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死なない命を見つけることが人間完成である




 私たちは生きているうちに何かしなければならないと思っています。幸せになりたいと考えたり、自由になりたいという考えもあるのです。死にたくないという考えもあるのです。

 何かしなければならないという気持ちが誰にでもあるのです。しかし、これが何か分からないのです。

 何となく五十年、六十年生きてしまうのです。そうしていよいよ死ななければならない時になってから、何か大切なことを忘れているらしいということに気が付くのですが、その時はもう遅いのです。

 交通事故等で突然死なねばならなくなった人は別ですが、七十歳、八十歳になって、病気や老化現象によってこの世を去らねばならなくなるような場合には、何かしなければならないことを、結局することができなかったという悔恨の念が、胸にいっぱい広がってくるに決まっているのです。

 日本人はこういうことについて、欧米人よりも強く感じるようです。ところが、最近の日本人は全くだめです。いわゆる経済大国になってからの日本人は全くだめです。生活のことしか考えないという非常に悪い点が、最近の日本人にはよく出ているのです。日本人の非常に悪い点が拡大されてきたのです。

 日本人の良いところはお茶を勉強したり、ごく簡素な茶室を建てて楽しんでみたり、また、そういう簡素な生活を喜んできたという点です。

 何のためにお茶を学びたくなるのか。何のために茶室のような家を建てるのか。いわゆる竹の柱に萱の屋根といった簡素な家を、なぜ好むのか。

 日本人は自然に帰るような生活を、心で喜ぶようなところがあるのですが、その意味が分かっていないのです。女性の場合にはお茶を習うことが、嫁入り道具の一つになるという考えでいることが世間並のようですけれど、日本民族にお茶という習性が結びついたのは、日本人が持つ天性的な良さによるのであろうと思われるのです。

 仏教でも禅のやり方がお茶とよく似ているのです。こういう考え方が昔の日本にはあったのですが、今はその精神が全く没却されてしまったのです。形だけは残っていますが、その精神は全く消えてしまっているのです。

 般若心経についても同じことが言えるのです。般若心経に親しんでいる日本人は非常に多いのです。一千万人はいると思われます。

 これは日本の仏教のある特徴ではないかと言えるのです。ビルマやタイは仏教国ですけれど、日本のように般若心経を勉強するとか、法華経を勉強するとかいうことはほとんどしていません。

 日本の仏教は一応経典に親しむという真面目な態度があるのですが、これが日本民族の特徴だと言えるのです。

 般若心経だけを取り上げますと、なぜ親しみを感じるのかということです。皆様の中にも般若心経を唱えたり、写経をなさっている方がいると思いますが、般若心経を唱えたり、写経をすることに何となく興味を感じるのです。むしろ郷愁のようなものを感じるのですが、これは何かということです。

 これが私が申し上げたい宗教ではない般若心経と聖書です。般若心経が言いたいところは、般若波羅蜜多ということです。その上に摩訶という字を付けています。真言宗では摩訶という字を付けないようです。

 摩訶般若波羅蜜多心経という言葉の中に、般若心経の良さが現われているのです。摩訶というのは不思議とか、偉大、高遠、高大、非常に優れているという意味があるのです。

 人間の常識では分からないものであるということが摩訶です。般若というのは知恵です。普通の知恵ではなくて上智をいうのです。上等の知恵であって、常識で分からないこと、人間の本質を私たちに知らせてくれるのです。

 これは誰にでもあるのです。皆様の気持ちの中に、上智が自然に備わっているのです。この上智が分かれば、人間は彼岸へ行けるのです。

般若波羅蜜多

 彼岸へ行くのです。般若波羅蜜多とありますが、波羅というのは向こう岸です。蜜多というのは行ったこと、到ったことです。向こう岸へ渡ってしまえる上智を、人間は自ら持っているのです。

 これが分かりますと、人間は死ななくてもよくなるのです。死なない自分を発見することができるのです。私は死なない自分を発見する新しい世界の創建を皆様に訴えているのです。

 これは宗教の話ではありません。仮に皆様が死なない命を発見したとしても、私にとって三文の得がある訳ではありません。得をするのは皆様だけです。もし発見できなかったら、損をするのは皆様です。

 皆様はこのまま放っておけば死んでしまうに決まっているのです。今までのような常識一辺倒で、世間並の人間の考えで生きていたら、必ず死ぬに決まっているのです。

 死んでしまうと皆様の何十年間の人生は、全く無駄になります。無駄になるだけならよいのですが、何十年間かの人生を無駄に過ごしてきた責任をしっかり取らされるのです。そうなるに決まっているのです。

 このことは皆様の理性と良心とが知っているのです。日本人は何となくこのことを感じているのです。天性的にこのことを感じているので、般若心経に何となく愛着を感じるのです。郷愁のようなもの、同感のようなものを感じる。そこで、般若心経を愛することになるのです。

 これは日本人の優れた所だと思います。白人社会ではこういう感覚はありません。白人社会にキリスト教はありますが、そのキリスト教は本当の聖書を見ていないのです。白人主義的な世界観で聖書を読んでいるのです。これがキリスト教です。

