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死なない命を得るために






 端的に申し上げますと、皆様が生きていらっしゃる命は、死ななければならないに決まっています。死なねばならないことは皆様がよくご承知です。

 ところが、死なねばならない命から、抜け出すことができないのです。これはどういうことでしょうか。

 キリスト教神学では原罪と言います。仏教ではカルマと言われているものがあるのです。

 人間はカルマの中に閉じ込められているのです。これが死なねばならないことが分かっていながら、その命を自分の命だと思い込まなければならないような精神状態に落ち込んでしまっている原因です。これはばかげたことです。全くばかげたことです。

 皆様は死にたくないと考えているに決まっています。百人が百人、千人が千人、死にたくないと念願していながら、死なねばならない命を自分の命だと思い込んでいる。

 皆様は自分自身の愚かさ、不甲斐なさにどうして発憤しようとしないのでしょうか。私は皆様に発憤して頂くことを提言したいと思っているのです。

 人間の霊魂は自分の力だけでは、原罪、カルマから解放されることはできません。カルマから解放されるには、どうしてもボランティアがいるのです。

 私は非常にふつつかな者ですけれど、魂のボランティアの役割を買って出ているのです。これは私の発案ではありません。釈尊が既に発案しています。イエスがそれを実践しているのです。

 現在の人間の観念は、文化に対する根本的な理念が間違っているのです。これに気づいて頂きたいのです。

 皆様は死にたくないと思っていながら、死なねばならないと思っているのです。これは皆様の精神状態が束縛されているという意味です。

 死なねばならないことが分かっていながら、それから抜け出すことができないのは、皆様の精神状態が束縛されているとしか言いようがないのです。

 人間は宗教に束縛されているのです。または専門学という学問によって束縛されているのです。皆様の常識と知識は両方共束縛されてしまっているのです。

 釈尊が一切空だと言いました。五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃と考えたのですが、日本人がこれを信じていないのです。般若心経を読んでいながら、般若心経が信じられないのです。

 日本人以外の民族は、般若心経を全然問題にしていません。読んでいる人もいるかもしれませんが、ほとんど問題にしていないのです。

 日本人は般若心経を大変愛好しています。愛唱していながら、般若心経を信じてはいないのです。般若心経を信じていれば、五蘊皆空を実践できる勇気も持つことができるのです。

 般若心経を愛していながら、信じていないというばかなことを日本人はしているのです。仏教はこれをいいことにして、般若心経をお金儲けの道具にしているのです。奈良の薬師寺がそれをしているのです。般若心経を写経して千円をつけて送るとご利益があると宣伝して、六百万人から送ってもらっていました。寺は六十億円の収入があったのです。

 日本の仏教は不純なものになっているのです。仏教という宗教は仏法という真理を離れて、宗教に堕落しているのです。

 釈尊が説いたのは仏法でありまして、仏教ではありません。ところが、日本のお祖師さんが、自分なりに釈尊の思想を解釈して宗教を造ってしまったのです。これが日本の文化の基礎になっているのです。

 日本のお祖師さんが日本の宗教を造り、ユダヤ人が世界の専門学を造ったのです。新興宗教の教祖とかキリスト教各派の長老が、宗教の各派を造っているのです。こういうものが文化として認められているのです。

 各お寺は入場料を取って自由に参拝できないようにしている。これは一体何をしているのでしょうか。日本人の文化に対する根本理念が間違っているのです。現在大学で教えている文化の基本概念が間違っているのです。

 どのように間違っているのかと申し上げますと、文化は一つの民族の伝統によってできています。もう一つは情報です。この二つのもので文化ができているのです。これを信じている間は、人間自身の愚かさから脱出することはできないのです。

 人間は愚かなものです。非常に愚かなものです。皆様は魂という状態で命のルーツを持っているのです。現在皆様が生きているということ、つま、ザ・リビングというのは、命のルーツそのものです。皆様は命のルーツに従って生きていながら、これが分からないのです。

 現在自分がメガネをかけていながら、そのメガネを探している人がいますが、般若心経を読んでいながら、般若心経を信じられないのと同じことです。ばかなことをしているのです。

 邪魔をしているのは宗教です。あるいは情報と伝統です。宗教に何があるのか。伝統と情報以外に何もありません。後は理屈ばかりです。理屈というのは情報のことです。

 例えば、親鸞に本当の魂が分かっていたら、セックスの問題についてあれほどばかげた錯覚をしなかったでしょう。彼は自分を非常に業の深い人間だと考えたのです。


人間のカルマ

 歎異鈔で、「いかなる行も及びがたき、地獄一定の身である」と言っています。人間のカルマを取り違えていたのです。

 もちろん親鸞の時代には、イエスという人のことは、日本では全然分かっていなかったのです。だから、歴史的な流れにおいて取り違えたのはしかたがないとことだと言えるでしょう。

 もし親鸞が釈尊のような勇気を持っていたら、自分自身から抜け出すことができたかもしれなのです。五蘊皆空ということが分かったはずです。親鸞は般若心経を知っていたに決まっています。知っていながら信じていなかったのです。

 日蓮も同様です。法然も同じです。弘法大師も同じです。西行も同じです。いわゆる仏教のお祖師さんと言われるそうそうたる人物が、般若心経を知っていながら信じていないのです。ばかなことをしていたのです。

 だから日本では、一切空という釈尊の悟りがほとんどありません。般若心経がまともに取り扱われていないからです。皆様も般若心経をまともに取り扱っていないのです。

 もし皆様が般若心経を愛しておられるのなら、信じて頂きたいのです。親鸞ができなかったことをしてください。空海ができなかったことをして頂きたいのです。

 現在、聖書が日本にあるのです。イエスは何をしたのか。どのように殺されたのかが分かるはずです。空海の時代よりも、親鸞の時代よりも、今の時代の皆様はずっと解放されやすい状態におかれているのです。

 ですから、ご自身の人生観をやめることができるのです。人間は自分の人生観で自分を縛っているのです。自分の世界観で自分を縛っているのです。そういうばかなことをしているのです。

 文明は人間の霊魂を束縛しているために存在しているようなものです。文明は人間の伝統によって造られているのです。この伝統が間違っているのです。

 釈尊やイエスは人間の伝統と情報を根本から覆したのです。この二人だけは人間の文化の外に立っていたのです。人間の文化概念を踏みつけていたのです。人間自身を踏み越えて行ったのです。人間存在を乗り越えて行ったのです。

 人間はカルマによって縛られています。業によって束縛されていることは、現代人としてはやむを得ないと言えるでしょう。しかし人間の愚かさをやむを得ないと言って呑み込んでいたら、皆様は必ず死にます。死ぬということは、皆様の人生が全く無価値になるということです。皆様が何十年間この世に生きていたことが、命のために何の役にも立っていないということを、はっきり認めて頂きたいのです。

 自分自身を出てしまうのです。自分が生きていることを乗り越えてしまうのです。これが般若心経の思想です。

 死にたくないと思っていながら死なねばならないという命を、鵜呑みにしている愚かさに気がついて頂きたいのです。要するに人間は正直ではないし、意気地がないし、勇気がないのです。

 人間は自分で自分自身を乗り越えることができないのです。自分が生きていると思っているからです。ところが自分が生きているという事実はありません。魂が生きているのです。

