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命の実物

 皆様は文明を信じて生活していますが、現在の文明、学問、政治、経済、法律は、全部死んだ人間が造ったものです。死んでしまうに決まっている人間が、学校で教えているのです。それを信じている皆様も死んでしまうのです。これは分かり切ったことですが、分かっていない。考え方が間違っているから皆死んでしまうのです。

 良いことを言っていた人もいました。しかし、いくら良いことを言った人でも、死んでしまったらしょうがないのです。皆様の魂は死なないものです。死ねないものです。死ねない霊魂を持っていながら、命が分からない状態で生きていますと、霊魂は死ねません。しかし、この世から去らなければならないのです。

 皆様の肉体は魂の入れ物です。肉体は物質です。耐用年数があるのです。最近の日本人の平均年令は、女性が八十七歳、男性が八十一歳位になっていますが、八十一歳でも八十七歳でも、肉体が使えなくなる時が必ずやって来ます。その時皆様はどうするのでしょうか。


肉体は滅びるが魂は死なない


 肉体は滅びるに決まっています。ところが。魂は死ねないものです。肉体的に生きている間は、世間の常識でごまかしていけるのです。世間の常識を踏襲すれば、何とか生活はできますが、肉体がだめになれば、魂はこの世におれなくなるのです。しかし、死ぬことはできない。肉体が消えても魂は消えることができないからです。そこで困るのです。

 どうしたらいいかを宗教では教えてくれないのです。宗教を造った人は皆死んでしまったのです。親鸞上人でも仏国浄土へ行っているかどうか分かりません。親鸞上人が仏国浄土へ行っているという証拠は、何処にもないのです。

 宗教は人間が造った人間の教えです。人間が造ったものを信じていても、何もならないのです。一人ひとりの人間も死んでいかねばならないのです。肉体が弱ってしまうから仕方がないのですが、魂は死ねないのです。

 魂が今の日本人には全然分かっていない。浄土真宗でも日蓮宗でも、どんな宗派でも魂を教えてくれる宗派は一つもないのです。皆様は一体何を頼りにして生きているのでしょうか。何を目当てにして生きているのでしょうか。ただ死ぬだけなのです。死んでも、皆様がこの世に生きていた記憶は消えないのです。その記憶を何処へ持っていって、どういう結末をつけるのでしょうか。

 現世で命を見ていた人、命をはっきり掴まえていた人だけが、死なないのです。命を掴まえるというのは、魂の実質が分かっているということです。魂の実体が分かっている人は、この世を去ってから何処へ行ってどうするかが分かります。

 皆様は食本能と性本能を中心にして生きています。今までそれで生きていました。食本能と性本能が命の本体です。これが中心になって何十年かの生活を営んでいたのです。ところが、本能は生まれる前からのものなのです。生まれながらのものと言ってもいいのです。生まれながらという言葉には二通りの解釈がありまして、生まれた状態がそのままという意味と、生まれる前からの状態のままという意味があるのです。

 皆様はこの世に生まれて、二十四時間以内にお母さんのおっぱいを飲みました。そのときの味覚神経は今でも皆様の舌にあるのです。味覚神経は生まれる前からのものです。赤ちゃんは誰に教えてもらったのでもないのに、おっぱいを飲んだのです。本能性は先天性であって、生まれる前からのものです。哲学ではア・プリオリという言い方をしています。生れる前からの本能性、先天性を意味するのであって、これが魂の本体の働きなのです。

 性本能のこと、男女のことを誰に習ったのでしょうか。両親に教えてもらったのでしょうか。習わないのによく知っているのです。こういうことを考えることが、命を考えるというのです。人間は性本能と食本能が土台になって生きているのです。ところが、この二つのことを全然知りません。全く知らない状態で死んでしまうのです。だから、現在の人間の記憶状態はこの世のことばかりです。この世の暮らしのことは記憶しているでしょうけれど、命のことは全然考えていないのです。肝心の性本能とは何か、生まれる前に魂はどういう状態であったのか。死んだら魂はどうなるのかを、全然考えないで生きていることは無鉄砲な生き方なのです。