 聖書は本来宗教ではありません。般若心経も宗教ではありませんが、聖書は全く宗教ではありません。これを白人流の世界観で考えますと、キリスト教になってしまうのです。

 日本的な物の考え方、つまり茶を好む、禅を好むという日本人の先天的な世界観で聖書を見ますと、キリスト教ではない聖書がはっきり見えてくるのです。

 日本にもキリスト教の看板を掛けているキリスト教がたくさんあります。これは皆西洋の宗教の焼き直しです。

 ところが、本当の聖書はキリスト教とは何の関係もないのです。キリスト教の人たちが、聖書を宗教に利用しているだけのことです。

 聖書にははっきり死なない命があるのです。これを見つけたらいいのです。

 今の人間は皆死なねばならないものだと思い込んでいるのです。現在の人間は死なねばならないのです。考え方が間違っているから死なねばならないのです。

 自分の命に対する考え方が、全く間違ってしまっている。だから死んでいくことになるのです。ところが、皆様の心の中には死にたくないという先天的な願いがはっきりあるのです。死にたくないという気持ちが、誰にでもあるに決まっているのです。これが魂の本性です。魂の本当の声です。

 魂の本当の声が、日本人には何となく分かるのです。現在、常識的に生きている生き方が間違っていることを、それとなく日本人は知っているのです。日本文化にはそういう伝統があるのです。

 例えば、日本の平安時代の王朝文化に、無常観がしきりに出ているのです。諸行無常がしきりに言われているのです。

 小野小町の百人一首の歌にも無常観がよく出ているのです。「花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」と詠んでいます。また、「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほいける」という紀貫之の歌にも、無常観が出ているのです。

 百人一首は無常観と恋愛の純粋さが中心になっています。無常観というのは、人間が現在生きている命は仮の命であるということから出てくるのです。

 皆様が現在生活しているのは、仮の命です。死ぬに決まっている命です。仮の命で生きている間に、本当の命を見つけさえすれば、その人は死ななくなる。死ななくなるどころか、非常に大きい人間の命の値打ちを知ることができるのです。

 人間の本当の命が始まるのは、この世を去ってからです。皆様が現在この世に生きているのは、テストケースでありまして、試験的に生きているのです。本当の命、本番の命は何か。現世に生きている間に何を勉強したのか、命とは何かをしっかり勉強して、自分自身の本質を悟ると同時に、この世を去ったらどうなるかを見極めるために生きているのです。

 ところが、最近の日本人はこの世に生きていることが本番だと思い込んでいるのです。王朝時代のような無常観がほとんどないのです。

 日本人には伝統的な良さがあるのであって、何となく空を愛しているのです。無を愛しているのです。

 般若心経は全体で二百七十六文字ですが、その中に空とか無という文字は三十五、六字あります。全体の一割以上が、空とか無という字になっているのです。

 般若心経は一切空を言いたいのです。人間が現世に生きていることが空であると言いたいのです。これが日本人は好きなのです。ここに日本的な良さがあるのです。この良さをうまく活用すれば本当の聖書が分かるのです。

 聖書は何を説いているのか。死んでから天国へ行くことを説いていません。キリスト教では、人間は死んでから天国へ行けるという嘘を言っているのです。これは真っ赤な嘘です。死んでから天国へ行くと聖書に書いていないのに、死んでから天国へ行くとキリスト教が言っているのです。これは大嘘です。

 天国へは行けるのですが、これは生きているうちに行くのです。イエスは「父の御心を行うものは天国へ入る」と言っているのです(マタイによる福音書7・21)。生きているうちに入ることを言っているのです。

 「新に生まれて神の国へ入れ」とイエスが言っています(同3・5)。これも目の黒いうちに神の国に入れと言っているのです。死んでから天国へ行くというばかな言い方は、本当の聖書が分からないから、そういう言い方をしているのです。

 キリスト教は死んでからと言ってごまかしているのです。目の黒いうちに本当に神の国に入るという方法を教えることができないのです。目の黒いうちに死なない命を見つけることができないのです。そこで、死んでからと言ってごまかしているのです。

 死んでから天国へ入れるという言い方をしておかなかったら、キリスト教は商売にはならないのです。実は皆様が今生きておられる命、即ち現生が永生なのです。とこしえの命なのです。

 現在生きている生き方が、永遠に生きる生き方になるのです。これを見つけたらいいのです。イエスはこれを見つけたのです。

 イエスは現世に生きていながら、永遠に死なない生き方を見つけたのです。だから、イエスは死を破って復活したのです。

 日曜日はイエスの復活の記念日です。イエスが死を破った記念日です。そのように、死は破ることはできるのです。死なねばならないことはありません。このことを皆様にお話ししたいのです。

 現在までの日本人の生活の仕方が間違っているのです。物の考え方が間違っているのです。世界観が間違っているので、価値観が間違っているのです。何のために生きているかは価値観の問題です。

 どのように生きるべきかは世界観の問題です。何のために生きるべきかは価値観のテーマです。世界観や価値観がはっきりしたら、皆様は自分の命の本質が何であるかが分かるのです。

 これは宗教の話ではありません。本当のことです。皆様が生きているのは、本当に生きているのです。本当に生きているが、命の実質を掴まえることができないような、下手な生き方をしているのです。生き方が下手であるために、本当の命を掴まえることができないので、生きている本当の喜びが分からないのです。

 これはもったいないことです。せっかくこの世に生きていながら、本当の命を掴まえそこなっているのです。太陽の光を見ていながら、太陽の光の意味がよく分かっていないのです。実にもったいないことをしているのです。