 人間が生きているのではありません。人間は死んでいくに決まっているのです。皆様の常識、知識は皆様を取り殺してしまうのです。これが文化です。文明です。

 親鸞がもう少し正直な率直な見解があったら、自分が生きていることに対して、特に性の問題について明確な結論を捉えることができたはずです。

 ところが親鸞はやはり日本社会の伝統を破ることができなかったのです。人間の文化、情報を乗り越えることができなかったのです。彼は自分自身を乗り越えて、外へ出ることができなかったのです。

 自分の外へ出ることができなかったのです。いかなる行も及びがたき地獄一定の我を認めていたのです。これは釈尊の一切空から考えますと、非常にレベルの低い見当違いの思想です。

 親鸞は人間的には好感が持てる人でしたが、彼の思想には同意できないのです。浄土真宗の流れは親鸞を越えるものではないのです。親鸞の感覚の中を巡り歩いているだけなのです。

 人間は死んではならないのです。死んでしまうということは負けることです。自分の業に負けてしまうのです。せっかく命をこの世に受けながら、魂としての本当の値打ちを知ることができず、命としてのルーツを捉えることができず、命を無駄遣いしてしまうことになるのです。その結果、自分自身の霊魂の尊さが分からないままでこの世を去るのです。

 この世を去るだけならいいのですが、その後に地獄の刑罰が待っているのです。これが恐いのです。

 私たちに与えられている人格はすばらしく高等な、高尚幽遠なものです。無限性、絶対性を持っているのです。このような人格を与えられていながら、自分自身の人格の本体を捉えることができないのです。これが人間の為体です。

 宗教ではこういう率直なことを申しません。婉曲におべっかを言ってへつらうのです。そして皆様のお金を狙っているのです。

 結局宗教は商売です。こういうものを信用したら損するだけです。

 般若心経の色即是空を受け取るということは、勇気を要します。目に見えているものを空だと考えるのですから、勇気がいるのです。しかしこれは本当です。

 こんなことは理論物理学の原理から考えたら分かることなのです。物理運動は存在するが、物質は存在しない。こんなことは中学生でも知っていることです。

 色即是空という明確単純な思想を皆様が受け取れば、皆様は死ぬべき命を乗り越えて、死なない命、絶対の生命を掴まえることは十分にできるのです。

 人より自分は偉い、優越感というものは、自分が生きているという気持ちから出てくるのです。自分が生きているという事実はないのです。これは自分の人生を主観的に捉えているのです。生きているのは自分である。自分の命がここにあると考えているのです。これが優越感の根底です。

 自尊心が優越感になっているのです。自分が生きているという考えが間違っているのです。人間は自分で生まれたいと思ったのではありません。命を自分で造ったのではない。親は子供の肉体を造ったのではありません。生理機能と心理機能と魂を、親が造ったのではないのです。

 魂という角度から言いますと、親と子供は何の関係もないのです。肉体的な血液関係はありますけれど、霊魂の関係ではありません。

 自分の命というべきものはありません。人間の命は天から預かっているものです。天から貸してもらっているのです。私たちが生きているのは、大自然によって生きているのです。自分の命を生きているのではありません。

 大自然全体を天という言葉で表現するとしたら、天の命を人間は生きているのです。

 皆様の命には命の本源があります。命の本源は死なないものです。命の本源が死ぬはずがありません。命の本源に気がつかないから死ぬのです。



命のルーツ


 人間は命のルーツを経験しているのではなくて、命の現われを経験しているのです。命のルーツを捉えれば、死なない命は分かるに決まっているのです。

 般若心経で空と言っています。五蘊皆空とか色即是空と言います。空というのは現在の人間の常識は全部間違っているという意味です。空はからっぽというのではなくて、人間が考えているようなものではないと言っているのです。

 般若心経の空という思想は、現在の世界全体の文化概念から言いましても、最も優れたすばらしいものです。

 西欧社会には空がありません。ですから、西欧社会はしどろもどろになっているのです。やがて文明は壊滅状態になるでしょう。

 どうか自分から抜け出して、命の本源、命のルーツを見つけてみようというお気持ちを持って頂きたいのです。

 空じるということがなかなかできないと言われる人が多いのですが、現在皆様が持っておられる命は死んでしまう命に決まっているのですから、この命を空じてしまうことによって、自分自身の命を成仏させることができるのです。

 もし空じてしまわないのなら、自分の命を取られることになるのです。誰に取られるのか。自分の業によって命が取られるのです。自分の業に自分が勝とうと思えば、自分自身の命を空じるしかないのです。

 自分を空じるというのは、何も首を吊って死ぬのではありません。自分の考えが根本的に間違っていることに同意するのです。これが空じることです。

 間違っていることを間違っていると考えることは、当たり前のことです。当たり前のことをしたらいいのです。

 皆様は今まで何十年間かこの世に生きてきました。死ぬべき命を自分の命と思い込んでいますと、親鸞と同じように地獄一定になってしまいます。これが大変です。ただ死ぬだけならいいのですが、死んでから後に地獄が待っているのです。

 人間は二回死ぬのです。この世を去る時に一度死ぬのです。その後にもう一回死ぬのです。これが日本人に全然分かっていないのです。親鸞もこれが分からなかったのです。

 生きているうちに自分の命を空じてしまえば、死ななくなるのです。一度も死ななくなるのです。

 生きているうちに命のルーツを掴まえた方は、死なない命の本体が分かりますから、死なないことになるのです。これが本当の悟りです。

 本当の悟りというのは、自分を空じることです。死ぬべき命を精神的に捨ててしまうのです。死ぬべき命というのは、自分の妄念で凝り固まっている命のことです。自分の思想によって、凝り固まっている自分の命を捨てるのです。自分の思想が命になっています。これが五蘊です。これを捨てるのです。

 現在生きている人間は五蘊の塊です。常識と知識の塊です。皆様の六十年、七十年の人生は、五蘊の塊の人生であって、これを自分の人生だと思っていますと、肝心要の霊魂の命が分からないままで生きていることになります。そうすると、死ななければならないことになります。

 これを空じてしまうのです。自分の考え方が間違っていたことを素朴に認識して頂くことです。

 般若心経に五蘊皆空とありますが、五蘊は色、受、想、行、識を指しています。色蘊というのは、目で見ているものがそのまま存在していると考えるのです。唯物思想のような考え方です。

 目で見ているとおりのものが存在するということが、人間のあらゆる精神構造全体に影響を及ぼしているのです。物事の受け取り方、考え方、行いのあり方、また知識のあり方が受想行識です。

 目で見ているとおりのものがあると考えることが、人間のすべての迷いの土台になっているのです。これが人間の伝統的な迷いです。人間はすべて目で見ているものがあると考えて生きてきました。これが間違いだと釈尊が言っているのです。

 人間は目で見ているものがあると思っていますが、この感覚が根本的に間違っていることに、釈尊は気がついたのです。それは釈尊が明けの明星を見たことによって分かったのです。これが釈尊の悟りの原点です。

 人間は自分の霊魂を完成するために生まれてきたのです。人間完成を実行することが人生の唯一の目的です。現世に生きていることが目的ではありません。現世に生きていることをアウフヘーベンするのです。弁証法的に揚棄しますと、今生きている命ではないもう一つの命ができます。

