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死を直視する






 人間が死んでしまう原因は自分の精神のあり方が悪いからです。現世に生きている命とは何かを煎じ詰めると、精神のあり方にあるのです。何をどう考えるかが、その人の命です。このことが分かりましたら、考え方を変えたらいいのです。

 この世に生まれた人間は、この世に生まれたという業を背負い込んでいるのです。業を背負い込んでいる人は、自分が生きているという考えにこだわっているのです。自分が生きていると思っているのです。自分が生きていると思っている人はもう死んでいるのです。精神的に、死んでいるのです。

 死と太陽とは直視することができないという、ラ・ロシュフーコーの言葉があります。これは白人社会の言葉ですが、これは現代文明の悪さを証明しているのです。

 太陽は目を傷めますから直視できませんが、死は直視できるのです。直視できないという精神で生きているからできないのです。これは人間が死んでいる証拠です。

 皆様の今までの考え方では、死を直視することはできません。今の宗教は皆こうなっているのです。日本に宗教の専門家と言われる人々がいますけれど、死を直視することができる専門家は一人もいないのです。

 死を直視することができない人は、死んでいる証拠です。これがユダヤ主義文明の特徴です。

 命というのは遺伝子です。遺伝子というのは精神の問題です。自分の思いによって、自分の思想によって遺伝子の活動をある程度変えることができるのです。遺伝子を変えることができるのです。そうしなければ、死から命に移ることができないのです。

 皆様は生きてはいますけれど、命が分からないという生き方をしていたのです。これは遺伝子が悪いのです。

 皆様の遺伝子は親からの遺伝子です。世間からの遺伝子です。これは皆死んでいる遺伝子です。皆様は死んだ人間の思想ばかりを信じているのです。だから、皆様の現在の状態は死んでいるのです。この危険を早く悟ることです。この世の業(ごう)から出なければいけないのです。今の状態でいたら死ぬに決まっているからです。絶対に死ぬのです。

 生きているということは、命を経験していることです。現在、命を経験していながら、命の説明ができないのです。なぜかと言いますと、現代文明というばかなものに押さえ込まれているからです。

 現代文明というものは、皆様の命に関する発想の自由を束縛しているのです。皆様はそういうばかな文明を信じているからいけないのです。

 皆様はユダヤ人にまんまと騙されているのです。ユダヤ人は皆様をごまかしているつもりではないのですが、自然にそうなっているのです。

 世界の文明はユダヤ人を中心にしなければ展開しないという仕組みになっているのです。これが神の約束の原点です。こういうことは神の約束を勉強しなければ、絶対に分かりません。

 日本人は神の約束を皆目知らない民族です。天皇陛下ご自身が日本の国体のことをご存じないのです。

 今の文明は命について勉強することは禁じているのです。はっきり禁じていると言っていませんが、命について真正面から勉強することを、今の文明は嫌がっているのです。

 命については逃げて誤魔化してしまうのです。命のことを一切勉強させないようになっているのです。私はこれを喝破して、突破したのです。文明の壁を突き破って外へ出たのです。だから、文明の外から文明を批判しているのです。

 ユダヤ人に人類はうまく丸め込まれているのです。だから、ノーベル賞をもらって喜んでいるのです。ノーベル賞は、ダイナマイトを発明した、アルフレッド・ノーベルの莫大な遺産によって始められた賞です。なぜユダヤ人に褒美をもらって喜んでいるのでしょうか。

 こういうことを日本のジャーナリストは言わなければならないのに、言う人がいない。ジャーナリスト自身がユダヤ主義にかぶれているからです。

 皆様は世間の思想、学問を信じすぎているのです。学問に何の価値があるのでしょうか。皆様の常識に何の値打ちがあるのでしょうか。神は人間の常識、知識が大嫌いです。

 常識はこの世では通用しますけれど、やがて皆様はこの世を去らねばならないに決まっています。

 人の命は過去世と現世と来世に続いているものです。生まれてくる前の過去世の命があったから、現在の命があるのです。このことをまず、ご理解頂きたいのです。

 命を勉強するというのは、過去世、現世、来世全体の勉強をすることです。


 イエスは次のように言っています。

 「あなたがたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられるものと思っている。

 だから、彼らの真似をするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。

 だから、あなたがたはこう祈りなさい。天にいます、われらの父よ、御名が崇められますように」(マタイによる福音書6・6~9)。


 祈る時には自分の部屋に入って、戸を閉じなさいと言っています。自分の戸を閉じるのです。自分の戸を閉じるというのは、自分の考え方をシャットアウトするということです。

 自分の部屋というのは、自分がいつも入るルームとは違うのです。自分の部屋とはinner chamberであって、内緒の部屋、他人が入ることができない自分の部屋という意味です。これが皆様にあるのです。

 こういうことの勉強を、現在の文明は禁じているのです。文明が皆様を殺しているようなものです。

 人間には言うに言えないとか、自分だけの秘密とかというものがあるのです。自分が生きていることのポイントがinner chamberです。これが内緒の部屋です。人を入れない部屋がchamberです。

 個々の人間には、個々の考え方があるのです。それは、自分では分かっているのでけれど、何処からそういう考えが出てくるのかということです。

 皆様は本当の命を知りたいと考えます。なぜ命を知りたいと考えるのでしょうか。今の状態で死んだら困るという直感があるのです。なぜ死んだら困るという直感があるのでしょうか。これが、inner chamberの問題です。

 人の心の奥底に人には見せられない隠れた部屋があるのです。隠れた部屋には、隠れた意識があるのです。これを潜在意識、または深層意識というのです。

 隠れたことを見ておられる、あなたの父というべきものがあるのです。これが神ですが、これが皆様自身の本物です。これが潜在意識です。


潜在意識が神

 皆様の潜在意識が実は神です。だから、自分自身の潜在意識をしっかり掴まえたらいいのです。私の潜在意識と皆様の潜在意識とは、本質的に同じです。だから、皆様の潜在意識が手に取るように分かるのです。これができる人間のことを預言者というのです。

 皆様は顕在意識に負けているのです。顕在意識は人間の常識、知識です。これが皆様を地獄へ引っ張っていくのです。

 人間の常識、知識を聖書は悪魔と言っているのです。常識、知識が人間の命を押さえ込んでしまう力を持っているのです。これを悪魔というのです。顕在意識です。

 皆様は自分が生きているというばかばかしい考えを持っているから、いつも苦しんでいるのです。自分が生きていると思っているから、自分の考えが間違っていると思っていながら、その考えから出られないのです。つい嘘を言ったり、悪口を言ったりするのです。皆様の常識が嘘を言っているのです。常識がなかったら、焼きもちを妬かないでしょう。

 皆様に焼きもちを妬かすのが、自我意識という悪魔です。自我意識の説明が今の学問ではできないのです。

 自我意識とか常識の根本を、今の心理学では全然説明ができないのです。哲学でもできません。宗教教学でもできないのです。

 潜在意識が神だという思い切った言い方ができる人はいないのです。こういう思い切った発言をしても、決して暴言ではないのです。ですから、潜在意識に聞いたらいいのです。皆様の潜在意識は常識が悪いことを知っているのです。ですから、皆様はこれではいけないと思うのです。これは神が皆様の中で忠告しているのです。

 皆様は毎日、いろいろなものを食べています。例えば、マグロを食べたとしますと、マグロの市場価格は支払いますが、マグロの本質価格は支払ったことがないのです。

 皆様は毎日、空気をふんだんに消費しています。太陽光線をふんだんに消費していますが、それに対して支払いをしたことがあるのでしょうか。そういう事を全く考えずに、平気で生きているのです。

 こういう間違った生き方を人間はしているのです。文明がそうさせているからです。文明の元締めがユダヤ人です。ユダヤ人がそういう考えをばらまいているのです。

 仏教に「末那識(まなしき)」という言葉があります。これは常識よりも少し上の意識です。阿頼耶識(あらやしき)はその上の意識です。これは仏教教学の言葉です。唯識論はいろいろと理屈を並べていますが、こういうことを勉強しても、命については何の価値もありません。

 末那識も阿頼耶識も、人間が生まれたという現世を基準にして考えているのです。こういうものをいくら勉強してもだめです。

 隠れた部屋は、前世の続きです。これは分かりやすく言いますと、良心の根本です。良心は皆様の精神的な動きを良く見ているのです。良心は自分の中にありながら、自分を監視しているのです。だから、良心は自分ではないのです。これが神です。

 良心がどうして人間にあるのか。この説明が今の学問では一切できません。聖書は説明しているのです。良心の実体が分かりますと、良心が表面に出てくるのです。そうして、良心が顕在意識的に働き出すのです。これが信仰です。

 これは他力本願でいう信仰という意味ではありません。信心というのは人間が信じる心のことを言いますが、信仰というのは仏教的には阿頼耶識になりますが、阿頼耶識の根源を仏教では説明しません。

 仏教でも前世と言いますが、今現在、人の中に前世がどのようにあるのかについては、全く説明ができないのです。ドイツ観念論でもア・プリオリと言いますが、ア・プリオリの命が現在の人間にどのように存在しているのかが分からないのです。

 常識は皆様にとっては金科玉条の価値を持っているのです。常識がなぜ悪いのかということを考えないのです。ところが、常識が皆様を地獄へ引っ張っていくのです。

 常識がなぜ悪いのかと言いますと、死を直視させないからです。死と太陽とを直視することができないというのは、常識の見方です。白人社会はこれに基づいて学問を組み立てているのです。

 死を直視することができなければ、人間は死ぬに決まっているのです。

 白人社会の人間の精神状態は死んでいる状態ですから、死を直視することができないのです。私は生きている魂として死を直視することができるのです。死の正体を喝破することができるのです。