 例えば、一週間か十日の旅行をする時、計画を立てるのです。バスに乗る。電車に乗る。観光をする場所、泊る所を大体考えて旅行をするのです。そういう事を全く考えなくて、出発する人はほとんどいないと思います。八十年、九十年の人生も、同じことです。長い旅行ですから、その目的が必ずなければならないのです。ところが、八十年、九十年という人生を、全然どこへ行くという当てもなしに無鉄砲に生きている。こんな生き方をしてまともな運命が訪れるはずがないのです。

 魂は西洋も東洋も同じです。だから、仏教は東洋で、キリスト教は西洋だと考えていたのではだめです。一つのテレビを見て、一つの通信手段で生きている。着るものも世界中ほとんど同じになっているのです。私は一九九五年と一九九七年に世界一周旅行をして、このことをつくづく実感しました。

 生活様式は東洋も西洋もないのです。ところが、霊魂の問題になると、依然として仏教とかキリスト教があるのです。これが間違っているのです。

 皆様が生きているのは食本能と性本能です。これが魂です。こういう状態で生きていることを魂というのです。これを仏教では教えないのです。キリスト教でも教えません。宗教の先生は魂のことを勉強せずに宗教のことばかりを勉強しているのです。宗教は理屈です。宗教という理屈を勉強して、ごはんを食べている。そういうものを信じても、魂のことは絶対分かりません。

 食本能と性本能は生まれる前からのものであって、皆様はこの二つの本能によって現世で生きてきました。やがて現世を去ると、また魂だけになります。この世を去ったら、人間の理屈は一切通用しません。ただ魂の悟りだけが通用するのです。魂の目が開いていれば死んだ後のことが見えます。魂の目が開いていない人は、全くお先まっ暗です。お先まっ暗ということは、暗やみの中へ入っていくことです。これが地獄です。

 宗教は文明の一翼を担っているのです。しかし、文明は人間の魂を殺している。宗教は理屈を教えますが、魂の目を開けてはくれません。これに気をつけて頂きたいのです。

 般若心経は現世から出ることをやかましく言っているのです。彼岸へ渡るというのですが、彼岸が何処にあるのか、彼岸とはどういうものかについてはほとんど説明していません。これが般若心経の欠点です。


明けの明星

 仏教は彼岸と言いながら、彼岸の実体を説明することができません。これは仏教という思想の間違いなのです。釈尊は仏教を説いたのではありません。仏法を悟ったのです。明けの明星を見たことによって、彼岸の実質を見たのです。それを説明しても一般の人間には分からない。そこで生活の心得のようなことを説いた。これが仏教になっているのです。

 仏法と仏教は全然違います。これが日本の仏教家に分かっていない。釈尊が見た明けの明星は何であるのか。釈尊は一体何を見たのか。これが説明できる人が日本には一人もいないのです。

 実は明けの明星は聖書を見なければ分からないのです。皆様のような素人でも、聖書を厳密に調べれば分かります。仏教のお坊さんは聖書を全然調べていませんから、釈尊が見た明けの明星がどういうものか分からないのです。だから、仏教信者はいいかげんにごまかされているのです。お賽銭ばかりをまきあげられているのです。お坊さんにお経を唱えてもらっても、全然値打ちがないし、般若心経を写経して千円をつけて寺へ送っても、何のご利益もないのです。道楽でするのは自由ですが、ご利益は絶対にないのです。般若心経を写経してご利益を期待させるのが間違っているのです。

 彼岸は新約聖書を調べて、神の国を勉強しないと分かりません。「人は誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることができない」とイエスが言っているのです。「水と霊とから新しく生まれて神の国へ入れ」と言っています(ヨハネによる福音書3・3~5)。これが新約聖書の般若波羅蜜多です。