 ジンテーゼとしての完成された命を発見するのです。人間は未完成の状態で生きていますので、完成する状態へ自分の命を持ち込んでいくのです。これが人生の目的です。



イエスの復活が人間完成の姿


 イエスの復活というのは、人間の完成の姿です。弁証法的原理の完成がイエスの復活です。これは命が新しくされただけではなくて、死なないものに揚棄されたのです。完全次元の命になったのです。イエスが復活した時の肉体は、現在の医学で考えている肉体ではないのです。人間常識で考えている肉体ではないのです。不滅のボディをイエスは弟子に見せたのです。

 これがイエスの復活です。人間完成の具体的な証明はイエスの復活の他にはありません。

 釈尊は悟りを開いたが復活はしなかったのです。自分の命を空じるとは言いましたが、自分の命が完全であるとは言っていません。

 釈尊の空というのは、存在している人間の肉体的な形を断固として否定したのです。イエスは人間が現在肉体的に生きているのは幼稚な状態であって、これが完成されると人間の肉体が死なないボディとして復活するということを、自分自身の復活によって証明したのです。

 釈尊の空という意識は、肉体を持っている人間に対する断固たる処置です。イエスの復活は、人間完成に関する最も具体的な証明です。真理はこの二つしかありません。

 人間の本質は魂でありまして、魂が恋をすることが、最も優れた成長のあり方を示しているのです。ハートのあり方を示しているのです。

 釈尊は王国の王子様でした。王子様の位を捨てて、非常に美人であったと言われる奥さんを捨てて、家出をしてしまった。この心境が恋です。

 魂の新しい目を開くことが、霊魂の本体を見極めようという勇気です。神は皆様にまず肉体的な意味での恋愛感情を与えるのです。

 誰でも初恋の経験があるでしょう。ない人はいないでしょう。なぜ恋が重大かと言いますと、男性が女性に恋をするというのは、本当の恋ではないのです。恋のテストケースです。

 性というのは命のさがです。人という命のさがと、神という命のさがと二つあるのです。宇宙に命のさがが二つあるのです。

 人が人であること、神が神であることが本当のさがです。男が男であること、女が女であることも、さがという言葉が使えないこともないのですが、これは五蘊の中でのさがの問題です。

 人間の霊魂という角度から考えますと、男も女も同じさがです。男から見て女は完全な異性ではありません。肉体的な異性であっても、完全な異性ではありません。完全な異性というのは、霊魂の本質から考えて、全然違った性質を持っていなければならないのです。

 人間の命は死ななければならない条件を持っています。神は絶対に死なない条件を持っています。そこで本当の恋というのは、人間の霊魂が死なない命、本当の命に憧れることです。これが恋の本質です。

 これは女性の恋によく似ているのです。女性が男性にほれる場合は、いわゆる憧れです。また、慕う形に現われるのです。これが本当の恋です。

 人間は元来女性です。絶対性を持っていないからです。女は女だけで子供を産むことはできません。人間は人間だけで自分の命を新しくすることはできません。女に男が必要であるように、人間に必要なものは神です。これが分からないために、皆死んでしまうのです。

 皆様は宗教を求めているのではありません。宗教ではないもの、本当の命、本当に頼りにしているもの、本当の知恵、本当の光を求めているのです。

 人間は恋をするために生まれてきたのです。人間的にもまた霊魂的にもそうです。肉体人間としても恋をすることが最高の目的です。宗教研究とか、頭から水をかぶって修行するとか、座禅を組むというのは、ぎこちない意味での恋愛行動と言えるのです。

 そういうものではなくて、もっと柔軟な感覚で、もっと従順な感覚で考えれば分かるのです。難しいと考えてはいけないのです。

 皆様の魂は恋をするために生まれてきたのです。永遠の命に恋をするのです。これは当たり前のことです。

 死ぬべき命を与えられたのは、死なない命に恋をするためです。現在の人間の宗教、文化は人間の伝統と情報に縛られているのです。

 皆様は人間の文明意識によって束縛されているのです。皆様の魂は、自分の職業とか自分の経験、社会的な伝統によってがんじがらめに束縛されているのです。

 この束縛を切断するのです。五蘊皆空がひらめけば、これを切断することができるのです。皆様の今までの経験、常識はただの空です。このことを般若心経ではっきり掴まえて頂きたいのです。

 これは私の思想ではありません。宗教ではない般若心経がこのことをはっきり切言しているのです。キリスト教ではない聖書は、皆様方にイエスの復活を与えているのです。新しい命、死なない命の実体をそのまま皆様に提供しているのです。



恋愛


 般若心経が提示しているものと、新約聖書が提供するものは宗教ではありません。これに恋愛感情を持って頂きたいのです。

 信仰とか悟りとかいうと難しいのですけれど、恋愛と言えば分かりやすいでしょう。恋愛の経験がない方は一人もいませんから、どうぞ勇気を持って頂きたいのです。魂の声を考えて頂きたいのです。

 信仰は第二の恋です。上等の恋です。

 皆様は今まで数十年間の人生を生きていらっしゃったので、大なり小なりそれぞれの人生観、世界観、価値観をお持ちでしょう。

 皆様が持っている人生観や価値観は、皆様が今までに経験した自分自身の経験内容を、自分の人生観や世界観のように考えているのです。

 自分がどれほど本を読んでも、どれほど宗教を信じても、自分が生きているという立場からした修行は、絶対的なものではないのです。

 人間には人間の世界観があるのは当たり前です。自分には自分なりの悟り、信念があるのは当たり前です。しかし、これでは間に合わないのです。

 全世界の人間はすべて死んでいくことが分かっていながら、これから逃れることができない。却ってこの命に執着しているのです。死んでいる命に執着している人は、今までの何十年間かの自分自身の人生観、自分自身の世界観に立てこもっているからです。

 こういう状態を皆様が守っていこうと思うのは自由です。しかし必ず死ぬのです。これが恐いのです。

 皆様の人生観や世界観は、自分なりのものではだめです。自分なりの考えでいくら分かったように思っていても、それは自分の気持ちの内面だけのことであって、だめです。

 恋をする相手に向き合わないで、自分だけがこそこそと勝手に恋をしているのです。これでは恋は成立しません。

 皆様の霊魂は皆様自身のものではないのです。人生は自分のものではないし、命は自分のものではないのです。分かったと思っても分からないと思っても、どちらにしても皆様自身の人生観は、皆様を完全に救うことはできないのです。

 この宇宙に絶対があるのです。地球が造られているという絶対があるのです。人間が生きているという絶対性です。この絶対性は神としか言いようがないのです。自分でいくら哲学書を読んだりしても、それは人間の文化概念の情報を勉強したというだけのことです。

 自分自身の命の目が開かなければだめです。これは自分の魂の本質は自分から出たものではないということです。これが魂の目を開く基礎になるのです。

 自分の経験の中に立てこもろうとしないで頂きたいのです。むしろ自分の経験を軽んじるような気持ちを持って頂きたいのです。

 私はすべて人間の行き着く所を申し上げているのです。皆様がもし命は自分のものだと考えるとしたら、こういう主観的な意識によって皆様の魂は死んでしまうことになるのです。

 とにかくもっと単純に考えて頂きたいのです。恋愛を打ち明けるには、単純な勇気がいるのです。面映ゆい気持ちに捉われないで、単純に、素朴になって頂きたい。

 天地自然という人格に対して、自分のいたらなさを打ち明けようという気持ちを、心に定めたことを成仏というのです。自分の意識を自分で見切ってしまうのです。自分以外の意識に出ようという決心をしたことを、成仏というのです。仏になったのです。