 死とは何かと言いますと、皆様の常識が死です。だから、常識を踏みつけてしまえばいいのです。

 死ぬことと、自我意識とどちらが大切でしょうか。常識を握り込んで死んでいく方が楽だと思うなら、その方を選択したらいいのです。死んだらひどい目にあいます。これだけははっきり申し上げておかなければならないのです。

 これは脅かしているのではありません。実体を述べているのです。私は死の実体がはっきり分かっていますから、こういうことをお話ししているのです。学者も宗教家も、死を知りません。死の説明ができる人間が日本にはいないのです。

 自分の外へ出て、自分を見るのです。これができると、文明の外へ出られるのです。

 皆様は文明の塊みたいなものです。文明の子分です。文明社会の常識と文明社会の学問とを頭に詰め込んで、それが自分だと思い込んでいるのです。

 皆様は自分に対する認識が全く間違っているのです。この世の意識をそのまま自分の意識だと思い込まされているのです。

 肉体を肉体としている原理的なエネルギーは、電気のようなものだということができるでしょう。肉体の細胞は死んでしまうに決まっているのです。死んで、また、新しい細胞ができてを繰り返しているのです。いわゆる新陳代謝しているのです。

 細胞は物質的なものですが、これを動かしている原動力が命です。これと遺伝子との関係がどうなっているのかです。

 潜在意識を表面化するために、力がいるのです。これが遺伝子の働きです。死なない命を人間の力だけでは掴まえることができないのです。神の力がどうしても必要です。


前世の命

 前世の命が現世に出て来ているのです。現世の命を知るためには、前世を勉強しなければならないのです。ところが、現代文明は現世の命だけしか考えないのです。

 前世が肉体的に生きていることを魂というのです。魂を正確に掴まえたらいいのです。現世に生きている間に魂を掴まえたら、根源の力が分かるのです。

 理性と良心を一つにしたようなものが、生となって現われている。生と命とは全然違うのです。生というのは本質的ないのちで、死なないいのちです。

 生という意味での遺伝子があるのです。これは死なないいのちです。命は死ぬいのちです。現世で生きているいのちです。現世で生きているいのちは、死ぬに決まっているいのちです。これもまた遺伝子です。

 死なない遺伝子と死ぬに決まっている遺伝子の二つが、人間に働いているのです。生と命とが働いていると、自然に新陳代謝が行われているのです。この全体を司るのを存在というのです。

 生と命も言(ことば)によってできているのです。言は一つの働きです。遺伝子の働きは言です。同じ言でも、生かす言と殺す言と二つあるのです。

 人間の口から出る言葉でも、人を呪う言葉と、人を褒める言葉とがあるのです。一つの口から甘い言葉と辛い言葉が出るのです。心の持ち方一つによって、人を殺す言葉も出るし、人を生かす言葉も出るのです。これが遺伝子の働きです。

 「言が肉となった」とありますが(ヨハネによる福音書1・14)、生の言が肉となれば死ななくなるのです。命の言が肉となると、死んでしまうのです。

 死ぬ命を自分の命だと思っていると、必ず死んでしまいます。人間は死ぬに決まっている命を自分の命だと思っています。これは思っていることです。

 死なない命を発見したいと思っていると、そう思っているだけでその人の精神構造が変わってくるのです。思いというのは恐ろしい力を持っているのです。私は思いを変えることを皆様に勧めているのです。

 生ということだけで生きる。生の本質を知りたいと思われるのなら、今までの皆様の常識一辺倒の頭、学問の塊のような頭を捨てて頂きたいのです。皆様は死ぬに決まっている命を自分の命だと考えていたのです。こういう考え方にこだわっている間は、皆様の精神がそういう方向に向いているのです。

 今の医学は病気は治しますが、命のことは知らないと言います。これは本当の命ではありません。肉体のことしか考えないのが今の学問ですが、これは本当の学問とは言えないのです。

 生きているという意識の根本が間違っているのです。人間はお金を払わずに、空気や太陽光線の恵みを受けているのです。牛肉や魚、米や野菜、果物の本質価格を払わずに生きてきたのです。先祖代々、それをしてきたのです。

 神のものを盗もうという意識はなかったのですが、知らず知らずのうちにそれをしていたのです。

 皆様はこの世の習わしに従って、そうしてきたのです。この世の習わしに従っていたのですが、盗んでいたという事実には変わりはないのです。

 これに対して、どういう心構えを持つのかということが大切なのです。

 肉体的に生きている命を自分の命だと考えている人は、絶対に死にます。遺伝子の大転換をしなければならないのです。遺伝子の根本的な転換が必要です。

 皆様は意識の大転換をすると同時に、宇宙の命の本則に従って頂かなければならないのです。命の法則に従って、自分の潜在意識に隠れているちりを払うことをしなければならないのです。

 言には二つあります。一つは皆様の心臓が動いているという原理です。呼吸機能、消化機能が働いているという原理、生理現象の原点が言葉です。また、心理機能の原点も言葉です。この二つを掴まえなければいけないのです。

 生理機能の原点を神の御霊と言います。心理機能の原点を聖霊というのです。神の御霊を受ける必要があるのです。また、神の聖霊を受けなければいけないのです。

 キリスト教がなぜだめなのかと言いますと、神の御霊を正式に受けていないからです。神の御霊を正式に、また、正当に受けて頂きたいのです。正当さと正確さがいるのです。皆様は正当に正確に神の御霊を受けて頂きたいのです。そうすると、皆様の生理機能の原点が変質するのです。

 肉体が死なない構造に変化していくのです。私は医者はいらないと言っているのではありません。医者も必要です。現世の命を現世的に守るためには、現代の医学がいるのです。

 神の癒しはホールボディ全体を治してしまうのです。病気だけを治すのではなくて、人間の命の本質を治してしまうことが必要です。死なない命を与えることが本当の医学です。

 「我はエホバにして汝を癒す者なればなり」とあります(出エジプト記15・26)。これが神です。

 皆様は今まで、肉体の命を命だと思っていたのです。生のいのちというのは何処にあるのかと言いますと、皆様が見たり聞いたりしていることです。これは過去世、現世、来世に続いている命です。

 皆様は自分で見ているのではありません。見せてもらっているのです。このことに気づきますと、神が皆様と共にいることが分かるのです。

 神が皆様と共にいることがはっきり分かるためには、皆様の命が神の命に変化していく必要があるのです。これを聖書を学ぶというのです。

 聖書を学んで、聖霊を受けるのです。聖霊はHoly Spiritです。ただの御霊はspiritです。生理機能として働いているのは、ただのspiritです。心理機能に対して働くのが聖霊です。

 聖書を学んで聖霊を受けるのです。これを実行することが必要です。これを実行すれば、死なない命がはっきり分かるのです。これは正式に、また、正当に神の子となるために必要です。

 皆様の五官の本体は、本来死ぬべきものではありません。死ぬべきものではないのに、死なねばならないと思いながら、皆様は五官を用いている。これを罪というのです。

 生まれる前に皆様の命は無の中にあったのです。無の中にあった命が、無が働いて生まれてきたのであって、皆様の五官の根っこにあるものを言というのです。それが肉体的な状態でこの世に出てきたのです。これを生まれたというのです。

 命は永遠にあるものであって、地球が出来る前からあったのです。地球ができたことによって、地球の中に命が集約されたのです。

 命は神の言であって、皆様の目の働き、耳の働きは、神の言の働きです。

 実は、神が人の中にいるのです。だから目が見えるのです。耳が聞こえるのです。私たちは何のために見たり聞いたりしているのかと言いますと、自分の本体が神であることを知るためです。神とは本当の命です。神と命は同じものです。

 命があるということは、神があることです。ところが、命の本体、本質を知らないで、肉体的な命を自分の命だと思っているから、間違ってしまうのです。

 肉体的に生きていることが命ではありません。肉体的な状態に慣らされているということはあります。神と一つであったものが、地球上に現われたことによって、現象を通して神を知ることになったのです。

 三次元の現象世界においては、すべての事がらが、現象的に現われなければならないという約束になっているのです。そこで、人間も現象的に現われたのです。

 しかし、現象はやがて消えてしまうのです。地球も消えてしまうのです。地球が始まって消えるまでの間、神という無が有の状態で現われているのです。これを現象世界と言っているのです。現象世界に出てきますと、すべて無なるものが有として現われているのです。


有と無

 有というのは本当の姿ではありません。無が本当の姿です。無の働きを見るために、私たちは有の状態で生かされているのです。無為を知るために、有為の状態で生きているのです。老子的にいうとこうなるのです。

 有為の状態で生きているというのは、死ぬべき状態で生きていることです。無為は物を生かすのです。有為は物を殺すのです。それでは、無の本体は何かと言いますと、神です。

 無の本体が人の五官になって働いているのです。何のためかと言いますと、私たちが五官を用いることによって、神を認識しなければならない責任があるからです。

 皆様の五官の働きというものは、本質的には神の働きです。そこで、目で見ることによって、神を掴まえなければならない責任があるのです。

 舌で味わうことによって、神の味を知らなければならないのです。ただ食べていたらいいというのではありません。

 梅の花を見て、梅の花と共にいる神が分からなければならないのです。自分が見ていると考えますと、梅の花の中にある神は絶対に分かりません。この見方が間違っているのです。だから、死んでしまうのです。

 目の中にある力は神の力です。神の力の働きによって、梅を見ようとしますと、皆様の心を替えなければならないのです。目で見ているのは、神の力で見ているのですが、神の力で見ているのだということを聞いても、全然分からないのです。梅の花の中にある神が分からないのです。

 梅の花の中にある神を知るためには、聖書を通して思想の訓練をする必要があります。世界観、価値観、人生観の訓練をする必要があるのです。これをしていきますと、神がだんだん分かってくるのです。