 新約聖書だけに神の国があるのです。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じよ」と言っています(マルコによる福音書1・15)。この神の国と般若心経の彼岸は同じものです。釈尊が明けの明星を見たのはイエスがいう神の国を見たのです。ですから、西洋文明の真髄と東洋文明の真髄は一つのものです。イエスの教えは釈尊の悟りと同じものです。仏法の本当の悟りは、イエス・キリストを見ることです。

 もう亡くなりましたが、山田無文さんが、「悟っただけではだめだ、悟った後にイエス様のようにならなければいけない」と何回も言っていました。これが本当です。ところが、山田無文さんは本当のイエスを知らずに死んでしまったのです。イエス・キリトの復活を知らなかったので、無文さんは死んでしまったのです。無文さんは仏教大学の教授よりよほど正直でしたが、間違っていたのです。本当の真実を知らなかったからです。


死ななければならない命

 皆様が今生きている命は、死ななければならない命です。これは皆様もよく分かっているはずです。十人が十人、百人が百人共、死なねばならないことは十分に分かっているでしょう。分かっていながら皆様は死なねばならない命にかじりついているのです。

 現代の学校教育はそういうことを教えるのです。死なねばならない命にかじりつくことを文明というのです。そういう文明をなぜ信じるのでしょうか。そういう教育をなぜ信じるのでしょうか。その意味で義務教育は大変悪いのです。義務的に人間の霊魂を死なねばならないようにしているのです。勉強をすればするほど、人間の魂は死んでしまうのです。文明はそういうばかなことをしているのです。

 現代文明のために魂が殺されている。皆様を殺すのは現代文明です。文明は人殺しです。これをユダヤ主義というのです。文明はユダヤ主義の生活観念であって、皆様はユダヤ文明の犠牲になって殺されてしまっているのです。

 皆様は死なねばならないに決まっていることが分かっていながら、なお死んでいく命にかじりついている。そういうばかなことをやめて頂きたい。それが嫌なら勝手に死んで下さい。死んだら必ず地獄が待っています。文明の向こうには地獄があるに決まっているのです。

 人間文明は神に逆らっているのです。ユダヤ主義は神に逆らっているのです。神に反逆して人間の栄光ばかりを求めている。その結果神をばかにしているのです。学問をすればするほど、ますます神をばかにしているのです。神をばかにするから、命がいよいよ分からなくなるのです。般若波羅蜜多がさっぱり分からなくなるのです。

 今の日本人は命について皆目分からない状態になっているのです。これは現代教育のせいです。政治も悪いのですが、今更政治が悪いと言っても仕方がないのです。政治が悪くても、社会が悪くても、結局皆様はその責任を負わされるのです。皆様が現世を去っていく時に、政治家が魂の負担を背負ってくれるのではありません。政治家は現世の人間の生活の面倒だけを見るのです。しかし、人生は現世にいる間だけではないのです。

 人間の本性は魂です。仏典は一万七千六百巻という膨大な経典でできていますが、その中に魂という字が一字も無いのです。般若心経は二百七十六字ありますけれど、この中に魂という文字が無いのです。なぜ無いのかと言いますと、実は般若心経そのものが、魂の説明をしているからです。魂のことばかりを言っているのです。般若波羅蜜多とは魂のことです。五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃という言葉が、全部魂の説明になっているのです。だから、魂という言葉を特別用いなければならない必要はないのです。

 大乗仏教そのものが魂の説明をしているのです。大無量寿経とか仏説阿弥陀経が、皆魂の説明をしているのです。阿弥陀如来、帰命無量寿如来という言葉は、魂のことを言っているのです。阿弥陀如来というのは魂の本質、本性のことなのです。


本具の自性

 人が生まれる前から持っている本具の自性があります。これは生まれる前からの先天性なのです。人は生まれる前に神と一緒に住んでいた。お天とうさんと一緒にいたのです。人間はどんな人でも本性的にお天とうさんを知っているのです。

 皆様は生まれる前にお天とうさんと一緒にいたのです。そうして、この世に生まれてきました。だから、お天とうさんのことはよく知っているのです。男と女のこともよく知っているのです。

