現在の人間はとんでもない考え違いをしているのです。先日ある方が、人間関係でいつもごたごたしている。精神的な問題や、感情的なことでいつももめている。どうしたらいいのでしょうかという話をしておられました。
個人としても混乱がありますし、国家にも混乱がある。人間は六千年の間、こういうことを続けてきたのです。六千年の間、人間はごたごたと混乱してきたのです。地震や津波の不安、洪水や台風、不景気、倒産、失業の不安、様々な病気の不安を持ちながら生きてきたのです。
人間は何のために生きているかというこの簡単な問題が、未だに解決されていないのです。未だに分からないのです。
国は何のためにあるのでしょうか。世の中は何のためにあるのでしょうか。こういうものを造っている人間は何のために生きているのかという、極めて素朴な第一の問題が分かっていないのです。
一体何のために文明生活をしてきたのでしょうか。人間文明は錯覚の塊です。なぜ錯覚の塊になるかと言いますと、死ぬに決まっている人間が集まって生きているからです。死ぬに決まっている人間が造ったのが文明です。これは果たして文明という価値があるかということです。
死ぬに決まっている人間、また死んでしまった人間が集まって歴史を造ってきました。学問を残してきました。これに何の価値があるのでしょうか。死んでしまった人間の思想に、どういう意味があるのでしょうか。
命には二種類あります。絶対に死んでしまうに決まっている命と、絶対に死なない命と二つの命があります。死ぬに決まっている命と、死なない命と二つの命があるのです。皆様はどちらの命を持っていらっしゃるのでしょうか。
死ぬに決まっている命を自分の命だと思っていますと、必ず死ぬことになるのです。こういう単純でばかみたいな問題が、今の人間には分かっていないのです。
死にたくないという気持ちは誰にでもあるのです。死にたくないと考えていながら、死なねばならないと思っています。これはどういうことでしょうか。
人間はこういう根本的な違いを鵜呑みにしたままの状態で、文明を造ってきたのです。
人間は生きていますが、命がどういうものかが分かっていないのです。これはおかしいことです。
生きているということは、命を経験しているのです。皆様は現在命を経験していますけれど、命とは何かということになりますと、分からないのです。
人間文明は錯覚の塊
人間文明はそういう錯覚の塊です。原子爆弾一つさえもやめることができないほど、人間は愚かです。これはアメリカやロシアの指導者だけの話ではありません。大きく言えばアメリカやロシアの指導者の問題ですが、小さく言えば人間どうしのお付き合いには、必ず矛盾があるのです。
皆様の家庭の中にもごたごたがあるでしょう。表面に現われなくても、内面的に問題があるに決まっているのです。
命の実体が分かっていない。本当の命に生きていない。人間の常識で生きているから、そういうことになるのです。人間の常識は命を知らない人間たちが造った便宜上の考え方です。こんなものは初めから当てにならないのです。
人間は常識で生活しているのです。生きていながら命が分かっていないということが、まともな生き方をしていないということの明々白々な証明になるのです。
般若心経はそういう考え方が根本から間違っていると、はっきり言っているのです。般若心経を読んでいる人は日本にはたくさんいます。一千万人もいるでしょう。ところが、般若心経の内容が全く分かっていないのです。
般若心経の字句の説明をする人はたくさんいますけれど、般若心経に現われている五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃という言葉を、自分自身の命として実行している人は一人もいないのです。
般若心経の一切空という考え方、五蘊皆空という考え方を本当に実行することになりますと、現在の日本の仏教のあり方は、ほとんど消えてしまうでしょう。
どうして仏教が間違ったのかと言いますと、個々の人間が命についてまともな考え方をしていない。また宗教家も般若心経に対してまともな考え方をしていないからです。宗教観念で般若心経を捉えていますけれど、自分自身の命の問題として、切実な考え方で取り上げていないのです。
般若心経の一切空という考え方、また色即是空という考え方が自分自身の生活の実体にならなくても、宗教的ならそれでいいのです。
聖書の場合も同様です。キリストによって罪が許されると言いますけれど、本当に罪が許されるのかどうか、これが分からなくても構わないのです。キリスト教ならどちらでもいいのです。
宗教は信じてもいいし、信じなくてもいいのです。どちらでもいいのです。般若心経と聖書を宗教として取り上げますと、本気になって勉強する気持ちにならないのです。これは大変な間違いです。
日本の憲法には信教の自由をうたっています。宗教は信じてもいいし、信じなくてもいい、勝手にしなさいと言っているのです。宗教はそんなものです。勝手にしたらいいのです。
ところが、命の問題になりますと、勝手にしろではすまないのです。皆様が生きるか死ぬかの問題です。何のために生きているのか。死んでからどうなるかという問題です。これが全く分からないのです。分からないままで人生の結論がつくと思われるのでしょうか。
皆様は五十年、六十年と現世に生きてきました。人生の経験を十分されたと思いますが、一体何を経験されたのでしょうか。命について何を経験されたのでしょうか。商売のこととか、仕事のこと、家庭のことについてはお分かりでしょう。そういうことは十年も経験したら分かります。
ところが、肝心要の命のことが全然分かっていないのです。何のために生きているのか。なぜ死ななければならないのか。死んでからどうなるのか。こういうことが全然分かっていないのです。
死んだらしまいという人がいますが、死んだらしまいとどうして言えるのでしょうか。死んだらしまいというのなら墓を造る必要がないのです。死んだらしまいなら葬式もする必要がないのです。
ところが、葬式をしなければいけないというのが、それぞれの家庭の大問題になるのです。宗教を全然問題にしなかった旧ソ連でさえも、レーニンの墓はとても立派なものでした。霊魂を全然問題にしないはずの唯物史観の旧ソ連では、葬式を大々的に挙行し、巨大な墓を造っているのです。共産主義国の北朝鮮の指導者だった金日成の墓も立派なものです。
人間は思想とか主義に関係なく、死んだ人をそのまま捨てておくことができないのです。どうしてもできないのです。死後があるに決まっているからです。
現世に生きていたらそれでいいという無責任な考え方でいいのでしょうか。現世に生きているというのはどういう意味を持つのか。このことがはっきり分かれば、死なない命を見つけることはできるのです。
現在皆様が生きていることを、正確に、綿密に見つめていけば死なない命が見つかるのです。
私たちは死なない命を見つけるために、新しい世界観を創建する必要があるのです。
日本人は生活することには大変熱心ですが、命の問題については全然考えようとしていない。死んでから墓を建てようというくらいのことは考えていますけれど、命のことは考えないのです。
生活のことは熱心に考えるが命のことを全く考えないというのは、全く無責任な、無自覚な考えです。人生についての正しい考え方が全くないのです。これは日本人の大欠点です。
