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本具の自性

 現代人は人生の根本問題について、非常に考えにくい環境におかれているのです。なぜかと言いますと、文明一辺倒になっているからです。

 学問という考え方が社会思想の中心になっているのです。世間並に生きること、世間の通念に従って生きることが、生きるということの基本的な、また決定的な状態です。

 ところが、社会通念というのは無責任なものでありまして、肝心の人間の命のことを全然考えていないのです。

 現在の大学で取り上げている学問の中で、命に関することは一つもありません。全然ないのです。医科大学では病気のこと、病理のことは教えます。また研究もしています。しかし、命のことは全然勉強していないのです。

 病気の問題と命の問題とは違うのです。よく似ていると所はあります。共通している所もありますが、本質的には病気は病気です。命は命です。これは全然違うのです。

 日本の医者で命が分かっている人は一人もいません。これが近代文明の決定的な欠点です。だから、世間並の文化意識、文明意識で生きている人は、必ず死ぬのです。

 現在生きていながら、その人は必ず不幸せです。全世界の人間は全部不幸せを丸呑みにして生きているのです。不幸せを丸呑みにしているのです。人生とはこんなものだ。世間並に生きるということは、不幸せを丸呑みにして生きることだというように思い込んでいるのです。そのくせ幸せになりたいと考えるのです。幸せになりたいと考えながらも、不幸せの状態が当たり前だと考えているのです。

 人を恨んだり、憎んだり、陰口を言ったり、不信感を持ったり、不幸や不満をいつも心の中に持っている状態が当たり前だと考えている。こういう状態で生きていたら必ず死ぬのです。死ぬだけではなくて、死後におけるその人の魂が受けなければならない負担というものは、莫大なものがあるのです。

 生きている間の不幸や不満が、その人の記憶になってどっさり積もっているのです。一日生きていれば一日、一年生きていれば一年の間に、色々雑多な不平や不満がその人の中に堆積しているのです。これがその人の人生の記憶になっているのです。

 そういう記憶を持ったままでこの世を去ることになりますと、どうなるのでしょうか。不合理千万の状態をそのまま呑み込んで死んでいくのですから、死後の負担は想像に絶するものがあるのです。

 死んだらそれでおしまいだという訳にはならないのです。

 皆様の霊魂の本質は永遠性によって成り立っているのです。皆様は自分の命を勝手に生きているのではありません。宇宙的な絶対的な制約に基づいて生きているのです。

 人間は太陽がなければ生きていられません。空気がなければ生きていられません。水がなければ生きていられません。水という絶対的な天然自然がなければ人間は生きていられないのです。こういう大切な自然の条件によって人間は生きているのです。

 人間の命というものは自分のものではないのです。ところが、人間の命は何かという、一番大切なテーマを、現在の学問は全く勉強しようとしないのです。そこで、勝手に不幸になっているのです。


敗北思想

 今の全世界の人間は全部不幸せです。本当の幸せを知らないのです。世間の人間が皆同じ状態で生きているから、私が不幸せであるのもやむを得ないと考えているのです。

 これを敗北思想というのです。不幸せであることは仕方がない。死んでいくのは仕方がないと思うのです。人を恨んだり、人に恨まれたり、嘘を言ったり言われたり、人を憎んだり憎まれたりするのが当たり前だと考えている。そうして、勝手に自分の生活を不幸にしているのです。

 自分の生活の基本的な、根本的な問題を考えようとしていないのです。ただ生活に追いまくられて、その日その日を有頂天になって生きているだけなのです。ばかなことをしているのです。全くばかなことをしているのです。

 日本社会は無責任そのものです。宗教が第一に悪いのです。神とは何かを教えている宗教は一つもないのです。仏という言葉を使いながら、仏の実体を教えている仏教は一つもありません。ただ勝手な熱を吹いているのです。

 自分の宗教の教義を押し売りはしているけれど、それが本当の仏であり、本当の神であるという証明は何処にもありません。その宗教の中で、仏と神という言葉を勝手に使っているだけです。

 学問でも同様です。自然科学が絶対的なもののように考えられています。交通機関を造るとか、医薬品を造るとかいう人間生活についての便利さはあります。

 ところが、人間の学問は単なる生活の知恵です。ただの生活の知恵です。政治も経済も法律も、人間の生活の知恵にすぎないのです。交通通信手段の便利さ、生活を快適にするための様々な工夫が、学問によって成されました。

 現代人は生活のことは考えるが、生命のことは全く考えないという無責任そのものの社会です。アメリカやイギリス社会も幸せでありませんが、日本社会も幸せではないのです。

 日本人は全くのエコノミックアニマルです。エコノミックアニマルという言い方は上等すぎるかもしれないのです。生活アニマルと言った方がいいでしょう。生活アニマルは生活に奉仕はしているけれど、リビングという本当の意味を勉強しようとしないのです。生活構造に奉仕しているのです。リビングという言葉の意味を本当に勉強しようとしていないのです。こんなことで人間が幸せになるはずがないのです。

 生きている人間もそうですが、指導している大学教授、政治家も非常に無責任です。人間の運命に対する責任を全然持っていないのです。

 日本で一番最初にノーベル賞をもらった湯川秀樹という理論物理学者がいました。この人が、「私は学校では物質は存在しないと教えている。ところが、家に帰ると物質があるという気持ちで生活している。自分自身でおかしいと思う」と言っていました。

 これが学問の正体です。学校で教えている表向きの思想と、家庭で生活している本音の思想と全然違うのです。建前と本音が全然違うのです。二重人格になっているのです。この人がノーベル賞をもらっているのです。こういう人にノーベル賞を差し上げるほど、現代の文明はいいかげんなものです。

 文明そのものが非常に無責任で、無定見なのです。文明はこういうものなのです。

 皆様は文明社会に生きていますので、世の中の無責任さが当たり前のように思っているのです。

 世界の人口はこれからもどんどん増加していくでしょう。ところが、食糧生産が追いつかないのです。資源も追いつかないでしょう。環境破壊、地球温暖化も進んでいくでしょう。人心の荒廃も進んでいくのです。そうすると、やがて文明はだめになるに決まっているのです。世界全体の文明が、物質的にも経済的にもだめになってしまうのです。これははっきり分かっているのです。

 このことが分かっていながら、それに対する正当な手を打とうと全然考えていないのです。政治家も、経済学者も分かっているのです。分かっているけれど自分たちが生きている間は大丈夫だろうと考えているのです。

 今の指導者が生きているのは、せいぜい二十年か三十年です。二十年や三十年はやっていけるだろう。自分たちはどうせ死んでいくのだから、その後のことは知らないと思っているのです。だから、五十年や百年後の日本のことに責任を持たなければならないという気持ちが、今の指導者には全くないのです。

 五十年、百年先のことを考えたら、とても政治はできないと今の政治家はいうでしょう。とにかくいいかげんな文明を造っているのです。一般の人々はよく文句を言わずに働いていると思います。

 こういうことを皆様は考えないのでしょうか。皆様は自分が死ぬことが分かっているはずです。ところが、死んでいく自分から逃げ出そうと考えないのです。

 死んでいくに決まっている自分を自分だと思い込んでいる。なぜそんなばかなことをするのでしょうか。死んでいくに決まっている自分を自分だと思っているのは、現在の社会通念です。皆様方が現在の社会通念に服従しなければならない理由は何処にあるのでしょうか。

 皆様は命のことを勉強していないから、死ぬとはどういうことなのかが分からないのです。これはむちゃくちゃな生き方です。

 生きていながら命が分からないのです。死ぬとはどういうことなのかが分からないのです。そのくせ死ぬのが嫌なのです。死ぬのが嫌に決まっています。皆様はちょっと病気になれば慌てて病院へ行くでしょう。

 こういう生活が不幸の見本みたいなものになっているのです。こういう不幸せな生活を当たり前だというように考えているのです。人権、人権、プライバシーとやかましく言いますが、本当の自分の幸せを求めようとしていないのです。これは何という愚かな生き方をしているのでしょうか。

 こういう訳の分からない人間が、2019年現在で76億人も地球上にいるのです。

 宗教は何をしているのか。宗教は無明煩悩の人間を甘やかして、これに迎合しているのです。人間の罪業に迎合して商売をしているのです。人を集めて金を取り上げている。これだけのことです。

 皆様の命に対する責任は、宗教は全く持っていないのです。神を説いているキリスト教、仏を説いている仏教も、両方共嘘を言っているのです。ひどいものです。

 聖書は嘘ではない。般若心経も嘘ではない。聖書の読み方、般若心経の読み方が間違っているのです。

 般若心経や聖書は宗教ではないのです。人間の命に関することを真正面から言っているのですが、それを宗教家が皆間違えて説いているのです。

 彼らは宗教の専門家ですけれど、本当での意味での般若心、つまり彼岸に渡る心、また、本当の意味での神を信じる心を持っていないのです。

 神の実体が何なのか分からないのです。神の実体を牧師も神父も知らないのですから、信者さんが神を信じようとしても分からないのは当たり前です。

 皆様は世間並の考えで生きています。そうすると。皆様の人生は見事に失敗してしまいます。現在、既に失敗していることが分かっているでしょう。

 五十年、六十年とこの世に生きていて何をしたのでしょうか。食って寝て、食って寝て、子供を産んだだけでしょう。こんなことは犬や猫でもするのです。人間である以上は、犬や猫がすることを人間がしていて、それでいいということにはならないのです。

