。これは歴史的な必然です。

 イエスが復活したことは歴史的事実です。皆様は皆様の中にある魂の本質をはっきり掴まえたなら、死ななくなるのです。

 パウロは「古き人を脱ぎ捨てて、新しい人を着よ」と言っています(エペソ人への手紙4・22~24)。これを実行して頂いたらいいのです。これは宗教観念ではありません。イエスの復活が歴史的事実であるように、私が申し上げていることも事実です。

 般若心経や聖書は非常に次元が高いものでありまして、一足飛びに飛びつくことはできません。それで普通の常識よりもレベルが高いもの、しかし永遠の生命よりもレベルが低いもの、中間的なものを狙うということが必要です。

 例えば法律の勉強をしている人は法律の根源を究明しようと考えるのです。哲学者であるなら哲学の根源を究明するのです。商売人であれば商売の根源を究明するのです。

 文学、絵画といった芸術的な面に興味がある人は、芸術を深く究明しようとしたらいいのです。深くと言いましても専門的な勉強をする必要はありませんが、例えば皆様の家を絵画にすることができるのです。皆様の奥さんのお顔を絵に描いたらいい絵になるのです。

 その奥さんの顔に現われているものは何であるのか。生気があるのです。生気とは何であるのか。これをじっとお考え頂いたら、五蘊皆空の向こうにあるものがちらっと見えてくるのです。

 歌でも俳句でも、音楽、写真でもいいでしょう。人間の文化意識の奧の方には必ず造化の神秀があるのです。人間は天地自然の力の原理を知りたいと思っているのです。それが芸術になって現われているのです。

 商売人でも会社員でも、人間の本質を究明したいという気持ちを持ち続けるなら、自らその人に真理の門が開かれると思います。

 イエスは、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」と言っています(マタイによる福音書7・7)。求めよというのは英語でアスク(ask)になっています。何をアスクせよとは書いていないのです。ただ求めよと言っている。何を求めよとは一切言っていません。

 例えば幸福を求めよと言っていない。また、救いを求めよと言っているのではない。キリスト教の人々は救いを求めよと考えている人が非常に多いのですが、無明煩悩から生まれた人間が、罪の塊の気持ちを持っている人間が、救われたいと思うことが罪になってしまうのです。

 イエスは、「自分の命を救おうと思う者はそれを失う」と言っています(同16・25)。自分の気持ちを救いたいと思う者は滅ぼされると言うのです。私のために自分の命を捨てる者は、その命を与えられるとあるのです。

 自分を愛する者は滅びるのです。自分の命を憎む者は返って救われるのです。

 芸術を熱心に真面目に究明すれば、自らこういうことが分かってくるであろうと思われるのです。

 人生には思いと命と二つしかないのです。利害得失とか喜怒哀楽は思いの方です。ところが皆様の五官の働き、目で見ている、、耳で聞いている、舌で味わっているというのは命の方になるのです。

 見ているのは何を見ているのか。聞いているのは何を聞いているのか。食べているとは何をしているのか。これが分からないのです。

 花を見たら美しいと思います。美しいとはどういうことか、なぜ美しいと思うのか、これが分かっていないのです。

 高田好胤さんとか、松原泰道さんが般若心経について色々書いていますが、これは悪いというのではありませんが、彼らは宗教家でありまして商売人です。本当のことを言うと商売にならないのです。本当のことを言わない所に魅力があるのです。こういうおかしいことになっているのです。

 宗教は本当に困ったものです。本当のことを言わない所に魅力がある。これは日本社会の大欠点です。

 これは宗教家だけのことではありません。学者でも政治家でも、本当のことを言うと流行らないのです。これが人生です。彼らは人間の思いだけを説明していて、命のことを全く知らないのです。

 生きているとはどういうことか。これを説明しているのが般若心経の目的です。涅槃という言葉がありますが、これは空っぽになることです。現在の自分を空じてしまうのです。自分の思いを空じてしまうのです。

 自分という言葉の使い方を高田好胤さんも松原泰道さんも知らなかったのです。

 日本の仏教の大欠点は空と言いますけれど、空の本質を知らないことです。空じるということは、空に同じるということです。空に同調することです。自分が空になり切ってしまうことです。これを空じるというのです。

 ところが空という言葉の本当の意味が仏教では分からないのです。空というのは口で言えない、人間の普通の心では感じることができないものです。こういうものを掴まえるために、空という言葉が般若心経に出ているのです。