 成仏することによって神が分かってくるのです。成仏しなければ神を信じることは絶対にできません。今まで生きてきた自分の気持ちを用いて、何とか神を掴まえようと考えてもだめです。

 今までの経験の範囲内で神という絶対を掴まえようとしても無理です。神は皆様の経験より大きいからです。地球が存在することよりも大きいからです。

 絶対を掴まえようと思えば、自分自身が空になることです。無になるのです。これが条件です。こうなる方が気楽でいいのです。自分が考えなくてもいいのです。自分が考えて、自分が理解して、自分が何とかしなければならないと考えるのは、宗教観念です。これは理念や観念であって、これでは神を掴まえることはできません。

 空になるのです。成仏するのです。自分自身をはっきり見切ってしまうのです。自分の人生観や価値観を見切ってしまうのです。そうしないと皆様は死なねばならないことになるのです。

 私は皆様を驚かしたり、いじめたりしているのではありません。現在までの信念、世界観をこのまま持っていたら、皆様は必ず死ぬのです。死んでしまったら成仏することはできません。

 死んだ人間のことを仏さんと言いますが、死んだ人間はやむを得ずに仏にされてしまったのです。これはだめです。やむを得ずに仏にされてしまった人は、成仏しません。成仏というのは、自分から進んで仏になることです。これをして頂きたいのです。

 皆様の目の黒いうちなら、自分の命のルーツに結びつけることができるのです。宇宙存在の実体は命のルーツの実体です。

 神は命のルーツの人格的な表現をいうのです。太陽が照っていることが神です。皆様の心臓が動いていることが神です。地球が自転公転していることの原理、原則、原態が神です。これが絶対です。

 皆様の人格は絶対を受け止めるための能力が十分にあるのです。皆様は生まれながらにして、神という絶対を受け止めるだけの能力性を与えられているのです。

 ところが、自分自身の数十年間の人生を基礎にして、自分自身の人格の本体に反抗しているのです。これを罪というのです。カルマです。

 人間はカルマの虜になっていますから、これを踏み越える勇気を持って頂きたいのです。そのために一番必要なことは率直さ、単純さです。単純率直であれば勇気が湧いてくるのです。



本当の命


 本当の命とはどういうものかということですが、これは何でもないことです。皆様は太陽の働きによって、昼が昼であることをよくご承知です。夜が夜であることもご承知です。

 昼と夜がなければ地球上の植物や動物が成長しないのです。そのために地球には昼と夜があるのです。

 太陽系宇宙の中に地球という不思議な惑星が天に浮かんでいます。このことがそのまま命です。これが人間には分からないのです。

 皆様は命に生きていながら命を知らないで生きているのです。皆様は理性と良心を持っていらっしゃるので、生きているということを毎日毎日経験しているのです。従って、命とはどういうものかということを掴まえることは、誰でもできるのですが、それをしないのです。

 人間は何十年も生きていますけれど、ただ生活していただけです。生活しているということは、人間が肉体的に生きているその営みのことです。これは生きていることにはならないのです。

 人間は生活はしていますけれど、生きてはいないのです。これが危ないのです。皆様は死んでからどうなるのかということが分かっていない。そういう状態でこのまま生きていることは、非常に危ないことです。このことを今日もう一度、よく考えて頂きたいのです。考え直す気持ちさえあれば、死なない命を掴まえることは誰でもできるのです。

 どうしたら死なない命を掴まえることができるのか。これは今までの自分の常識を棚上げしたらいいだけのことです。ただそれだけのことです。これは冷静になれば誰でもできることですが、現代人はしようとしないのです。自分が生きていると思っているからできないのです。

 生活していることが生きていることではありません。肉体的に存在することに対する営みにすぎないのです。これを文明と言います。政治、経済というのです。

 人間は肉体的に生きていることの営みをしても、命の勉強をしていることにはなりません。いくらお金を儲けても、何億円の保険に入っても、結局人間は死んでしまうのです。死んでしまうに決まっていることをよく知っていながら、それをやめようとしない。愚かなことです。

 死んでしまうか、死んでしまわないかが分からないような命なら、ひょっとすると死なないかもしれない。ひょっとしたら死ななくてもいいというのなら、万に一つは当て込んで、ただ生活だけしていたらいいのです。そうしたら、まぐれ当たりに死ななくてもいいかもしれないのです。

 しかし現在の人間が生きている生きざまは、死ぬに決まっている命を生きているのです。死ぬに決まっていることを承知していながら、それを当たり前の顔をして生きているというのはどういうことでしょうか。

 死ななくてもよい命はあるのです。皆様の考え方さえ変えれば、頭の使い方さえ変えれば、死なない命は必ず掴まえられるのです。

 人間が死んでしまうに決まっている一番大きい原因は、自分が生きていると思っているからです。これが悪いのです。

 自分が生きているとなぜ思うのでしょうか。自分はいないのです。この世に生まれたいと考えて、産んでくださいと頼んだ方は一人もいないのです。そうすると、生まれてきた人間の霊魂は自分ではないのです。

 自分が生まれたいと思ったのでもない、自分という人間がどこかにいるのでもない。ただ自分がいると思っているだけなのです。

 自分という意識がなぜ人間にあるのかということを簡単に言いますと、人間は万物の霊長として、万物を代表して命を経験しなければならない責任があるのです。命を経験して命を管理しなければならない義務があるのです。

 植物、動物、虫類も、自然現象もすべて生きている。太陽の光は太陽が生きている証拠です。風が流れているのは風が生きている証拠です。空気が生きている証拠です。

 森羅万象は悉く生きているのです。ところが、森羅万象は命を認識する力を持っていないのです。犬や猫も、草も木も、太陽も空気も命を認識することはできません。ただ生きているのです。

 命を認識することはできないけれども、現在生きているという万物の頂点に立っているのが人間です。だから、人間は非常に大きい責任を持たされているのです。

 現代文明というのは、人間はただ生きていればそれでいいように考えているのです。これは大変な間違いです。大間違いです。これは白人文明の決定的な欠点です。

 専門学を取り上げて、大学と言っていますけれど、大学へ行って何が分かるのでしょうか。生活のことは分かるでしょう。生活の足しになる知恵は分かるでしょう。しかしいくら生活していても、全世界の人間はやがて死んでしまうに決まっているのです。

 今までの人間は、死んでいくために学校へ行ったのです。死んでいくために政治、経済が存在しているのです。私は理由なくて現代文明を誹謗しているのではありません。命を弁えないで生活だけを弁えている。こういう生き方は文化の本質を全く無視していると言っているのです。

 文明はあるけれども文化の本性は今の世界にありません。文明は生活状態、生活条件、また生活している目的です。今の人間は、どこまでも生活、生活、生活です。

 文化は人間存在の本質について考えなければならない責任があるのです。例えば芸術とか、宗教とかいうものです。こういうものの形だけはありますけれど、それがすべての生活の角度に引きずり回されている文化です。本当の文化とは違います。人間存在の本質を考えるという義務と責任を考えていないのです。そういうことに調子を合わせている芸術、学問、宗教はありますが、そんなものは何になるかと言いたいのです。

 文明というのはありますが、文化という考えを持ったものは、今の世界にはないのです。

 聖書はありますけれど、キリスト教になっているのです。般若心経はあります。仏教の経本としての般若心経はありますけれど、仏法としての般若心経はないのです。

 今の宗教は現世に生活している人間に調子を合わせているのです。人間の文明を叱りつける宗教はどこにもありません。



般若心経は人間を叱っている


 般若心経をご覧ください。般若心経の文句を読んでみますと、人間が生きている状態を真っ向から叱っているのです。落ち着いて般若心経をお読みになれば、皆様ご自身がこっぴどく叱りつけられていることを感じるはずです。