 犬や猫と人間の命とは命の本質が違いますから、人間は人間相応の考えを持たなければならないのが当たり前です。

 そこで、死ぬべき自分から逃げ出そうと、真剣に考えて頂きたいと願うのです。本当は人間の命は死なないのが当たり前です。死なねばならないと考えているのは、命というものの実体を全然認識していないからです。

 死にたくないのに死なねばならないと勝手に思い込んでいる。死にたくないと一度大きな声で言ってみてください。私は死にたくないとはっきりいうのです。そういう自由闊達な気持ちさえ、今の人間は持っていないのです。

 死にたくないと人前ではっきり言える人が、今の社会にはいないのです。死にたくないのに死にたくないという根性を隠して、まあ仕方がないと言って恨み、つらみをしながら死んでいくのです。

 現在の人間は全くしょうがない人間です。般若心経を日本で読んでいる人は1000万人以上いるでしょう。ところが、般若心経の意味が分かっている人は一人もいないのです。ひどいものです。お坊さんは般若心経を用いて商売をしているのです。しかし、お坊さん自身が色即是空が全然分からないのです。

 ローマ法王は嘘つきの本家です。キリスト教の代理者だと言っていますが、キリストが全く分かっていないのです。キリストが分かっていない人が、ローマ法王になっているのです。ひどいものです。

 この世はでたらめです。命のことが真面目に考えられていないことが、現代人の世界観、人生観の間違いになっているのです。


横紙破り

 現在の人間の考えは間違いすぎているのです。例えば、赤信号皆で渡れば怖くないというのが現代人の考え方です。赤信号でも集団の人間が渡ると、車の方で止まらざるを得ないのです。

 三十人も五十人も人が信号無視して道路を渡れば、車は止まらざるを得ないのです。だから、赤信号皆で渡れば怖くないという横紙破りは、現世では通用するのです。しきかし、命に対しては絶対に通用しないのです。

 世界中の人が命を考えていないから、自分も命のことを考えなくてもいい。世界中皆で死ねば怖くないと言ったところで、これは通用しないのです。やはり死んだら怖いのです。

 神は絶対に容赦しません。皆様は現在神によって生かされているのです。皆様の心臓が動いているということが神という事実です。

 地球のエネルギーが皆様の生理現象として働いているのですが、地球のエネルギーの実体が、神そのものです。

 皆様は毎日二十四時間の間、神を経験しているのです。神の実物を経験しているのです。ところが、神が全然分からないのです。

 現在皆様は命を経験していながら、命が分からないという状態で死んでしまうことになりますと、大変な罰金を取られることになるのです。しっかり罰金を取られるのです。

 皆様の良心はこのことをよく知っています。これではいけないという気持ちは、皆様の潜在意識の中にはっきりあるはずです。

 皆様の理性や良心は、真実が何であるのかをよく知っているのです。ただこれは潜在意識であるから、常識のように自分の頭には浮かんできませんが、皆様の心の底には本当の命を知らなければならないということは、明瞭に意識されているはずです。

 幸せとは何か。幸せという日本語はありますけれど、この言葉の本当の意味が分かっている人がめったにいないのです。幸いと幸せとは少し意味が違います。

 幸いとは偶然的に発生する出来事です。例えば、寒い日にバスに乗ろうと思ってバス停へ行った。幸いにしてすぐにバスがやって来た。こういう場合に幸いという言葉を使うのです。これは偶然的な現象の場合が多いのです。

 幸せというのは偶然ではないのです。意識的に皆様が幸せになろうと思えばすぐになれるのです。このことを日本人は知らないのです。

 幸いという偶然性のことは知っていますけれど、幸せという言葉の本当の意味が分かっていないのです。幸せというのは本当は仕合わせと書くのが正しいのです。

 仕合わせというのはAとBの二人がいて、お互いに仕合わせることをしあわせというのです。右のものと左のものがあって、お互いに仕合わせることがしあわせです。

 意識は命を変えることができるのです。しあわせというのは、自分自身の意識の問題でありまして、命の法則に従って自分の意識を用いれば、勝手にしあわせになれるのです。

 この宇宙には命の法則があるのです。命の法則とは何かと言いますと、生きているそのことが客観的なことであるということです。

 皆様の心臓が動いているということは、皆様自身が動かしているのではありません。地球のエネルギー、宇宙のエネルギーが、皆様の生理機能になって定着しているのです。

 太陽や空気や水は、皆様が勝手に造ることはできません。皆様は生きているのではなくて、生かされていることになるのです。

 生かされているというのは、仕向けられていることになるのです。仕向けるものと、仕合せるものと二つがあるのです。仕向けるものというのは、いわゆるエネルギーの本源であって、皆様の心臓を動かしている太陽光線のエネルギーになっている。これが仕向けるものです。これが命の本願です。

 皆様は命の本願の動力に従って、皆様の生命現象があるのです。そこで、生きているのは自分の力、自分の才覚で勝手に生きているのではないということを、まず考えて頂きたいのです。

 皆様は客観的な力がなければ生きていられないのです。宇宙のエネルギーがなければ、人間は絶対生きていられません。ところが、そのような客観的な状態で生かされていながら、自分が勝手に生きていると思っているのです。

 日本人は神を信じていますが、日本の神は非常に悪い神です。紙屑みたいな神です。八百万の神々というのは紙屑みたいな神のことです。神は神でも屑の神です。

 日本人は子供の時からお宮参りと言って、八百万の神々に親しみすぎているのです。そこで、間違った神の感覚が日本人に染み込んでいる。これが日本人の運命をとても不幸にしているのです。

 日本の天皇陛下もそういうつまらない神を崇めているのです。そういう間違った神観、神霊科学的な神観、シャーマニズム的な神観、巫女の口寄せ的な神観が日本人に定着してしまっている。だから、本当の神という厳正な意識を持つことができないのです。

 皆様の心臓が動いているということが神だと言いました。命というのは神という事実を基礎にして成立しているのです。これはあらゆる自然科学の原理になるものです。自然科学の原理、原則、原点が神です。地球が自転公転している原点が、神という事実なのです。これは八百万の神々とは違います。

 皆様の命は客観性のものです。ところが、皆様は自分の主観的な意識だけで、自分が生きていると考えている。これが不幸の原因なのです。

 そこで、意識を転換すると、皆様の命の本質が変わってくるのです。これを般若波羅蜜多というのです。

 般若心経と聖書についてですが、般若心経のテーマは空を悟ることです。人間は肉体的に生きているのが人間だと思っていますが、実はそうではないのです。

 私たちは肉体的に生きていますが、肉体が命ではないのです。肉体的に生きているという気持ちを一度空じてしまうこと、それを捨ててしまうこと、それを解脱することが般若心経のテーマになっているのです。

 色即是空、五蘊皆空という言葉、是故空中、無眼界乃至無意識界という言葉があります。人間が目で見ている世界、心で感じている世界は、実体的には存在しないと言っているのです。般若心経はこのように言っています。色即是空という言葉が、一番端的に般若心経の結論を抽出しているということができると思います。

 般若心経の中に、遠離一切顚倒夢想、究竟涅槃という言葉があります。これが般若心経の目的になっているのです。


顚倒夢想

 人間の常識は顚倒している。夢想であると言っているのです。例えば、人間の目に赤いと見える花の色は、赤くないから赤く見えるのです。赤い花は赤いという色を拒んでいるのです。拒んでいる色彩が皆様の目に飛び込んでくるのです。

 皆様の目は映っているだけであって、目が見ているのではありません。目で見るというように考えていますけれど、目で見ているのではなくて、光線が目の網膜に当たっているだけです。

 自分が見ているという考え方は顚倒夢想なのです。ただ光線が映っているだけです。だから、自分が見ているというのは間違っているのです。

 顚倒というのは逆立ちしている。ひっくり返っているということです。人間の目には赤くないから赤く見えるのです。青く見えるから青くないのです。そうではなくて、本当の実体を捉えることです。

 究竟涅槃というのは、人間が生きている色々な思惑、思想、経験、記憶から全部抜け出してしまうことをいうのです。

 涅槃とは、ニル・バー・ナーという梵語を漢訳したもので、冷えて、消えて、なくなってしまうことをいうのです。人間の記憶とか経験、自分の意見は全部正当ではない。一切顚倒しているのです。この世に生まれてきた人間は、生まれてきたという条件に縛られているのです。生まれてきた、生きているという生活条件に縛られているために、思考の自由を持っていないのです。このことをよく考えて頂きたいのです。

 今の人間は思考の自由を持っていないのです。自由に考えることができないのです。例えば、共産主義を信じている人は、共産主義が絶対であると思い込んでいるのです。唯物史観を信じている人は、唯物史観が絶対だと思い込んでいるのです。気の毒ですがそうなっているのです。

 こういう人は命の尊さ、命の本質を掴まえることができないのです。資本主義、自由主義、社会主義というイデオロギーが、人間の考え方を縛っているのです。自由自在に考えることができなくなるのです。こういう不完全な人間の意識状態が、現代人の基本原理になっているのです。