日本には以前から般若心経に好意を持っている人がたくさんいます。今から千三百年程前の万葉集とか、古今集を読んでみますと、空という感覚、諸行無常的な感覚がたくさん出ています。
諸行無常
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静が仏教の三法印ですが、諸行無常の感覚が日本文化の中に非常にはっきり出ているのです。
ところが、明治以降の日本の文化には、そういう真面目な考え方がほとんどなくなっているのです。ユダヤ的な考え方になってしまったのです。
近代文明、現代文明を引きずり回しているのは、ユダヤ人グループです。白人を引きずり回しているのがユダヤ人です。経済意識、政治意識、法律意識、人権主義はほとんどユダヤ人によって造られたものです。
ユダヤ主義思想が日本に入った結果、日本の諸行無常的な良さは、ほとんど日本社会から消え去っているのです。真面目な人生観がなくなっているのです。
最も、日本の王朝時代の人々が、真面目に命を認識していたのかと言いますと、そうではなかったのです。しかし、現在の日本人よりは比較にならない程真面目であったということができるのです。
人間はただ生きているだけでは何にもならないのです。
六千年の人間文明は何をしていたのか。ただ現世に生きていただけです。ただ矛盾と混乱が続いていただけです。本質的な意味における文明の進歩は全くありません。ただ生活の形が変化しただけです。こんな文明は全く価値がありません。
人間の本質、命について考えない文明は、全く文明という名にふさわしくないものです。
人間はでたらめな生活をしているのです。般若心経は彼岸へ渡ると言っているのですが、向こう側の岸へ渡ることを提唱しているのです。
般若波羅蜜多とは、向こう岸へ渡る知恵をいうのです。ところが、日本では般若心経を一千万人の人が愛好していますが、向こう岸へ渡っている人が一人もいないのです。こんなばかなことがあっていいのでしょうか。
向こう岸へ渡るというのは、死なない命を見つけているということです。死なない命があることを、はっきり宣言している人が、今の日本には一人もいないのです。
日本人は命の本質を全然分かろうとしないから分からないのです。分かろうとしたら、命の本質は誰でも分かるのです。皆様が現在生きている状態を冷静にご覧になれば、命の本質は分かるのです。
目の働きがどのようになっているのか。皆様の目は空(くう)を見ているのです。形がないものを見ているのです。例えば、ご馳走を見ると、おいしそうだと見えるでしょう。マグロの刺身をご覧になったらおいしそうだと思われます。おいしそうだというのは空(くう)です。目に見えないものは空(くう)ですが、それを皆様の目は見ているのです。人間の五官、霊魂はそういう微妙な働きをしているのです。
皆様は自分の魂のことを落ち着いて考えれば、死なない命を見つけることくらいは何でもないのです。
現に皆様の五官は、命の本質を見極めるだけの能力を十分に持っているのです。
皆様は現在この世に生きていますが、それはこの世に生まれる前に命の種があったということです。だから、現世に生まれてきたのです。
生まれるべく原因があったから、生まれてきたという結果があるのです。その原因は何であったのか。生まれる前の命の本質が、五官の本体として現在働いているのです。目の働き、耳の働き、舌の働きとして魂の中心になっているのです。
五官をよくご覧になれば、生まれる前の命、死なない命が分かるに決まっているのです。
これをはっきり知るためには、現在生きている命についての考え違いを、根本的に修正する必要があるのです。これが般若波羅蜜多です。
この世に生まれてから後の考え方、いわゆる物心を根本から捨ててしまうことです。五蘊皆空はこれを言っているのです。考え方を捨てるのです。命を捨てるのではありません。
人間は死ぬべき命を自分の命だと考えているから死ぬのです。死ぬべき命を自分のものだと考えているので、、この考えを捨ててしまえば、死なない命が皆様に分かるのです。分かるに決まっているのです。これが五蘊皆空の原理です。般若波羅蜜多とはこのことです。
この世に生まれてきた時の皆様は、死なない命で生きていました。ところが、この世の中でだんだん成育して物心がついたのです。自我意識を持ったのです。物心と自我意識をしっかり持って、大人になったのです。
大人の知恵はこの世の常識、知識で固まってしまっているのです。命が分かっていないのです。仕事のこと、家庭のこと、自分の生活のことで頭がいっぱいになっている。こういう状態では、命の本質は全く分かりません。
皆様は自分が生きていると考えています。これがこんがらがった考えです。命は皆様のものではありません。天のものです。この世に生まれてきたということは、業を背負い込んだことです。
皆様がこの世に生まれたということは、業を背負い込んだことになるのです。生まれてきた。この世に生きているということが業です。これを果たしてしまわなければ、本当の命は分かりません。
業を果たす
業を果たすということは大仕事のように聞こえますけれど、業というのは、考え違いのことです。自分が生きていると思うことが、自分の業です。自分が幸いになりたいと思うことが人間の業です。これを捨ててしまうのです。捨ててしまえば業は果てるのです。自分が生きているという思いを捨ててしまえばいいのです。
色即是空ということが本当に分かれば、皆様の業はさらっと消えてしまうのです。そうすると初めて、迷いではない、本当の命が見えてくるのです。必ず見えてくるのです。
命を捨てるのではありません。自分の考え違いを捨てるのです。これは当たり前のことです。自分の考え違いを捨てるのですから、全く当たり前のことです。ところが、これができないのです。だから死ななくてもいいものが、みすみす死ななければならないことになるのです。
死んだ後に、霊魂の裁きという問題があるから困るのです。死んでしまいなら何でもないのですが、死んでしまいにはならないのです。
現世に命を持って生まれてきた者が、その命を正しく生きていないということは、命そのものを冒涜したことになるのです。命を冒涜した者は、その責任を追及されることになるのです。だから困るのです。
人間文明が始まってから六千年経過しました。その間、人間は生きてきましたが、命を知らなかったのです。何とか命を知ろうとした人は、相当たくさんいたでしょう。
古代ギリシャでも、また中世の東洋でも、近世の白人社会でも、日本でも、本当のことを知ろうとした人はずいぶんいたでしょう。
ところが命の本質を考えようとした人はあまり多くないでしょう。釈尊は人間が生きていることが空である、五蘊皆空を悟ったのです。
釈尊が空と言ったのは、空と言えるだけの実を捉えたのではないかと言えるのです。彼は実を見ることができた。つまり、明けの明星を見て悟りを開いたのですが、自分が生きているのが本当のものではないことを見極めたのです。
現在人間が生きているのは死ぬ命に生きているのです。死ぬべき命を自分の命だと思っている。こういう間違いをしているのです。
これをはっきり打開したのがイエスです。死を破ったという事実があるのです。これが新約聖書の中心テーマです。
新約聖書は永遠のベストセラーと言われていまして、世界中の人間に読まれているのです。その中にイエスが死を破ったという事実が、何百回も書かれているのです。