 五蘊皆空、色即是空、空即是色、究竟涅槃という言葉は、現在人間が生きている状態を、痛烈に叱りつけているのです。

 ところが、般若心経を仏教の経典だと考えているために、いくら叱られてもさっぱりこたえないのです。お経が何か言っていると言ってそれでおしまいです。

 般若心経を宗教扱いすることが間違っているのです。聖書をキリスト教本と考えていることが、間違っているのです。宗教ではない聖書と般若心経を、宗教にしてしまったのです。

 そこで信じてもよい、信じなくてもよいという、いわゆる信教の自由ということになって、自分の霊魂をごまかしているのです。信教の自由というあやふやな言葉にごまかされて、自分の魂を騙しているのです。世界中の人間がこれをしているのです。

 生活を考えるのは結構です。しかし生きている人間の命について誰が責任を持つのでしょうか。現在大学で教えている専門学が、人間の命について何の役にも立たないのです。人間存在の本質に関しては何の役にも立たないのです。ただ生活の役に立つだけです。

 専門学はしかつめらしいことを言っていますけれど、単なる生活の知恵です。ノーベル賞と大きなことを言いますけれど、ただの生活の知恵にすぎないのです。それだけのことです。コンピューターができても、ロボットができても何になるのでしょうか。これが世界では最高のものと考えているのです。

 今の人間は命のことを全然考えようとしないのです。霊魂の本質のことを全く考えようとしないのです。このような文明を愚かと言わずに何と言ったらいいのでしょうか。

 大学へ行って何をしているのでしょうか。たくさんの学費を使って、四年間の時間を使って、何をしているのでしょうか。大学では生活の知恵を教えるだけです。生活の知恵を教えるだけだという看板をはっきりかけたらいいのです。人間存在の本質に繋がる可能性を持っていなければ学問という価値はないのです。人間存在の本質に繋がるような原理を持っていなければ、学とは言えないのです。

 人間生活が便利にするための知恵を学問と言っていますが、これは生活の問題であって、学という程のものではないのです。このように人間の頭が曲げられてしまっているのです。命に対する真面目な考え方がなくなっているのです。

 皆様はこういう社会に住んでいることを、よく考えて頂きたいのです。皆様が今生きている命は、必ず死んでいく命です。

 肉体が火葬場に行って、灰になるのは当たり前ですが、肉体に宿っていた魂がどうなるかです。肉体に宿っていた精神機能はどうなるのでしょうか。これを考えようとしないのです。

 命が肉体的に生きている状態を魂というのです。精神機能が生理機能と一つになって生きている状態を魂というのです。

 魂の目を開くこと、魂の存在価値を認識すること、魂に対して光を与えることが学です。ところが、現在の学はこういうことを考えていないのです。

 これは文部科学省が悪いのではありません。政治の一部として文教の面を司っているだけのことです。学の良し悪しは文部科学省の責任ではありません。全世界の文明指導者の責任です。

 現在の世界の文明の指導をしているのはユダヤ人グループです。これがアメリカの大統領に発言させているのです。ロシアの大統領に発言させているのです。これがユダヤ主義です。

 人間文明にはこういう決定的な欠陥があることを知らなければいけないのです。決定的な欠点があることは、冷静に考えたら分かるのです。

 本当の知識とはどういうものかと言いますと、天地の命が太陽になって現われています。太陽光線の反射によって地球が明るく見えます。太陽光線が大空のちりに反映して明るくなっているのです。これが命です。

 天地の命がこのように働いているのです。天地の命が学の根本です。天地の命が光となっていること、また知恵となっていることが学です。大無量寿経ではこれを言っているのです。



帰名無量寿如来


 皆様の命は無量寿という命です。死なない命です。「帰名無量寿如来 南無不可思議光」と正信偈にあります。無量寿如来に帰名することです。不可思議光とは皆様の脳細胞の働きです。不可思議な光が人間に宿っているのです。これに南無となることです。自分の頭に宿っている光、理性の本質、良心の本質に南無となることです。

 自分の心臓が動いている事実は、地球が自転公転していることと同じです。これがそのまま命です。この命を知恵として、また光として受け止めることになりますと、今生きている自分の命は、天地の命であることが簡単に分かるのです。

 自分が生きているというばかな妄念、命は自分のものだと考えることは、非常に愚かな妄念です。この妄念さえ捨ててしまえば、死なない命がすぐに分かるのです。

 太陽光線によって地面が明るく見えるのです。この太陽の働きが、そのまま皆様の知恵になるのです。太陽の働きという物理的なエネルギーが、そのまま皆様の心理的な知識に変更されるのです。

 これができれば、皆様が死なない命を見つけることは何でもないことです。毎日、毎日太陽の光を見ているのです。雨の日には太陽の光は見えませんが、雨の降る様子が見えます。太陽の輝き、雨の降る状態は天地の命です。天地の命がそのまま理論的に変化してくるのです。

 宇宙物理の物理構造が人間自身の心理構造として、転換されるのです。この働きのことを神の御霊(みたま)というのです。御霊さえ分かれば何でもないのです。

 御霊さえ分かれば、永遠の命を掴まえることは何でもないのです。皆様が生きていることを御霊というのです。「たま」というのは皆様が肉体的に生きている状態です。「しい」とは試みに生きているのです。これをたましいというのです。

 たましいという言葉の意味さえ分かれば、太陽の物理的なエネルギーを、皆様の心理的なエネルギーに変化させることは何でもないのです。

 自分が生きているというこの傲慢な考え、ユダヤ的な傲慢な考え、文明人全体が持っている決定的な考えが、根本的に間違っているのです。

 自分が生きている。命は自分のものだという傲慢な考えさえ捨ててしまえば、太陽の光がそのまま皆様の知恵となり、知識となるのです。

 現在の人間は皆死なねばならないことを知っているのです。人間は色々な理屈をつけて、死ぬことをごまかそうとする悪い癖があるのです。「心やすく潔く死ねる方法」という本があるということですが、そういう本を読んでもだめです。

 人間は死ぬために生きているのではありません。生きるために生きているのです。人間は死ぬものだという考えは、現代医学の根本的な間違いです。

 病気を治すことだけが医学ではありません。命の本性を真っ直ぐにすることが本当の医学です。今の医者で命が分かる人は一人もいないのです。もしいたら、今の医学に対する不備、不満をぶちまけるはずです。ぶちまけないところを見ますと、今の医者は病気を治すこと、お金を取ることに一生懸命です。

 医学は現代文明におべっかを言っているのです。今の文明には命がありません。命に対する認識がありません。このような文明におべっかを言っているのです。

 これは医学だけではありません。科学も哲学も同様です。肉体的に生きている人間に迎合しているのです。おべっかを言っているのです。

 大学という看板を掲げているのなら、少しは命のことを考えなさいと言いたいのです。分からないにしても、分かろうとする努力くらいはしてもいいのです。学ということにふさわしい努力を払うのは当然です。ところがそれをしていないのです。

 「心やすく潔く死ねる方法」という本をいくら読んでもだめです。私たちの人生は死を乗り越えることが目的です。死を空破するのです。

 釈尊やイエスの思想を真面目に勉強する気持ちさえあれば、血路を開くことは十分にできるのです。ところが釈尊の悟り、イエスの信仰を宗教だと思っているから、何にも分からないのです。