 もう亡くなられましたが、東京大学の哲学の中村元教授が、色即是空ということは、物質、または物体が現象的に存在していることが空であって、目に見えているものがそのままあるのではないということを説明しているのです。

 目で見ていることがないということは、本当のものではない。目で見ていることが空だ、耳で聞いていることも空だ、舌で味わっていることも空だということは、空でない本当のものがあることを知るために色即是空と言っている。中村元さんはここまで言っているのです。

 中村元教授は日本では優秀なインド哲学の大家でした。人間の五官の感覚は、感覚そのものが本当のものを掴まえているのではない。これを空じることによって、本源であるものを掴まえるために般若心経が言っていると説明しているのです。

 学者はここまでしか説明できないのです。松原泰道さんや高田好胤さんと同じです。ここまでの説明なら一般の常識でできるのです。

 ところが本源であるもの、すべての万物の本源であるものは何か。命の本源を掴まえるために空じるのですが、学者や宗教家が本源が分かっているかというと、分かっていないのです。



実と有が分からない仏教


 空だ空だと言いますけれど、本当の実を提供することが出来ないのです。実を勉強する用意なしに、空だ空だということが間違っているのです。

 日本の禅宗がいう空は間違っています。臨済宗も曹洞宗も、空だ空だと言いますが、空というなら実が分かっていなければならないのです。

 空という言葉を使う以上、実という言葉の意味がはっきり分かっていなければ、空という言葉を使ってはいけないのです。ところが宗教家は平気で空だ空だと言っているのです。

 私は宗教は商売だと言っていますけれど、この言い方は少し酷であるかもしれないのです。しかし、あるお坊さんは宗教は商売だと割り切って言っているのです。

 空という言葉の対称は実です。無という言葉の対称は有になるのです。有が分かっている無、または実が分かっている空ならいいのです。

 日本の宗教家は本当の実が分かっていないのです。本当の有が分かっていないのです。色即是空で空じるとどうなるのか、実はどこにあるのか。空即是色というけれど、空の実体は何なのか。この説明ができないのです。できないままの状態で、ただ空だという観念論をふりまいているのです。

 宗教はただの観念論です。哲学と同じようなものです。大和尚とか大僧正とか言いますけれど、皆商売をしているのです。

 私が宗教ではないと言っているのは、実をはっきり掴まえるために空を掴まえると言っているのです。空じることなしには実を掴まえることはできないと申し上げているのです。

 仏教の観念論、哲学の概念で、人間の霊魂が割り切れるものではありません。私が申し上げたいのは、人間の妄念を空じることです。空じることによって命を見極めることができるのです。空じることによって実である命を掴まえることができると申し上げているのです。

 だから般若心経という入口と聖書という奥の間の両方がいるのです。入口だけではだめなのです。

 花が美しいと思うのは、直感的に皆様に命を感じさせているのです。目で見るという感覚というのは命の働きです。目で見て美しいと思えるのは命そのものが感じられているということです。命を直感しているのです。これを美しいと受け止めているのです。

 美しいというのは人間の魂の真髄に触れているのであって、美しいという感覚は死なない命の感覚です。永遠の命の感覚です。これが美しいというように目で感じられるのです。

 美しいと感じているのは、皆様の霊魂がそのように感じているのです。皆様は美しいと感じているけれど、その意味が分かっていない。ということは魂の目が開いていないからです。

 般若心経の解説書に振り回わされないで頂きたいのです。私たちに必要なものは、概念ではなくて本当の命です。命が必要です。

 今皆様が経験しておいでになる命は、肉体的に生きている命です。肉体的に生きている命というのは、やがてなくなるに決まっているのです。

 般若心経は究竟涅槃と言っています。涅槃というのは冷えて消えてなくなることをいうのです。今生きている人間は涅槃になるに決まっています。自分自身が涅槃を悟るか、この世に生きていることができなくなって涅槃になってしまうか、とにかく人間は死ぬに決まっているのです。

 涅槃というのは自分が消えてしまうのです。死んでしまうことを先取りしてしまうのです。これが涅槃です。

 死んでしまうことを先取りしてしまいますと、死ななくなるのです。涅槃だけで死ななくなるのではありませんけれど、涅槃は冷えて消えてなくなってしまうことですから、死ぬべき自分が消えてしまうのです。