イエスが死を破ったということは、歴史的事実として認定せざるを得ないのです。人類歴史の中で死を破ったという事実はこの一例だけです。
日曜日はイエスの復活記念日です。イエスは命の実体を正確に看破したのです。イエスは死んだけれど、死ぬべき命ではなかったので、黄泉(よみ)の世界から追い戻されたのです。
命を勉強するという立場から考えて、イエスの復活だけは信用できるのです。
現在人間が生きていることが空である。これも信用できるのです。現在生きている人間は死ぬに決まっているのです。だから、生きている人間は空です。また、イエスが死を破ったという事実は本当のことです。この二つのこと以外に信用できるものはないのです。
命を勉強するという角度から見て、本当に信用できるのは釈尊とイエスしかいないのです。
人間は生まれたいと思って生まれたのではありません。人間は生まれるべく余儀なくされたのです。生まれさせられたのです。
生まれさせられたというのは、自分の意志で生まれたのではないということです。また、親の意志で生まれたのでもない。そうすると誰の意志なのか。天の意志、神の意志によって生まれたのです。
この場合の神というのは、日本の八百万の神々とは違います。人間に命を与えるもの、または命そのものの実体の人格です。宇宙人格、宇宙生命が神です。
このような絶対者の意志によらなければ、人間は生まれてくるはずがないのです。
人生が業であるのはどういうことかと言いますと、人生は与件です。与件というのは与えられた条件という意味です。人間は自分が生まれたいと考えたものでもない。また日本に生まれたいと思ったのでもない。また、今の両親の子供になりたいと思ったのでもない。男になりたいとか女になりたいと思ったのでもない。
人間は一切の条件に口出しをすることがなかったのです。一切与えられた条件によって生きているのです。人間は与えられた条件でしか生活できないのです。
例えば、自分の体重とか身長とかいうものも、与えられた条件であって、与えられた条件以外の生活をしようと思ってもできないのです。
人間は基本的人権と言いますけれど、自分が生かされている条件を自分でどうすることもできません。与えられた条件でなければ生きていけないのです。これが人生の本質です。これが業です。
基本的人権といくら言っても、業(ごう)から逃れることはできません。人間はこの世に生まれるべく余儀なくされたことが業の本質です。
そこで、命とは何か、人間は何のために存在するのか、何のために生きているのかという問題に取り組むのでなかったら、業を果たすことは絶対にできません。私たちが地球に存在することが業です。存在の根本が何であるかということを勉強するしか、業を果たす方法はないのです。
この問題について釈尊は生老病死という問題から取り組んだのです。なぜ人間は生まれたのか。なぜ死んでいくのか。なぜ年老いて病気になるのか。この問題に取り組んだのです。
人間存在の根本問題に取り組む以外に業を果たす方法はありません。このように言いますと、とても難しい問題のように思いますが、自分が生きていることが間違っているということさえ分かれば業が果てるのです。
人間は何が間違っていると言っても、自分が生きていると考えることほど大きい間違いはありません。自分が生きていると考えることが第一の業です。自分が生きているという考えが、間違っていることに気づけば、業を果たすための第一の関門を突破できるのです。
一番大きい問題は自分の命があると思っていることです。これを撤回することです。皆様は自分が生きているという気持ちをやめたとしても、皆様の命がなくなるのではありません。やはり心臓が動いているのです。従って、自分が生きているという誤った考えを捨ててしまっても、皆様が生きているという客観的事実は少しも変わりません。
皆様方の命の本質を見極めるためにも、自分が生きているというこの観念を捨ててしまうことが、業を果たすことの急所になると思われるのです。
キリスト教の人々は自分が救われたいと思って聖書を勉強していますが、これが間違っているのです。イエスは、「自分の命を救おうと思う者はそれを失う」と言っています(マタイによる福音書16・25)。これがキリスト教の人々は分かっていないのです。
キリスト教会に行く人々は、自分の魂が救われたい。自分の命が救われたいと思う人たちが行くのです。私がキリスト教が間違っていると断言する理由はここにあるのです。
自分を捨てる
自分が救われたいと思う者は、イエスの言葉に反しているのです。イエスは、「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従ってきなさい」と言っています(同16・24)。
自分を捨てなさいと言っています。自分が生きているという気持ちを捨てるのです。自分が生きているという気持ちを持ったままの状態では、自分を捨てるというイエスの第一条件に反していることになるのです。これもまた、キリスト教では言わないのです。
イエスの名、the name of Jesusがキリスト教では分かっていないのです。御名を崇めさせたまえというのは神の御名、父の御名のことを言っているのです。これはマタイによる福音書の六章九節にありまして、御名を崇めるとはどうすることか、これもキリスト教の人々は分かっていないでしょう。
御名を崇めるとはどうすることなのか。崇めるとはどうしたらいいのか。具体的にどうすることか。これが分からないのです。
それから、ヨハネによる福音書の一章十二節に、「彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には」とありますけれど、これが分からないのです。
彼を受け入れるとはイエスが救い主として信じることですが、これは分かりますが、イエスの名を信じるとはどうすることか。このことをキリスト教では全く教えていないのです。
キリスト教ではこういう重大なテーマを見過ごしているのです。本当の神が分かっていないからです。
これは仏教でも言えることですが、阿弥陀如来の名号を唱えていますけれど、阿弥陀如来の名号とはどういうことなのか。これが分からないのです。
聖書でもイエス・キリストの名号がさっぱり分からないのです。実はこれが本当の命です。大無量寿経とか、仏説阿弥陀経とヨハネによる福音書を並べて見ていきますと、よく分かるのです。
阿弥陀如来の名号とイエス・キリストを並べてみると、とてもおもしろいものがあるのです。興味津々たるものがあるのです。
こういう聖書の急所が、キリスト教では分かっていないのです。仏教も阿弥陀如来の急所が分かっていないのです。阿弥陀如来の急所は阿弥陀如来の名号です。ナムアミダブツとは何であるのか。これが分かっていないのです。ただナムアミダー、ナムアミダーと唱えていれば救われると思っているのです。こういう観念が宗教の悪い点です。
イエスの名の中に命があるのです。そこで皆様が神の命を自分の命にしたいと考えたら、イエスの名を掴まえたらいいのです。そうすると、イエスがどういう生活をしていたのか。どんな生き方をしていたのかが分かるのです。
これが急所です。新約聖書の急所はイエスの名前です。
天上天下唯我独尊
釈尊が誕生した時に、「天上天下唯我独尊」と言ったという伝説がありますが、これは真実の陀羅尼みたいなものかもしれないのです。