 人の五官の本質は、生まれる前の命のあり方から来ているのです。生まれる前の命のあり方が現在肉体となって現われている。これを魂というのです。魂が分からなくなったのは、学校教育によって皆様の頭が悪くなったからです。

 皆様はこの世に生まれてきた時には、こういうことを皆知っていたのです。ところが、学校へ行ったために、だんだん分からなくなったのです。これが学校教育の極悪非道の弊害です。明治政府は大変な間違いをしたのです。西欧文明を無批判に受け入れてしまった。ユダヤ主義の悪さが日本へ流れ込んで、日本本来の良さがほとんど無くなってしまった。その結果、魂が全然分からなくなったのです。

 現代文明のために、人類の魂が抹殺されてしまったのです。般若心経をよくよく読めば、魂が分かるはずです。般若心経は魂の説明をしているのです。般若心経が分からない人は、自分の魂が分からない人です。般若心経は難しいことを言っているのではありません。現実に生きている本当の姿を書いているのです。

 空というのはあると思えばある、ないと思えばないことです。皆様の命はあると思えばあります。ないと思えばないのです。人間はいつ死ぬか分からない。だから人間の命は空なのです。

 肉体もあると思えばありますし、ないと思えばないのです。心臓が止まれば肉体もなくなるのです。だから人間の生活はあると思えばありますし、ないと思えばないのです。これを空というのであって、般若心経はこれを言いたいのです。

 そのような状態で生きている人間の有様のことを、魂というのです。昔の人はこれくらいのことは知っていたのです。生あるものは必ず死する。形あるものは必ずこわれることを知っていたのです。今の日本人はこれを全く知らない。人間が完全に変わってしまったのです。それだけ日本人が悪くなっている。ユダヤ的、白人的に悪くなっているのです。

 宇宙構造全体の中心をなすものが神です。人間の人格は人間構造の中心ですが、これが宇宙構造の中心である神を認識していれば、人格は永遠に通用するのです。

 宇宙構造の人格性は永遠のものです。現実構造は時間空間が現実的に存在している間しか通用しないのです。ところが学校教育によって、宇宙構造と現実構造の見分けがつかなくなっている。教育という名によって、人間が非教育なものにされているのです。だから、宇宙構造が全く分からないものになっているのです。

 皆様の人格性は本来から言えば永遠に通じるものでなければならないのです。神に通じるものでなければならないのです。ところが、現代文明の魂の状態は、全く分からないものになっている。現実の生活のことしか分からないのです。

 皆様は政治のこと、経済のこと、法律、教育のこと、利害得失のことしか分からなくなっている。永遠のこと、宇宙のこと、時間、空間の本質が、全然分からなくなっている。人間の人格が生活していることだけに束縛されているのです。皆様の意識が、生活にだけ束縛されているのです。永遠の命を考える余裕が全く無くなっている。これは現代教育のせいです。皆様は教育を受けたおかげで、魂が盲目になっているのです。

 宇宙人格の反映が人間人格であって、死んでしまうわけにはいかないのです。消えてしまうわけにはいかないのです。宇宙人格は神です。人間人格は現世に生きている魂のことです。人間の魂が神の人格を反映する機能を持っているのです。だから、この世を去ったからと言って、消滅するわけにはいかないのです。生れる前に皆様の前世があったように、死んでからも後世があるに決まっているのです。このことを良く考えて頂きたいのです。

 現代文明は学校教育万能であって、これしか考えないのが政治です。現在の政治に魂を預けるわけにはいかないのです。皆様は自分自身の魂をどうするつもりでしょうか。知らぬ存ぜぬでは通用しないのです。

 科学は時間空間を初めから認めていますが、時間空間を証明する科学はないのです。時間空間があると考えなければ科学という概念が成立しないのですが、これは人間の概念であって真実ではないのです。

 白人文明は人間の命の実体を捉えていないのです。何のために人間が生きているのか、何のために日本という国があるのか説明ができないのです。説明ができない文明が存在しているのです。