 そうすると、目で見ている神と、精神的に考えている神とが一つになって、梅の花の中にある神が分かってくるのです。この神が分かったら、その人はもう死なないのです。死なない命が分かったから、梅の花の中にある神が分かったのです。神さえ分かれば、死ななくなるのです。

 皆様は神を知りたいと思っていますが、この気持ちは今までの自分の根性を持ったままで、神を知りたいと思っているのです。

 生活するとはどういうことか。固有名詞の人間として生活するのではなくて、神の子として生きるのです。自分が生きているのではないのです。自分という格好で神が生きているのです。

 生を取ろうが命を取ろうが、自由にしたらいいのです。現世に肉体的に生きていることが絶対としていますと、絶対と考えたことがその人の神になるのです。

 神とは絶対ということです。何を絶対と考えるかです。今生きていることを絶対だと考えますと、自分の思想が神になるのです。自分の自我意識が神になってしまうのです。そうすると、必ず死んでしまいます。

 ところが、自分が今生きていることが絶対ではなくて、自分をこのような状態にしているものがあるのだろうかと考えるのです。自分を自分として生かしている力、地球を地球として生かしている力、太陽を太陽として生かしている力があるのです。

 太陽が太陽であるためには、太陽を太陽にしている力があるはずです。これを神というのです。造り主というのです。太陽を太陽としてものが、自分を自分としているのです。地球を地球にしているものが、自分を自分にしているのです。

 自分が考えている自分と、神が考えている自分とは違うのです。自分がああなりたい、こうなりたい、ああしたい、こうしたいと考えるのです。これは間違っていないとしても、スケールが小さいのです。個人的な意識になっているのです。

 これを地球的な意識に広げて頂きたいのです。地球があることと、皆様があることとは同じことです。個人という意識を地球という意識に広げるのです。そうすると、神の創造が分かってくるのです。

 男の人は女の人を勉強しなければいけないのです。男の人は女の人が分からない。女の人を発見しなければいけないのです。これが難しいのです。

 女の人をじっと見て、女の人を発見しなければいけないのです。女と男の違いです。女が持っている優しさとか、男を受け入れようとする女の本性を、男はじっと勉強するのです。そうすると、神を受け入れなければならないハートの状態が分かるのです。

 男は神を受け入れないために、苦しまなければならないのです。神を受け入れるということが、男は分からないのです。

 神を受け取るためには、自分の意識を棚上げにして、神を第一義にしなければならないのです。そういう素直さがなければならないのです。

 皆様は目で見ていながら、見るということの本当の意味が分かっていないのです。見るということの本当の意味を知るためには、目の使い方を勉強する必要があるのです。

 ところが、皆様は何十年も自分なりの見方をしてきたので、自分なりの見方しかできないと思っているのです。実は、自分で見ていたのではなくて、神に見させられていたのです。

 自分が見ていた梅の花と、神に見させられていた梅の花とは違うのです。これに気が付きますと、自分が自分ではないことが分かってくるのです。

 自分は他人です。家族も他人です。妻も子供も他人です。また、自分自身も他人なのです。家族が他人だと思うことはできるのですが、自分が他人だとはなかなか思えないのですが、そう思えなければいけないのです。

 神は絶対です。太陽が太陽であることが神です。これを偽ることができない人が一番上等です。その次に、自分の本心を偽ることができない人が、二番目に上等です。

 皆様には即物意識が皆様の常識に張り付いてしまっているのです。即物観念が皆様の頭にはこびりついてしまっているのです。

 皆様は目で見たとおりのものがあると思っているのです。これが素朴実在という感覚です。これはマルキシズムの基本概念です。この感覚があるために、共産主義が成立しているのです。これがユダヤ感覚です。

 人間は目で見たとおりのものがあると思い込んでいるのです。ところが、昔の日本人はこのように考えなかったのです。目で見たものがあると思いながら、どうもそうではないらしいと考えたのです。これが諸行無常の考え方です。


諸行無常

 諸行無常というのは、日本人の独特の世界観です。かつて、インドやミャンマーにも諸行無常という考え方があったに違いないのですが、現在ではそういう思想はなくなっているのです。

 日本文化の中には諸行無常という概念が非常にはっきり取り上げられているのです。


 有名な平家物語は次のような文句で始まっているのです。

 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす

 おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし

 たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」


 諸行無常が平家物語全体のバックボーンです。諸行無常という思想がなかったら、平家物語が成立しないのです。日本文化にはそれほど諸行無常という概念が強くあるのです。

 徳川家康が、「厭離穢土欣求浄土」という軍旗を掲げて戦争をしていたのです。現世は嫌だから浄土へ行きたいという旗を掲げて戦っている人が、世界にいるでしょうか。日本はそういう国です。

 ですから、聖書の本当の見方が、初めて日本から発生することになったのです。現在の世界文明を指導する根本精神は、聖書しかないのです。どんな哲学や宗教でもだめです。そういうものでは世界を指導することができないのです。

 西欧人は聖書はこう言っているというと、耳を傾けるのです。多少でも聞く人がいるのです。イエス・キリストがこう言っているというと、外国人は聞かざるを得ないのです。

 ところが、日本人は聖書に一番縁が遠いのです。この日本から聖書の本当の読み方が出現しているのです。これは驚くべきことです。

 世界歴史が日本から新しくなるのです。聖書の見方を一新することが、世界文明の根本的な指導原理になるのです。

 以前に、イギリスに世界の著名人が集まりました。いろいろと話し合った結果、何をどうしたらいいのか分からないというのです。学問ではだめです。理屈でもだめです。結局、ナザレのイエスをもう一度見直すしかない、これをしなければ世界の文明は必ず壊れるということになったのです。

 日本ではこういう結論に到達する人はいないでしょう。それほど日本人は世界の文明に対する見識が低いのです。日本人はユダヤ主義に押さえ込まれているからです。現実主義です。現世主義であって、即物主義的です。

 今目で見ているものがあると思い込んでいるのです。これが唯物史観の根底の概念です。皆様の中にもマルクスの思想の根底の概念があるのです。これが間違っているのです。

 目で見ているとおりのものがあると思うことが、ユダヤ主義の土台です。ユダヤ人であってもなくても、そういう考えを持っていることがユダヤ主義者です。皆様は知らず知らずにそうなっているのです。それが間違っているということが何となく分かる人でも、どのように変えたらいいのか分からないので、やはり世間並の考えになるのです。

 即物主義、唯物主義は真っ赤な嘘です。物に即して考えるのです。即というのはくっついているという意味です。物にくっついて考えるのです。即物的意識が皆様にあるために、命と言っても肉体を考えてしまうのです。

 命と言ったら、すぐに肉体が頭に浮かぶのです。自分と言ったら、自分の顔が心に浮かぶのです。これが皆様の記憶を地獄の記憶にしてしまうのです。

 皆様の潜在意識、深層意識は皆様の本心、霊魂の本心です。自分の本心の本願とは一体何か。これは即物意識ではないのです。本心の本願というのは、唯物意識ではないのです。

 目が見えるというのはどういうことなのか。心臓が動いているというのはどういうことなのか。この扉を開くものが皆様の本心の特徴です。

 大乗仏教には魂という言葉がないのです。一万七千六百巻という膨大な大乗仏教の仏典の中に、魂という文字が一字もないのです。

 そうすると、極楽浄土へは誰が行くのかということになるのです。肉体を持った自分が行くとは言えないのですから、死んでから誰が行くのか。死んだら自分は消えてしまうから、誰が浄土へ行くのかということになるのです。仏典ではこの説明ができなくなるのです。

 大乗仏教の仏典は概念ばかりを羅列しているのです。教学ばかりを並べているのです。すべて人間が造った概念です。

 仏教の本質は悟りです。悟りとは何かと言いますと、仏です。仏とは、ほとくことです。仏教に悟りはありますが、救いはないのです。だから、魂という言葉がいらないのです。

 他力本願でさえも悟りです。自分がナムアミダブツを悟るのです。阿弥陀如来であることを悟るのです。阿弥陀如来の南無ということは、阿弥陀如来の本質を悟ることです。これが帰命です。

 阿弥陀如来の本質を悟ることを南無というのです。これが帰命です。仏教に悟りはありますが、本当の意味での信仰はありません。仏教に信心はあります。信心とは自分は悟ったと思っていることです。勝手にそう思っているのです。自分は仏さんを信じていると勝手にそう思っているのです。

 そこには客観的な証拠はありません。聖書の信仰は皆様の目が見えることが神だと言っているのです。これを霊というのです。味わい分けることができることが霊です。

 私たちは見ています。見るという機能が目です。目の働きが霊です。「神は霊である」という言葉がありますから(ヨハネによる福音書4・24)、見るということは神を経験しているのです。

 皆様は神を毎日経験しているのです。神を経験することを生活というのです。

 見ているということは、神を経験していることです。食べていることは、神を経験していることです。神を経験していることを生きているというのです。これがリビングです。

 素直になって頂きたいのです。素直になって奥さんの勉強をして頂きたいのです。女の人を勉強して頂きたいのです。

 女性とは一体何なのか。女の格好は何を意味しているのか。男はなぜ女が好きなのか。即物主義の人間はすぐにセックスと考えるのですが、これが間違っているのです。肉体の女だけを見ているのです。

 そうではないのです。女の肉体が持っているムードが色気の本体です。女の肉体が持っているムードとは何なのか。立ったり、座ったり、お茶を出したり、食事を作ったりしてくれる。これが色気です。これは一体何なのかということです。