天の上にも天の下にも、我ただ一人尊いというのですから、考え方によって大きくも小さくも言えることになるのです。釈尊の一代記では、釈尊が生まれた時にそういう言葉を言われたということですが、生まれたての赤ん坊が、天上天下唯我独尊という言葉を果たして知っているかということです。しかし、知っていると言えなくはないのです。超人ならそういうこともあり得ると思います。
釈尊が生まれた時に釈尊がそう言われたということ、またイエスが生まれた時にメシアの星が輝いたということについては、非常におもしろい対称になると思います。
天上天下唯我独尊ということを、私なりに感想を述べてみますと、人間の魂はその人にとっては、全く独一の尊い貴重なものです。魂の本性というものは、神の子であります。なぜかと言いますと、皆様方の霊魂は神から出てきたものです。
パウロは、「万物は神からいで、神によって成り、神に帰するのである」と言っています(ローマ人への手紙11・36)。人間の霊魂は神から出てきたもので、神によって生かされている。そして神の元に帰るのだと言っていますが、人間の命は本来神のものです。
神のものというよりも、人の魂は神の本質がそのまま生き写しにされているのです。従って人の魂の本体が分かりますと、神そのものの実体がはっきり分かってくるのです。
魂のことは自分自身がよく知っているのです。魂とは何か。宇宙に五十億の神仏があると言いますが、その全体が一人の魂の中に入ってしまうのです。これがキリスト意識です。
世界全体の人間の命が、自分一人の魂の中に集約されてしまう。これがキリスト意識です。こういう受け取り方が魂に対する本当の理解です。
魂は自分一人のものだと考えることが、大変な間違いです。ですから、皆様は魂を大切にして頂きたいのです。
私が生きていることは、皆様が生きていることと同じことです。だから、私が分かっても皆様が分かっていないということは、捨てておけない問題です。ですから、私が分かったように皆様にも分かって頂きたいというのが、私の切なる願いです。
輪廻転生
宗教で輪廻転生と言いますが、これには肯定できる面と否定しなければならない面と両面あります。
否定しなければならない面を先に申しますと、ある宗派神道の教団では、人間は七回生まれ変わると言っています。私はその指導者に、あなたは今何回目ですかと聞いたところ、それは分からないと答えたのです。
自分に分からないことは、人には言ってはいけないと言っておいたのです。七回生まれ変わるというのは、釈尊以前の時代のインドにそういう思想があったのです。仏教に伴ってこういう思想が日本に流れ込んできたのです。
仏教には本来輪廻転生という思想はありません。人間が何回もこの世に生まれるという考え方は、だらしがない不真面目な考えです。例えばもう一度この世に生まれるという機会があると考えますと、今生ではせいぜい遊んで、飲んで食って気楽にやろうかという考えになるのです。これがいけないのです。
現在生きている命がたった一回だけの尊いものであるから、責任を持とうとしなければ、人間は真面目に命を勉強しようと思わないでしょう。
輪廻転生と言って、私は五百年前にインドにいたとか、二千年前にはエジプトにいたという、とんでもないことをいう宗教がありますが、これは全くのインチキです。そう言って人々をごまかす新興宗教があるのです。
これはシャーマニズムです。神霊科学の一種ですが、こういうものが働きますと、いわゆる霊が下りるという現象があります。そうして、今まで知らない言葉をべらべらしゃべり出すのです。うわごとみたいなことをいうのです。
聖書にも異言という言葉がありますが、これは邪道でありまして言ってはいけないことなのです。パウロは異言ではなくて、人に分かるようなまともな話をしなさいと言っています。
何回も人間が生まれ変わるという思想はだらしがない思想です。
現在生きている命が、たった一回だけだということを真面目に考えなければ、本当の命の勉強はできません。輪廻転生という考え方には大反対です。これはとんでもない不真面目な考え方です。
真面目な意味で輪廻転生を考えてもよいという点は、現在の人間はまだ本当の人間ではないということです。未完成の人間でありまして、皆様はまだ本当の人間ではないのです。
皆様は神にかたどりて造られている魂を持っていながら、神のように聡明に考えることができません。ですから、皆様の霊魂がまだ本当の力を発揮していないのです。
皆様の霊魂の力は、現在の力の何万倍という力を持っているのです。人間の霊魂には無限の可能性があるのです。イエスが風を叱ったり、波を叱って鎮めました。水をぶどう酒に変えたり、死人を生かしたりしました。こういうことができる力を霊魂は持っているのです。
霊魂は神のかたちのように造られているのであって、一人の人格の中に、全人類の人格が入っているのです。イエスはそう考えていました。自分一人が十字架にかかることが、全人類が死んでしまうということを知っていたのです。これがイエス・キリストの十字架です。
これがキリスト意識です。全人類を代表する意識です。このことは阿弥陀如来にも言えるのです。ですから、大無量寿経と新約聖書は似ている点があるのです。
神の約束がはっきり書かれているのは聖書だけです。仏典には神の約束はありません。どうして人間が造られたのかという説明が仏法ではできないのです。
なぜ地球が存在するのか。この説明も仏法ではできません。仏法では人間の人格を如来と言ったり、菩薩と言ったり、抽象的に表現していますが、歴史的事実の人間存在をはっきり捉えていないのです。
聖書は人間の歴史的存在をはっきり捉えているのです。どこの国の誰かということを掴まえているのです。この点が仏法と聖書とが違うのです。
聖書の特長は神の約束によって地球が造られたと書いています。地球が造られた目的をはっきり書いているのです。また、人間を造る目的があったのです。海の魚と空の鳥、地に動くすべての生き物、家畜と地のすべての獣を治めさせるために、人間を造ったのです(創世記1・26)。
人間は万物を治めるために生まれてきたのです。しかし、現在の人間は万物を治めるほどの実力を持っていません。これが未完成の人間であることを意味しているのです。
従って、皆様は現在の自分の状態を、本当の自分だと考えることを、やめて頂きたいのです。これは仮の自分だと思って頂きたいのです。
皆様の本当の実体は何か。嫌な自我意識を捨ててしまうと、本当の自分の命がだんだん分かってくるのです。
自我というのは何かと言いますと、神と同じ性質を持っているのです。自分が生きていると考えるのです。自分が生きているという考え方は神だけができるのです。
神は自ら存在できるものです。自分で勝手に存在することができるのです。自分の意志で、自分の力で自分自身を存在させることができるのです。
自我の自分は自分の力で存在させることができないのです。そのくせ自分が生きていると考えるのです。これが人間が神のごとくになっているということです。
人間は自分が生きていると考えますと、善悪利害得失を自分の立場で判断するようになるのです。
人間は自分の立場で判断してはいけないのです。自分の立場で物事を判断しますと、自分に都合が良い判断をするに決まっています。これが自我主義です。エゴイズムです。エゴを中心にして考えますと、その人自身に都合の良い判断をするに決まっているのです。客観的には間違っているという片手落ちの判断をするに決まっているのです。