 学問ではこう言っていると言います。学問でこう言っていると言いますと、反対できないような気持ちになるのです。学問でそう言っていると言っても、人間の命の実体を学問が束縛する自由はないのです。そういうばかなことはないのです。


基本的人権

 基本的人権と言いますが、そんなものを誰が決めたのでしょうか。基本的人権が存在しなければならないという理由は何処にあるのでしょうか。

 基本的人権は近代文明のユダヤ人的な妄想です。フランス革命の妄想です。アメリカが独立した時の妄想です。近代社会の自由という概念は、ユダヤ人が造った思想であって、一つの宗教です。

 基本的人権を信じたい人は勝手に信じたらよいのですけれど、そんなものは人間存在の真理ではないのです。

 人間は現在、文明によって思考の自由を束縛されているのです。日本は人生観とか世界観で考えますと、非常に低級な国です。八百万の神々というばかばかしい思想があるために、日本民族は精神的に低次元の国です。

 しかし、日本にはただ一つ良い所があります。自由に物事を考えることができるということです。これはすばらしい特典です。ところが、日本の国の基本概念である八百万の神々という宗教概念によって、日本という国ができているのです。これが天皇を造っているのですが、その根本が間違っていると私は言っているのです。日本ではこういうことが自由に言えるのです。結構な国です。全く自由に言えるのです。天皇だろうが、総理大臣であろうが、自由に批判できるのです。

 言論の自由が日本にあると言いますが、言論の自由は思考の自由が伴わなければならないのです。そこで皆様に提案したいのですが、今までの日本人の考え方にこだわらないで、自由に物事を考えるという気持ちになって頂きたいのです。

 皆様には生きているという事実があるのです。生きているという事実に基づいて自由に発想、発言して頂きたいのです。宗教とか、伝統とか、習慣とか、神様とか、仏様という間違った概念に捉われないで、生きているという事実に基づいて、自由に命を見るということができさえすれば、皆様は死ななくてもすむのです。

 人間が死なねばならないと考えることが、自由を束縛されていることを意味しているのです。死にたくないのに死なねばならないと考えている。こんな愚かなことがあるのでしょうか。こういうばかげた概念を叩き破るのです。

 私は宗教ではない般若心経と聖書を掲げて、日本人は間違ったことを考えていると言っているのです。放っておけば日本人は全部死んでしまいます。日本人だけでなくて全世界の人間は全部死んでしまうのです。死ぬだけですめばいいのですが、死んだ後には霊魂の裁きという重大な問題があるのです。

 生きている間に正当な生き方をしいていない人間が、死んでそのままですむはずがないのです。命の実体を弁えない人間が、死んでしまったらどうなるのか。命の実体に生きないで、ただ国家的な概念とか、社会的な通念とか、この世に通用する気持ちで生きていた人が、死んだらどうなるのか。これは大変なことになるのです。これがお気の毒ですから皆様に警告しているのです。

 私は皆様を宗教に引っ張りこもうとは絶対に考えていません。ばかな考えをやめてくださいと言っているのです。

 自由に考えて頂きたいのです。今までの日本民族の考えとか、キリスト教の考え、仏教の考え、自分の先祖代々の考えにこだわる必要はないのです。

 皆様の命の本質を、皆様の意識によって変えることができるのです。死なない命を発見することはできるのです。

 イエスが死を破ったのです。日曜日はイエスが死を破った記念日です。復活記念日です。イエスは歴史的事実において死を破ったのです。

 これは人間文明の中で一番重大なことです。六千年の人間文明の中で、死を破ったという事実はイエスしかありません。釈尊は死にました。孔子も死にました。マホメットも死にました。誰も彼も死んだのですが、死んだ人間のいうことを聞く必要はないのです。

 私はイエスの復活を勉強したので死なない命が分かりました。はっきり分かったのです。これはキリスト教の勉強ではありません。キリスト教の牧師は私のようなことを言いません。キリスト教の神は間違っているのです。

 キリスト教の神はキリスト教の神であって、本当の神ではありません。私が皆様に推薦しているのは、本当の神です。皆様が生きていることが神だと言っているのです。この神を見つけたら皆様も死ななくなるのです。

 物と心は一つです。物があって存在するのではない。心があって物とは別に存在するのではない。物と心を一つにして霊というのです。

 霊というのは事がらを意味するのです。人間が生きている事がら、地球が存在するという事がらが霊です。事がらというのは物と心が一つになった状態をいうのです。「物心一如」、「心物一体」を事がらというのです。

 例えば、皆様が勉強会に出席されたというのは事がらです。会場という物理的な問題があります。日曜日の午後一時からという時間的な問題がある。目に見える問題と目に見えない問題と両方重なっている。これが事がらです。このような勉強会が開かれたという事がらが霊です。これを本当の聖書から言いますと、霊ということになるのです。これが神です。

 神というのは心と物が一つになって、事がらとして現われていることをいうのです。

 皆様の目が見えるという事がらが神です。心臓が動いているという事がらが神です。一元論とか二元論とかいう考えは、白人が造った理屈であって、こんなものに拘泥する必要はありません。

 二元という考えも、一元という考えも両方共哲学論であって、これは人間の観念です。人間の観念によってそういうものが発生しただけのことです。現在の学問も観念です。絶対ではありません。

 絶対というのは霊です。霊が絶対です。人間が生きているという事実は絶対です。その人の生活、思想が真理に適っていれば死ななくなるのです。真理に適っていなければ、死んだ後に霊魂の審判を受ける。そういうことになるのです。

 真実か、真実ではないかが問題でありまして、自分が得をするとか損をするという問題ではないのです。

 宗教という言葉に対して、皆様は無意識に反感があるでしょう。私も反感があります。宗教という語り方自体が、人間に向って理屈を押し込もうとしているからです。だから、皆様の魂は警戒するのです。

 すべて宗教というのは、人間自身が幸福を考えて造り上げた理屈です。そんなものは全く嘘です。空です。

 宗教は人間のために人間が造った人間の教えです。神が造ったものではないのです。従って、絶対ではありません。だから、宗教は信じてもいいし、信じなくてもいい。人間の勝手です。

 ところが、絶対真理というのは、信じるとか信じないかとか言うべきものではないのです。宗教ではないというのは、命そのものの真実という意味です。

 宗教は人間の側から神を見ようとしているのです。真理は神の側から人間を見るのです。ここが違うのです。人間の側から神を見る見方と、神の側から人間を見る見方とは正反対になるのです。

 般若というのは上智です。心経は書きもの、言い伝えという意味です。聖書の聖とは思いもよらぬという意味です。ただ清いとか、清らかなとか、清潔とかいう意味もありますが、思いもよらないこと、人間の常識では考えられないことを言っているのです。

 聖書は神が神の側から人間を見ているのです。神の側から人間を見ている書きものです。ですから、聖書の言葉は人間がいくら読んでも分からないのです。

 キリスト教の人々は聖書が分かったようなことを言っていますが、これは大嘘です。神は愛なりと言いますけれど、愛とはどういうことかが、キリスト教では分からないのです。

 神も愛も命も、人間が考えているようなものとは全然違うのです。これを聖というのです。人間の考え方の外の思想を聖というのです。聖を書いているから聖書というのです。

 般若心経の上智というのは、常識ではなくて人間の常識の上にある知恵です。常識では判断できないが、絶対なのです。

 人間の命というのは上智でなければ分からないのです。常識以上の知恵、学問以上の知恵でないと分からないのです。

 上智は人間自身を空じなければ分からないのです。般若波羅蜜多とは何か。例えば、皆様は花を見て美しいと思います。しかし、美しいとはどういうことか分かりません。上智なら分かるのです。

 花の本当の美しさは、実は命の美しさのことです。この世に生まれる前に、皆様は本当の命を経験していたのです。この世に生まれた後に命が分からなくなったのです。


カルマ

 人間がこの世に生まれたことが業(ごう)です。カルマです。この世に生まれてきたことは、とんでもない業を背負わされたことです。しかし、この世に生まれてきた以上、真理を悟らない訳にはいかないのです。

 皆様は神を十分に知るだけの力、命の実体を十分に知るだけの能力があるのです。私が話すことを難しいとお考えにならないで頂きたいのです。私が分かることは皆様に分かるに決まっているのです。

 業(ごう)に勝つのです。業というのはこの世に生まれたくない人間がこの世に生まれたということです。皆様はこの世に生まれたいと思ったことはないでしょう。この世に生まれたくない人間が、この世に強制的に生み出されたのです。これが業です。

 何のためにこの世に強制的に生み出されたのかと言いますと、皆様に与えられている理性や良心を克明に勉強するためです。理性と良心をよく勉強するのです。そうすると、命の本質が分かるのです。

 これが分かれば死ななくなるのです。ただ死ななくなるだけではなくて、天と万物の主になるのです。万物の主になるのです。

 大体、人間は万物の霊長です。だから、万物の主になるのは当たり前です。現在人間は自然科学の力によって、物質をある程度変えたりできます。遺伝子の組み替えによって、生物のあり方を変えることができます。原子爆弾さえも造るのですから、そういう程度の低いものではなくて、もっと程度の高い命の実体を掴まえるような考え方をすれば、万物の霊長としての働きは十分にできるのです。