 人間はこの世に六十年、七十年生きていたら、永遠の命が分かって当たり前です。一年は三百六十五日あります。十年では三千六百五十日もありますから、何回も太陽が出たり入ったりをご覧になっているのですが、それが分からない。だから、その責任を取らされるのです。

 現在の日本人は生活のこと、家庭のこと、経済のこと、自分の健康のことばかりを考えているのです。こればかりをしていると、最後にひどい目に会うのです。

いろは歌

 人間は誰でも永遠の生命を見つけるだけの実力をはっきり持っているのです。特に日本人は現世の人間の生き方が何となく間違っていることを知っているのです。

 例えば、日本語の原典になっているいろは歌がありますが、これを読んだらすぐに分かるのです。

 

 色は匂へど 散りぬるを

 我が世誰ぞ 常ならむ

 有為の奥山 今日越えて

 浅き夢見し 酔いもせず

 

 この意味は、どんなに美しい花でも、必ず散ってしまう。

 この世の中に、ずっと同じ姿で存在し続けるものは、ありえない。

 現世の人間の常識、知識で生きている人は、必ず死んでしまうから、そういう世界から今日出てしまう。必ず死ぬ人間を今日乗り越えてしまわなければならない。

 現世に人間が生きていることは夢物語りである。そんな夢みたいな人生、現世の人間の考え方にいつまでも酔っぱらっていられようか。

 これはすばらしい歌です。日本語の原典にすばらしい無常観が入り込んでいるのです。そこで、日本人は何となく現世でただ生きているだけではいけないことが分かるのです。

 白人にはこれが分からないのです。白人にはこれが分からないから、茶道の良さ、茶室の良さ、禅の良さが分からないのです。この頃はお茶や禅をしている欧米人がいますが、これは日本人の真似をしているだけであって、心の底から分かっているのではないのです。

 日本人にはいろは歌のような世界観が伝統的にあるのであって、この民族の優秀性を上手に活用すれば、皆様は永遠の生命が良く分かるはずです。

 ところが、この頃の日本人は、命の問題を真面目に考えることが下手です。それをすることを嫌がるのです。

 でたらめな宗教に勧められて入信したり、目に見える幸福を求めることには熱心ですけれど、永遠の幸福、本当のしあわせとは何であるか、本当の命は何であるかを知ろうとする人は、めったにいないのです。

 日本人は、聖書は西欧の宗教、仏典は東洋の宗教で全く関係がないと思っていますが、実はこれは一つのものなのです。聖書の真髄と、仏典の真髄を一つにして勉強することは、今までの日本にはなかったことです。これは誰でもできることですが、した人がいなかったのです。

 もう亡くなられましたが、妙心寺の管長の山田無文さんが、イエス様、イエス様と言っていました。悟ってもイエス様のようにならなければいけないと言っていましたが、イエス様がいけないのです。

 イエスは大工の青年ですが、この人のどこが良かったのか。大工の青年が死を破ったのですが、どうして死を破ったのかということです。

 これは宗教ではない当たり前のことです。当たり前のことを当たり前のように勉強すれば分かるのです。キリスト教の色めがねで聖書を読んでいるから、さっぱり分からないのです。

 皆様は日本人の本来の良さに帰って、般若心経の空を勉強して頂きたいのです。

 般若心経に五蘊皆空とありますが、人間の思い、考えは皆間違っていると言っているのです。人間の思いとは、現在生活している人間の思いです。これは皆間違っているのです。

 ところが、五蘊皆空という言葉が日本人は好きなのです。好きですけれど実行しないのです。実行しないけれど好きだという変なことになっているのです。なぜこうなっているのかということです。

 まず般若波羅蜜多です。彼岸即ち向こう岸へ渡る知恵がいりますが、これが皆様方の中にあるのです。向こう岸へ渡る本当の知恵が少しでも見つけられたら幸いです。

 聖書には旧約聖書と新約聖書があります。旧約聖書はユダヤ民族の伝統でありまして、ユダヤの預言者たちとか、王であるダビデが書いたものです。旧約聖書の筆者は二十人位いると思います。

 新約聖書の筆者は七、八人位です。新約聖書の中で一番たくさん書いているのはパウロです。イエスの弟子のヨハネ、ペテロも書いています。弟子たちが語ったことを医者のルカが、ルカによる福音書を書いています。使徒行伝も医者のルカが書いたのです。

 新約聖書はイエスの弟子とパウロが書いています。旧約聖書はユダヤの預言者が書いたのです。ただ一つ妙なことがあるのです。

 大体、三十人くらいの筆者が聖書の色々な部分を書いていますが、きちっと一つのことを言い当てているのです。旧約聖書のどこを読んでも、新約聖書のどこかにきちっと合うのです。

 そうして、誠の命、神を信じる信じ方、命に関すること、死に関すること、重大な価値観や世界観について全く同じ意見になっているのです。

 書いたのは人間ですが、その人たちが一つの神の霊によって導かれていたということが言えるのです。そこで、命に関する同じ思想を持つことができたのです。聖書の直接の著者は色々な人間ですが、間接の著者は神自身です。神の御霊が、ある人を通して書かせているのです。

 私は今皆様に話していますが、これは私の思想ではありません。私の命の思想です。私の命の実質の思想です。私の命の叫びであって、私という人間の思想ではありません。

 命の実質は神そのものです。皆様の心臓が動いていることが神です。皆様が椅子に座っている姿が、そのまま神の姿です。神が皆様という格好で椅子に腰を掛けているのです。

 皆様がこの世に生まれてからの後天的な思いを捨ててしまえば、生きているという姿が、神の姿になるのです。五蘊皆空、色即是空という言葉があるように、人間の思いを捨ててしまえば、皆様が生きているという事実は、そのまま神が生きている姿になっているのです。