 奥さんがご主人を信じている。この感覚が主人に分かれば、「天にまします我らの父よ」ということが分かってくるのです。

 奥さんから見たご主人が神です。ご主人から見た神が命です。

 女の色気というのは最も偉大な学です。最も次元が高い学問です。これを勉強するのです。人間は最も次元が高いものを、最も低い性欲にしてしまったのです。これが白人社会の考えです。これが現代文明の基礎になっているのです。

 一番崇高なものを、一番下品なものにしてしまったのです。これが西洋文明の悪魔主義です。

 女の値打ちは女の姿、形にあるのです。女が持っている魅力です。きれいと言っても、花のきれいさと女のきれいさとは違います。同じきれいと言っても、金襴緞子のきれいさと女のきれいさとでは違うのです。

 色気が本当に分からないと男になれないのです。色気が本当に分かると、初めて男の魂の目が開くのです。


女の正体

 年配の男の人は、女のことなら何でも知っていると言われるかもしれませんが、それが間違いです。皆様が知っている女性は現代文明の女性であって、これはだめです。これは肉体本位の女であって、本当の女の正体ではないのです。

 女の正体は女「であること」です。女「であること」が女になって現われているのです。女であることが霊です。女であることというのは事がらです。これは霊です。これが女になって現われているのです。

 男が一番勉強しなければならない秘密は、女「であること」です。女がいることです。

 聖書の創世記はこれを原点にしているのです。これをキリスト教は読み落としているのです。キリスト教で女の説明ができる牧師さんはいないのです。女の説明はをしたら、信者がボイコットするでしょう。先生はちょっとおかしいというのです。

 神はアダムの目を開くために、女をわざわざ造って見せたのです。アダムがどうしても神が分からないので、最後に女を造って見せたのです。アダムは女を見てびっくりしたのです。「わが骨の骨、肉の肉」と言ったのです(創世記2・23)。びっくりしたけれど、女を学ぶことをしなかったのです。びっくりしただけでした。

 皆様ももう一度女を学んで下さい。皆様方の奥さんは皆様を亭主と言っています。これは神のような人格を最も常識的な言い方でしているのです。

 奥さんは皆様を主人として仕えています。これはどういうことなのか。女房の務めが、人間がしなければならない最高の業績です。これを男が見て神に対してするのです。

 奥さんが主人に仕えるように、男は神に仕えるのです。そうすると、健康的にも、経済的にも、思想的にも、絶対の平和が与えられるのです。

 奥さんがご主人に対してどれほど寛容であるのか、どれほど純真で素直であるのかを考えて頂きたいのです。ご主人の膿を皆奥さんが吸っていたのです。

 女の生き方には神の御霊の生き方がそのまま現われているのです。これを弁えて、女の人の姿をもう一度拝み直して頂きたいのです。

 ところが、女の人はこういうことを全然自覚していません。肉体的な自分しか自覚していないのです。これが女の業(ごう)です。今の女の人は業を持った人ですから、女の人の全部が良いと言っているのではありません。

 奥さんという面だけを見たらいいのです。そうすると、皆様がどのように素直になればいいのか、どのように神に辿り着けばいいのか、また、どのように神に仕えればいいのかが分かってくるのです。

 神を愛することが、聖書の最終の秘訣になるのです。神を愛するというのは、神に愛されていることを自覚するだけのことです。これを神を愛するというのです。

 女の人はこれができるのです。奥さんは夫に愛されていることを自覚しているのです。夫が自分を愛してくれていると思い込んでいるのです。だから、悠々としていられるのです。男性はこの気持ちを学ぶことです。

 皆様が現在、現世に生きているのは幻です。幻で生きている間に、幻ではない本物を見つけるのです。これがとこしえの命です。

 かつて、南禅寺の勝平宗徹管長が首を吊って死にました。宗教家はそういうものです。命については何にも分かっていなかったのです。建物と位と金襴緞子で誤魔化しているだけです。他に何もないのです。世間で管長とか、先生と言っているだけです。

 本当の命を掴まえている宗教は、日本には一人もいないのです。

 皆様は宗教に頼らずに、自分の中にある命を掴まえたらいいのです。皆様の目の働きが神ですから、これを掴まえたらいいのです。

 これを掴まえるためには、素直にならなければいけないのです。男の人は女性の素直さを十分に学ぶ必要があるのです。

 私が申し上げていることは宗教ではありません。その正反対で、私は宗教から出ることを、お勧めしているのです。今まで千年以上も続いている既成宗教があります。既成宗教は一夜漬けでできたのではありません。例えば、他力本願である禅にしても、また、三部経の教えにしても、ある意味で永遠の性格を持っているのです。例えば、阿弥陀如来が何処にいるのか、十億土の何処にいるのか、さっぱり分からないのですが、何十万という信者がいるのです。

 それはそれなりに理由があって、既成宗教ができているのです。既成宗教である仏教、イスラム教、キリスト教は、それなりの根底を持っているのです。

 いろいろな歴史を貫いて生き残って、今日に到っているのです。既成宗教はそれなりに信用ができるポイントがあるのです。ところが、新興宗教は全くだめです。創価学会は既成宗教のある面だけを取り上げて、新興宗教的なセンスを盛り込んでいるのです。

 阿含宗とか親鸞会というのは、新興宗教になるのです。釈尊が法華経を説いたのは、今創価学会が説いているような意味で説いたのではないのです。仏法全体のまとめを話すという意味で、法華経二十八巻を説いたのです。

 その一部だけを取り上げて、仏教の本質だと考えるのは間違っているのです。

 真言宗の親鸞会でも、親鸞の性格だけを取り上げて言うのはおかしいのです。三部経を正当に取り上げなければならないのですが、こういうものが新興宗教の部類に入るのです。こういうものはやがて消えていくことになるのです。天理教、生長の家、PL教団も新興宗教ですから、やがて消えていくことになるのです。

 仏教とかキリスト教、イスラム教は千数百年の間、地球にしっかり根を張って、落ち着いているのです。これはそれなりの理由があるからです。

 新興宗教的な考えには、十分に警戒して頂きたいのです。これは大なり小なり本質的にオカルトです。守護の霊がどうのこうのというのです。これはどんな言い方をしても結局、オカルトです。現世利益を説いているのです。

 こういうものは現世では通用しますけれど、永遠的な意味での価値は全くありません。私が申し上げているのは、もちろん新興宗教の話ではありません。既成宗教の概念さえも乗り越えていくものです。既成宗教の根本的な真理さえも乗り越えていくものです。

 仏教、キリスト教、イスラム教がなぜ半永久的に存在する命脈を持っているのかということの、根本の問題を取り上げているのです。世界中のあらゆる宗教の根本を申し上げているのです。

 宗教がなぜあるのか。人間とは何であるのか。この実体をお話ししているのです。皆様の命についての考えが正しいかどうかということです。

 皆様は現在生きていますが、今の命は降って湧いたものではありません。根っこがあるのです。

 例えば、地球があります。天文学では四十五億年前にできたと言います。地球ができる前に、地球ができなければならない原因、原理があったのです。

 地球に森羅万象という不思議なものを生み出すような因縁があったのです。因縁がなければ、万物は存在しないのです。そうなるべき原因があったのです。原因があって地球という惑星ができているのです。


地球という不思議なもの


 皆様にはこの地球という不思議なものが宇宙に浮かんでいることについて、これは何かおかしいという気持ちを持って頂きたいのです。私が言うことが分からないと言われる前に、地球があるということの方がよほどおかしいのです。

 鳥が飛んでいる、花が咲いていることが、なぜ宇宙に必要なのでしょうか。「花笑い鳥歌う」ということが、なぜあるのでしょうか。人間はこれを考えようとしないのです。

 全世界の人間は地球があることが、一向に不思議と思わないのです。だから、命の秘密が分からないのです。何をしているのかと言いたいのです。

 やがて、地球上に一人も人間が住まなくなる時が来るでしょう。地球そのものが消えていくでしょう。そうなるに決まっているのです。生あるものは必ず死する。形あるものは必ず壊れるのです。こういう大きい角度から考える癖をつけて頂きたいのです。

 大体、皆様は根性が小さいのです。もっと大きい所から考えるようになりますと、私が言うことの意味が分かると思います。

 考え方のスケールが大きいか小さいかによって、分かるべきことが全く分からないことになるのです。

 皆様がこの地球に生きているのは、命の因縁があるからです。

 釈尊に前生譚があって、釈尊が生まれる前に彼の生涯があったというのです。飢えている虎に自分の体を食わせたというのが、釈尊の前生譚の中心の話です。慈悲の心がそのまま彼の人格になって、天上天下唯我独尊という端緒になったというのです。

 こういう話は必ずしも正しいとは言えませんが、皆様にも大なり小なり前生譚があったということは言えるのです。原因がなければ、地上に生まれてくるという結果は発生しません。これは地球にも言えますし、人間にも言えるのです。

 地球が出来る前には、桜の花はこの宇宙の何処にもなかったのです。地球が出来た後に、森羅万象ができたのです。生物がこのように繁茂しているのです。

 元来、こういうものは宇宙にはいらないのです。宇宙は星雲状態が当たり前です。ガス体が濃厚であるか、希薄であるかの違いはありますが、ガス体であるのが宇宙の普通の状態です。星雲が消えたり、発生したりを繰り返しているのです。

 こんな宇宙に生物が満載された星があるのが、おかしいのです。こういう雄大な思想で考える人が、今の日本には一人もいないのです。世界にもいないのです。

 親鸞はこういう考えをしなかったのです。道元も、弘法大師も、達磨大師も、釈尊でさえもこういう考えをしなかったのです。

 私は世界全体の宗教を手の上に載せて転がしているのです。釈尊以上のことをお話ししているのです。

 釈尊は悟った後も、地球がなぜできたのかという説明ができなかったのです。人間はなぜいるのかという説明もしていないのです。この説明は法華経にも、維摩経にも、仏説阿弥陀経、大般若経、大量寿経にも書いていません。一万七千六百巻の膨大な仏教経典の中にも全く書いていないのです。密教にもありませんし、顕教にもないのです。