これが神のごとくなった人間の状態です。業を背負い込んだのです。人間は罪を犯すことによって現世に追放されたのです。
これが原罪です。原罪とは先祖代々の罪のことです。この世に生まれたことは業であると言いましたが、原罪を持って生まれたのです。人間は嘘をいうつもりではなくても、知らない間に嘘を言っているのです。威張りたくなくても勝手に威張っているのです。自惚れるという妙なことをしているのです。
自に惚れるというのは人間だけの芸当です。自が自に惚れるのです。これが原罪です。原罪の塊が自我になって現われているのです。
本当の神に対抗する神様ができたのです。私という神様です。私という人格は本当の神に対抗する人格です。これが皆様を不幸にしている原因です。
嘘をつきたくないのに嘘をついている。喧嘩をしたくないのに喧嘩をしてしまうのです。威張りたくないのに威張っているのです。
自我意識から脱出する方法
人間が死にたくないのに死ななければならない原因は何かと言いますと、自我意識です。
自我意識から離脱するためにはどうするか。自分が自分ではないことを見つけたらいいのです。イエスという人格が分かると、自分の灰汁が抜けてしまうのです。はっきり抜けてしまうのです。
イエスとは何かと言いますと、言(ことば)が肉となって現われた状態です。言というのは皆様の命の本体です。魂の本体です。魂の本体が肉体になって現われている。この状態をイエスというのです。
イエスが生きている姿がそのまま救いになっているのです。イエスとは、神が自分を生かしていることがそのまま救いになるという意味です。
実は自分が生きているのではない。固有名詞の自分が生きているのではないのです。原罪を自分だと思っていると、どうしても矛盾撞着が起きるのです。これをやめたらいいのです。
どうしたらいいのかと言いますと、実は人間の本体はイエスです。イエスは客観的に生きている人格です。目が見えること、耳が聞こえることがイエスという意味です。
人間の五官が働いている状態がそのままイエスです。そこで私の主(あるじ)はイエスであると考えたらいいのです。これが主イエスを言い現わすということです。
皆様の本当の姿はイエスです。これを主イエスというのです。主という短い言葉がキリスト教では分からないのです。私はこれが分かったので、キリスト教は間違っていると言っているのです。
世界中のキリスト教が間違っているのです。日本のキリスト教だけではない。世界中のキリスト教が間違っているのです。カトリックもプロテスタントも、両方共間違っているのです。
やがて主イエス・キリストがこの地上へやってきます。その時に世界中のキリスト教は皆叩き潰されるでしょう。
私はあまりキリスト教の悪口を言いたくないのですが、肝心要のことを知らないから、そう言わなければならないのです。
聖書は宗教ではありません。命そのものです。命とは何か、イエスです。これは仏教信者であろうが、共産主義者であろうが関係がないのです。本当の人間とはイエスしかいないからしょうがないのです。
皆様の五官がそれを証明しているのです。皆様の目の働き、耳の働き、舌の働きはイエスを示しているのです。
実は死を破ったイエスが皆様の本当の命です。これはキリスト教とは違います。キリスト教を離れて、天下の真理として、宇宙の真理として私は話しているのです。
キリスト教は間違っています。しかし、イエスが死を破ったということは、宇宙にたった一つしかない大原則であって、命を掴まえるのはこれしかないのです。
本当のことを知りたいと思われるのなら、命は自分のものではないことをまず悟って頂きたいのです。現在生きているのは、修養中の人間であって、修養がまだ終わっていないのです。勉強中であって、まだ卒業していないのです。
卒業するとどうなるのか。イエスと同じになるのです。死を乗り越えてしまうのです。そうして、死なない人間になるのです。これが人間完成です。
死なない命を見つけることが、人間完成です。
地球も人間も未完成
今の地球は未完成です。地球が未完成です。こんな地球が完全だと思うことが日本人の通念ですが、これが物知らずなのです。
いつ地震が起きるかもしれないという地球が、完全な地球だと言えるのでしょうか。いつ地震が起きるかもしれないのです。こんな地球が完全な地球であるはずがないのです。
砂漠がある。伝染病がある。洪水、津波、飢饉、旱魃がある地球が、完全な地球だと言えるのでしょうか。未完成の地球に未完成の人間が住んでいるのであって、現在の地球を本物だと思うことが間違っているのです。
ですから、私は現代文明は錯覚の塊だと言っているのです。人間が勝手に文明を造っているのです。人類の進歩と調和を、日本の万博がテーマとして掲げていましたけれど、こういう考え方が甘すぎるのです。
今の人間は未完成です。未完成の人間が未完成の地球に住んでいるのです。こんなものを本当の世の中と考えることが間違っているのです。
やがて完璧無類の世界が必ずやってきます。本当の世界、永遠の平和と言われる世界が必ず現われます。
イエスの復活によって新しい肉体が発生しているのです。現在の人間の肉体は非常に不完全なものです。呼吸機能、消化機能がいつ故障するか分からないのです。
イエスは全く新しい栄光体を持って、四十日間この地球にいたのです。ぶどう酒を飲み、焼き魚を食べて見せたのです。イエスは復活して完璧無類の肉体を持って現われたのです。
このことが新約聖書に堂々と書いてあるのです。全世界に公認された永遠のベストセラーである新約聖書に、復活後のイエスがこの地球上に現われたと、はっきり書いているのです。
その時のイエスの胃袋はどんなものであったのか。現在の医学はこれをどのように考えるかということです。
これを考えると、現在の学問のレベルは低いと言わなければならないのです。こんな学問を完全だと思うことが間違っているのです。科学も哲学も、政治家も経済学者も非常にレベルが低いものです。つまり、人間文明は完全なものではないことを示しているのです。
皆様の霊魂の値打ちはどれくらいのものかを知って頂きたいのです。本当の命を勉強しますと、全世界の完成というすばらしい問題が分かるのです。これが本当の輪廻転生と言えるでしょう。
現在の世界ではない、本当の世界があるということです。今死んでいる人間は黄泉にいますが、全部復活します。そうして恵みを受ける者と刑罰を受ける者とに分けられるのです。これは秩序整然たるものです。
人間としてこの地球上に生まれた人間は推定で七百億人か八百億人はいるでしょう。もっといるかもしれません。やがて全部甦ります。そうして神の審判を受けるのです。霊魂の審判をするのが、イエス・キリストです。
現在の世界は全く仮の世界です。やがて本当の世界が現われます。とても大きい意味において、もう一度人間は生まれてくるのです。これが輪廻転生です。
日本人はこういうことを知らないのです。全く知らないのです。今の世界に本当に信用ができる学は一つもありません。だから、学問を信じたらいけないのです。
今皆様が生きている命は、必ず死なねばならない命です。これは百人が百人、千人が千人共分かっているのです。死なねばならない命に生きているということは、誰でも分かっているのです。
ところが、死ぬことを望んでいるかというと、決して望んでいないのです。人間は死にたくないのです。死にたくないという本質がありながら、死なねばならないと思っている。これはどういうことでしょうか。