 そこで人間が真心を持って書けば、神が書いたのと同じになるのです。

 病気とは何か。なぜ人間は病気になるのか。人間は本当は病気になるものではありません。人間の考え方が間違っているために、考え方が人間の肉体に響いてくるのです。

 魂というのは命の本質が肉体的に存在することをいうのです。人間存在というものには、精神の面と肉体の面があるのです。これが一つになっているのです。

 精神の面がそのまま肉体に影響するのです。また、肉体の面が精神にも影響するのです。これが病気の原因です。

 病気は恐ろしいものではないのです。人間の考え方の間違い、生活の仕方の間違いを知らせてくれるのです。だから、有難いものと考えたらいいのです。

 病気は死ぬのではなくて、自分の考え方、生活の仕方をチェックしてくれるのです。注意してくれるのです。だから、病気になったら、せいぜい病気が何を言っているかを聞いたらいいのです。そうしたら、精神的な間違い、肉体的な間違いが分かってくるのです。

 日本の医学が研究しているのは肉体一辺倒ですけれど、いわゆる医学的な面からだけしか病気を考えないのですが、本当の人間存在は魂そのものです。

 心と肉体は一つのものですから、病気を上手に利用すれば幸福の基になるのです。悲観しないで楽観的に病気を扱ったらいいのです。

民主主義と人権

 現在の若い人たちは民主主義を人権的にしか解釈していない面があるのです。これは日本の教育の間違いです。

 文部大臣とか総理大臣が人生を知らないのです。民主主義というのは人権という面ばかりを強調しすぎると、欠点が露骨に現われるのです。これが最近の若い人に現われているのです。

 中学生が先生を殴るという騒ぎが起こっているのです。注意したら注意しただけ反抗するのです。なぜこういうことになるのかと言いますと、先生が人権という面だけを教えすぎたからです。

 人間は平等だから、先輩も後輩もないと教えられて、年配者を敬う気持ちがなくなってしまったのです。生徒に自由勝手主義の気持ちが入り込みすぎたのです。

 現在の日本で教えている基本的人権という考え方は、間違っているのです。これはフランス革命とか、アメリカの独立等で、いわゆる近世社会に人権主義的な理想が頭をもたげてきた。白人文明の悪さの一つが、民主主義、人権という思想になって、日本に流れ込んできたのです。

 人間には生活する権利とか、尊んでもらう権利とか、認めてもらう権利は最初からないのです。

 人間は自分が生まれたいと思って生まれたのではありません。宇宙の必然性に基づいて生まれたのです。従って、基本的という言葉を用いるとしたら、宇宙的な意味における生命の実質を、まず考えなければならないはずです。

 基本的人権ということが言いたければ、基本的義務、または基本的責任を並行的に考えるべきです。権利の面だけを説けば、必ず弊害が起きるのです。権利の面を説くと同時に、義務の面をも強調しなければならないのです。

 今の日本の教育はそれを実行していません。ところが、太平洋戦争以前の軍国主義的欽定憲法の時代には、権利を一切言わずに、義務の面だけを主張しすぎたのです。そこで弊害が起きたのです。

 教育勅語を見て頂きたい。義務の面ばかりを並べているのです。権利は一つもありません。これは行き過ぎたのです。行き過ぎが太平洋戦争になって現われたのです。

 戦後はそれを全部裏返したために、権利の面ばかりになってしまった。これが人間というものです。

 政治家は冷静に全体的な立場から物事を見ることはできないのです。頭が円満に働く人は政治家にはならないのです。偏った考えをした人ばかりが政治家になっているのです。だから、何億円もお金を使って政治家になりたがるのです。人間社会というのはこういうものなのです。

 命を知らない人間が社会のリーダーシップを取っているから、こういうことになるのです。若い人たちだけが悪いのではありません。戦後の日本の体質を、指導者は考えなければならないのです。

 何のために日本という国があるのか。これが政治家に全然分かっていないのです。国家目的が全然考えられていないのです。日本の国会でも、国家目的が議論されたことが一度もないのです。税金の問題、年金の問題、社会保障の問題、国防の問題、日本経済の問題等をいつも議論していますけれど、国家目的という一番重大なことについて、はっきりした見解を持っている政治家がいないのです。

 政(まつりごと)というのは国民の生活の世話をすることです。生活の世話というのは何のためにするのか。政というのは人間の営みを祭るということです。まつらうということです。お互いにまつりあうのです。お互いに尊敬しあうことです。

 お互いに他人の人格を認めあって、世の中を円満に送ることがまつりあいです。

 もう一つは命の本質をまつることです。神をまつるという考え方と、人間の魂をまつるという考え方とがあるのです。命の本質に係わることがまつるという言葉になって現われているのです。

 価値観の面と世界観の面と両方あるのですが、とにかくまつりごとというのは、人間の精神生活の根本を取り扱うだけの認識がいるのです。

 現在の政治家は政を考えていないのです。ただ政治をすることだけを考えているのです。だから、教育の混乱、家庭の混乱、社会の荒廃になってしまったのです。

 こういうことをよく考えて、まず皆様自身がまつるという気持ちを持って、本当の政であるような生活に立ち返って頂きたいのです。

 現世でただ生活することだけでなくて、自分の命を考えて頂きたいのです。これが政です。命の本質を考えることです。こういう考えをお持ちになれば、皆様の子供さんにも必ず良い影響があると思うのです。