 涅槃が本当に分かりますと、今生きているのが本当の命ではないことがはっきり分かるのです。今生きている命はやがて消えてしまう命ですから、本当の命を知るためには、今生きている命を早く見切ってしまった方が、本当の利益になるのです。

 今生きている命を見切ってしまうことが、本当の命を掴まえるための入口になるのです。般若心経は悪魔を退散させるすばらしい力を持っているのです。

 般若心経に悪魔退散の力がどこにあるかと言いますと、涅槃というからです。はっきり涅槃をうたっているのです。色即是空、五蘊皆空、究竟涅槃と言っているのです。

 般若心経の空というのは、現在生きている人間を見切ってしまうことを言っているのです。これは宗教ではありません。宗教家が般若心経を説明するから間違ってくるのです。

 松原泰道さんは宗教家の立場から般若心経を説明するから、般若心経の真意が分からなくなってしまうのです。

 色々な宗派の人が般若心経の解説書を書いています。私が言いたいのは、宗教家の人々が般若心経の解説をするのはやめなさいと言いたいのです。それでお金儲けをしているから困ったものです。

 まず現世に生きている人間を見切ることです。自分自身が生きているという感覚を見切ることです。何のために見切るのかと言いますと、皆様が生きている命の奥の院に、死なない命が座っているからです。

 花を見てきれいだと思う感覚、これはおいしいという感覚が、実は永遠の命の感覚です。お酒が好きな人は一杯飲みたいと思うのです。命を知って一杯飲むならいいのですけれど、命を知らずに一杯飲んでいると、ばかを見るのです。

 おいしいというのは魂が感じているのです。魂が味わっている感覚です。魂は死なないものです。霊魂不滅という言葉がありますように魂は死なないのです。

 仏典一万七千六百巻の経典の中に、魂という文字が一字もありません。霊魂を言わないのです。霊魂に似たようなことは言いますが、魂という言葉が出ていないのです。ですから、仏教家で魂が説明出来る人が一人もいないのです。もしできるという人がいたらいんちきです。

 仏教の専門家であって魂の説明がする人がいたら、偽者だということになるのです。

 死んでから極楽へ行くと言いますが、一体誰が行くのでしょうか。分からないという返事が返ってくるのです。

 正信偈に次のようにあります。


 「帰命無量寿如来

 南無不可思議光

 法蔵菩薩因位時

 在世自在王仏所」


 法蔵菩薩が無限を悟った。無量寿如来と無量光如来を悟ったことによって、法蔵比丘が阿弥陀如来に昇格したのです。これを大無量寿経で説いているのです。

 皆様の中にある魂の本質は無量寿如来、無量光如来です。この二つが魂の本質です。これが皆様の存在の奧にあるのです。皆様の存在の奧にある霊魂の本体、無量寿如来の本体が、花の美しさを見ているのです。だから美しいと思うのです。

 そこで無量寿如来の本体を掴まえるのです。この実物を掴まえるのです。皆様の霊魂を掴まえることです。これが永遠の命の本体です。簡単にいうとこういうことになるのです。

 毎日、皆様は食べたり、見たり、飲んだりしているのです。人間の営みというもの、衣食住の営みというのは、魂の営みでありまして、その中にとこしえの命があるのです。

 与謝野晶子の歌に、「劫初(ごうしょ)より つくる営む殿堂に われも黄金の釘一つ打つ」というのがあります。人間の歴史の流れというのは何か分からないが、殿堂のようなものを造っているというのが、人間の考え方です。

 晶子は永遠の命を本当に掴まえていたのではないのです。だから黄金の釘という生意気なことを言える柄ではないのです。せいぜい真珠の釘くらいのものでしょう。

 皆様もよく考えて頂きたいのですが、皆様の中に理性と良心があるのですが、これが魂の働きです。理性は無限の真理を求めています。良心は最高の善を求めているのです。これが人間の霊魂の持ち前です。理性と良心をひっくるめて命というのです。また、言(ことば)ともいうのです。

 言が命です。大無量寿経では言と言わないで光と言っているのです。南無不可思議光の光です。聖書に、「この言に命があった。この命は人の光であった」とあります(ヨハネによる福音書1・4)。

 聖書も大無量寿経も同じことを言っているのです。命が皆様には理性となり良心となって現われているのです。皆様の理性は何を求めているかと言いますと、絶対の合理主義を求めているのです。最高絶対の合理主義を求めているのです。