 文明によって人間の魂が殺されている。これが人間の本当の姿です。政治、経済の姿です。目の黒いうちはこれでごまかせますが、心臓が止まったらごまかせないのです。


 魂

 皆様の精神構造の中心をなしている魂がどうなるかということです。仏教はこれについて教えてくれません。キリスト教も教えてくれません。人々は一体どうするのでしょうか。放っておけば日本人は全部地獄へ行くでしょう。日本人どころか、世界中の人が地獄へ行くのです。たとえ少数の人でも地獄へ行かないようにして頂きたいと私は切に願っているのです。

 日本人で魂の責任を持てる人が一人もいないのです。宗教はだめです。宗教は人間が造ったなぐさめごとです。宗教で言っている神や仏は、全部人間が造った理屈です。そんなものをいくら信じても、魂の救いにはなりません。

 現実の問題として、今皆様の魂の目が開いていません。生きていながら、時間空間の実体が分かっていない。皆様は時間空間の本体と接触しながら生きているのです。ところが時間空間の本体が全く分かっていない。だから、死んでしまいますと、皆様の魂は宇宙の本体を知らないままになります。これが魂の死です。魂の死は墓の下へいくこととは違います。地獄へ行くことなのです。魂がこの世を去ると、惨憺たる状態になります。死んでからすぐにそういう状態になるのではありませんが、しばらくの間眠っているのです。人間文明が滅んでから、魂の裁きが始まる。それから、魂は惨憺たる状態におかれるのです。

 私たちは歴史の中心のことがらを勉強しなければならないのです。命の勉強をしなければならないのです。命の流れが色々な形になって、歴史を造っている。これが世の中です。これを勉強しなければいけないのです。

 現在の人間の考え方、特に日本人の考え方は、生活については非常に熱心ですが、生命のことを全く考えていない。日本は外国から、無宗教の国だとひやかされています。エコノミック・アニマルと言われ、金儲けだけを考えていると言われています。生活のこと、経済のことは一生懸命に考えるが、命のことを全く考えない国民になっているのです。

 何のために生活しているのかと言えば、働かなければ食べられないから働いているというでしょう。日本人は働き蜂のように働いてはいるけれど、肝心要の命のことは全く考えようとしていない。これはどういうことでしょうか。生きるために働くことは分かります。なぜ生きなければならないのかが分かっていないのです。これは、大変な見落としをしているのでありまして、日本人だけの欠陥というより、世界全体の文明の基本的な誤りであると言えるでしょう。

 日本は明治、大正以来急速に発達した国で、富国強兵という考えで、国が豊かになり、兵隊が強くなることばかりを考えていた。その結果、第二次世界大戦によって、ひどい目にあったのです。国が亡びることだけは助かったものの、国民は悲惨なめにあわされたのです。

 なぜそういうことになったのかと言いますと、富国強兵という考え方の根本に、非常に危険な見落としがあったからです。国家経営について重大な見落としがあり、第二次世界大戦で貴重な税金を支払わされたのです。

 何処が間違っていたのかと言いますと、生きているという事実について、真面目に考えなかったからです。生活をすることについては考えていたけれど、生きるということについて真面目に考えなかった。そのためにひどいめにあわされたのです。

 現在、また、それをくり返しているのです。経済成長は結構なことですが、命の問題、生命の問題、何のために生きているのかについて全く考えようとしていない。これがいけないのです。

 日本の政治家は非常に無責任です。政治は日本の古語で言いますとまつりごとであって、人間自身の生活の実体をさすのです。人間の生活の実体はまつりごとなのです。まつりごとの世話をするのが政治家の役目なのです。

 まつりごとというのは、まつることです。御霊(みたま)をまつることです。人間が生きていることの実体は、魂です。言葉を変えて丁寧に言いますと、みたま(御霊)です。死んだ人のまつりをすること、また生きている自分自身のまつりをすることが、命という考え方に直結していたのです。例えば、万葉の時代、古今集の時代には、まつりごとという考えがはっきりあったのです。今の時代に、命を真面目に考えている人は一人もいないでしょう。生活のことは考えますが、命のことは全く考えない。これは全く間違った考えなのです。命のためにこそ生活があるはずです。