 今の若い人の生き方は、生活でさえもないのです。自我意識だけで生きているのです。自我意識を生活しているのです。本当の生活になっていないのです。

 世界中の人々が本当の命を知ったらどうなるのか。これは本当に結構な世の中になるのです。現在の社会状勢とは全然違った世の中が現われるのです。

 皆様の本心は何を願っているのか。例えば、病気がない世の中であればいいとか、犯罪がない世の中になればいいとか、地震、台風、洪水、津波という自然災害がない世界になればいい、若い人が年配者を敬う社会になればいいと思っています。こういう基本的な願いが誰にでもあるのです。

 この人間の基本的な願いはどこから来たのか。この世の中の流れは我々が好むと好まざるとに係わらず、神によって動いているのです。一人ひとりの人間が生きていることが神であるように、世の中全体が流れていることが、大きい意味での神です。

 犯罪があるということ、病気があるということが、現在の人間の本性をそのまま暴露しているのです。なぜ病気があるのか。人間の考えが間違っているから病気があるのです。

カルマ

 このことを聖書的に申しますと、原罪になるのです。仏教ではこれをカルマと言います。今の人間はカルマで生きているのです。人間が生きていることが業(ごう)です。この世に生まれてきたことが業です。

 皆様が生活において暑さ寒さをしのいでいかなければならないことが業です。嫌なことを聞いたり、見ていかなければならないことも業です。

 人間に業があること、業があるために社会が円満にいかないのです。犯罪がある、戦争がある、地震がある、台風がある、疫病があるということが皆人間の業です。

 現在の地球には地球の業があるのです。現在の人間も完全なものではないのです。業を背負って生きている人間は不完全な人間です。

 今皆様は自分自身を完成するために生きているのです。自分自身を完成することが生きている目的です。自分を完成するとはどうするのかと言いますと、死なない自分を発見することです。

 死なない自分を発見することが自己完成です。これが人間完成です。こういう人が沢山現われますと、全世界に人間の理想が実現するのです。犯罪のない社会が実現します。

 そんなことがあり得るのかと言われますが、これは必ず実現します。絶対に実現します。私はそうなると断言いたします。すぐに実現するのではありませんけれど、必ず実現するのです。現在の文明が崩壊する危険性が迫っています。政治的にも経済的にも危険千万の状態にさしかかっているのです。

 一時的には国際間の申し合わせによって平和な状態になるでしょう。この時が過ぎますと、世界の文明全体が大崩壊するのです。大混乱に陥るのです。

 その後に本当の平和が地球にやってくるのです。その直前に文明が大混乱するのです。現在の状態から一足飛びにそういう状態になるのは無理ですけれど、そういう世界が実現することを人間が願っているのは事実です。

 人間が心の底で願っていることは病気がない世界、犯罪がない世界です。これは人間自身の魂が、深く、深く願っていることなのです。これが人間の魂に刻み込まれた本願です。人間の本願、本望は、知らず知らずのうちに神の国が現われることを願っているのです。

 仏教でいう本願は、死んでから十億土の彼方の極楽浄土に行くことになるのですけれど、聖書が言っている本願、本望はそんなものではないのです。地球に現実的に絶対平和が実現することを指しているのです。

 神による支配が実現するのです。神による支配と言いましても、宗教が言っている神ではありません。宗教も道徳も消えてしまうのです。学問も思想も全部消えてしまうのです。

 人間の命が光になる社会が実現します。命の本質が光になる社会がやってきます。人間の命の本性がそのまま教育の原理になるのです。これを神の国というのです。

 皆様が生きている命の本性、本質、般若波羅蜜多の本物が、そのまま教育の原理になるのです。皆様の家庭生活の原理が切り替わってしまう時が、必ず実現するのです。

 それまでに、現在の地球は大混乱になる運命にあるのです。人間が生きていることがカルマですからそうなるのです。

 すべての人間は原罪によって生きています。原罪というのは自我意識のことです。皆様は自分で生まれたのではありません。ところが、自我という気持ちがあるのです。自分が損をする、自分が得をするとばかり考えているのです。自分の気持ちが第一になっているのです。これが皆様の人生観が根本から間違っている証拠です。

 皆様は自分の意志で生まれたのではありません。自分の意志で生まれたのではないにも係わらず、自分の意志で生きています。これが原罪です。

 自分の意志で生まれたのではないのに、自分の意志で生きている。これをおかしいとは思いませんか。皆様は命を自分のものだと思い込んでいるでしょう。これが根本的な間違いです。

 命を皆様自身が造ったのではありません。自分の理性や自分の能力を自分で造った覚えがあるのでしょうか。

 人生は与件です。与件というのは与えられた条件です。自分が人生を造ったのではないのです。これは当然の話です。私の意見ではありません。人生の本質は与件です。

 皆様は自分で生まれたのではありません。皆様の目が見えるのは、自分自身の力ではないのです。それを自分で生きていると思っているのです。考え方のスケールが小さいのです。考え方が狭いのです。