 原子爆弾は殺すため、破壊するためにあるのですが、殺すためではなくて、万物を生かす本当の命が、皆様には理解できるに決まっているのです。これを人間というのです。

 このような人間になれば、皆様は死なないどころか、永遠に万物の主として、神と同じような仕事をすることができるのです。

 ここに人間の本当の栄光があるのです。業を果たせばそうなるのです。業に負けたら地獄へ行くのです。業に勝てば万物の主になるのです。人間はこのために生きているのです。

 仏典に本具の自性という言葉があります。皆様が生きておいでになる命は、本具の自性の命なのです。これは死なない命です。

 皆様は本来死なない命を持って生まれたはずです。本具の自性は死にたくないという願いを持っているのです。これは本願とも言います。

 皆様は時間や空間を生きているのです。常日頃、生活でそれを使いこなしているのです。これが人間の生活です。時間、空間は人間が造ったものではありません。時間、空間は宇宙の本具の自性が現われているのです。

 本具の自性というのは、本当の命のあり方という意味です。宇宙の本当の命のあり方が、時間、空間になって現われている。これを神というのです。

 皆様は宇宙の本当の命、宇宙の真髄である命が現われている時間や空間というものを、使いこなしているのです。皆様の本具の自性は、宇宙の本具の自性を使いこなすだけの力を持っているのです。

 時間、空間を平気で使いこなしているところを見れば、皆様の霊魂の本質は、宇宙の大生命の真髄を十分に知っているはずです。

 ところが、皆様は自分が生きているというばかな思いのために、神が分からなくなっているのです。時間、空間の本質が分からなくなっているのです。そこで、死んでしまうのです。

 皆様の本具の自性は死なないものです。死なない命を持って生まれていながら、この世で生きている生き方が間違っているために、死ななければならないことになっているのです。

 死ななければならないだけならいいのですが、死んだ後に裁かれることになるのです。皆様は現在、時間や空間を使いこなしています。だから、自分が生きているを生き方を本当に知ることができさえすれば、また、自分自身の生きざま、自分の生態を知ることができさえすれば、死なない命を見つけることは十分にできるのです。

 ところが、文明というばかなものに騙されて、政治、経済、学校教育に騙されて、ばかになっているのです。だから、本具の自性である霊魂が、時間、空間を生きこなしていながら、魂が死んでしまっているのです。

 現実の生活では、時間、空間をこなしていながら、精神的には死んでしまっているのです。こういうばかなことをしているのです。これを文明というのです。ばかな文明です。

 皆様が受けた学校教育はこういうばかなものなのです。皆様自身の命を殺してしまうようなものです。皆様の霊魂の自性、本具の自性を殺してしまうようなものです。そのためにせっかく持って生まれた命、時間、空間を使いこなすような命を持っていながら、死んでしまうことになるのです。

 人間は時間、空間を使いこなしていながら、時間、空間の本質がさっぱり分からない。これはどういうことでしょうか。これをばかと言わずに何と言ったらいいのでしょうか。人間はそういうばかなことをしているのです。だから、死んだらろくなことはないのです。

 死んだら皆様の魂は惨憺たる状態になるのです。自分の命を無駄に生きているからです。日本人は一人もこれが分かっていないのです。


地獄

 日本人は般若心経を千年の間読んでいながら、般若波羅蜜多が少しも分かっていないのです。何のために人間は生きているのでしょうか。皆様は死んだら、必ず地獄へ行くのです。

 地獄は本来ないのですけれど、皆様の生活態度が間違っているために、自分自身で毎日、毎日、地獄を造っているのです。だから、地獄へ行くことになるのです。

 皆様の生活の根本原理が間違っているということを、まずはっきり承知して頂きたいのです。政治、経済というばかなものに騙されて、学校教育というばかなものに騙されて、皆様の人格は本質を失っているのです。だから、この世を去ってしまうとひどい目に会うのです。

 皆様は生きていながら命が分からないのです。生きているということは、時間、空間を使いこなしているということです。時間、空間を現実に使いこなしていながら、そのことが自分で分からないのです。これは自分で自分の命を踏みにじっていることになるのです。こういう生活をやめて、般若波羅蜜多を考えて頂きたいのです。

 人間の常識、知識というものが、初めから間違っているのです。人間の命を殺すものが常識、知識なのです。時間、空間を使いこなしている本来の状態に帰って頂きたいのです。

 人間はただ生活していると、自分の生活のことしか考えません。自分の命の将来のこと、死んだらどうなるのかということを全く真面目に考えようとしないのです。

 命について真面目に考えようという気持ちが起きてきますと、今の状態で生きているけれど一体何をしているのか、生活をしていることが何をしていることになるのだろうかということを考えるようになるのです。

 こういうことを真面目に考えるのが、正常な人生です。こういうことを真面目に考えられない人は、初めからその霊魂は死んでいるのです。

 生活は必要です。ところが、生活することには目的がなければならないのです。生活目的がなければならないのです。ところが、現代人は生活目的を持っていないのです。

 子供を大学へ入れるとか、家を建てるとかいう目的を持っている人はたくさんいます。貯金をするとか、保険に入るというのは生活目的ですが、人生の目的ではないのです。人間がこの世で生活していくことの目的です。

 恋愛とか結婚、職業というのは皆現世で生きている場合の問題なのです。これは生活問題に属する話です。これは誰でもできるのです。これは人生目的ではなくて生活目的です。

 私たちに必要なものは、何のために生きているのかという人生目的です。現代の人間にはこれが全くないのです。人間の魂が死んでしまっているからです。

 現代人の魂は学校教育のために殺されているのです。従って、人生を真面目に考える力を失っているのです。だから、般若心経を読んでも、般若波羅蜜多の意味が分からないのです。

 般若波羅蜜多というのは彼岸へ渡る知恵をいうのですが、彼岸へ渡るということの意味が分からないのです。だから、そういう知恵を持たねばならないとは思えないのです。

 般若心経の文句をいくら読んでみても、五蘊皆空とか色即是空といくら読んでみても分からないのです。

 白人には色即是空ということが、皆目分かりません。キリスト教という宗教を信じている人は、色即是空が全く分かっていないのです。だから、自分が救われると思っているのです。死んでから天国へ行けると思っているのです。こういうばかなことを考えているのです。

 生きているうちに、時間、空間が分からなかった者が、死んでからどうして天国へ行けるのでしょうか。生きているうちにはっきり人生目的を考えなかった人、現世に生きていることだけを考えていた人、魂の目的を持っていなかった人が、死んでから天国へ行けるというばかばかしいことがあるはずがないのです。

 これはキリスト教だけではありません。仏教でも仏国浄土へ行けるということを考えているのです。 仏国浄土も天国も同じことです。これは宗教の夢物語です。そういう宗教の夢物語を信じて現実に生きている人間が、このまま天国や極楽へ行けると思っている。こんなことはあり得ないのです。

 現実に生きていながら、時間、空間の本質が分かっていない者が、死んでから天国へ行くとか、極楽へ行くというばかなことがあるはずがないのです。

 宗教は人間を騙しているのです。仏教もキリスト教も、天理教もpL教団も、日本にあるあらゆる宗教、もっと大きく言えば全世界の宗教は、全部人間の霊魂を殺しているのです。

 皆様は宗教によって騙されている。人間の魂が殺されている。宗教は文明の一翼を担っているのです。宗教や教育は文明の一翼を担っているのですが、文明そのものが間違っているのです。だから文明を担いでいる宗教は間違っているに決まっているのです。

 文明に賛成している教育も間違っているのです。学校教育は社会に役に立つ人間を造っている訳ですから、実学教育という意味では価値があるのです。

 ところが、人間は社会的に教育されてしまって変質されているのです。人間の考えはこれでいいものだというように、世の中全体の流れによって自分自身の魂が殺されているのです。だから、魂の話を聞いてもさっぱり分からなくなっているのです。

 教育によって洗脳された皆様は死ぬに決まっているのです。今生きている命は、必ず死ななければならない命です。必ず死ななければならない命であることが分かっていながら、その命をやめることができないでしょう。

 死なねばならないことが分かっていながら、その命をやめることができないでしょう。死ぬべき命の外へ出ることができないでしょう。これが皆様の霊魂が文明によって死んでいるという証拠です。文明はそれほど悪いものです。


文明病

 白人によって造られた文明は生活のためにはなりますけれど、魂のためには非常に悪いのです。

 文明を生活のために利用するのは結構です。車に乗ったり、電車や飛行機に乗ったりするのはいいでしょう。文明を利用するのはいいのですけれど、文明にかぶれることは絶対に悪いのです。

 皆様の頭は文明にかぶれてしまっているのです。皆様は文明を尊敬しているでしょう。尊敬していなくても信じているでしょう。文明病にかかっているのです。

 文明病にかかっているために、皆様の霊魂は文明に殺されてしまっているのです。白人主義の文明に殺されているのです。キリスト教の文明に殺されているのです。

 キリスト教というのは、これほど悪いものです。人間の本当の命を考えないで、人間の霊魂を殺してしまうのです。宗教はそれほど悪いものです。

 文明の本質が人間の本質を裏切っているのです。皆様はそういう状態で生活させられているのです。皆様の肉体の生活はこの世にいるのは仕方がないのですけれど、皆様の魂の目を開くことによって、霊魂だけはこの世から出てしまうことを考えなければならないのです。そうしなければ、毎日毎日の生活によって、皆様は地獄へ追いやることばかりをしていることになるのです。だから、この世を去ったらひどいことになるのです。