宗教家に殺されたイエス


 イエスは宗教家ではない。釈尊も宗教家ではなかったのです。全くの素人です。イエスは大工の青年です。

 こういう人が本当の命があることを、自分自身の存在をかけて証明したのです。こういう事実があるのです。

 イエスは宗教を大変嫌ったのです。そのためにユダヤの法律学者、ラビに殺されたのです。宗教家に殺されたのです。

 釈尊は宗教は妄念だとはっきり言っているのです。人間が考えることが妄念ですから、人間の考えも、生活も肉体も、地球が存在することも、一切空だと断言したのです。

 これは宗教ではありません。宗教も空です。釈尊の思想とかイエスの思想を考えるためには、自分が生きているという気持ちを棚上げする必要があるのです。そうしたら、死なない命を見つけることは難しくないのです。

 だから、心やすく気楽に死ねる方法ということを、あまり考えない方がいいでしょう。

 今の人間は、一億人が一億人共、七十一億人が七十一億人共、全部死んでいく運命にあることは間違いないのです。しかし死んでいくべき運命から逃れたいということを、本当に考える人が非常に少ないのです。

 今の生き方がどうもおかしい、どうもおかしいと本当に思える人は、死なない命を見つけることができるのです。心やすく死ぬ方法よりも、死なない方法を見つけるようにして頂きたいのです。

 現在の学者、宗教家、現代社会の指導的な位置に立っている人のいうことは、信用できません。そういう人が言うことを信じてはいけないのです。なぜなら、そういう人は死ぬべき命しか知らないのです。死ぬべき命に立っている人は死ぬべき命しか言わないからです。

 人間の命はなぜあるのか。人間の命は、命を管理するためにあるのです。人間存在の中には地球全体の万物の要素が全部入っているのです。地球にある、あらゆる物質的要素、例えば、鉄も、金も、ダイヤモンドも、動物も植物も、虫けら、黴菌も、あらゆるものが人間の肉体に集約されているのです。

 これは物質的な面だけではなくて、あらゆる生命的存在、心理的存在のすべてが、人間の中にすべて含まれているのです。

 皆様の精神構造の中には、ミミズも、ムカデも、蛇も、ゲジゲジもいるのです。サソリも蝶も、カマキリも蜂もいるのです。だから人を憎んだり、人を刺したりするのです。人にいじわるをしたり、妬んだり、嫉んだりするのです。

 嫁と姑との戦争も起こるのです。蛇とサソリが喧嘩しているようなものです。人間存在は奇妙な存在です。あらゆる物質的要素とあらゆる心理的要素が人間の中に全部含まれているのです。これを管理するのが命の管理です。これを管理するのが人間の目的です。

 聖書に、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」とありますが(創世記1・26)、これが人間の目的になるのです。

 皆様は自分一人が生きていると思ったら大間違いです。自分一人ではありません。人間は万物と一つの状態で存在しているのです。人間がいて、万物があるのではないのです。人間と万物とが一体的な状態で存在しているのです。

 皆様は命は自分のものだという妄念を持ってはならないのです。基本的人権という妄念は最も悪いのです。これは人間は人間として独自に存在しているという考えです。人間は独自に存在しているのではないのです。万物と一緒に存在しているのです。

 そこで人間が良くなるか悪くなるかによって、万物全体が良くなるか悪くなるのかの、非常に大きいポイントになってくるのです。

 皆様は自分の人生があると考えています。この考えが間違っているのです。この間違いは今の学問では分かりません。今の学者が専門学を考えていることが、既に学者ではない証拠です。

 今の医学博士も、工学博士も、経済博士も政治博士も、本当の博士ではありません。現代学はユダヤ人が造った学です。近代学が造られて、これが現代学に進歩しているのですが、これによって世界全体の人間の魂が皆殺しにされているのです。これがユダヤ思想の害悪です。

 悪い文明です。悪い学問です。文明や学問によって、人間は現世で生活していればよい、人間は死ぬものだという考えを人類全体に強制したのです。死なない命を勉強する必要はないと思わせているのです。

 命は自分のものだ。だから生きようと死のうと自分の勝手だと考える。そこで自殺するのです。現代人は命は自分のものだと考えている。この考え方が傲慢そのものです。

 命は皆様のものではありません。命は天のものです。なぜ命は自分のものだと思うのでしょうか。これを人間の底抜けの愚かというのです。これはユダヤ思想です。



ユダヤ人は世界の中心民族


 人間の命は自分のものだと考えるのは、はっきりユダヤ主義です。ユダヤ人は世界の政治、経済のリードをしている、世界の中心民族です。世界の中心民族が身の程知らずの大ばかなことをしているのです。そのために文明が腐っているのです。

 ユダヤ主義が分からない人間が、世の中の指導をすることが間違っているのです。

 命は自分のものではありません。神に貸し与えられているものです。天から貸し与えられているものです。命が自分のものであるという認識は、根本的にユダヤ主義です。

 天の命が人間に貸し与えられている。貸し与えられている命を自分のものだというように考えてしまいますと、背任横領罪になるのです。

 例えば、会社の社長が、株主から預かったお金を自分のものだとして勝手に遊興費に使ったとしたら、はっきり背任横領罪になるのです。今の人間は全員これをしているのです。

 今の人間は自分が生きている、命は自分のものだと考えている。この考え方は天から貸してもらった命を自分のものだと考えて、横領しているのです。これは明らかに背任横領です。

 天は人間の霊魂を信じて、命を貸与している。貸し与えているのです。それを自分の命だと思い込んで、死のうと生きようと自分の勝手だと考えるのです。

 自分が自分の首を吊るのは当たり前だと考えるのです。かつて京都の大本山南禅寺の勝平宗徹管長が首を吊って自殺しました。困ったものです。これははっきり背任横領です。

 自分が生きていると考えただけで、必ず地獄へ行くのです。自分自身の命を管理すると同時に、万物に代わって万物の命を管理する責任があるのです。これが人間の命のあり方です。

 万物の頂点に人間がいますから、人間は万物全体の命を管理しなければならないのです。だから、自分が悟ろうが悟るまいが、五蘊皆空を信じようが信じまいが、神が分かろうと分かるまいと自分の勝手だという考えは通用しないのです。

 皆様の命は皆様の持ち物では絶対ありません。命は自分のものだという考え方は、現代文明の根本的な間違いです。命は天のものです。天然自然のものです。天然自然の本体を神というのです。

 神という絶対人格、宇宙人格から、私たちの人格をお借りしているのです。宇宙人格から人間の人格が出ているのであって、人間の人格はあると思うのは大間違いです。神の人格の反映が人間の人格です。だからそのように考えて生きなければならないのです。

 自分の人格を宇宙構造の実体に従って用いるのは、当然のことです。自殺は明らかに神の命を強奪した考えです。横領しているのです。これに対する神の審判は、最も厳しいことになるのです。人殺し、放火、泥棒よりも、もっとひどいことになるのです。自殺はこういうものであることをよくお考え頂きたいのです。

 今の文化人は根本的に考え違いをしているのです。命の所属が分かっていないからです。命はどこに所属しているのかということを、今の文化人は全然知ろうとしていません。これが文明の根本的な間違いです。