命の実物


 皆様は現在、宇宙の命を経験しています。太陽の熱と光は、命の本質をそのまま表現しているのです。これを経験しているのは、命の実物を経験しているのです。

 命の実物を経験していながら、命とは何かと問われると返事ができない。一億二千万の日本人で、この返事ができる人は恐らく一人もいないでしょう。そんな状態で、生活のことは考えるが生命のことは一切考えない。これは人間の大欠陥です。日本人は欠陥民族なのです。今の文明はそれほど間違っているのです。学校では生活に関する知能の啓発はしますけれど、命のこと、人生のことは全く教えない。こういう片手落ちな、見当違いの教育をしているのです。命の勉強が人間にとって一番必要なことですが、これを完全に無視しているのです。

 般若心経というテーマと、聖書というテーマを二つ並べますと、宗教にはならないのです。般若心経だけ、聖書だけなら宗教になりますが、般若心経と聖書を二本立てにしますと、いわゆる宗教にはならないのです。キリスト教でもないし、仏教でもない。現在日本で考えられている宗教の概念とは違ったものになります。そこに、命があるのです。

 私たちは現世に生まれてきたのですが、生まれてきたというのが人間の業(ごう)なのです。この業を果たすために生きているのです。業を果たすというのは、命を知ること、命の実を結ぶことなのです。生きていることについての実を結ぶために生きているのです。たとえば花は美しい実を結び、種になります。そのように、人間としての実を結ぶために生きているのです。命の実体を見極めて、人間としての実を結ぶのです。

 すべて人間の行き着くところは、この世に生まれてきたことについて、生まれてきたという業を果たすことなのです。苦しんで死んでいく人のことを業が果てていないと言いますが、業を果たさずに死んでいくと大変悲惨なことになるのです。

 般若心経は空を説いています。これはすばらしい思想です。生まれたままの人間は本来空であると言っているのです。この世に生まれたままの人間が、現世の感覚で生きていることは実を結んでいないことであって、何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか分からないのです。

 五十年、六十年と現世に生きてきた方は、過去をふり返ってみて下さい。一体何をしていたかです。生活をしていたでしょう。生活ではなくて自分自身の命のために何をしていたのかということです。ただ命を保つことはしていたでしょう。しかし、命の本性や本質について全く考えていなかった。これが日本人のていたらくでありまして、それでは現世に生きている値打ちが全くないのです。

 この世に生きるということが人間の目的ではないのです。この世に生まれてきたことについての命の本質を見極めることが、すべての人間の行き着くところでなければいけないのです。命とは何であるか、文明は何のためにあるのかを見極めることが、業を果たす道なのです。これはどうしてもしなければならない人間の絶対的な責任です。

 生きていながら命を知らないというのは、死んでいるということです。生活のこと、家庭の問題、世間の問題に一生懸命になっている。これはとんでもない間違いです。生活のことは考えなければならないのですが、これはこの世のことであって、人生の目的ではないのです。

 人生の目的は命を明確に知ることです。命がはっきり分かることです。人間はなぜ死ぬのか。人間は考え違いをしている。見当違いをしている。だから、死ぬのです。まともに考えたら死なないのです。

 命は死なないものです。死ぬに決まっているものは命とは言えないのです。皆様は青空を見たり、太陽光線を見たり、色々な花を見たり、美しい景色を見ています。お米の味、果物の味、魚や肉の味を味わっていますが、これは天然自然の命をそのまま経験しているのです。

 大自然の命、天然の命は永遠の命であって、死なない命です。これを皆様は舌で味わっているのです。皆様の目はそれを見ています。ところが、それが分かっていないのです。だから、死んでしまうのです。