死にたいという人も十万人に一人くらいはいるかもしれませんけれど、普通の人は死にたくないと思うのが当たり前です。
五官
人間が五官の働きで生きているということは、人間の本質である魂が五官の働きによっていつでも刺激されて、楽しい、嬉しい、美しいという経験を毎日しているのです。だから死にたくないと思うのです。
皆様の魂は五官を通して、楽しい、美しい、おいしい、嬉しいということを経験しているのです。ところが、精神が間違っているのです。精神が死なねばならないと思い込んでいるのです。思い込まされているのです。
人間の本質は魂です。魂は直感的に美しいとか楽しいとか、嬉しいとかいう経験をしているので、嬉しい、美しい、おいしい、楽しいということに、非常に大きい魅力を感じているのです。これが死にたくないという気持ちが起こってくる原因です。
皆様は魂では死にたくないと思っているけれど、精神の方が死なねばならないという思想を吸い込んでしまっているのです。
五官は命を正しく経験しているけれど、皆様の思想の方、思いの方、または意識の方が間違っているのです。だから死なねばならないことになってしまうのです。
仏教はだめです。仏教は一つの情報です。人間の命に関する情報を教えているのです。これが仏教です。キリスト教はキリストに関する情報宣伝をしているのです。
どんな宗教でもすべて情報を説いているのです。人間の教えを説いているのです。人間の教えはすべて情報です。大学で教えている学問も情報です。生活文化に関する情報です。学問という立派な名前で言われていますが、実は現世に生きるための人間の生活情報にすぎないのです。こういうものをいくら勉強しても何の足しにもならないのです。
生活のためにはなるでしょう。生活の足しにはなりますが、命の足しにはならないのです。
皆様はそういう間違った生き方をさせられているのです。これは皆様がそうしたいと考えたのではありませんが、現代文明が皆様を出口のない迷路に引きずり込んでいるのです。皆様の思想、精神をそういうものの中へ引きずり込んでいるのです。
学校教育というやり方によって、皆様の頭は文明に束縛されているのです。引きずり込まれているのです。だから、般若心経を読んでいても、五蘊皆空が分からないのです。現在の常識で考えている人は、般若心経の本当の意味は絶対分かりません。
般若心経を毎日毎日唱えていながら、そして、読んでいながら、般若心経の意味が全然分かっていないのです。だから死んでしまうのです。
皆様の考え方は現代文明によって束縛されているのです。命に対する考え方が束縛されてしまっているのです。だから、死にたくないと思いながら死なねばならないと思い込まされているのです。
自分の本心ではっきり死にたくないと思いながら、死にたくないと言葉を口に出して言えない状態になっているのです。これは皆様の精神が萎縮しているからです。精神が萎縮している状態がひどくなると、脳の働きが萎縮するのです。これが認知症と言われるものになるのです。
今の文明人はすべて精神が萎縮しているので、命に対する自由な考え方を持つことができないようになっているのです。文明はそういう害悪があるのです。
文明は皆様を現世の生活に縛りつけているのです。くくりつけているのです。こういうことに皆様は全く気がつかないのです。
文明は学校教育という美名に隠れて、人間の魂を束縛しているのです。皆様はとんでもない被害者です。
文明は人間の生活のためにあるのです。生活のために学問を利用することは結構です。ところが、学問は命のためには全く価値がないのです。全く価値がないどころか、人間の命の自由さ、命に対する考えの自由さを極端に束縛しているのです。
学校教育を受けた人ほど、命に対しては無知です。むしろ、学校教育を受けなかった人の方が、命に対しては自由な気持ちがあるようです。
般若心経を読んでいて比較的分かりやすい人は、学校教育を受けていない人です。学校教育を受けている人は、自分は大学を卒業したと思っているために、命に対しては大変な害悪になっているのです。これが大学教育の悪さです。
大学教育はそういう悪さを持っているのです。これがユダヤ主義です。ユダヤ主義というのは人間の考え方を現代文明に縛りつけてしまうのです。現世に縛りつけてしまうのです。永遠の命を考えられないように仕向けているのです。
現世主義、文明主義のために、皆様は生きていながら命が分からないのです。生きていながら、命の実質が全く分かっていないのです。だから、何のために生きているかが分からないのです。
現代人は生活はしていますけれど、生きてはいないのです。生きるというのは命の実質を弁えて、命の本体を弁えて、命の本当のあり方を生きるのです。これが生きるということです。
ところが、現代人はそういう生き方をしていないのです。般若心経に書かれている五蘊皆空を実行していないからです。究竟涅槃を実行していないのです。
究竟涅槃を実行しているなら、命を生きることができるのです。ただ生活をしているだけでは、命を知らないのです。
こういうことを今の日本人は全く考えなくなっているのです。昔の日本人はこういうことをよく考えたのです。明治時代の父親は子供によく言ったのです。「生あるものは必ず死する。形あるものは必ず壊れる。覚えておけ」と言ったのです。
明治時代の父親はこれを教えたのですが、今の父親はこういうことを全く教えないのです。これだけ日本人は安物になったのです。
「生あるものは必ず死する。形あるものは必ず壊れる」。これが日本の家庭の基本概念でした。こういう考えが現在の日本ではなくなっているのです。
現代文明は生活ばかりを考えているのです。この世に生きている命が、本当の命だと考え込まされているのです。肉体的に生きている命を本当の命だというように考え込まされている。これが学校教育の弊害です。こういう常識が日本中に広がってしまっているのです。
皆様が現代教育を受けるのは結構です。生活のために教育を活用するのは結構です。しかし、教育は命のためには何の足しにもならないのです。足しにならないどころか、教育を受ければ受けるほど、現世主義一辺倒になるのです。頭が萎縮してしまうのです。脳細胞が萎縮してしまうのです。
常識が間違っている
常識だけで生きているということは、惚け老人をつくるだけです。老人惚けしてしまいやすいのです。常識で生きているということは、半分は惚けているのです。だから、色即是空という簡単なことが分からないのです。
色不異空、空不異色、色は空に異ならない。空は色に異ならない。これが分からないのです。だから、現世に生きるという常識にしがみついているのです。
ところが、常識は生きている間しか通用しません。仏教の常識、キリスト教の常識を宗教が教えているのです。宗教の教義は常識的に教えているのです。これは生きている間は何とか通用しますけれど、この世を去ってしまいますと、宗教の常識は一切通用しないのです。全く通用しません。
こんなものを勉強して何になるのでしょうか。皆様が勉強しなければならないものは、宗教ではない般若心経です。宗教ではない聖書です。宗教である般若心経、宗教である聖書をいくら読んでも何もならないのです。
命のために般若心経を学ぶのです。命のために聖書を学ぶのです。命の実質を捉えるために、般若心経や聖書を学ぶのです。これを提唱しているのです。