 般若心経には空という字がたくさん出てきます。空とは何か。これが仏教の専門家に分からないのです。今の日本の禅宗は空についての考えが根本的に間違っているのです。

 空が分からないのです。京都の曹洞宗の最も有名な寺に、ある傑僧がいました。この人が空とは要するに空っぽだと言っていました。繰り返し言っていたのです。これは禅坊主の非常に悪い癖です。自分が分からなければ、分からないとはっきり言ったらいいのです。分からないというのは、有名な禅僧の沽券に係わると思ったのでしょう。

 だから空とは空っぽだと盛んに言っていたのです。こういうばかなことをいうのです。

 空は空っぽではありません。空とは無為ということです。無為というのは無が働くのです。為は働くという意味です。為は何もせずに昼寝をしていることではありません。無が働くのです。



無と有


 無が働くとどうなるのかと言いますと、有が発生するのです。無が働くと有が生まれるのです。有の実体は何かと言いますと、有為になるのです。

 無の働きは有を生み、有の働きは死を生むのです。そこで有を生かすためには、有を空じるのです。そうすると有が生きるのです。こういうことが今の仏教界に全然分かっていないのです。

 皆様がこういうことをお聞きになれば、ああそうかとお分かりになるでしょう。皆様は学者や仏教の専門家よりも分かっている証拠です。

 無の働きが有を生むというのは、子供が生まれるのと同じことです。人間は元来無です。生まれたいと思って生まれた人は一人もいません。無から湧いて出たのが人間です。人間のセックスは無の働きです。

 無が働いて有が生まれるのです。そこで有に対する認識が問題になるのです。有を丸呑みしてしまうと有為になるのです。有が働くとそのものは死んでしまうのです。滅になるのです。死というよりは滅と言った方がいいかもしれません。

 有をどのように捉えたらいいのかと言いますと、有を空として捉えるのです。

 実は現世の物理的存在は本当に存在しているものは何もないのです。例えば、皆様の肉体は血液が循環しているだけなのです。あるいは鼻から息を出しているだけなのです。

 呼吸機能、消化吸収機能、排泄機能が肉体になっているのです。機能があるのであって、肉体があるのではないのです。固定したものがあるのではないのです。

 鼻から息を出し入れしていること、血液が循環していることが肉体という格好で現われているのであって、肉体という個物が有るのではないのです。

 だから肉体があるように見えるけれども、実はないのです。空はないように見えるけれども、無の働きとして実はあるのです。空は空っぽとは違うのです。

 説明ができないものがあるのです。人間の常識や理屈だけでは説明できないものがあるのです。これが神です。これはエネルギーと言ってもいいでしょう。エネルギーの本質は今の科学では絶対に分かりません。

 エネルギーの本体は空です。説明ができないのです。しかし、あるのです。あるからこそ生まれるのです。人間の子供だけでなくて、あらゆる生物が生まれてくるのです。ないように見える所から生まれてくるのです。毎年、毎年、全世界の人間が食べるだけの食物ができるのです。これはどこから来るのでしょうか。空から生まれるのです。

 豚は太り、牛も太る。穀物も果物も野菜もできるのです。魚も生まれるのです。世界中の人間が食べる食料ができるのです。これを神というのです。

 地球構造のエネルギーの実質を神というのです。

 有とは何か。有に対する人間の考え方が二通りあるのです。例えば、マルクスは唯物史観を考えた。これは有が存在すると考えからです。

 ところが、有は存在していないのです。物質は存在していない。時間や空間の運動構造があるだけです。物理運動があるだけなのです。

 物質が存在すると考えるマルクスの考えは、根本から間違っているのです。これがユダヤ主義です。カール・マルクスは典型的なユダヤ人です。彼の思想が中国の共産党を造っているのです。

 物質は存在しているけれども、固定的に実在していないのです。存在しているというのは、循環していながら存在しているように見えるのです。形態的にはあるように見えるけれども、実体的には実存しているのではないのです。だから唯物史観という概念は根本から間違っているのです。

 目は見えるのが良いに決まっていますけれど、見えなくてもいいのです。見えればなおいいのですが、見えなくてもいいのです。問題は、自分の命の光をどのようにして掴まえるかということです。これさえ分かりましたら、目が見えなくても大丈夫です。

 人間は体全体で生きているのです。目だけで生きているのではありません。目は体の一つの機能です。いわゆる五官の一つです。

 ところが、体で生きていることが、目で見ていることを意味するのです。イエスは、「目はからだの明かりである。だからあなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう」と言っています(マタイによる福音書6・22)。続いて二十三節では、「しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さはどんなであろう」と言っています。

 人間の目は何を意味するのかということです。人間の目が見えることは、人間が肉体的に生きていることの状態が見えるということです。目が見えるということは、肉体的に生きているという事がらが見えるということです。

 人間の目で見ているのは、物を見ているのではないのです。状態を見ているのです。例えば電車が走っているのを見るとしますと、電車が走っている状態を見ているのです。自分が生きている状態、他人が歩いている状態を見ています。



状態と物


 状態というのは物とは違います。この点が少し難しいのですが、これが理解できるかどうかは、命に係わることですからよく考えて頂きたいのです。

 白内障になっている方は目が見えにくいようですが、目が見えなくなるということは、逆に言いますと、肉体的に生きている事がらが、目以外のあり方で見えたらいいのです。

 肉体的に生きていることが、目なのです。肉体的に生きていることの意味が良く分かりさえすれば、目が見えなくても、命の本性を捉えることは決して難しくないのです。

 目が見えていると、つい自分が物を見ていると思うのです。物を見ていると思っていることが、もう間違っているのです。物を見ているのではない。状態を見ているのです。物が存在するという状態を見ているのです。

 状態というのは物ではありません。物ではなくて霊です。霊というのは英語で言いますと、スピリット(spirit)です。スピリットというのは神が存在していることを指すのです。物が存在するのではなくて、物の状態で神がそこにいるのです。

 椅子とは何かと言いますと、神が椅子という状態で現われているのです。神とは何かと言いますと、目で見えること、耳で聞こえること、手で触る物が皆神です。

 神が天地万物に化けているのです。人間は天地万物の創造者である神を踏んだり蹴ったりして歩いているのです。

 目が見えなくなったら、却って神を蹴飛ばさなくていいかもしれません。皆様の肉体感覚、生きているということが、そのまま神です。肉体的に生きているということが、見ているのです。

 音を聞いてみるのです。匂いを嗅いでみるのです。食べてみる。手で触ってみる。持ってみる。押してみる。皆見ているのです。目が見えたら結構ですが、見えなくても肉体がある以上は、体が生きているということを通して、万事万物を見ることは十分にできるのです。

 目が見えなくても悲観してはいけません。悲観は禁物です。悲観は自分の気持ちを自分で落ち込ませることになるのです。根暗ではなくて、徹底的に根明になるのです。落ち込んではだめです。目が見えなくなっても、耳が聞こえたらいいのです。手で触ったらいいのです。食べてみたらいいのです。食べてみるとか、聞いてみるという言葉が通用するように、人間の全身全霊は悉く見ているのです。

 生きているということは見ていることです。目は体のランプであるという言葉ですが、目というものは、人間の肉体で生きている状態を、目が象徴していると言っているのです。

 人間が肉体的に生きているということが、目で物を見ていることになるのです。目は体のランプであるというのはこれを言っているのです。目があれば目で見たらいいのですが、目がなければ肉体で生きているということで見たらいいのです。