 天地創造の由来を考える人が、今の日本にはいないのです。皆様の人生観は人間が生まれた後の人生観です。だから、人間がなぜ存在するのかという説明が、全然できない状態のままで生きているのです。これをまず改めて頂きたいのです。

 私は絶対についてお話ししているのです。これは聞いてもいい、聞かなくてもいいというものではありません。聞かなければならないことが絶対です。皆様が納得できるかできないかという話ではないのです。

 納得できるかできないかということは、自分を基礎にして考えているからです。自分を基礎にして考えるということが、スケールが小さいのです。

 せめて地球全体を基礎にして考えて下さい。もっと大きく言いますと、地球が出来る前を基礎にして考えるのです。

 つまり、皆様自身が神や仏の場に立ったらいいのです。神仏全体の立場に立つというような大きなスケールで考えれば分かるのです。そうすると、命の本当のことが分かるのです。

 私が話したことが、もし皆様に受け取れるとしたら、皆様は生まれる前から既に救われていたのです。生まれる前から救われていない人は、こういう話はばからしくて聞けないでしょう。こういうスケールで考えて頂きたいのです。

 この世に生まれる前に皆様にはすばらしい前因、前果があったのです。神の一族であったということです。生まれる前に選ばれていたのです。生まれる前に神に選ばれていたという自覚が持てる人は、私のいうことが分かるでしょう。

 こういう人はめったにいないのです。こういうことが本気で考えられる人はめったにいないのです。この世の行いが良いとか悪いということは、どうでもいいのです。頭が良いとか悪いということも小さな問題です。仏がどうとか神がどうとかということも小さな問題です。

 命の本願を知ろうと思ったら、こういう考え方をしなければならないのです。

 命は永遠の昔からあるのです。永遠の昔から永遠の後にまであるのです。この命に皆様が繋がっているのか、繋がっていないのかが問題です。

 私が言うことが分かるとか分からないとかを問題にすることが間違っているのです。はっきり言いますと、皆様の頭は悪すぎるのです。私自身の頭の悪さは皆様に決して負けていません。ただ私は神を信じることができるということだけです。神の中に入っているということだけです。

 私の生まれ性は神から来ていることが、良く分かっています。神を信じて分かったのです。皆様の生まれ性が神から出ているということに同意が出来る方は、分かるでしょう。

 聖書に、「万物は神からいで、神によって成り、神に帰する」とあります(ローマ人への手紙11・36)。英訳では、For of him, and through him, and unto him, are all thingsとなっています。For of Godとは神からやってきたということです。through Godとは、現在、神によって生きているということです。to Godとは神に帰るということです。

 これは聖書の結論ですが、これしか考えようがないのです。親鸞がどう言ったとか、道元がどう言ったとかいろいろと考えても仕方がないのです。親鸞には親鸞の世界があったでしょう。親鸞は永遠の命が分からなかったのです。

 親鸞が好きな人は親鸞を有難く思ったらいいでしょう。親鸞は死んでしまったのです。本当の命が分からないから死んでしまったのです。

 本当の命が分かっている人は死にません。私は死にません。死ぬというのは、神、絶対的な真理から離れることをいうのです。私の肉体はだめになります。肉体は消耗品ですから、やがて使えなくなります。私は肉体を脱ぐに決まっていますが、魂は神と一つになっていますから、神から離れることはないのです。

 皆様の思想は現在のところ、神と一つになっていないのですから、危ういのです。本当に危ういのです。今、死んだらそれでしまいです。

 自分が分かるとか分からないという小さいことを問題にしないで、もっと素直になって頂きたいのです。皆様には生きているという事実があるのです。この事実に立って考えて頂きたいのです。

 自分が分かるとか分からないということは、どうでもいいのです。生きているということが事実です。これがザ・リビング(the living)です。ザ・リビングで考える癖をつけて頂きたいのです。

 生きているという事実は信じる必要がないことです。信じる必要がないことに、しっかり両足をつけて考えたらいいのです。こういう気持ちでいたら、私が言っていることが本当にプラスになるのです。私がいうことを参考意見くらいに思っていたら、プラスにはならないのです。

 前に前生譚ということを言いましたが、これと輪廻転生との関係ですが、宗教でいう輪廻転生は間違っていますが、真面目な意味での輪廻転生は有り得るという言い方もできるのです。

 本当の真理は黒も本当である。白も本当であるということが、はっきり説けなかったらいけないのです。本当の真理は善でもあるが、悪でもあるのです。

 人間が考えている善悪は、この世に生きている間の善悪であって、そんなものはこの世の常識に過ぎないのです。本当の命を掴まえることができると、現世を超越してしまうのです。

 現代はユダヤ人が引っ掻き回している時代ですから、現代の思想に捉われているとだめです。現代の思想が間違っているのです。私は輪廻転生が嘘だと言っていますが、新興宗教GLAの創始者である高橋信次氏が盛んに宣伝している輪廻転生思想が間違っていると言っているのです。

 人間の歴史が始まってから、大体、六千年になりますが、生まれたり死んだりして輪廻転生を繰り返しているのなら、人口の増加は有り得ないのです。1900年の世界人口は16億人であったが、1950年には25億になり、2019年現在では76億人になっているのです。今のペースでいけば、国連の推定では、2050年には90億人になり、21世紀末には100億人を突破すると言われています。

 もし本当に輪廻転生があるのなら、同じ人が何回も生まれ変わっているのですから、人口増加は有り得ない。同じ人口がいつまでも続くはずです。1900年に世界の人口が16億人であったものが、現在76億人になっているのはおかしいのです。

 私がお話ししたいのは、六千年の人間歴史以前のことです。現在、76億人の人が地球上に住んでいますが、76億人の人々が発生しなければならない原因があったということです。

 三百年前にインドにいたとか、五百年前にエジプトにいた。そうして、また生まれて来たという人がいますが、これは全くの迷信です。こういうことを信じて満足している人は、初めから命が分からない人です。こういう人は地獄へ行くに決まっているのです。

 高橋信次氏は「原説般若心経」という本を書いていますが、般若心経が全然分かっていないのです。それを原説だと言っているから驚くのです。全くの宗教家の説を述べているのです。

 宗教を職業にしている人は、皆同じことを言っているのです。私は宗教家ではないので、宗教をぼろくそに攻撃しているのです。


一切空

 釈尊は宗教家ではありません。一切空と言ったのです。一切空は宗教になりません。宗教も空だと言ったのです。般若心経は五蘊皆空、色即是空だと言っています。宗教は空だとはっきり言っているのです。宗教は良かれ悪しかれ、人間の常識の産物です。

 仏教に入廛垂手(にってんすいしゅ)という言葉があります。一度、天に入ってしまってから手を下へ下げて、常識並に話すことを言っているのです。これをしているととても時間を要するのです。何十年も何百年もかかるでしょう。私が現世にいる間に、皆様に悟って頂けるかどうか分かりません。

 入廛垂手して頂きたいと言わずに、超俗的、超学的な気持ちになって頂きたいのです。謙遜な気持ちを持って頂きたいのです。謙遜というのは空っぽになることです。何かの理屈を持っていたら、謙遜とは違うのです。

 皆様は今生まれた嬰児(みどりご)のようになって頂きたいのです。聖書に、「今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」とあるのです(ペテロの第一の手紙2・2)。

 今生まれた嬰児のようにとあるのです。イエス自身が自分のことをベビーと言っているのです。これが分かったら、気持ちに迷いや不信がなくなるのです。いつ死んでもいいという気持ちになるのです。

 これはどういうことかと言いますと、人間の一番大きい間違いは、五十歳の方は五十年間この世に生きて来たと思っていることです。これが全く間違っているのです。五十年間この世に生きてきたという事実はないのです。

 皆様にとって一番大切なことは、今この瞬間に心臓が動いているということだけです。これだけしかないのです。社長であるとか、億万長者であるとか、何歳であるとか、関係がないのです。今生きているということだけが、その人の実体です。

 昨日生きていたということも関係ないのです。社会的な地位とか名誉には関係がないのです。今生きているということを掴まえたらいいのです。今生きているということだけは、信じる必要がない事実です。信じる必要がない事実というのは、真理です。

 信じなければならないというのは、人間の観念の遊戯です。現実という言葉を使いますが、この言葉の使い方さえも間違っているのです。現実というのは、いわゆるリアル(real)ですが、この言い方がもう間違っているのです。

 現実という日は今日という日です。今日の朝から夜までを一日と考えている。日本という国があって、日本社会があり、家庭があると思っている。これが現実ですが、これが嘘です。

 家庭があろうが、日本人であろうが、仕事があろうが、大地震や大津波がくれば、そんなものは何の足しにもならないのです。そういうものは信じられないことです。

 本当に信じられることだけを信じて頂きたいのです。これは、今心臓が動いているということです。これを現前というのです。現前というのは待ったなし、かけ引きなしです。嘘も誠も、利害得失もないのです。

 人間の一切の思想から出てしまった実体が、生きているということです。これを信じるのです。

 困ったことに、年配の皆様は今までいろいろと苦労をしてきたので、六十年間生きていた、七十年間生きていたと思うという癖がついてしまっているのです。この記憶が間違っているのです。

 今この瞬間に生きているという具体的な事実だけを掴んで頂きたいのです。これだけが本当です。なぜかと言いますと、昨日の地球は今はなくなっているのです。

 皆様は昨日の地球があったと考えているのです。昨日の地球を見せなさいと言ったら、どうして見せることができるのでしょうか。昨日の地球も、昨日の自分も、昨日の奥さんもいないのです。