 良心は最高絶対の善を求めているのです。これは人間が考える善悪とは違うのです。普通の人間の常識では考えられない善を求めているのです。

 皆様の魂の働きというのは、皆様が承知しておいでになってもならなくても、自分で信じても信じなくても、皆様の精神、またはハートの本当の真髄は、理性と良心の他にありません。

 理性は無限の真理、最高の真理を求めているのです。良心は最高の善を求めている。この二つはどちらも無限を求めているのです。無限無窮を求めているのです。無限無窮とは永遠の命に決まっているのです。仏教はこれを仏国浄土と言ってみたり、阿弥陀如来と言ってみたりしていますけれど、無限無窮のものです。

 阿弥陀というのは無限という意味です。阿は無という意味です。弥陀とは限りという意味です。阿弥陀とは無限という意味です。

 無限を求めるのが理性と良心です。これが皆様の魂の実体です。美しいと思うのは何か。無限が美しいという格好で現われているのです。



絶対とは

 花の姿には地球の命が現われているのです。

 日本人は絶対の本体が分からないのです。分からないという民族になっているのです。これは韓国人でも中国人でも同様ですが、ユダヤ人だけは絶対が分かるのです。分かっているが考え違いをして横を向いているのです。

 絶対というのを口でいうのは簡単です。社会党の故浅沼稲次郎委員長は絶対反対、絶対反対と言っていましたが、絶対という意味が分かっていたのかということです。日本人で絶対という言葉の意味が本当に分かっている人は非常に珍しいのです。

 絶対というのは最上至高のものであって、これ以上のものはないということです。仏教はこのことを不立文字、千聖不伝と言ってごまかしているのです。これが仏教の悪い所です。

 絶対というのはとことんまで説明できないのですが、言える所までは言わなければならないのです。仏教は因縁所生と言っていますけれど、因縁が絶対ですから説明ができないのです。

 日本民族は本当の極点、理性が求める最高の絶対とはどういうものか、絶対真理とはどういうものかが分からないのです。天皇制がありながら、絶対が分かっていないのです。天皇制の本当の意味が分かっていないのです。

 絶対とは何か。花の美しさは絶対の一つのシンボルになるのです。絶対を象徴しているということが言えるのです。皆様の霊魂がそれを感じているのです。どうして感じるのかと言いますと、理性と良心の働きが皆様の霊魂にあって、絶対を知らず知らずのうちに求めているのです。これが本当の命です。

 皆様が現在生きておいでになりますけれど、命が分かっていないのです。これは仏教的に言いますと、無明煩悩の中に埋もれているからです。無明煩悩の塵芥の中に皆様の霊魂が埋没しているからです。だから生きていながら命が分からないのです。

 真理は値段が高いのではないかと思われるのです。そこで皆様にお尋ねしたいのですが、値段が安いので買いやすいのですが、それを買ってもほとんど役に立たないというものと、値段は非常に高いのですけれど、これを買えば必ず役に立つという品物が良いか、どちらが良いのでしょうか。

 日本人は永遠の命という言葉の本当の意味が分かっていないのです。なぜかと言いますと、日本には本当の神がいないからです。日本は神がいない国です。

 八百万の神と言って掃いて捨てるほどの神がありますが、これは紙屑みたいな神です。これは全部人間が造った神です。神戸の湊川神社には楠木正成が祀ってありますが、これは人間を祀っているのです。訳が分からないものを神として祀っているのです。

 こういう常識主義の生活概念をまず棚に上げて頂きたいのです。

 世界歴史の流れが日本人に分かっていないのです。だから本当の神が分からないのです。人類はどのように発祥したのか、どこへ行くのか。文明は流れ流れてどこへ行くのでしょうか。

 おかしいことですが、文明には目的がありません。科学にも目的がありません。哲学にも目的がないのです。皆様は学理学説という言い方でごまかされているのです。文明にごまかされているのです。

 世界の文明はユダヤ人が造っているのです。ユダヤ人は現世に生きている人間が絶対であると考えている。現世に生きている人間が絶対である、人間は現世に生きることが目的であると考えているのです。現世に生きている人間だけが人間であるというのです。こういう考えをユダヤ人は非常に強く持っているのです。