 皆様の魂は本具の自性でありまして、非常に尊いものです。非常に尊いものを、皆様は毎日の生活によって踏み殺しているのです。ひどいことをしているのです。

 もっと霊魂のことを考えてください。文明に従わないで、自分の本具の自性、魂の本性に従って生きるような生き方をして頂きたいのです。

 毎日、毎日の生活で、地獄を造るというばかな生活をやめて頂きたいのです。

 本具の自性を何が持っているのかと言いますと、霊魂が持っているのです。人間が持っているのではありません。霊魂の本質が本具の自性を持っているのです。

 霊魂は人格によって現わされているのです。皆様の人格は格です。命には格があるのです。人間が生きている命の状態を人格と言います。これは何処からきたのかと言いますと、神からきたのです。

 神には神格があります。神の神格から人間の人格ができているのです。神は目に見えないものです。人は目に見えるものです。これが違うだけです。神と人とは格が違うだけです。

 神と人は本質は同じですが、格が違うのです。皆様の命は皆様のものではありません。命は本質的には神のものです。神のものだから、皆様には格が与えられているのです。格があるということは自分のものではないということです。これが人格です。

 皆様は生まれた時から母親のおっぱいの味を知っているのです。赤ちゃんは生まれる前におっぱいの味を知って、生まれてきたのです。

 人間には前世があったのです。前世があって現世があるのです。前世で人間の人格の基礎ができたのです。現世では人格が肉体的に現われているのです。これを魂というのです。

 前世で命の基礎がありました。現世でそれが肉体的に現われているのです。この状態を魂というのです。肉体が魂ではありません。人格が肉体的に生きている状態を魂というのです。肉体には大いに関係がありますが、肉体が魂ではないのです。

 人格が肉体的に生きている状態が魂です。自分が生きていると考えないで、生きている状態を考えて生活すれば、生きている在り方が変わってしまうのです。これを信仰というのです。

 信仰という言葉がだいたい良くないのです。宗教では信仰という言葉を盛んに使っていますので、私が信仰と言いますと、宗教の信仰と混同されてよろしくないのですけれど、これは自分の霊魂が生きている状態をそのまま見つめて生きることをいうのです。これを信仰というのです。

 自己存在が生きている状態を見つめるのです。そうすると、神が分かるのです。これが正しい信仰です。自分が生きている状態を見つめることによって、正しい神を発見するのです。

 日本には紙屑みたいな神が山ほどあるのです。あって、あって困るくらいに神があるのです。八百万の神々と言いますから、八百万も神があるのです。

 日本の神社で考えている神というのは、実存しないのです。それは人間の妄想で造った神です。

 人間の魂に勝つものはありません。自分の魂の本質を弁えることです。そうすると、誠の神が分かるのです。これを実行して頂きたいのです。

 霊魂の本質は生まれる前にあったのです。これが前世です。生まれる前に前世があった。前世で人間の人格ができたのです。人間の人格の基本原理が前世でできたのです。

 ところが、前世で間違えたのです。前世で陥罪という間違いを犯したのです。前世で間違えたので、現世に生まれてこなければならなくなったのです。

 前世で人間は失敗したので、現世へ生まれてこなければならなくなったのです。

 人間はこの世に生まれた時にカルマを持たされたのです。この世に生まれたというカルマ、業(ごう)を持たされたのです。皆様が肉体を持っているというのは、業です。

 人間の人格の本質、本性は神の人格と同じものでした。それが肉体を持たねばならなくなったのは、生まれる前に罪を犯したからです。前世で罪を犯したのです。前世で間違えたのです。

 前世で人間は神を見ることをしないで、自分を見たのです。神を見ることをしないで自分を見ていたために、自分が生きているという妄念を持たねばならないような因縁を造ってしまったのです。

 皆様は現在、自分が生きていると思っているでしょう。自分の命があると思っているでしょう。こういう間違いは前世で造ってきたのです。前世でそういう妄念を造ったのです。現世に生まれた時には、自分が生まれてきたという妄念を持たされて生まれてきたのです。その時に、皆様は死ぬべき命を背負い込んで生まれてきたのです。

 そこで、現世に生きている間に、この世に生まれてきた業(ごう)を果たしてしまえば、死なない命に帰ることができるのです。


生まれる前の自分を見つける


 どうすればいいのかと言いますと、自分自身の本具の自性という人格を見つけたらいいのです。罪を犯す前の自分の自性に帰ったらいいのです。

 自分という人格を持つ前の人格に帰るのです。陥罪する前の人格に帰るのです。

 自分という人格を自分で握り込んでいる間は、必ず死にます。死んだら地獄へ行くのです。なぜ地獄へ行くのかと言いますと、自分の命を間違えた方向へ連れて行って、毎日、毎日、生活していながら、自分の命を汚しているからです。そういう実録があるのです。実歴があります。その尻拭いを自分でやらされるのです。これが霊魂の裁きです。

 現世における間違いを現世において正そうとしないで、前世の間違いをそのまま現世で生きている。自分が生きているという人間のカルマ、人間の妄念に従って生きていると、生きているということが、毎日、毎日、罪を犯していることになるのです。

 毎日、毎日、現世で罪を犯しているという償いを、来世でやらされるのです。

 自分という人格がその責任を取らされることになるのです。これは当たり前のことです。自分が生きている、自分が生きていると思っていたのですから、その責任を取らされるのは自分です。

 前世で罪を犯したということがはっきり分かれば、現世で自分が生きているという思いは間違っているのだということが分かるはずです。

 自分が生きていると思っていることは、間違いだということに気がついて、自分が生きているのではない、霊魂が生きているのだということに気がつくはずです。

 生きているというのは神に育てられていることですから、生きているというお方、生きているという神に従って生きるということを考えるのです。

 自分が生きているという考えをやめて、神に従って生きるという気持ちを持ちさえすれば、今までの因縁を脱ぎ捨てることは十分にできるのです。そうすると、地獄へ行く必要がなくなってしまうのです。地獄へ行く必要がなくなるだけではなくて、その人の霊魂が前世で罪を犯したという失敗が許されるのです。そうして、先祖代々の罪まで許されるのです。これは大変なことです。

 皆様が本当に悟りを開いて般若波羅蜜多を実行したら、皆様も両親も、祖父母も、先祖代々までも罪が許されるのです。これは大変大きいことです。

 皆様が前世での失敗を認めて、この世に自分が生きていることが悪いのだということ、この世に自分が生きているということが間違っているのだということを見極めて、その思いを捨てるのです。そうして、神によって生かされているということを確認するのです。

 こういう生き方をすることによって、自分の人生を捨ててしまうのです。自分が生きているという妄念を捨ててしまうのです。そうすると、自分の罪から抜け出すことができるのです。死ぬべき自分から抜け出すことができるのです。これをして頂きたいのです。

 自分が生きていてはだめです。自分という人格、自我意識による人格は、死んでしまうに決まっている人格です。死んでしまうに決まっている人格から抜け出して、自分ではない別の人格に移るのです。

 ただ生きている人格を生きるのです。自分が生きているのではなくて、生きているという状態が自分になっているのです。生きているという状態を生きるのです。

 自分が生きているのと、生きているという状態が自分として現われることとは、天と地の違いがあるのです。

 自分が生きているというのは間違っています。しかし、自分が生きているという状態は天然自然の姿ですから、本当の霊魂の姿に帰って自分を見ることができれば、死んで地獄へ行くことがないのです。

 人間の命は、前世、現世、来世全体を貫いているのです。これが命です。これが生涯であって、現世だけが生涯とは違うのです。前世、現世、来世全体を見通すような考えを持って頂きたいのです。

 現在の人間文明は、遅かれ早かれ滅びてしまうに決まっているのです。文明がある間に本当の人間の命の本質に目覚めた者だけが、現在の文明から抜け出すことができるのです。

 日本の歴史は根本的に間違っていたのです。間違っているのです。だから、日本人の霊魂は全部地獄へ行くことになるのです。ただ本当の命に目覚めた人に関係がある人たちは甦ることを許されるでしょう。

 性善説、性悪説という考え方があります。人間の性は果たして善なのか、悪なのかということですが、この世に生きている人間として考えると、性善説を唱えるでしょう。日本に生まれた人で立派なと言われる人がいます。