文明は人間の生活のためにあるものです。人間の生活は魂がこの世に出てきてから始まったのです。生活が悪いというのではありません。生活は当然あるべきものです。私たちが肉体を持ってこの世に生まれた以上、生活しない訳にはいきません。ところが、生活が生きている目的ではないのです。
中世文明とか古代文明になりますと、幾分かは迷路ではない面があったのです。これは宗教に対する考え方が、現在のような営業主義ではなくて、もっと真剣な宗教の考え方があったのです。だから、命をかけて宗教を勉強しようという考えが日本にもあったのです。これは日本だけではなくて、世界的にもそう言えるのです。
古代文明や中世文明は、現代文明ほど生活一辺倒ではなかったのです。現代文明は現世に生きている人間の生活を非常に過大に取り上げる結果になってしまいました。基本的人権という言い方で、人間が現世に生きていることが一番良いことのように考えてしまっているのです。
生活主義、この世で生きていることが文明だというような考え方がしっかり根をおろしてしまったのです。昔も生活はありましたが、昔は生活しながら命についてできるだけ考えようという、素朴な気持ちが現代人よりも強かったのです。昔の人の方が現代人よりも幾分かましな考えをしていたのです。
人間の霊魂は命の本質を見極めることが目的です。霊魂の本質は死ぬべきものではないのです。そこで現世にいる間に、霊魂の永遠性を勉強しなければならない責任があるのです。
しかし、これができる人は非常に少ないのです。昔でも本当に命の勉強ができた人は非常に少なかったのです。現在ではそうしたいという人はほとんどいないのです。
般若心経を読む場合には、一字一句の意味があることをよく考えて読むことです。観自在というように一句一句文字の意味を考えて読むのです。そうすると、皆様の脳細胞の状態がだんだん現代文明から離脱することができるのです。
生活一辺倒のこの世の考え方から逃れ出すことができるのです。般若心経の文字そのものを、ゆっくり心に刻むような形で読むのです。
私も般若心経を読んでいますけれど、般若心経を読みながら、その文字を頭に描いて読んでいます。言葉だけを発音するのではなくて、文字が頭に浮かぶようにしっかり一字一句、心に刻み込むように文字を読むのです。
そうすると皆様の精神が現代文明から解放されるようになるでしょう。
現在の宗教が全部嘘というのではありません。現在の宗教家のやり方が嘘だと言っているのです。般若心経の五蘊皆空、色即是空は本当です。究竟涅槃はますます本当のことです。その文字に偽りがあるのではありませんが、それを取り扱う人が宗教的な感覚でしていますと、せっかくの究竟涅槃が空っぽになってしまうのです。
こういうことを考えて、文字を一字一字頭に刻み込むようにして頂きたいのです。
聖書を読む場合にはもっと厳しいのです。聖書は一字一句命の言葉そのものがはめ込まれていますので、聖書を読む場合には般若心経よりも、もっと真剣に読んで頂きたいのです。自分の精神を傾け尽くすような読み方をしないとだめです。
聖書を勉強していても、今の命を認める状態で読んでも、本当の聖書は分かりません。自分が生きているという気持ちをそのまま認めた状態で聖書を学んでいると、キリスト教になってしまうのです。
今生きている命が本当の命だという気持ちを、何となく持ったままの状態で聖書を学んでいても、キリスト教の勉強にはなりますが、本当の聖書の勉強にはならないのです。
現在の命を認めているということは、永遠の命を認めていないことになるのです。逆に言いますと、現在の命を認めないという気持ちを持って聖書を勉強すると、本当の命を掴まえることができるのです。
仏典でも、聖書でも、学ぶ時の気持ちがどこまでも真正直に、自分の頭で読まないで、聖書の中へ入り込んでしまうような気持ちで読むのです。般若心経を読む時には、般若心経の中へ入ってしまうような気持ちで読んで頂きたいのです。これが皆様の命をやりかえる唯一の方法です。
最初から般若心経の言葉を頭に刻み込もうと思ってもできません。少々修練を要するのです。修練を積まないとできません。
私の場合には時々散歩をします。散歩しながら般若心経を唱えているのです。歩きながら般若心経を唱えるというのが、ちょっと難しいようでしたら、家の中で般若心経を読みながら、その意味を考えればいいと思います。
読みながらその文字を一字一句見て確認するのです。般若心経を十分に読みこなして頂きたい。般若心経とできるだけ親しくなるのです。こういう気持ちをまずお持ちになったらいいと思います。
最初から頭に刻み込むという読み方はできません。とにかく読んでみるという気持ちは大変結構です。できたら、般若心経を暗唱して頂きたいのです。家事をしながらでも、般若心経を唱えることはできるのです。大工さんや左官さんなら、般若心経を唱えながら仕事をすることも、場合によってはできるのです。
とにかく、自分の生活の中へ般若心経を入れ込んでしまうようなやり方をして頂きたいのです。なぜ般若心経を一生懸命にするのかと言いますと、皆様が今生きている命は必ず死ぬ命だから、この命から出るためにするのです。
死なない命を掴まえるのが人生最大の責任
今皆様が生きている命は、必ず死ぬ命です。これをよく考えて頂きたいのです。目が黒いうちに、死なない命を掴まえなければならない責任があるのです。誰でも霊魂に対してそういう責任があるのです。
この世に生まれてきた以上は、自分自身の霊魂に対して死なない命を見つける責任があるのです。これは個々の霊魂に対する責任です。生活のことよりも、霊魂に対する責任の方がもっと大きいのです。もっと重いのです。
なぜかと言いますと、今の日本では生活ができなければ生活保護によって生きていけるのです。だから、真面目に働くという気持ちさえあれば、今の社会では生活できるのです。
ところが、皆様の霊魂の命のことを、国は考えてくれません。生活のことは考えてくれるけれども、命のことは自分で考えるしか方法がありませんから、自分で考えて頂きたいのです。この世に生まれてきた以上、生まれてきたことに対する責任をはっきり自覚して頂きたいのです。
人間の霊魂は無限の能力を約束されているのです。例えば、釈尊とかイエスという、いわゆる超人と言われる人と同じだけの力量を皆様には与えられているのです。イエスと同じこと、釈尊と同じことができて当たり前です。
イエスや釈尊を特別偉い人と考えるのが間違っているのです。釈尊と皆様とどこが違うのでしょうか。釈尊がしたことを皆様ができないはずがないのです。絶対にありません。皆様も私も同じことです。だから私と同じことが言えなかったら、現世を去ってから大変なことになるのです。
自分の魂に対する責任を実行しない人は、それだけの審判を受けなければならないのです。皆様には人格というすばらしいものが与えられているのです。
皆様に与えられている人格はすばらしいものです。この人格をはっきり活かしてください。単なる人間として生きないで、人格的に生きるのです。そうすると、般若心経も聖書もよく分かるのです。
権とは何か。現在の学問では説明できないのです。権威、権利、権能、権益、権限、権勢、権力と言いますが、権という言葉の内容が、学問では説明できないのです。哲学でも分からないのです。