 昨日の自分がいるというのが人間の常識です。昨日の地球は何処を探してもないのです。ただ人間の記憶の中にだけあるのです。

 人間はありもしないものを記憶という形で温存しているのです。これを迷いというのです。昨日の地球さえもないのなら、五十年間生きていたという事実は何処にあるのでしょうか。私は現在常識的には77歳になりますが、問題にしていません。知らん顔をしているのです。77歳というのは嘘だと思っているのです。

 存在と命の二つが分かればいいのです。宗教も人間の学問も文化概念も、存在と命の二つを全く見落としているのです。

 存在ということについての人間の考えが間違っているのです。東洋哲学も西洋哲学も、存在の説明が全然できないのです。釈尊も触れていないのです。

 釈尊は存在と命については全然言及していないのです。ただ人間の考えは全部空であると言っているのです。人間の考えがなぜ空なのかと言いますと、存在と命が分からないからです。

 命と存在について、的確な説明ができないので、人間の常識、学問は全部空だと言っているのです。これは間違いないことです。命と存在が分からないから空だと言っているのです。

 皆様は存在と命が分からないのに、空だと言っているのです。これが間違っているのです。もし存在か命のどちらかが分かれば、空ではないのです。

 日本人はユダヤ人と良く似たところがあって、何も分からないのに根性はあるのです。常識という根性がしっかりあるのです。日本人よりも中国人のほうがもっと素直で、理解が早いようです。思想の入れ替えができるのです。

 ところが、日本人は思想の入れ替えがなかなかできないのです。中国は日本よりもはるかに歴史が古いのに、人間は素直です。日本人はその真似ができないのです。

 日本人は一番頑固で、へそ曲がりな民族です。日本人が存在と命が分からないというのは、致命的な欠陥です。存在と命が分からないものが、神や仏を信じて何になるのでしょうか。

 日本人が考える神や仏は皆人間が造った概念であって、存在と命が分からずに、神仏というのが間違っているのです。

 生まれながらに目が見えない人がいました。この人が四十歳位になって、目が開いたとします。今まで手で触って認識していたのですが、四十歳になって目が開いても、まだ触って認識しているのです。

 目が開いたのですから、見たらすぐに分かるのに、目で見ていることが信じられないのです。こういうことを人間は皆しているのです。

 人間の常識が皆様のハートにこびりついているのです。これが肉の思いです。生まれながらに目が見えない人は、手で触っていろいろなものを認識していたのです。手で触って確認するという観念が牢固としてあるために、目が開いても、まだ手で触って確認しているのです。ただ見ているだけでは信じられないからです。手で触って始めて確認できるのです。皆様はこういうことをしているのです。

 現世に長く生きていたために、自分の観念や概念で自分なりにこの世に生きているという感覚で見ることが、皆様方の習慣になってしまっているのです。こういう見方が皆様の命になってしまっているのですが、これは本当の命ではないのです。

 これは皆様が四十年、五十年とこの世に生きていた命です。本当の命ではないのです。

 命というのは、皆様がこの世で四十年、五十年と経験したものではないのです。

 命は自分で造ったものではありません。自分で造れるはずがないのです。自分が生まれたいと思って生まれたのではないのに、現在の命がどうして自分の命だと思えるのでしょうか。これはただ習慣でそう思っているのです。

 人間は百人が百人、千人が千人共、自分が生きていると思っています。この世の習慣でそう思っているのです。自分の命がある。命は自分のものだという明確な証拠は何処にもありません。

 ところが、人間には自分という意識が神から与えられているのです。これは人は神にかたどりて造られているからです。神にかたどりて造られなければ、神を認識することができないからです。

 神の意識で造ったものを皆様に見せているのです。それを見るために人間は遣わされたのです。神が造ったものを認識すると神が分かるのです。神が分かったら死ななくなるのです。皆様は死なない命を見つけるために、この世に送られたのです。

 神を認識するためには、自分という意識がなければならないのです。経験の当体、認識の当体としての性格が与えられなければ、認識することができないのです。

 犬や猫には認識の当体が与えられていませんから、生きていても自分を認識することができないのです。皆様は自分が生きていることを認識することができるのです。自分という意識が与えられているからです。

 しかし、自分という意識を与えられていても、自分の命ではないのです。これが分からないのです。自分という意識は自分という命を意味するものではないのです。

 そこで、皆様が神を認識しますと、神の子になるのです。神を認識するのは、神の子に決まっているのです。おやじをおやじとして、はっきり認識する人間は、その親の子に決まっているのです。

 神を神として認識する者は、神の子です。そこで、神を正確に認識するかしないかということが、皆様が死ぬか生きるかの境目になるのです。

 神は絶対の自由です。永遠の命です。絶対の存在です。神は本当の存在です。本当の命です。これが分かれば死なないのです。本当の存在か、本当の命のどちらかが分かれば、もう死なないのです。

 神を掴まえるために、人間は自分という意識を与えられているのです。しかし、自分という意識は自分という存在を意味するものではないのです。

 こういう考え方は、ドイツ観念論にもインド哲学にも、あらゆる学問、文化概念にもありません。カントやヘーゲルには全然分からなかったことをお話ししているのです。従って、日本では未だかつて話したことがないことを説明しているのです。

 東京大学の故中村元教授も全く言わなかったことをお話ししているのです。学校の授業を受けるような気持ちで聞かないで、命を受けるという気持ちで聞いて頂きたいのです。

 皆様が私の言っていることに「分かりました、なるほどそういうことですか」と答えたとします。これが空です。これが間違っているのです。


顚倒夢想

 人間が本当に分かったと思うことは、自分が涅槃になってしまうことです。遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃であって、人間の考えは皆、顚倒夢想しているのです。

 人間が肉体的に生きている状態で花を見た場合、例えば、黄色い花を見たとします。しかし、この花は黄色ではないから黄色に見えるのです。葉も緑ではないから緑に見えるのです。

 緑の葉はその緑を拒んでいるから緑に見えるのです。その緑を拒否していて、拒否されたものが、人間の網膜に当っているのです。そこで、緑に見えるのです。緑の葉は緑色ではないことを証明するために緑に見えるのです。

 人間が受け止めている心理状態と、物事の存在状態とは正反対です。黄色に見えるのは、黄色を拒否しているのです。黄色を排除しているから、排除された色が網膜に当っている。そこで、黄色に見えるのです。

 黄色ではないから黄色に見えるのです。皆様が肉体的に生きているという条件は、ネガフィルムみたいなものです。白が黒く映っているのです。黒が白に映るのです。ネガフィルムを焼き付けると白は白、黒は黒の写真ができるのです。

 皆様はこの地球上で世間並に生きている間は、遠離一切顚倒夢想で生活して頂きたいのです。皆様の常識、知識はすべて顚倒夢想しているのです。逆立ちしているのです。

 皆様が般若心経が好きなら、もっと丁寧に読んで頂きたいのです。皆様には丁寧さが足りないのです。一杯の水を飲むにしても、丁寧さが足りないのです。

 歩くにしても丁寧に歩いて下さい。丁寧に歩くと、自分が歩いているのではないことが分かるのです。丁寧に生きるのです。丁寧に生きるということは、自分自身の生活と思って生きないのです。生かされている生活を生きるのです。生かされている命を生きるのです。

 丁寧に歩く、丁寧に座る、丁寧に食べる、丁寧に寝るということだけで、とこしえの命がありありと分かってくるのです。

 生まれる前の命を今生きていることが、はっきり分かるのです。以前にテレビの番組で放映していましたが、胎児は母親の胎内で血液の流れを聞いているのです。生まれた後の胎児が泣いている時に、母親の胎内の血液の流れの音を聞かせると、すぐに泣き止んで、すやすやと眠るのです。

 私は何を皆様にお話ししているのかと言いますと、皆様が生まれる前に持っていた本当の命を述べているのです。生まれる前の命は死なない命です。生まれてからの命は死ぬ命です。

 皆様が今、現在生きているということは、五官の働きによるのです。五官の働きというのは、生まれる前の命の継続です。生まれる前の命をもう一度思い起こして頂きたいのです。

 今生きているということの中に、生まれる前の命があるということが分かりますと、本当の守護の神が分かるのです。自分と一緒にいる天地創造の神が分かるのです。宗教でいう守護の霊という頼りないものではないのです。そういうばかなものではないのです。守護の霊というのは、宗教の造り物です。

 皆様が今甘いものを甘いと思っていることは、この世に生まれてからの感覚ではありません。皆様の舌は生まれてすぐに、おいしい味とおいしくない味が分かるのです。そういう味覚神経は未だに皆様に備わっているのです。

 これは物心がついてからの味覚ではないのです。物心がつく前の味覚です。皆様の五官の根本は、神が皆様に植えた驚くべき能力です。生まれる前に、神が直々に植えた超能力です。これが皆様の五官の本体です。

 皆様が目で見ていること、聞いていることの有難さがどんなものであるのかを知って頂きたい。それがそのまま死なない命であることを知って頂きたいのです。

 現在、皆様が手で触ったり、味わったり、聞いたりしているのは、皆様が生まれる前に神に植えられた本当の命の実物を経験しているのです。これを皆様は考えずに、善悪利害得失ばかりを考えてきたのです。

 皆様はせっかく神に植えられた本当の命を持っていながら、目で見ているとはどういうことか、舌で味わっているとはどういうことかが全く分からない人間になっているのです。だから、皆様の霊魂は死んでいると言わなければならないのです。