 聖徳太子とか、千利休とか、芭蕉、道元とか親鸞、空海、法然、栄西、一休とか色々な人が出ました。現世的には立派な人だと言える人はいるでしょう。

 しかし、こういう人々は永遠の命には関係がなかったのです。例えば、二宮尊徳とか中江藤樹は永遠の命を知らなかったのです。現世で立派な人であったというだけのことです。

 イエス・キリストは、現世ではむしろ立派であったとは言えないかもしれないのです。ところが、永遠という立場から考えると、唯一の人格者であったのです。

 これは考える時の立場によるのです。現世に立って考えるか、永遠に立って考えるかが問題です。前世、現世、来世全体に立って考えてください。

 この世の人間はやがて全部死んでしまいます。世界中の人間は全部死んでしまいます。地球上に一人も住めなくなる時が必ずやってくるのです。

 今から数百万年、あるいは数千万年以前には、地球上に人間は一人もいなかったのです。しかし、皆様はこの世に生まれたのです。生まれたということはやがてなくなってしまうことを意味するのです。

 人間が現世にいることを前提にして考えますと、霊魂の本当の悟りは得られません。人間は何のためにこの世に生まれてきたのか。地球上になぜ人間が生存しているかという根本的なことを考えて頂きたいのです。

 人間の歴史を乗り越えて大きく考えるのです。そうしないと、霊魂のことが分からないのです。霊魂がこの世に出てきたのは、人間社会に生きることではなくて、前世、現世、来世全体を勉強するためです。これが人間の霊魂の運命です。

 仏教やキリスト教や、現在の学問を勉強してもだめです。もっと大きい考え方を持って頂きたいのです。この世に人間が生まれる前から、人間が地球上から消えてしまった後のことまで考えて頂きたいのです。そうすると、初めて何が正しいか、何が正しくないかが分かってくるのです。

 イエス・キリストは現世に生まれてきたのです。そして、現世を完全に解脱したのです。完璧に解脱したのです。その結果、彼は殺されたけれども、また復活したのです。そして、新しい命、永遠の命を現わしたのです。

 永遠の生命の実物をはっきり示すことができたのは、イエスだけです。この人をよく勉強したら永遠の生命が分かるのです。

 イエスという人は人間と言えば人間ですが、誠の人間です。誠の人間というのは、現世において罪を犯していない人です。

 イエスは天から下ってきた人であって、イエスは自分が生きているという考え方を持っていなかったのです。神が自分を生かしていると考えたのです。イエスの行動、考えには罪がなかったのです。

 イエスは自分に生きていなかった。イエスを通して神が生きていたのです。このイエスの人格がすべての人にあてはまるべき人格です。

 命を通して神が生きていると考えるのです。これがすべての人格を通して流れている本当の考え方です。

 イエスはこれを主張したのです。自分が生きていることを考えていなかったのです。

 私たちは自分が生きていると考えています。そこで、死んでしまうのです。イエスは自分が生きていると考えていなかったのです。自分は生ける神の子であると考えたのです。生ける神が自分という形で現われていると考えたのです。

 イエスは十字架に付けられて死んだのですけれど、もし殺されなかったら死ななかったでしょう。死ぬべき命を持っていなかったからです。

 私たちは自分が生きていると考えている。ところが、生きているのは自分の命ではないのです。自分の命は何処にもないのです。神に生かされているのです。神に生かされている命が自分という形で現われているだけです。だから、イエスと同じ考えを持つのが当たり前です。これが普通の人にはできないのです。できませんから、自分の命を自分で汚すことをしてしまうのです。その結果、その魂が裁かれなければならないようになるのです。この点をよくよくご注意頂きたいのです。

 地獄は本質的にはありません。皆様は皆様自身の地獄を勝手に造っているのです。

 毎日、毎日、自分が生きていることによって、自分の地獄を毎日、造っているのです。

 死んだ後、来世はあるに決まっているのです。できるだけ正直に生活しなければならないとか、善事善行をしなければならないとか、人が見ていなくても行いを正しくしなければいけないと考えるのですが、なぜそうしなければならないのでしょうか。

 人が見ていても見ていなくても、行儀よくしなければいけないとか、約束を破ってはいけないとか、責任を果たさなければならないとか考えるのです。なぜこう考えるのでしょうか。人に分からなければ悪い事をしてもよさそうなものですが、そうはなかなかできないのです。

 なぜ悪いことをしたらいけないのでしょうか。法律を破るとか、警察の厄介になるようなことをしたらいけないのですが、そういうことがなければ少々嘘を言っても、ごまかしてもいいのではないかと思っても、そうはできないのです。

 もし現世に生きている間だけが人間なら、少々悪いことをしてもよいのではないかと考えるのが当たり前のようですけれど、そうは考えないのです。

 人が見ていても見ていなくても、なるべく嘘を言わないように、人を憎んだり恨んだりしないようにするべきだと、百人が百人共、千人が千人共思うのです。なかなか実行できないとしてもそのようにしたいと思うのです。

 なぜそのように思えるのでしょうか。人に知られなければ悪いことをしてもよさそうなのに、そうしないのです。それは死後の世界があるからです。

 もし現世に生きている間だけが人間であるのなら、死んでからのことはどうでもいいのです。もし後生がないのなら、霊魂の裁きがないのなら何をしようと自由のはずです。このように考えている人もかなりいるようです。

 人が見ていても見ていなくても、良いことをしなければならないという考え方は、何処から出てくるのでしょうか。その原因は何でしょうか。

 その原因は来世があるからです。死んでから後の人生があるのです。死んでから後の人生があるから、生きているうちにあまりひどいことができないのです。人が見ていても見ていなくても、この世を去ってから後があるから、あまり無茶なことはできないのです。

 今の生活が終わっても、後生という形で人生はなお続いているのです。だから、現世に生きている間に誠の命を発見しておけば、死がなくなるし、死後の裁きもなくなるのです。

 人生勉強というものはこういうものです。来世はあるに決まっています。生まれる前に人生があったように、死んでから後の人生もあるのです。こういう全体を考えるのです。生涯全体を考えて自分の人生を考えて頂きたいのです。

 死んでから後の生涯もあるのです。現在の白人主義の文明は、現世だけのことしか考えない。これが現代文明の根本的な間違いです。


般若波羅蜜多とは何か


 般若波羅蜜多というのは、現世を去って、現世ではない霊の世界へ行くことです。これは当たり前の思想です。般若波羅蜜多という思想は、当たり前の思想です。特別に難しいことを考えたり、特別に賢いことを言っているのではないのです。

 来世のことを考えるのが当たり前です。考えないのが間違っているのです。明治時代までの日本人は皆こういうことを考えたのです。

 明治時代までの親は必ずそう考えたのです。子供に、「生あるものは必ず死する。形あるものは必ず壊れる」と教えたのです。

 こういうことを教える親は、今の時代には全くいません。明治時代から考えると、現在の世の中は格段に悪くなっているのです。

 明治維新のやり方が悪かったのです。本当の文化を考えないで、政治経済の方に重点を置いたからです。これが悪かったのです。明治政府の思想が小さかったのです。

 明治政府は欧米の白人文明を無条件で受け入れたのです。受け入れなければ世界と付き合いができないから、やむを得ないということは言えますけれど、現代文明に占領されてしまったのです。

 そうして、日本がだんだん悪くなったのです。生あるものは必ず死するのです。形あるものは必ず壊れるのです。皆様は死んだ後の人生を考えるという人になって頂きたいのです。これが永遠の命を考えることになるのです。

 般若波羅蜜多という思想はいいのですが、これを思想的にだけ言っているのが宗教です。私たちはこれを実行することを主張しているのです。

 思想的にだけ言っている場合には、どんな立派な思想でも宗教になってしまうのです。実行すれば命になるのです。これをぜひ考えて頂きたいのです。

 皆様は私の話が難しい、分からないと言われます。私は幼稚園の子供に、高校生向けの話をしているようなことを言っていますから、難しいのは当然です。

 幼稚園の子供は自然に大きくなって小学校へ行けるのです。小学校の子供は大きくなれば中学校へ行けます。ところが、皆様の霊魂は、自然に大きくなるという訳にはいかないのです。

 求めなければ大きくならないのです。その人自身が求めることです。質問することです。捜し求めることです。探って求めるか、頭で考えて質問するか、とにかく捜し求めるということをしなければ、皆様の魂は成長しないのです。

 成長しなければどうなるのかと言いますと、自分の霊魂を殺してしまうことになるのです。

 皆様は現世に生まれました。やがて現世を去るのです。現世に生まれた霊魂は、命を見つけなければいけないのです。命を見つけた人は、命を持った状態で神の国に入れるのです。命を見つけ損ねた人は、死んだままの状態で現世を去るのです。

 人間は百人が百人共、千人が千人共、神に生かされているのです。時間、空間に生きています。時間、空間の本質は神です。時間、空間に生きているという人は神に生きているのです。

 現在の文明は、時間、空間の本質を説明しません。文明くらいのものでは説明できないのです。現在の科学は非常にレベルが低いのです。だから、時間、空間の本性を説明することができないのです。

 そこで、般若心経の彼岸へ渡るということをしますと、人間の精神状態が良くなるのです。そうすると、私がお話ししていることが難しくないと思われるのです。

 私の話が難しいと言っている人は、時間、空間の本質が分かっていない人です。時間、空間の本質が分からないままの状態の人は、自分の命を自分で汚しているのです。自分の命を自分で踏み潰していることになるのです。こういう人は地獄へ行くことになるのです。