 もっと大きい考えを持てば、もっと幸福になれるのです。本当の幸福を得ることは、現在の社会からはできないのです。今の人間は未完成の人間です。未完成の人間ですから、半人前の人間です。人間の幼虫です。昆虫に例えると芋虫か青虫です。芋虫や青虫が、自分は一人前だと思ったらおかしいのです。

 芋虫は蝶にならなければいけないのです。蝶になるとすばらしいのです。空を飛べるからです。人間も空を飛べるくらいに魂を完成しなければいけないのです。

 自分を完成するのです。これが人間の責任です。これは極楽へ行くことではない。死なない自分を見つけることが、自己完成です。

 死なない自分を見つける新しい世界観を考えるという勇気を持って頂きたいのです。今の状態を基準にして考えないで、皆様の理想を基準に考えて頂きたいのです。ここに本当の進歩があるのです。本当の完成があるのです。

 空というのはとても重大なことです。空には両方の面があるのです。消極的な空と積極的な空があるのです。私たちが生きていることが本質的に虚しいのです。これが消極的な空です。

 なぜ虚しいのかと言いますと、現在の皆様は死ぬに決まっているからです。肉体は消耗品です。新陳代謝をする消耗品でありまして、これは脱がねばならないに決まっているのです。

 現在人間が生きているのは、夢幻の世界に生きているようなものでありまして、生きているのではなくて眠っているのです。だから、何が善であるか、何が悪であるかよく分からないのです。空と言っても何かさっぱり分からないのです。

 命とは何かという本質的な事については、皆目分からないままで生きているのです。これは夢幻の世界を生きていることになるのです。

 だから、般若心経は五蘊皆空と言っているのです。夢幻の常識の世界で生きていることは、人間の思いが皆間違っていることになるのです。

 釈尊はこのことに気が付いたのです。五蘊皆空に気が付いたのです。ところが、今生きている人間の命の本質は何かを釈尊は説明しなかったのです。説明はできたかもしれないのですが、はっきり説明する段階ではなかったのでしょう。

 これはキリストが生まれる五百年ほど前の話ですから、話をしなかったのでしょう。イエス・キリストが命についてはっきり述べているのです。永遠の生命の実体をはっきり示したのです。新約聖書が言っているのは命についてです。命の本質はこれだと言っているのです。

 命というのは人間が生きていることの中にあるのです。それが人の光です。命は人の光です。人間が生きていることの中に光があるのです。これを掴まえた者は、誠の命を掴まえることができるのです。

 これを仏教的に言いますと、命のことを無量寿如来と言っています。帰命無量寿如来というお経がありますように、無量寿如来に帰命するのです。知恵を無量光如来と言っています。

 聖書もこれと同じように、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」と言っているのです(ヨハネによる福音書1・4)。

 そのように、人間はまだ自分の命を通して光を掴まえていないのです。命に対する見方が間違っているから、光が掴まえられないのです。

 皆様は毎日太陽の光を見ています。日当たりの良い所と日が当たらない所では、全然感じが違います。どのように感じが違うのか。これを皆様は経験しているのです。

 日向ぼっこをしている時と、日陰の生活をしているのとでは、確かに違います。日の当たる場所という言葉がありますように、とにかく日当たりと日陰とでは全然違います。どう違うかが分かれば、皆様は自分の命が分かるのです。

 何でもないことです。難しいことではないのです。しかし、常識を持ったままでは分からないのです。皆様の常識は五蘊です。これを空じてしまわなければいけないのです。

 常識を捨ててしまわなければ、日向の様子が分かりません。常識を捨ててしまえば、日向の本当の意味が分かるのです。

 空というのは人間の常識は虚しいものだと言っているのです。これが消極的な空です。

 積極的な空というのは無為です。無為とはどういうことか。これは何もしなくてぽかんとしていることかと言いますと、そうではないのです。

 老子が言った無為というのは、ぽかんとしていることではないのです。無が働くという意味です。無が何かを成しているのです。

 皆様はこの世に生まれて、そして、暮らしていたのです。しかし、元を尋ねてみると、皆様という人間はいなかったのです。無だったのです。皆様自身は無であったのです。

因縁

 ところが今、人間として生きているのです。これを無の働きというのです。何もなかった人間が、今日人間として生きているということは、何もなかったという事がらの中に、何か働いているものがあったのです。何か働いている力があったのです。これを仏法では因縁と言っています。因縁が働いて、人間が生まれたと考えるのです。

 それでは因縁とはどういうことか。仏教では返事ができないのです。因縁は因縁だと言います。仏様の因縁だと言います。仏様とはどういうお方か。いつ生まれたのか。仏教では分からないのです。

 仏教には因縁という言葉はありますけれど、因縁の本体は何か、皆様にこの世に生まれてきた原因を正確に説明することができないのです。仏教には造り主がいないのですから、分からないのです。人間を造った造り主がいないのですから、説明のしようがないのです。

 これは仏法が悪いのではありません。仏教は因縁を教えてくれるのですが、命を教える立場には立っていないのです。これは良いとか悪いという問題ではありません。私は仏教がだめだと言っているのではありません。