 皆様はもう一度、生まれたばかりの清浄潔白な赤ちゃんの状態に帰って頂きたいのです。本当の命を持っている状態に立ち帰って頂きたいのです。

 この世に生まれてから後の皆様の命は死ぬに決まっている命です。ただ死ぬだけでなくて、死んでから必ず地獄へ行く命です。

 現に、皆様は死なない命を持っているのです。これをザ・リビング(the living)というのです。ところが、皆様はザ・リビングによって生きないで、常識によって生きているのです。これがいけないのです。だから、分かったとか分からないとかを言われるのです。

 ところが、本当のことを知りたい、本当の生きがいを聞いたら納得できるというのですが、これが間違っているのです。生まれながらの物心で長い間生きている皆様が、知りたいと言っているのです。これが間違っている皆様の考えです。間違った自分が、納得したい、理解したいと考えているのです。

 皆様をいくら説得しても、皆様の霊魂は目を開かないのです。人間である皆様と、皆様の霊魂とは違うのです。これに気づいて頂きたいのです。

 魂というのは生まれながらの命のことです。人間というのは、この世で生きていた常識による人です。常識人間がいくら分かっても、いくら救われたと思っても、神の前には一切通用しないのです。神の前に通用する人を見つけて頂きたのです。

 この世の常識でいくら分かったと言っても、この世だけのことです。死んでしまったら、全く役に立たないのです。私は永遠に役に立つものをお話ししたいのです。これは何かと言いますと、生まれながらの五官の感覚です。

 皆様に本当の命の目を開いて頂きたいのです。今の人間は生活はしていますが、全く盲目になっているのです。命が見えなくなっているのです。私は皆様に命の目を開いて頂きたいと願っているのです。

 皆様は私の話を何とか理解したいと努力しています。しかし、いくら努力してもだめです。死んでしまうに決まっている人間が努力しているからです。死んでしまう自分ではない、もう一人の人を発見して頂きたいのです。


別の命、別の人格を見つける

 別の人を見つけるのです。自分ではない他分を見つけるのです。神の子である自分です。死を破ったイエスと同じ人格を見つけて頂きたいのです。死を破って復活した人格です。キリスト紀元という新しい世界歴史を造った人です。この人の命と同じ命が皆様にあるのです。これを見つけて頂きたいのです。

 イエスは死を破ったのです。彼は生まれながらの命で生きたからです。生まれながらの命というものを見つけることができるなら、生まれてからの命はどうでもいいのです。

 生まれてからの命、後天的な命は死ぬに決まっている命です。後天的な命から、先天的な命に移ってしまうのです。天に帰ると言ってもいいのです。生まれながらの自分に還元するのです。これをお話ししたいのです。

 パウロは、「肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安とである」と言っています(ローマ人への手紙8・6)。また、七節には、「肉の思いは神に敵するからである」とあります。この六節が新約聖書全体の結論になるのです。

 肉の思いとは何かと言いますと、自分が生きているという思いです。今まで自分が生きてきた。今も自分が生きていると思っているのです。

 肉の思いというのは、肉体的に自分が生きているという思いです。人間の常識、知識です。皆様が常識、知識で生きている状態では、魂が全く分からないのです。魂が沈黙しているのです。常識、知識によって魂が沈黙しているのです。もっとはっきり言いますと、魂が殺されているのです。魂が絞め殺されているのです。

 人間の常識は恐ろしいものです。これを悪魔の知恵というのです。悪魔の思いともいうのです。人間は悪魔の思いを自分の思いと思っているのです。悪魔の思いを担いでいるのです。

 魂は神の子です。人間は悪魔の思いによって、神の子を絞め殺しているのです。私は皆様の中にある神の子の目を開いて、神の子の目が見えるようにしたいのです。そうしたら、悪魔の思いを踏みつけることができるからです。

 皆様が今まで生きていた悪魔の思いを、活用する方法はあるのです。皆様が今まで生きていた命を踏み台にすればいいのです。しかし、今までの常識で生きていると、皆様は必ず死んでしまいます。

 今まで皆様は、神に逆らっていたために、この世を去ってから徹底的に裁かれるのです。これが怖いのです。

 ただ死ぬだけなら何でもないのですが、死んでから必ず裁かれるのです。それは、生きている間に魂を踏みつけて、虐待を続けてきたからです。神の子をひどい目にあわしてきたからです。

 自分が救われたい、自分が幸福になりたい、自分が分かりたいと考えていたのです。自分が悟りたい、自分が理解したい、自分が納得したいと考えてきたのです。これがいけないのです。

 自分が分かっているというのは、悪魔が分かっているということです。昔、人間の腸の中に寄生虫がいました。七メートル、十メートルものサナダ虫がいて、食べたものの栄養をどんどん奪っていくのです。

 皆様の常識、知識は皆様の中にへばりついているサナダ虫です。これを私は徹底的に退治したいのです。

 禅宗のお坊さんが失敗するのは、自分の整理の仕方が不徹底なのです。般若心経は一切空と言います。五蘊皆空、究竟涅槃と言っていますが、涅槃というのは冷えて消えてなくなってしまうことです。般若心経を読んでいるお坊さんが、冷えて、消えて、なくなったつもりでいるのです。ところが、別の人格を掴まえていないから、だめです。

 消えてしまうのは結構です。消えてしまって、別の人格を掴まえていないために、また、元に返ってしまうのです。捨てるのは結構ですが、その後が悪いのです。コップにある古い水を捨てたのはいいのですが、新しい水を入れておかないと、また、古い水が戻ってくるのです。

 般若心経の空というのは、非常に良い思想です。全世界の文化概念の中で、般若心経ほど優れた思想は他にはありません。

 般若心経は世界文明の中で、冠たる文化概念です。人間の考えは一切空だと言っているのです。これはすばらしい思想です。空というのは、空っぽになったということです。空っぽになったら何を入れるのか。入れなくて放っておきますと、ごみだらけになるか、ばい菌が入るか、碌でもないことになるのです。

 仏教ではこの解決方法がないのです。空っぽにはすると言います。本当は空っぽにはしませんが、白隠禅師でも自分の考えを放下したのは良かったのですが、自分の考えに変わる本当のものを持ったのかと言いますと、持っていないのです。ただ空っぽになって終わりです。だから、白隠の弟子、その孫弟子も全部だめになったのです。白隠でさえも本当のことが分からなかったのです。

 一休和尚もそうです。あれだけの達人でもだめでした。すべてのものを捨ててしまった。しかし、どうしても捨てられないものがあった。これがセックスです。一休和尚はセックスが大好きでした。空っぽになれなかったのです。

 空っぽになったら、何を入れるのかです。何かを入れなければいけないのです。何も入れずに放っておくからだめになるのです。何も入れずに放っておいたら、捨てる前よりもっと悪くなるのです。禅宗のお坊さんの間違いはここにあるのです。

 色即是空、空即是色ですべてを放下した。一切空になったのは良かったのです。しかし、一休和尚は本当の命を入れなかったために、だめになったのです。


明けの明星


 白隠も一休もやはり宗教を信じていたのです。釈尊は明けの明星を見ているのです。釈尊は自分自身の妄念を全部出したのです。そうして、明けの明星をはっきり入れたのです。これが良かったのです。

 釈尊のように明けの明星を入れた人は、本当のことが薄々分かったのです。これが三人の学者に伝承されたのです。インドからはるばるベツレヘムのイエスの誕生をお祝いに行ったのです。この秘密が世界中の宗教家、哲学者に全然分からないのです。

 インドから三人の博士が、ユダヤのベツレヘムに行った。イエスの誕生を祝っているのです。この秘密が分からないのです。

 本当の悟りとは何か。明けの明星です。悟っただけではだめです。明けの明星を受け入れなかったらいけないのです。


 聖書には、「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗闇に輝くともしびとして、それに目をとめているがよい」とあります(ペテロの第二の手紙1・19)。


 これが分からないのです。世界中のキリスト教の牧師に、明けの明星が分かる人が一人もいないのです。仏教の方でも明星の説明ができるお坊さんは一人もいないのです。

 明けの明星をどうして自分の中に見るかについて、説明ができる牧師さんが一人もいないのです。

 世界中の仏教もキリスト教も、明けの明星によって一つになるのです。東洋文明の心髄は釈尊の悟りです。西洋文明の心髄はイエス・キリストの誕生です。キリストと仏陀が明けの明星によって一つになるのです。この秘密が世界中の文明に分からないのです。

 キリスト教ははっきり間違っているのです。ユダヤ人のモーセが間違っていたのです。モーセの律法の間違いと、キリスト教神学の間違いとがあるのです。ユダヤ人が指導している白人が間違っているのです。

 私たち日本人が、モーセの間違いとキリスト教神学の間違いを指摘しなければならないのです。

 世界の文明を新しくする決め手が明けの明星です。これが全世界の人間を救う決め手です。

 肉の思いは死であるが、霊の思いは命であり平安であると言っています。肉の思いによって生きているから、死んでしまうのです。霊の思い方へ鞍替えしたらいいのです。

 生きているということを見ないで、生かされているということを見るのです。柔和謙遜になるのです。そうしたら、大胆不敵な人になれるのです。

 本当の命とは何かと言いますと、皆様が鼻から息をしていることです。これが本当の命です。今、心臓が動いていることが命です。これをリビングというのです。生きていることがリビングです。

 生きているということが命の本物です。現在、皆様の心臓が動いていることが生きていることですが、これをよく見ようとしないで、ただ漠然として命を抽象概念のように考えている。

 私が、「命とは何でしょうか」と皆様に質問したとします。皆様は立ったり、座ったり、動いたり、走ったりすることだと言うでしょう。これが概念です。本当の命とは心臓が動いていることです。これがリビングです。正確に言いますと、ザ・リビングです。ザ・リビングというのが本当の命です。これだけがあるのです。