 日本人のように諸行無常、色即是空と考えないのです。ユダヤ人が中心になってあらゆる学理学説を製作しているのです。その証拠に学者はノーベル賞をもらうことを非常に喜んでいるのです。ノーベル賞を拒否する学者は日本にいないのです。ノーベルはユダヤ人でした。このようにユダヤ人に認めてもらうことが、それほど有り難いのです。

 こういう学問が文明を指導しているのです。だから禄な文明ができるはずがないのです。

 現在の文明には目的がありません。ところが皆様はこの文明を心底から信じておいでになるのです。これを根底から改めて頂きたいのです。

 般若心経が分かれば、今の文明が間違っていることくらいは簡単に分かるのです。皆様は般若心経を読んでおいでになりますが、信じておいでにならないのです。その証拠に五蘊皆空を信じておいでにならないのです。五蘊皆空が信じられるでしょうか。

 五蘊皆空を信じられたら、今の日本のあり方が間違っていることが簡単に分かるのです。

 ユダヤ人には般若心経のような高邁な哲学は存在していません。現世主義一辺倒になっているのです。皆様はこの世に生きることがすべてのように考えさせられてしまっているのです。これは皆様自身の考えではなくて、この世の中の文明によってそのように皆様は教育されているのです。洗脳されているのです。

 皆様の霊魂は無限を求めているのです。無限を求めているということは、現世に生きていることだけが人生ではないということを意味しているのです。皆様の霊魂がそれを知っているのです。

 理性は絶対の真理を求めているのですが、この世には絶対の真理はありません。学問にも絶対の真理はありません。政治にも法律にもありません。

 皆様の霊魂が求めているものは、この世の考え、この世の学問やこの世の宗教とは違うのです。

 仏教は寺がある所でしか役に立ちません。浄土真宗というのは浄土真宗の中なら役に立つのです。日蓮宗へ行ったら全然役に立たないのです。

 禅宗で悟りを開いたと偉そうなことを言っても、日蓮宗の人に言わせると、禅天魔、真言亡国、念仏無間、律国賊となるのです。松原泰道さんのようなことを言っていたら、天魔になるのです。

 同じ仏教の中でも禅と日蓮とでは全然違うのです。真宗とも違います。真言宗も又違います。このように宗教というものは同じ仲間の中でしか通用しないのです。

 キリスト教はキリスト教の中でしか通用しないのです。神の前には全く通用しません。キリストの前ではキリスト教の言い分は全く通用しないのです。やがてキリストはやって来ますが、一番最初にキリスト教会が潰されるのです。



宗教は商売


 宗教は結局商売です。私は営業妨害をするつもりはありませんが、役に立たないから役に立たないと言っているのです。宗教はお寺がある所、教会がある所では役に立っていますが、皆様がこの世を去ってしまいますと、寺も教会もない所へ行くのです。そこで宗教の言い分が通用すると思われるのでしょうか。こういうことを冷静に考えて頂きたいのです。

 宗教が通用するのはこの世だけです。この世を去ってしまったら、宗教は一切通用しないのです。神の前では宗教は無効です。仏の前では無効です。こんなものを信じて何になるのでしょうか。

 宗教は人間が生きている間しか通用しないのです。ところが皆様の霊魂は死んでからのことを知りたいのです。死んでからの命、永遠の命、死なない命を知りたいのです。霊魂不滅という言葉があるように霊魂は死なないものです。

 霊魂は死ねないものです。だから現世に生きている間に勉強しておかなければいけないのです。

 仏法というのは仏の則を指すのであって、本当の悟りのことです。釈尊の悟りです。釈尊の本当の悟りを仏法というのです。日本の仏教は、日蓮は日蓮の信仰、浄土真宗は親鸞の信仰、浄土宗は法然の信仰、曹洞宗は道元禅師の信仰を説いているのです。それぞれの教祖が造った教えが仏教です。

 教祖が造った教えは釈尊の悟りではないのです。日本には本当の釈尊の教えがありません。般若心経だけに釈尊の教えがあるのです。

 般若心経は一番最初に、観自在菩薩と書いています。他の経文はどんなものでも如是我聞と書いています。如是我聞というのは、私はこのようの聞いたという意味です。

 般若心経は、私はこのように聞いたと書いていないのです。人間を解脱してしまって、仏になってしまった境涯をそのまま述べているのです。だから般若心経は人間の常識で分からないのです。解脱してしまった人の言葉ですから、分からないのが当たり前です。