 宗教はだめだと言っているのです。宗教は仏教もキリスト教も、イスラム教もユダヤ教も皆人間が考え出した理屈です。

 釈尊の悟りは仏教ではないのです。ここが難しいところです。日本の仏教界には、本当の釈尊の悟りを説明できるお坊さんがいないのです。

 釈尊はどうして悟ったのか。釈尊の悟りの実体が説明できるお坊さんはいないのです。釈尊は人間が生きていることは虚しいと言ったのです。これには間違いがないのです。

 しかし命の説明ができていないのです。だから般若心経だけではとこしえの命が分からないのです。そこで般若心経と聖書の勉強をしなければならないのです。

 無為というのは何もないことです。人間どころか、地球もなかったのです。地球がなかったのに地球ができたのです。地球が存在しているということは、無の力が働いているからです。これは老子の哲学です。

 これは非常に大きい哲学ですが、それでは老子は無が働いていると言いますが、何に基づいて無が働いているのか。無が働く以上は、働くだけのルールがなければならないのですが、無が働いているのはどのようなルールによるのかと言いますと、老子はもう説明ができないのです。そこでどうしても聖書を見なければならないのです。

 老子が悪いのでもないし、釈尊が悪いのでもない。釈尊は釈尊だけのものです。老子は老子だけのものです。彼らは神の実物を掴んでいなかったのです。これはキリスト以前、五百年前のことでしたからやむを得なかったのです。

 今はキリストがありますから、だから命が説明できるのです。老子が分からなかったこと、釈尊が分からなかったことが、私が説明できるのです。これは当たり前のことです。私が偉いのではありません。当たり前のことを言っているのです。

 キリスト教はこういうことを説明できないのです。まともに聖書の勉強をしていないからです。

 皆様がこの世に生まれたということは、無の働きです。これを空というのです。無が働いていることを空というのです。無形の力、無形の原因が有形の状態を描き出すのです。これを空というのです。

 無形の原因が有形の姿を描き出している。これが天地万物の姿です。これが空です。空が分かると、初めて皆様は安心して生きていられるのです。

 皆様は自分の心臓が動いていることの原理がはっきり分かるのです。ああこういう原理で動いているのかということが、はっきり分かるのです。だから、心臓が動いている原理と同じような理屈を考えたらいいのです。そうしたら死ななくなるのです。

 私は死にません。命が分かっているからです。この世を去ることはあります。この世を去るというのは肉体を脱ぐだけのことです。肉体を脱いで霊の世界で生きるのです。他界の世界へ入って行くのです。私は他界はしますけれど、死ぬのではないのです。

 現象世界ではない、もう一つの霊の世界があるのです。霊というのは科学的に説明できるのです。例えば、皆様がお茶を一杯召し上がります。これが霊です。お茶の味が分かります。お茶の味とはどういう味なのか。これが本当の命の味です。

 皆様はお茶を飲んでいますけれど、味とは何であるのか。自分の舌が味を見ているのです。舌が味を見ているという力が神の力です。神の力が皆様に宿っているのです。これが本当の命です。

 皆様の今までの思想を脱ぎ捨てるのです。常識を脱ぎ捨てるのです。常識を信じていたら死んでしまうから、脱ぎ捨てなさいと言っているのです。

 常識で生きていたら必ず死んでしまいます。死ぬのが嫌なら常識を捨てるのです。そうして、自分の舌が何を味わっているのか、自分の目が何を見ているのかを考えてください。

 皆様の魂の働きは霊妙不可思議なものであって、見えない命の世界をはっきり見ているのです。皆様の頭が悪いのです。それは世間の人間の思想を信じているからです。世間の人間の腐ったような思想を信じているから、皆様の頭が腐ってしまうのです。

 味というのは何であるのか。太陽の光線とは何か。光とは何であるのか。見ていながら分からないのです。これを無明煩悩というのです。

 目で見ていながら分からないのです。これが人間の愚かさです。ばかな常識を捨てるのです。そうすると、自分の命の本体が分かるのです。

五官

 人間の五官の働きというのは、命の本体をそのまま現わしているのです。五官が命です。五官には命の光があるのです。

 五官には命の光があるのです。これが分かれば皆様は死ななくなるのです。これは宗教の話ではありませんから安心して信じたらいいのです。

 皆様の心臓が動いていることの意味がよく分かれば、皆様の考えではない、別の考え方が湧いてくるのです。そうすると、死なない生き方ができるのです。イエスがそうしていましたから、イエスの生き方をしたらいいのです。イエスの真似をしたらいいのです。

 放っておいたら皆様は全員死んでいきます。そして、死んでからが大変です。永遠の裁きが待っているからです。

 皆様は現世において知るべきことを知らなかった。なすべき勉強をしなかった。生活のことで一生懸命だったからです。食欲と性欲だけで生きていた。これが間違っていたのです。だから、永遠の裁きに会うのです。

 こういうことをはっきり言うのは、日本では私だけでしょう。どんな宗教でもこんな説明はしないのです。

 空ということを軽々しく考えて頂きたくないのです。皆様が出てきたのはどこからかと言いますと、空から出てきたのです。空から出てきて、現在幻の生活をしているのです。従って、元の空に帰れば死なないのです。

 元の空に帰るというのは、自分がなくなることではないのです。自分の常識を脱ぎ捨てることです。そうすると、皆様の心臓の働きが、元の空に帰るのです。皆様が出てきた元の世界へ帰れば死なないのです。これがお茶の味になっているのです。

 般若心経の中で、空という字が一番すばらしいのです。一切空、色即是空、五蘊皆空、空即是色とあります。空がどうして基準になっているのか。空の本質は何か。これが誠の神です。誠の命です。