 ザ・リビングが皆様の本体です。固有名詞の人間はどうでもいいのです。心臓が動いていることが皆様の命の本体です。加藤さんという固有名詞の人間は抜け殻です。これを本当の自分だと思っているから、死ななければならないのです。

 心臓が動いていることが自分の本体だということが分かりますと、イエスの復活の命がはっきり分かるのです。イエスが復活したとはどういうことかが分かるのです。

 心臓が動いていることが死なない命のしるしです。心臓は、オギャーとこの世に生まれた瞬間から、今もなお動いているのです。一度も止まったことがないのです。

 心臓が動いているということが、後天的ではない命、先天的な死なない命のシンボルになるのです。心臓が動いていることの実体を見つけたらいいのです。

 皆様の心臓が動いているということは、神の命で動いているのです。自分の命ではないのです。神の命が心臓に宿っているのです。このことに気がついたらいいのです。

 神とは何か。人が存在しているということが神です。ありてあるということです。有りて在るのです。有なり在なりです。これが皆様の本体です。固有名詞の自分ではないのです。

 存在と命とは同じものです。存在と命は裏表の関係で同じものです。これが皆様の本体です。

 固有名詞の自分がいるのではありません。平明な気持ちになったら分かるのです。死んだら負けです。いくらお金を儲けても、何億円の生命保険に入っても、死んだら負けです。絶対に死んだらいけないのです。

 皆様は現在、死なない命を持っているのです。オギャーと生まれた時から心臓が動いていますから、この命を本当に悟ったらいいのです。そのためには、イエスを勉強しなければならないのです。これは仕方がないのです。

 これはキリスト教の勉強をするのではありません。イエス自身を掴まえるのです。イエス・キリスト様を信じるのではない。イエスという男を掴まえるのです。

 カトリックのキリスト様は金縁の額に入っているからいけないのです。額縁に入っているキリスト様は小便をしないキリストです。これは宗教概念のキリストです。小便をするキリストを掴まえなかったらいけないのです。

 男性は女性に惚れた経験があるでしょう。その経験を生かして頂きたいのです。神に惚れるのです。神は現在、皆様に惚れているのです。神が皆様に惚れているのに、皆様はそれに対して全然快く思わないのです。もったいないことです。

 全知全能の神が皆様に惚れていることが分からないのでしょうか。神が皆様に惚れている証拠に花が咲いているのです。

 神は花を咲かせて、おいしいものを食べさせて、皆様を喜ばせようとしているのです。神が皆様の魂にどれだけ惚れているかです。

 花が咲いていることは、神のラブコールです。神が愛の信号を送っているのです。マグロの味、鯛の味、牛肉の味、果物の味は、五官を通して、人の魂に呼びかけているのです。

 五官は人間と神との媒体をしているのです。聴覚、視覚、味覚は、神のラブコールを皆様の魂に伝達しているのです。

 鰻屋さんの前を通れば、おいしそうなにおいがします。神のラブコールが分かるのです。こんなに神が皆様にラブコールしているのに、人間は全然気が付かないのです。悪いのは人間です。

 人間が現世に生きていたら、神の愛をはっきり受け止めるはずです。ところが、受け止められていない。肉の思いで生きているから、受け止められていないのです。

 肉の思いは死です。皆様の常識が皆様の霊魂を殺しているのです。どんな上等な常識でもだめです。この世に通用するものは、神には通用しないからです。神に通用するものは、この世に通用しないのです。

 私はこの世に通用しないことをお話ししているのです。この世に通用しない神の思想を申し上げているのです。

 この世と神の国とは根本が違います。死ぬべき命と死なない命とは、根本的に了見が違います。私の方から神の思想を値下げしてお話ししたら分かりやすいのですが、値下げすると、宗教になってしまうのです。

 宗教になったら皆様はすぐに分かるのです。キリスト教のようなことを言えば良いのですから、皆様は大歓迎するでしょう。その代わりに、皆様は本当の命を掴まえられなくなるのです。

 肉の思いで生きていたら、必ず死んでしまうのです。皆様は赤ん坊です。皆様は自分が赤ん坊だということが分からないのです。

 皆様は分かっていると思っているのです。いろいろなことを経験したと思っています。これが間違っているのです。五十歳の方は五十年の人生があると思っています。五十年間生きてきたと思っています。これが間違っているのです。人間が生きているのは、瞬間、瞬間です。瞬間しか生きていないのです。

 人間は毎日生きているということを通して、本当に素晴らしいことを教えられているのです。神から教えられているのです。


神の実物


 皆様の心臓が動いていることが、神の実物です。エネルギーというのは、神の命から湧き出す命の波長です。命の波長がエネルギーです。

 アポロ宇宙船に乗った宇宙飛行士が、「月から地球を見ると、地球は人間が考えているようなものではないことがありありと分かる。神が厳然として存在していることが分かる」と言っていました。

 地球から月が見えます。神は人間に月を見せているのです。何も宇宙飛行士にならなくてもいいのです。地球から月を見ているということは、月から地球を見ることができることを意味しているのです。わざわざ月へ行かなくても、地球から月が見えるということは、月から地球が見えることを皆様に悟らせようとしているのです。

 「親の心子知らず」と言いますけれど、もう少し皆様には命の尊さを考えて頂きたいのです。皆様は死にたくないと思っているのに、命の尊さを全く考えようとしていないのです。これは本当に不心得なことです。

 私の話を聞いた時には分かったような気持ちになるけれど、家に帰ったら分からないと言われます。家に帰ったら分からないという自分を自分だと思っているからです。この自分を自分だと思っていますと、何回聞いても、いくら勉強してもだめです。

 そういう駄々っ子のような気持ちは、この世にいる間は通用しますけれど、やがて心臓が止まる時が来ると、もうだめです。駄々っ子は通用しなくなるのです。

 今の人間の意識は悪魔が人間に与えた意識です。これがカルマです。人間は自分が生きていると思っています。これは悪魔が与えた意識です。これを叩き壊すのです。

 五蘊皆空を実行するのです。仏教に「人空」という思想があるのです。人空は「我空」と「生空」に分かれているのです。我空というのは我はいないのです。生空というのは、生きているということもないのです。

 我がいるという考えも空です。自分が生きているということも空です。ところが、心臓が動いているのは何かということが分からないのです。

 自分がいないと言っても、今、目で見ている当体があるのです。お腹が空いたという当体があるのです。

 「悟りつつ身はなきものと思えども、雪の降る日は寒くもあるかな」という西行の歌があります。我空、生空と言っても、寒さに震えているものがいる。これは何かというと、仏教では返事ができないのです。

 老子も分からなかったのです。無の働きということを老子は言いましたが、無の本体は何か。何処から無の働きが出てくるのか、この説明が老子にはできなかったのです。

 釈尊もできなかったのです。私はイエスの受け売りをしているからできるのです。自我意識の私は空ですが、今、息を出し入れしている私がいるのです。これがリビングです。心臓が動いている当体です。これは自我意識に関係がない自分です。

 真理は極めて平凡な所にあるのです。一番難しいことが一番平凡なことです。一番貴重なこと、一番尊いことは、一番ありふれたことです。

 神というのは、最も偉大なことですが、最も平凡な存在です。神の実体を掴まえて頂きたいのです。皆様は毎日、夜寝るのです。寝るというのは意識がなくなることです。これは死ぬということです。

 毎日、眠るということは、毎日死ぬということです。起きるということは生まれるということです。心臓がずっと動いていますけれど、心臓が動いているという条件の基に、神は皆様に死ぬことと生まれることを、毎日毎日、経験させているのです。

 眠ったら人事不省に陥ります。人事不省とは死んだことです。イエスは、「夜が来たら仕事はできない、昼のうちに仕事をしなさい」と言っています。夜は死んだことだから仕事ができないのです。昼は生きているから仕事ができるのです。

 人間は毎日死んで、翌朝生きているのです。一年に三百六十五回死んで、三百六十五回生きるのです。だから、人間は赤ん坊です。このことが本当に分かったら、皆様の頑なな気持ちがほとけるのです。これを仏というのです。

 自分がいる。これが分からないと思っているのは、解けていないからです。

 皆様が今朝起きたのは生まれたのです。夜眠るのは死ぬことです。なぜ五十年生きてきた、六十年生きてきたと思うのでしょうか。

 神の処置を素直に受け入れて頂きたいのです。あらゆる宗教の良い所だけを摘み食いしたらキリストになるのです。キリストを解体したら宗教になるのです。断片だけを見ているから間違ってしまうのです。宗教になるのです。

 砂糖の味が神のラブコールです。花の色がラブコールです。桜の花が咲いていることが、ラブコールです。神は人間にラブコールしているのです。

 毎日、寝たり起きたりしていることは、神が命のあり方を直接教えているのです。ところが、人間は常識ばかりを信じている。だから、死んでしまうのです。

 人間の常識ほど当てにならないものはありません。神のやり方は客観的事実です。これは信頼する値打ちがあるのです。主観論は信頼できないのです。主観を捨てて、客観を見るのです。

 お米の味、水の味、果物の味、魚の味、太陽の光、空の青さ、海の青さ、新緑の緑が神を示しているのです。これをよく見たら、神の正体が分かるのです。

 自分が今生まれた嬰児であるということに気がつかないと、自分の理屈に自分が負けるのです。嬰児であることが分かれば、もう負けないのです。

 ペテロは、「今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と言っているのです(ペテロの第一の手紙2・2)。誠の霊の乳を慕うことは、乳飲み子ではできません。大人でないとできないのです。大人でないとできないようなことを、嬰児の気持ちになってするのです。

 皆様はもっと子供じみた、淡々とした気持ちになって頂きたいのです。大人の根性が悪いのです。















(内容は梶原和義先生の著書引用)

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