 皆様の魂は命を求めているのです。命を求めているということは、命の本体である神を求めているということです。命の本体は神です。悲観することは絶対に悪いのです。目が見えなくても体で生きていることがある以上は、目の働きをする能力が耳にあるのです。手の指先にあるのです。指先だけでなくて体全体にあるのです。

 食べたら味が分かります。味が分かるということがどういうことかです。

 イエスは目の働きは体のランプだと言っています。内の光が闇ならば、その暗さはどんなであろうと言っているのです。

 内の光とは何かと言いますと、マグロの刺身を食べていながら、味の意味が分からないということです。味とはどういうことか。味わっているとは何をしているのか。これが分からないのです。

 味わっているということは、神を舌で味わっていることなのです。見るというのは神を形で見ているのです。音を聞くというのは、神の実物を耳で聞いていることです。人間の五官が捉えているものはすべて神を捉えているのです。これが人間の霊魂の働きという非常に不思議なところです。

 内の光とは何を意味するのかと言いますと、食べていながら味とはどういうことかを知らずに、ただ食べてああうまかったで終わる。これがいけないのです。自分の舌で味わって、ああうまかったと思うのは、誰が思っているのか。固有名詞の人間が思っているのではない。生きているという事がらが思っているのです。

 まず一番先に考えて頂きたいことは、命は自分のものではないということです。自分が生きているのではないと考えるのです。命は神のものですから、神の命を貸してもらっているということです。だから目が見えないくらいで自分はだめだと思うことは、命に対する軽蔑です。命を自分で蔑んでいるのです。こういう考えは絶対に持ってはいけないのです。

 五官の一つくらいがだめになったからと言って、自分がだめだと考えることは、最も警戒すべきことです。ヘレンケラーという人をご存知でしょう。彼女は二才の時に高熱にかかり、聴力、視力がだめになりました。話すこともできなかったが、指文字で話し、教師になった。だから目が見えなくなったというくらいでは、落ち込まないで頂きたいのです。

 目が見えなくなったというマイナスによって、心の眼が開かれたらいいのです。心の眼をどのように開くかというと、物を味わう時に手で触るのです。石に触るか、鉄に触るか、竹に触るか、綿に触るかによって物が分かるのです。これを心眼というのです。

 生きていることを通して舌で味わう。耳で聞く。手で触る。こういうことができたら、目が見えなくても、目が見える人よりもずっと鋭敏に、敏感に、神の命を掴まえることができるでしょう。

 目が見えて五体満足の人間は、つい生意気になるのです。横暴になるのです。命は自分のものだと考えようとするのです。無茶なことをするのです。目が見えない人は無茶なことはしないのです。だから慎重に生きることができるのです。

 食べるとはどういうことか、聞くとはどういうことか、お互いに握手すると何を感じるのか。相手の魂の命が伝わってくるのです。そのようにお互いに命を相手に伝え、相手の命を自分が感知するのです。

 目が見えなくても、神の命を味わうことは十分にできるのです。心眼を開いてください。目が見えなかったら、心の眼を開いたらいいのです。そうしたら、普通の人よりもっと綿密に神の実体を掴まえることができるのです。

 生きているのは皆様の命ではありません。神の命が宿っているのですから、生きているという状態で神と一緒にいるのです。こういう考えをいつでも持ち続けるのです。そうしたら今までよりも、もっとすばらしい神の命を経験することができるのです。

 般若心経は人間が肉体的に生きていることについて、考え違いをしていることを鋭く指摘しているのです。自分が生きているとか、自分の肉体があるということ、すべての物が存在していると考えている。これが間違っているのです。自分の目で見ているものがそのままあると考えている。

 目で見ているものはすべて存在しているが、実在していないのです。ここの所が少し難しいのです。実存というのは、本当に実際的に目で見ているものがあると考えるのです。存在というのは、時間空間の原則に従って、その物がそこにあるということです。

 時間空間というのは何か。時間が流れているように、物質も流れ動いているのです。物理現象というのは物理運動の根本が存在しているということです。物質が存在しているのではないのです。物体があるのではないのです。

 これが人間の考え違いでありまして、目で見ているというのは瞬間、瞬間目で見ているのです。瞬間見ているという意味で考えると、いつでもあるように見えるのです。瞬間がずっと続いているから、いつでもあるように見えるのです。

 日本人の共通の欠点として言えることは、自分の常識を信じ込んでいるということです。これが人間が死んでしまう原因になるのです。

 般若心経は人間の常識は五蘊であるから、常識を信じてはいけない。五蘊皆空と言っているのです。般若心経は現在の人間を叱っているのです。皆様は般若心経に叱られているという気持ちで、ごく謙遜な気持ちで読んでください。そうすると、般若心経から命の光を受け取ることができるでしょう。



般若心経は宗教書ではない


 般若心経は宗教書ではありません。人間が現世に生きていることの見方、人間の正当な認識のしかた、悟りのしかたを述べているのです。

 現世に生きている人間を正しく見ていきますと、一切空になるのです。肉体的に生きているということは、生きていると思っているだけです。目で見ているものがあると思っている。自分の思いがそのまま皆様の命になっているのです。これは生きているのではなくて、迷っているのです。このままでこの世を去ってしまえば、お先まっ暗です。

 自分の常識を信じていること、自分の考えている人生があると思うことは大間違いです。皆様の人生があるのではない。生かされているということが、皆様という格好で存在しているだけです。

 自分が生きているのではない。生かされているという事がらが、自分という格好であるのです。生きているというその事がらは何か。これを神というのです。

 皆様の心臓が動いている事がら、目が見えるという事がら、耳が聞こえるという事がら、人間の五官の働きはそのまま命の働きであって、命の働きというのは神の働きです。

 命は物理的に働く事がらと、心理的に働く事がらと両方あるのです。皆様の目が見えるということ、耳が聞こえるということが、そのまま心理機能になるのです。

 皆様は現在生きていますから、その命を勉強して頂きたいのです。これが聖書です。

 般若心経で肉体的に生きていることが空だと悟ることです。人間の常識が間違っていることを知ることです。人間の常識が間違っていることを五蘊皆空というのです。人間の常識が間違っていることを悟る。これが般若心経です。

 自分の目が見えるのはどういうことか、心臓が動いていることがどういうことか。神の命が皆様に宿っていることであって、この命の実質を知ることが聖書です。

 常識が間違っているということと、命の実質を見ることの二つがあるのです。命の実質を見ることが救いになるのです。自分の考えが間違っていることを知ることは悟りになるのです。般若心経は悟り、聖書は救いを説いているのです。

 般若心経は消極的に皆様を叱っている。聖書は皆様を積極的に救うのです。この両方を勉強しなかったらだめです。日本人は両方共していませんから地獄行きです。文明のために日本人はこうなったのです。教育のせいです。

 これからますます世の中が悪くなるのです。やがて世界の文明は潰れてしまうのです。

 世間の人はそうなるのもしかたがないのですが、せめて皆様だけでも本当のことを掴まえて頂きたいのです。生きている命を本当に掴まえたら死ななくなるのです。

 イエス・キリストは十字架につけられて殺されたけれども、イエスが生きていた状態が死ぬべき状態ではなかったために、生き返ったのです。復活したのです。イエスははっきり死を破ったのです。

 イエスの最も分かりよい心境は、「自分が生きているのでは無い。生きているということが神だ」と分かっていたことです。神という事がらを生きていたのです。だから死ななかったのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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