 命が空です。神が空です。空を見るとは命を見ることです。商売をすることは結構です。お勤めをすることは結構ですが、命についてもっと熱心になって頂きたいのです。

 般若心経に色即是空、空即是色とあります。色即是空とは現象世界は虚しいということです。これは理屈でも納得できるのです。例えば、花が咲いていてもやがて散っていきます。人間が生きていてもやがて死にます。

 だから、色即是空は常識でも分かることですが、空即是色が分からないのです。色は目に見える現象世界を指しているのです。目に見えるものはすべて色(いろ)があるから見えるのです。目に見える現象的万物のことを色と言っているのです。

 色が虚しいということは分かりますけれど、なぜ虚しいものが目に見える状態で現われているのか。この説明ができないのです。空即是色の説明ができないのです。

 仏教では因縁がそうなったとしか言えないのです。日本人の常識ではそれ以上のことは分かりません。

 ところが、空が色になって現われなければならない本当の理由があったのです。これが大きいのです。空即是色というのは、現世を乗り越えた人間の悟りです。

 現世を乗り越えてしまいますと、万物がなぜ万物として現われているかが分かるのです。例えば、太陽系宇宙と言いましても、花が咲いたり鳥が飛んでいるのは地球だけです。

 アメリカやロシアの探査機が火星や金星に軟着陸して、たくさんの写真やデータを送ってきていますが、そこには生物は全く存在していませんでした。火星や金星に物質があることが不思議です。

 物体的な惑星が存在するということだけで、太陽系宇宙は不思議です。太陽系以外の外宇宙は、ガス体ばかりです。物体はないのです。個体はないのです。

 地球には固体がありますが、固体があるだけでも不思議です。地球には固体どころか生命体、万物、森羅万象が満ちているのです。海という大きな水の溜まり場があるのは、地球だけです。地球にしか海はないのです。森も林も山も川もあります。生物で満ちています。こういう不思議な現象が大宇宙の中で、どうして地球だけにあるのかということです。

 こういうことが空即是色という言葉の重大な意味を示しているのです。

 どうして神が地球を造らなければならなかったのか。神というのは命です。命は神です。命である神がどうして地球を造ったのか。この地球に二○一五年現在で、七十三億人もの人が生きているのですが、どうしてこんなに多くの人間が生まれたのか。

 皆様は地球に生まれたばかりに、楽しいこともあるが、色々な不幸なことも経験しているのです。業(ごう)を背負い込んで、病気になったとか、子供が言うことを聞かないとか、地震、台風など災害や、世の中の矛盾を味わわなければならないのです。

空即是色を知る

 そういうことの本質を究明するためには、空即是色をどうしても知る必要があるのです。

 こういうことは般若心経だけでは分かりません。仏法だけでは分からないのです。そこでどうしても聖書を勉強しなければならないことになるのです。

 本当に信用できるのは仏法である般若心経と聖書だけです。キリスト教はだめです。私がいう聖書はキリスト教ではない聖書をいうのです。これを神の約束というのです。

 神の約束と釈尊の悟りの二つがあるのです。日本人はこの両方のことを知らないのです。本当の釈尊の悟りが日本にはありません。

 日本には仏教はありますけれど、仏教は日蓮とか親鸞、道元、法然、弘法大師といったお祖師さんが開いたのです。自分自身の仏教に対する解釈を説いたのです。これが日蓮宗になったり、真宗になったり、浄土真宗になったりしているのです。

 これは釈尊の本当の説ではありません。仏教というのは釈尊の説を基にして自分自身の思想を説いているのです。これが宗教です。

 日本には宗教はありますが、本当の悟りではないのです。宗教ではない般若心経は、私たちだけが言っているのです。はっきり空を説ける人は日本にはいないのです。命の説明ができる人もいないのです。

 とにかく日本人は生活のことには熱心ですけれど、生命のことは全く考えようとしないのです。

 昔は良かったのです。「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」これは空をはっきり説いているのです。いろは四十八文字はこういうもので、ここに日本文化の良さがあるのですから、お茶をたてる方は心を静めてお茶をたててください。

 茶の心とはどういうことか。利休が言った一期一会は何を言っているのか。千利休は何を伝えようとしたのか。こういうことをお茶をたてながらじっと考えてください。

 利休は言っています。「花は水に浮かべるごとくに生かすなり」。これが生花の心です。茶をたててただ飲むことが茶だと言っているのです。茶をたてて飲むということの中に、利休には非常に深い心があったのです。その茶の心に般若心経の心がぴたっと合うのです。だから、日本人は何となく般若心経をかわいがるのです。空が分からないのに、般若心経をとてもかわいがっているのです。

 般若心経を愛して頂くのだったら、空を愛して頂きたい。そうすると、本当の幸せがどういうものか分かるのです。

 常識で生きていたら必ず不幸があります。苦しみがあります。悩みがあるのです。この世を去る時に困ります。いよいよ死ぬ時になったら、これからどうなるのかと思うのです。三途の川を渡って向こうへ行ったらどうなるのだろうか。さっぱり分からないでしょう。

 命が分からない人は、死んだらどうなるのか全然分からないのです。気の毒なものです。自分の魂の責任のために、こういうことを考えなければならないのです。

 私たちは人間完成をしなければならないのです。自分自身を完成しないで、業を果たさないで死んでしまうと、本当にひどいことになるのです。

 業を果たすことが自己完成です。これをして頂きたいのです。今までの常識に別れを告げて、自分の命のことを考えたらいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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