 日本にはたくさんの宗教がありまして、訳の分からないことを言っていますが、命のことを本当に考えている宗教は一つもありません。皆、般若心経や聖書を宗教の売り物にしているのです。

 釈尊がもう一度出てきたら、日本中の寺をかたっぱしから焼いてしまうでしょう。キリストがもう一度地上に出てきたら、日本中のキリスト教はつぶされるでしょう。

 世間並の考えで生きている人は、必ず死にます。死ぬに決まっている。それが分かっていながらどうして命のことを勉強しないのでしょうか。生活のことだけを考えて命のことを考えないというのは、人間の不心得千万な状態です。

 今まで日本で宗教家ではない般若心経と言った人は、一人もいなかったのです。道元も、親鸞も、日蓮も弘法大師も、皆宗教家でした。宗教家はこの世に生きている人間が幸福になるという夢みたいなことを言っているのです。この世に生きている人間はいくら幸福になっても、必ず死にます。だから、本当の幸福ではないのです。死ぬとはどういうことかを真面目に考えるために、人間はこの世に生まれてきたのです。観自在ということが、簡単明瞭にこのことを言い現わしているのです。

 般若心経は観自在という言葉から始まっています。他の仏教教典は、法華経でも華厳教でも、般若経も、全部如是我聞と書いています。私はこのように聞いたと言っているのです。自力宗でも他力宗でも、如是我聞とことわっているのです。お釈迦さんの言葉を自己流に解釈しているのです。これはお釈迦さんの意見とは違います。ことに日本の仏教は、日蓮宗でも、浄土真宗でも、浄土宗、真言宗でも、すべて教祖の意見が宗派の教えになっているのです。親鸞の教えが浄土真宗になっている。これは本当の仏法ではないのです。仏教と仏法は違います。仏法は釈尊の悟りの実体をさしているのです。


 仏

 仏とは悟ることを意味します。仏とは混線している糸のもつれをほどくことなのです。人間の命がもつれている。この世に生まれて、生活の垢で泥まみれになっている。命とは何か、何のために人間が生きているのか全く分からない。これは人生のもつれであって、これを解くことが仏なのです。

 仏とは悟ることです。人間の考えが混線している状態を解いていくことが仏であって、観自在となっていますが、鳩摩羅什の訳ですと観世音になります。観自在と訳しても観世音と訳しても同じことです。

 観自在とはどういうことかと言いますと、自とは初めからという意味です。在とはあったということです。自在とは初めからあったという意味です。初めからあったものを見たことが観自在です。

 皆様が現在生きている人生は、初めからあったものが肉体となって現われているのです。初めからあったものとは、皆様の命の本質です。命の本質が肉体となって地上に現われているのが魂です。

 人間というのは固有名詞の自分です。市役所に登録されているのが人間です。表札に書いているのが人間です。これは世間的に生きている人間であって、皆様の正体は初めからあった命の本質が肉体となって現われたもの、つまり魂です。これが皆様の本体です。魂は固有名詞の人間に関係がないのです。家庭の事情、結婚をしているとか、していないとかにも関係がないのです。命の実質がよく分からない状態でいくら結婚しても、家庭を持っても、何にもならないのです。私たちは命の本質を見極めるためにこの世に生まれてきたのであって、この世で生活をするためではありません。

 皆様は考え違いをしているのです。大多数の日本人は、ただ生活をするために生きているのです。般若心経や聖書の勉強よりも、商売の方が大切だと思っている。世間並の常識で考えるならそれでもいいかもしれませんが、そう考えている人は全部死んでいるのです。本末転倒した考えをしているのです。

 何のために生活があるのか。何のために商売をしているのか。魂のためなのです。命を守るために商売が必要なのです。命を考えない状態でいくら商売が繁盛しても何の価値もないのです。日本人はこういうとんでもない考え違いをしているのです。

 生きていながら命が分からないというのは、魂にとって一番恥ずかしいことです。科学や政治経済のことは分かるが、命のことは全く分からない。こういうばかな日本人がほとんどです。だから、皆死んでしまうのです。日本社会の次元が低すぎるのです。