 地獄はないのですけれど、自分の命を自分で汚しているから、地獄へ行かねばならないように自分でしているのです。

 時間、空間の本体は神です。時間、空間の本体と付き合っていながら、時間、空間の本体が分からない状態ですと、地獄へ行くことになるのです。

 時間、空間を、七十年も八十年もの間経験していながら、それに対して、難しかった、難しかったと言って死んでしまうとひどいことになるのです。これをよく考えて頂きたいのです。

 難しい、難しいと言って逃げないで、難しかったらもっと勉強して頂きたいのです。こういう点がこのように分からないのですが、どのように考えたらいいのでしょうかと、謙虚な質問をしたらいいのです。

 時間、空間に対してもっと謙虚になって頂きたいのです。時間、空間を当たり前のように用いないで、時間、空間に対してもっと勉強しながら謙虚な態度をとって頂きたいのです。

 そうして、神に教えてもらうような態度で、神に質問して頂きたいのです。皆様は傲慢です。分からない、分からないというのは、自分の気持ちを神の前に突き出しているのです。こういう傲慢な言い方をしないで謙虚な言い方をして頂きたいのです。そうしたら、神に聞かれるでしょう。

 物理学では物理運動は存在するが、物質は存在しないと言っています。物理学ではそうなるのです。ところが、現在の人間は、物質が存在すると思い込んでいるのです。

 現在の人間の常識では、物質が存在すると思っているのです。物理学的に考えるなら、物理運動は存在するが物質は存在しないと考えるのが本当です。だから、原子爆弾ができるのです。

 もし物質、物体が本当にあるのなら原子爆弾ができるはずがないのです。物質があるというのは人間の認識の間違いです。

 物理運動はあるけれど、物質や物体はないという物理学の原理が正しいというのは、学的に正しいという意味です。だから、原子爆弾ができるのです。

 物理運動はあるが物体はないのだということを学問では言っていますけれど、常識ではそれを考えていないのです。そういう間違いが起きてきているのです。

 聖書は人間の常識を肉の思いと言っているのです。般若心経ではこれを五蘊皆空と言っているのです。五蘊皆空というのは人間の思いは皆間違っていると言っているのです。色即是空というのは、物質、物体はすべて空だと言っているのです。

 物理運動だけがあるという考え方は、般若心経で言えば正しいのです。常識ではそのように考えられません。皆様の肉体は常識的には存在しますけれど、理論的には存在しないのです。従って、自分の肉体は存在していないと考えるのが物理学の見方です。

 学問をこのように活用すれば、般若波羅蜜多は当たり前のことです。自分の肉体は存在しないと考えるのです。日本の国は存在しないと考えることが当たり前です。

 常識では自分の肉体は存在すると思えるのです。国土が存在すると考えるのです。そう考えなければ現世が成立しないのです。

 政治経済は国土があること、人間の肉体があることを信じて成立しているのです。そこで、現世の学問は物理運動という理論を信じることが学問なのか、肉体があることを信じるということが学問なのか、一体どっちが本当なのかということです。

 肉体があること、国があることを信じるのが学問なのか、物理運動だけしかないということを信じることが学問なのか、この二つの考え方があるのです。これが現代文明の欠点です。考え方を分裂させてしまっているのです。これを統一するという考え方がないのです。

 だから、現代文明、現代の学問を捨ててしまうような大胆な決心がなければ、本当の般若波羅蜜多は分からないのです。

 彼岸へ行ってしまうのです。彼岸というのは向こう岸です。日本という国があるのはこちらの岸です。般若波羅蜜多というのは日本という国を問題にしないのです。日本社会を問題にしない所へ、自分の考えを置いてしまうのです。 

 日本社会を超えてしまって向こう岸へ行ってしまうと、初めて本当の天皇制が分かるのです。今皆様はこちらの岸にいます。現代の日本社会にいますから、天皇制の意味がさっぱり分からないのです。般若波羅蜜多で見れば天皇制の意味がよく分かるのです。

 全世界の人間に本当のイエス・キリストの復活の命が分かっていないのです。日曜日はイエス・キリストの復活記念日です。日曜日がイエス・キリストの復活記念日であるのに、イエス・キリストの復活が全く分かっていないのです。


日曜日


 日曜日とは何のためにあるのか。日曜日は何の日か。イエス・キリストが復活したのです。イエス・キリストが彼岸に渡ったのです。その記念日が日曜日です。この説明ができる人がいないから困ったものです。

 日曜日の意味が日本人に分かっていないのです。このことを分かってほしいのです。

 日曜日は死なない命を確実に掴まえたその記念日です。日曜日があるということは、人間が死なないということの証拠になるのです。

 生きているということが神の救いのしるしです。この他に救いはありません。生きていることが救いですから、これをしっかり掴まえて頂きたいのです。


 聖書に次のような不思議な言葉があります。

 「それから人々に向かって言われた、『あらゆる貪欲に対して、よくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』。

 そこで一つの譬を語られた、『ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか。私の作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっとおおきいものを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。魂よ。おまえには長年分の食糧がたくさん貯えてある。さあ安心せよ。食え、飲め、楽しめ』。

 すると神が彼に言われた。『愚か者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、誰のものになるのか』。

 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」(ルカによる福音書12・15~21)。


 この箇所はイエス在世時代を除いて、過去二千年の間に未だかつて正確に説かれたことがないのです。これは全く不思議な文章です。分かりやすいように思えるけれど、分からない文章です。

 この箇所が分かれば皆様は完全に救われるのです。女の人もこれが分かっていないのです。だから、貞操ということが全然分かっていないのです。肉体の貞操ばかりを考えて、魂の貞操を全然考えていないのです。

 男もこれが分かっていないのです。

 人間と魂とは別です。一人の人の中に固有名詞の人間と魂が同居しているのです。普通は人間が主人公になっていますが、これは大間違いで、魂が主人公でなければならないのです。魂が主人公になれば間違いなく救われるのです。


リビング

 リビングというのは、五官、生理機能、心理機能が、働いていることです。皆様はリビング、即ち、生きていることを毎日、毎日経験しています。これが救いの当体です。固有名詞の自分は救われる必要がないのです。リビングということは、救い主なる神自身が、現実に皆様に神の実物を提供しているのです。

 こんな厳粛なものを与えられていながら、皆様は全く無頓着に生きているのです。皆様にはもったいなすぎるのです。そこで、リビングが何であるかをはっきり掴まえたらもう死なないのです。

 現実に生きているリビングは、人間ではないのです。現実に生きているリビングは生ける神の子です。リビングの子ですから、生ける神の子です。ところが、皆様は固有名詞の人間が生きていると思い込んでいるのです。一人の男が生きている。一人の女が生きていると思っているでしょう。これは神がわざわざ与えている永遠の命の自分を、毎日地獄へ突き落していることになるのです。

 人間は本当にもったいないことをしているのです。リビングというのは天です。

 天にまします我らの父よという主の祈りがあります。神は天にましますのです。天にましますという日本語の訳はあまりよくないのです。天でありますと言ったらいいのです。天であります我らの父よと祈るのがいいのです。

 天にましますというのは宗教観念を持った人が訳したのです。天にましますというのは、天そのものでいますという意味ならいいのです。天そのものでいますということは、天にましますと言えなくはないのです。しかし、天に座っていらっしゃるという意味で考えるとしたら、この言葉は大変悪いのです。

 天であります我らの父よというのが一番良い訳です。神は天です。

 皆様は自分自身の部屋を持っているのです。その部屋には神がいるのです。この部屋がインナチェンバー(inner chember)です。この隠れた部屋には神がいるのです。

 誰でも部屋を持っています。ここに神がいるとすると、自分自身が天を持っているのです。神が天です。自分自身が生かされているという事がらが天です。自分の肉体があること、女の人は女であることが天です。

 女であることが天です。男であることがまた、天です。

 男はエデンの園で深く眠らされて、現世に送られたのですが、未だに現世で眠っているのです。深く眠らされた男は、未だに深く眠っているのです。眠っているから、善悪を知る木の実を食べて死んだことが分からないのです。善悪の木の実を食べて、神の掟を破ったことが全然分からないのです。深く眠っているから分からないのです。

 深く眠っているから分からないのは当たり前ということができるのです。考えてみるとひどいものです。

 女は罪を犯していないのです。個我がないということが分かればいいのです。自分の貞操はありませんが、女の貞操はあるのです。自分はいないから自分の貞操はないのです。これが本当の貞操の見方です。女の人は貞操ということが全然分かっていないのです。

 男は善意を知る木の意を食べたことが全然分かっていないのです。寝ていて食べたものだから、分からないというのは当たり前と言えるかもしれないのです。

 男は深く眠らされたままで善意を知る木の実を食べたので、死んだということが分からないのです。

 そこで聖書は、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから立ち上がりなさい」と言っているのです(エペソ人への手紙5・14)。まず眠っている状態から起きること、そうして、死んでいることをはっきり自覚して、死から出なさいと言っているのです。男はこういう二段階を経なければいけないのです。

 人間はリビングが分からないのです。リビングとは生かされていることです。これはそのまま永遠の命です。生かされているということさえ分かれば、絶対に死なないのです。

 「そして自分の魂に言おう。魂よ、おまえは長年分の食糧がたくさんある」と言っているのです(ルカによる福音書12・19)。リビングの実体に向かって、魂よと言っているのです。