 私も般若波羅蜜多の気持ちで生きていますから、私がいうことが分かりにくいのは当たり前です。私は究竟涅槃が当たり前、五蘊皆空が当たり前と思っているのです。私の命の目的はこの世に生きていることではありません。この世で生活することではないのです。

 皆様の霊魂はこの世で生活するために生まれてきたのではありません。これを考えて頂きたいのです。この点が松原泰道さんは全然分かっていなかったのです。

 人間は現世で生活するために生まれてきたのではないのです。ご自分の霊魂によく聞いてみてください。皆様の本心、本願は魂の本音です。魂の本音に聞けばよく分かるのです。

 現世の貯金、保険、不動産は頼りないものです。子供ができても、孫ができても何にもならないのです。人間は何にもならないものに頼って生きているのです。こういうものは霊魂の目的ではないのです。

 霊魂の目的は仏教ではなくて、仏法を学ぶことです。釈尊は明けの明星を見て悟りを開いたのです。これが日本人には全然分かっていないのです。禅宗でも知りません。明けの明星が説明できるお坊さんは一人もいないのです。

 仏教は日本にはたくさんありますが、仏法は一つもないのです。これをよくご承知頂きたいのです。

 仏教では八万四千の法門があると言います。これは人間の毛穴ほどあるという意味だと思われるのです。人間の毛穴が八万四千あるように、仏法はどこからでも入れるのだというのです。これは間違いではありません。

 私はある仏教の専門家に言いましたが、八万四千の法門があるということは、法門だらけであって中身がないということでしょうと言ったら、困った顔をしていました。

 仏教は法門だらけです。中身は何もないのです。中身は空です。釈尊の仏法と今の仏教が違う点を一つ言いますと、釈尊は明けの明星を見たのです。仏教には明けの明星がありません。

 明けの明星は何かと言いますと、明けの明星の次には義の太陽が現われるのです。義の太陽が現われる少し前に明けの明星は現われるのです。

 釈尊は明けの明星を見て、豁然と大悟したのです。ああこれだと思ったのです。今自分が生きているのは明けの明星の世界であって、本当の世界ではない。自分も本当の自分ではない。本当の自分ではないものを自分だと思っていた。これに気が付いたのです。

 これが釈尊の悟りであって、わずかにその真骨頂を般若心経で書いているのです。しかし般若心経にもはっきり書いていませんから、本当の釈尊の悟りが分からないのです。

 人間が現世に生きているということは、生きることも寝ることも、食べることも飲むことも、人間関係もすべてが法門になるのです。

 人間が生きている状態はすべて法門です。これが八万四千もあるというのです。間口はやたらに広いのです。奥行きがないのです。人間が造った宗教はこうなるのです。間口ばかりで奥行きがないのです。



ユダヤ主義


 ユダヤ人の合理主義というのは、現世に人間が生きていることを基礎にした合理主義です。現世に生きている人間から考えれば、自由、平等、博愛というのは優秀な合理主義です。基本的人権も優秀な合理主義になるのです。

 人間の命は現世だけのものではないのです。これが聖書の考え方です。現世に生きていることが空です。現世を空じることによって、永遠が見えてくるのです。ユダヤ人は永遠を見ることを極度に警戒しているのです。これがユダヤ主義です。

 命の勉強は難しいと思えるかもしれませんが、どうしてもしなければならないと執念深く考えて頂きたいのです。やり方を申し上げますと、永遠の命を掴まえる入り口が般若心経という形で日本人に提供されています。

 アジアにはタイとカンボジアといった仏教国がありますが、皆儀式ばかりを重んじているのです。般若心経の真理を勉強しているのは日本人だけです。

 日本人は般若心経を愛してはいますけれど、般若心経の真理を求めるという深い見方をしているのではないのです。ただ般若心経を形式的に愛しているのです。

 テレビのドラマで葬式の場面が出てきますと、般若心経を称えているのです。日本人は般若心経から聖書に入ることが一番正しい方法だと思えるのです。

 般若心経は自分の思いを空じることを言っています。空じることを非常に強調しているのです。空じるとは空に同調すること、同化することをいうのです。

 しかし般若心経には命がありません。命を見るには聖書を勉強するしかないのです。キリスト教ではない聖書を見るのです。

 自分自身の人生を空じるというのは、般若心経によるのです。命を見つけるのは聖書になるのです。

 まず基本的に皆様にご承知頂きたいことは、只今の皆様の世界観、価値観、人生観は現世に生きている人間の物の見方、考え方でありまして、知らず知らずのうちにユダヤ主義になっているのです。