 大体、地球は何のためにできたのかということです。地球があるから皆様の命があるのです。地球は何のためにあるのか、従って自分の命は何のためにあるのか、こういうことを現代人は考えようとしないのです。

 キリスト教でも仏教でも、宗教をいくら勉強しても本当の命は分かりません。命を明らかにしてくれる教えは全然ないのです。

 皆様が文明を信用していると、とんでもないことになります。文明は死んでいった人間が造ったものです。やがて文明は壊滅状態になるでしょう。収拾できない大混乱に陥るでしょう。国といっても社会といっても、危ないものです。将来どうなるか分からないのです。

 日本の国は国家目的を持っていないのです。日本の国が何のためにあるのか分からないのです。政治家も大学教授も、宗教の指導者も分からない。帰港地を持たない船、到着する目的地を持たない飛行機みたいなものです。帰港地を持たない船は漂流するだけです。到着する目的地を持たない飛行機は、やがてどうなるのでしょうか。何処かへ墜落するしかないでしょう。目的を持たない日本の国も世界の文明も、やがて自滅することになるしかないのです。

 命の本質が人間という格好で現われている。観自在はこれを見たのです。初めからある命の本質を見たのです。自分が生まれる前の命の実質を見たのです。般若心経はこれが言いたいのです。

 五蘊皆空とは何か。五蘊とは人間の常識です。人間の常識は全部空です。空っぽだと言っているのです。世音とはこの世のことです。例えば、太陽が輝いていること、花が咲いていること、人が生きていることです。観自在は世音をはっきり見たのです。現象世界の実体をはっきり見る。そうすると、初めからあった命の本質が分かるのです。

 花はなぜ咲いているのか、太陽はなぜ輝いているのか、地球はなぜ自転公転しているのか、自転、公転している惑星は宇宙広しと言えども、たった一つ地球だけです。昼があり夜があるのは、太陽系の中でも地球だけなのです。地球以外の惑星には、昼か夜のどちらかしかないのです。地球にだけ昼と夜があるのです。現在の学問は、この意味が分からないのです。現在の学問は人間がこの世に生活していることだけしか考えていないのであって、学問を信頼しているとひどいめにあうのです。


観世音

 この世の中のあり方を冷静に、綿密に見ていくと、初めからあった命の本質が分かるのです。これが観目在です。観世音と言っても、観自在と言っても同じことです。観世音とはこの世の中の実体を見極めることであって、このために人間が生まれてきたのです。観世音になるためにこの世に出てきたのです。

 観世音は人生目的を持っているのです。これが分かりますと、商売が勝手にできるのです。商売が勝手に繁盛するのです。真面目に働くという気持ちさえあれば、人間は絶対に生活ができるに決まっているのです。生活のことを考えるよりも観世音のことを考えさえすれば、本当の幸福が分かるのです。死なない命が分かるのです。本当の般若心経は、観世音そのもの、観自在そのものを示しているのです。

 般若心経では人間の悟りは分かりますけれど、永遠の命の実物を掴まえることはできないのです。究竟涅槃を見極めること、人間が空になった状態を見極めること、これが般若心経の目的です。

 しかし、究竟涅槃は悟りにはなりますけれど、救いにはならないのです。永遠の命、死なない命の実体は般若心経には書いていません。だから、どうしても聖書を勉強しなければならないのです。

 聖書はキリスト教とは違います。キリスト教は絶対にだめです。世界中で一番悪いのはキリスト教です。仏教も悪いのですが、キリスト教はもっと悪いのです。キリストの名によってキリストに反抗している、神の名によって神に反抗しているからです。

 本当の聖書は皆様に本当の命を与えるのです。本当の命を知る前に、今まで生きてきた自分の妄念を、処分しなければならない。これが涅槃です。妄念を処分すれば、本当の命を見極めることができる。これが聖書です。そこで、宗教ではない般若心経の悟りと、聖書による命の勉強と、この二つがどうしても必要になるのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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