 人間の魂とは何か。リビングそのものが魂です。リビングソール(living soul)とリビングゴッド(living God)は同じものなのです。

 リビングソール(生きている魂)においてでなければリビングゴッド(生きている神)はあり得ないのです。また、リビングゴッドにおいてでなければリビングソールはあり得ないのです。

 リビングということは神にも魂にも通じるのです。リビングということは大変なことです。ザ・シール・オブ・ザ・リビング(the seal of the living)は大変なことを言っているのです。これが日本に与えられた生ける神の印です。リビングが神です。生ける神です。

 リビングを人間の側から見ても間違ってはいないのですけれど、人間の側からだけ見ると、魂を失ってしまう見方になるのです。神の側から人間の魂を見ないといけないのです。

 人間の側からだけで魂を見ているから、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう」と言っているのです。

 聖書の言葉を正確に読むのと読まないとでは、大変な違いになるのです。正確に読んだら現実に生きていることが、そのまま永遠の命であることがはっきり分かるのです。分かるように書いてあるのです。こういう聖書が与えられていながら、死んでしまうというのは本当にもったいない話です。

 今皆様の目が見えます。今目が見えるということが、生ける神が共にいますということです。生ける神が共にいますから目が見えるのです。これが生ける御霊(みたま)の働きです。これさえ分かれば死なないのです。

 目が見えることが御霊の働きだということが分かることを信仰と言うのです。自分が生きていると考えたら、御霊を無視しているのです。御霊をなみしているのです。これは御霊に逆らっているのであって、この人は死んでしまうのです。

 自分が生きていると思って生きている人は、自分の記憶で生きているのです。自分の記憶で生きないで信仰によって生きるのです。

 そうすると、自分の記憶は消えてしまうのです。自分の記憶が消えて、信仰だけが毎日残っていくのです。そうすると、死ななくなるのです。このようにして、記憶の入れ替えは完全にできるのです。


記憶の入れ替え


 記憶の入れ替えをしてください。自分の記憶はこの世を去ってしまうと凍結します。人間の記憶は現世を去ったら凍結します。記憶が凍結すると黄泉(よみ)になるのです。

 記憶が凍結すると、それが黄泉を造っていくのです。黄泉が初めからあるのではない。人間の記憶が黄泉を造るのです。自分の記憶が自分の黄泉を造っていくのです。

 黄泉は孤独です。自分の記憶は他人の記憶と一緒にはなりません。自分の記憶はいつまでも自分だけの記憶です。

 死んだら自分が親しかった人に会えるとか、去年死んだ人と出会えるという人がいますが、これは大間違いです。死んだら自分の記憶の世界へ行くのです。自分の記憶が自分の行き先を決定するのです。これが黄泉です。

 自分の記憶を持ったままで死んだ人は、必ず黄泉へ行くのです。間違いはありません。

 生きていることがリビングです。生きていることは神に生かされていることです。神に生かされているということは、神の命を与えられているということです。これが救いなのです。これが分からない人はだめです。

 聞き方が足りないという人はもっと聞けばいいのですけれど、どんどん質問したらいいのです。

 皆様の食生活は生まれる前のエデンの園からの伝承です。エデンの園から伝えられているものを受け止めているのです。性もそうです。食生活、性生活というのは、皆様が信じても信じなくても先天的なものです。先天性というものは永遠性ということです。

 食生活や性生活というものが、現世におけるリビングの基本になっているのです。食と性が家庭の基本です。この他にはないのです。

 人間は食と性があるから働いているのです。性に関係がない人でも食は必要ですから、働いているのです。

 人間が現世に生きていることは、前世に係わりがある食と性が基本です。この世に生きているということは、前世に生きていたことの続きになっているのです。これをいくら否定してもだめです。

 本能的なことが皆様の生活の中心になっているということが、皆様の生活がリビングであって、リビングは前世からの続きになっているのです。これを否定してもしょうがないのです。

 聖書を信じていても信じていなくても、このことはすべて真実なのです。皆様が現実に生きていて感じていること、例えば砂糖をなめて甘いと感じることが永遠の命に係わりがあるのです。

 甘いとはどういうことか。これが霊魂に係わりがあるのです。食べておいしいとか、形を見てきれいだと思うこと、人間の五官で感じているのは、初めからあった命の言葉を感じているのです。

 初めからあったというのは、地球ができる前、宇宙のビッグバーンが始まる前ということです。それを皆様は初めからあった命の言葉として、毎日見たり聞いたり舌で味わったりしているのです。これをリビングというのです。

 皆様のリビングは、百三十億年以上も前のことを毎日経験しているのです。

 科学の思想はだめです。科学は物質があると信じているのです。そういうものはないのです。科学や色々な学問を信じると、リビングが信じられなくなるのです。

 本当の事を言いますと、遺伝子があるのではない。電子の運動があるのではない。素粒子があるのではない。宇宙全体にオールマイティがあるだけです。これを現実というのです。これをリビングというのです。

 科学は人間が造った思想です。これは肉の思いです。科学を信じることは死を信じることになるのです。科学が言うことが仮に正しいとしても、オールマイティゴッドに対しては何の価値もないのです。人間の命には三文の価値もないのです。

 リビングがあるのです。この中に、哲学も、科学も、原子も、自然現象も皆、入っているのです。こういうものを全部含めてリビングというのです。リビングゴッドというのです。

 リビングゴッドという事実はありますけれど、科学的事実、学問的事実というものはないのです。こういうものを夜店の屋台のように並べて誇っているのがユダヤ人です。これをルネッサンスというのです。ですから、ルネッサンスの考え方が根本から間違っているのです。

 科学を生活のために利用するのは構いません。それを尊敬することが間違っているのです。

 リビングということ自体が永遠の命です。リビングの実体が本当に分かると、聖書がありありと分かってきます。

 イエスがこの世に現われたのは、リビングをどのように生きたらいいのかということを私たちに教えるためです。リビングがそのまま命です。これを教えるためにイエスは来たのです。

 皆様もイエスと同じ生き方をしたらいいのです。

 分からないことがあったら神にアスクしたらいいのです。神にアスクしたら、大体答えてもらえるのです。質問の仕方が悪いといけないのです。御霊(みたま)を崇めて御霊に質問するのです。

 御霊を崇めることが下手な人は、御霊に質問することも下手です。御霊に質問することをしているつもりでもしていないのです。そういう人は人間に質問しなければしょうがないのです。

 そういう人は私に質問してください。どんどん質問してください。そうして、御霊に質問することができる人に、できるだけ早くなって頂きたいのです。御霊というのは聖書の言葉です。一般の人には馴染みがない言葉ですが、分かりやすく言いますと、万物を生かしているエネルギー、宇宙のエネルギーということです。

 人間が魂に問いかけていることはしばしばあるのです。金持ちが自分の魂に向かって、「魂よ」と言っていますが、この場合の魂は、英訳では大文字のソウル(Soal)になっています。

 人間は普通魂を小文字のソウル(soal)として見ています。その人は大文字の魂で感じるような手応えはありません。

 大文字の魂は神とほとんど同じものとして見ているのです。神なくして魂はないし、魂なくして神はないのです。神と魂は親子の関係です。

 イエスは、「祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」と言っています(マタイによる福音書6・6)。

 自分が生きているということが、自分の部屋です。これが隠れた部屋です。生きているという部屋の中には、父なる神がおられるに決まっているのです。

 生きているということが天です。生きているという天には、神がいるに決まっているのです。人間は誰でも生きているということを持っているのです。持っている以上、神を持っているに決まっているのです。

 こういう感覚で神を仰ぎ見ることになりますと、神も大変喜んで相手になってくださるのです。

 一番必要な心理状態を言いますと、神を信じるということです。これが異邦人にはなかなかできないのです。

 神は本当に真正直に、生真面目に、本当に誠意を尽くして、あるがままの状態で神を信じて神に物を言えば、神もまた、あるがままの状態で相手になってくれるのです。これが分かるのです。はっきり分かります。手応えがあるのです。

 そうして、神の御心を実行しなければならないということが分かるのです。神とイエスの状態と同じ状態になることができるのです。

 自分の記憶で生きるのではなくて、信仰によって生きるのです。

 人間が普通の常識で生きていたら全部記憶になります。信仰で生きていると神の御座(a great white throne)が、そのまま自分が生きている場になるのです(ヨハネの黙示録20・11)。大変なことになるのです。

 神は皆様と一緒にいるのです。皆様が生きているということは、当たり前のことではないのです。人間が生きているということ、リビングソールということは、これは不思議な経験をしているのです。

 色々なものが食べられること、見えること、聞こえること、男から見て女がいること、女から見て男がいること、これは全く前世の感覚です。前世と同じ感覚で見ているのです。

 私たちは驚くべきロマンの世界に生かされているのです。これが分からずに死んでいくというのは、全くの馬鹿です。大馬鹿です。

人間は現世で大変なことを経験しているのです。リビングという世にも不思議なことを経験しているのです。人が生きているということは、興味津々たるものです。不思議なものです。

 リビングというのは楽しいものです。お茶を一杯飲んでも、ミカンを食べても、それは不思議な経験をしているのです。

 皆様は現在生きているのですから、不思議な経験をして頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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