 これは誰が悪いということではありません。日本が発展する過程において、ユダヤ的な考え方にならなければ世界との付き合いができなかったのです。そこで日本は白人文明に同化してしまったのです。

 白人文明の実体はユダヤ主義です。これが良いか悪いかではなくて、やむを得ない成り行きだったのです。国家経営としてはこれでよろしいのですけれど、皆様の霊魂は日本国民ではないのです。霊魂としては日本人でも韓国人でもアメリカ人でもないのです。

 霊魂は世界に一種類しかありません。白人も黒人もありません。だから霊魂としての自覚を持って頂きたいのです。

 人間としての常識と霊魂としての自覚とは違うのです。これを考えて頂きたいのです。ユダヤ人は現世の人間だけに目を向けて、霊魂のことを考えさせないようにしているのです。こういう陰謀めいた文明政策をとっているのです。これはルネッサンス以降の非常に悪いユダヤ政策です。

 やがて人間文明は行き詰まるでしょう。人間文明は一度腐るだけ腐らなければ、新しい文明は現われませんからやむを得ないことです。原子爆弾ができたことが、今の文明を決定的に悪くしたのです。

 今の文明の悪さをかれこれ言うよりも、本当の命を勉強したいと思うことです。そのためには、この世に生きていることだけが文明ではないことを承知して頂きたいのです。

 生まれてきたと言います。また死んでいくと言います。生まれてきたというのはどこかから来たのです。死んでいくというのはどこかへ行くのです。生まれてきた、死んでいくという言葉の中に人間の魂が本来あるべき姿が示されているのです。

 霊魂というのはこの世に生きている間だけのものとは違います。死んでから後も存在しているのです。だから葬式もしますし、墓も造るのです。この世に生きているだけが自分ではないのです。これを考えて頂くことが業を果たす基礎になるのです。

 この世に生まれてきたことが業です。業を果たさないままで死んでしまいますと、必ず裁かれることになるのです。

 仏教では阿弥陀如来を信じたら仏国浄土へ行けると言います。信じなければどうなるかです。阿弥陀如来を信じるのは嫌だと言ったとしますと、どうなるかです。

 福沢諭吉が臨終の時に、お坊さんが、「西に向かって手を合わせナムアミダブツと言いなさい。そうしたら極楽へ行ける」と言ったのです。諭吉が、「極楽へ行ったら何か仕事があるか」と聞いたのです。「極楽に仕事なんかあるはずがない。安楽往生に仕事はない」とお坊さんが言ったので、諭吉は、「仕事がない所へ行ったら困るから、極楽行きはお断りしたい」と言ったという話です。

 仏教の極楽は人間が造った安楽浄土であって、神が造った安楽浄土ではないのです。

 神が造った安楽浄土にはずいぶん仕事があるのです。皆様はこの世を去ってから本当の命が分かるのです。今目の黒いうちに分かっていないとだめですけれど、目の黒いうちに死んでから後のことが分かりますと、死んでからの自分の責任がはっきり分かるのです。

 実はこの世を去ってからが本当の命です。この世に生きている間だけが人間だと思っているそんな薄っぺらな人間はだめです。

 人間がこの世に生きているのは、永遠の命を勉強すると同時に、大往生した後にどういう仕事があるのかを勉強するためです。この地球はどのようになっていくのか。宇宙はどのようになっていくのか。これはすべて聖書に書いているのです。これを勉強しなければいけないのです。

 安楽浄土は本当にあるのですが、仏教で言っているようなものとは違うのです。

 現世の命は仮の命です。本当の命は何か。イエスがそれを示してくれたのです。イエスが死を破ったのです。これは歴史的事実です。これは人間歴史の中の唯一の秘密です。この秘密が分からなければ本当の命は分からないのです。

 イエスが死を破った。これによって人間が死ぬべきものではないことが分かったのです。これが西暦紀元です。これは現世の人間の常識を解脱しなければ分かりません。だからまず般若心経によって現世を解脱するのです。

 現世に生きていることが悪いのではありません。五蘊皆空を実感しながら一杯飲んだらいいのです。おいしいものを食べたらいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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