権威とは何に基づいていうのか。権という字の本当の意味は何かというと、権という言葉の根源をなすものがキリストです。他人よりも抜きん出ること、一般の常識概念や生活概念、自然現象から抜きん出ると分かるのです。
権という言葉を使う場合には、無意識にキリストを考えているのです。
例えば、基本的人権という言葉を使う時にはキリストを考えていません。キリストを考えたら人権という言葉は成立しないのです。ところが、人権という言葉はキリストという意識を編入しなければ、人権という言葉は使えないのです。そうすると、基本的人権という概念は無意識にキリストを基礎にしていることになるのです。
人間になぜ基本的人権という途方もない権利があるのか。これはイエスが十字架につけられて復活した。この復活の命がすべての人に与えられている。従って復活の命を基礎にして考える時に、基本的人権が成立することになるのです。また、権威も、権限も、権勢も権力も、復活の命を踏まえた時にあり得るのです。
現代の文明社会で一番悪いのは、命とは何か、生とは何か、死とは何かということを見極めていないことです。
生命と言いますけれど、生(せい)と命(めい)とは違います。生というのは宇宙の命です。宇宙がある。万物がある。人間がある。この「ある」ということの本質が生と同じ意味になるのです。これが分かっていないのです。
仏教ではこれが全然分かりません。仏教は空と無ということをしきりに言いますが、有とはどういうことかが説明できないのです。有というのはあるということです。
例えば、机があるとします。机の説明をしても机があるということの説明にならないのです。
地球があるのです。人間がある。皆様の命があるのです。死んでしまうと、あるということから欠落するのです。あるという状態が消えて、ないという状態に入ってしまうのです。これがなきものです。
死んだものというのは、常識的に死んだものか、本当に死んだものとなるかの二種類あるのですが、こういうことは常識では分からないのです。
常識的に言いますと、皆様の親族が亡くなったとします。これは眠っているだけです。この世から消えて眠りについたのです。いわゆるご永眠したのです。永眠しているのですから、やがて目を覚ますことになるのです。
皆様が常識的に生きているということは、眠っていることになるのです。起きていないのです。そこで宗教とは何か、神とは何か、仏とは何かが分からなくなるのです。
常識的に生きているということは、肉の思いで生きているのです。肉の思いで生きているということは、既に死んでいることです。「肉の思いは死である」と聖書に書いています(ローマ人への手紙8・6)。人間の常識は死んでいる心理状態を意味するのです。
死んでいる人間の心理状態ですから、真理とは何か、神とは何か、命とは何かが一切分かりません。眠っているから分からないのです。私は皆様に、「起きよ、起きよ」と言っているのです。
神があるとかないとか言います。眠っている状態で言っている神という言葉と、起きている状態でいるところの命、神は全然違うのです。
死んだ人は今眠っています。しかし、やがて地球は消えてしまいます。そうして眠った者は起こされるのです。
あるとは何か
今地球はあります。「ある」とは何かが、哲学や宗教では絶対に説明ができません。地球がある。空気がある。太陽がある。「ある」ということの説明ができないのです。これがキリスト教では分からないのです。「ある」という簡単なことが分からない。そこでキリスト教は宗教になってしまうのです。聖書を勉強していながら宗教になってしまっているのです。
現在皆様は生きていると考えているでしょう。人間が生きていることは、「ある」ことを意味しないのです。人間が生きているというのは一つの状態です。ところが、人間が「ある」から生きていることが成立しているのです。
私が存在しているから生きているという言葉が使えるのです。存在していることが説明できない状態では、生きているということが分かっていないことになるのです。
「ある」ということが神です。これがキリスト教では分かりませんし、ユダヤ教もこれを掴まえていないのです。ユダヤ教の神はユダヤ教の頭でひねり出した神です。キリスト教の神はキリスト教の頭でひねり出した神です。これは仏教でひねり出した仏と同じことです。これは人間の頭から湧いて出た神です。
これはいくら信じてもだめです。人間が人間の観念を信じているだけです。鰯の頭も信心からと同じことです。
問題は「ある」ということです。「ある」ということは絶対です。「ある」という事実にしっかり両足をつけて考えれば、イエスかノーかがはっきりするのです。「ある」ということを踏まえずに、ただ観念論でがたがた言っていてもだめです。
現在の人間は「ある」ということを知らずに死んでしまっているのです。こういう人は幻覚のうちに生きていたのですし、現在も幻覚にうちに生きているのです。
ところが、幻覚のない所で目を覚ますのです。眠っている時は幻覚ですが、目を覚ますと地球がなくなっているのです。現在の物質があることが消えてしまっているのです。物がなくなったという状態があるのです。この状態を霊と言うのです。
霊なる状態で死人が目を覚ますことになりますと、悲しいことになるのです。生きている間に全然考えなかった世界へ、裸で放り出されるのです。
現世で常識だけで生きていた人は、死んでしまう所まではそれでいいのですが、やがて目を覚ますことになりますと、気の毒なことになるのです。
皆様は現在地球に生きているのですから、「ある」ということを勉強して頂きたいのです。そうすると、死んでいる人を助けてあげることができるのです。これが本当の法事です。現世にいる家族の人が本当の悟りを開いて、本当の命、本当の「ある」ということを掴まえて頂きたいのです。
現世に人間がいるのは夢幻のようにいるのです。肉体的に生きているということは幻です。これはやがて消えてしまうのです。やがて消えてしまって、幻ではない命がはっきり現われてくるのですが、これを今皆様の目の黒いうちに掴まえるのです。これを究竟涅槃というのです。究竟涅槃は入口です。
究竟涅槃だけで「ある」のが分かるのではありません。究竟涅槃とは一切空という場に立つのであって、この場に立たなければ本当の存在は分からないのです。
一切空の場に立つと、初めて「ある」とは何かが分かってくるのです。空の場に立たないで、神が何か、仏が何かと議論すると、ただの宗教理論になるのです。
五蘊皆空の中へ飛び込んでしまうのです。究竟涅槃の中へ入ってしまうのです。今まで生きていたことが全く空であるという事実に立つのです。これがキリスト教ではできないのです。できないから、イエス・キリストが全然分からないのです。神が全然分からないのです。私とキリスト教の人々の違いはこういう所にあるのです。
地球はできたのです。できたものは消えてしまうに決まっているのです。地球が消えてしまいますと、人間の理屈が一切通用しない世界が現われるのです。これを絶対の世界というのです。
目に見える物質的な地球が消えてしまいますと、「ある」という世界が現われるのです。これが本当の世界です。「ある」という真理、真実の世界です。
現在この世に生きている人は、真実、真理の世界を知りません。そこでこの世を去って、眠っていた目を覚ますと困るのです。さて、どこへ行ったらいいのか、どうしたらいいのかさっぱり分からないのです。
霊魂は不滅ですから、現世を去った人は眠っているだけであって、やがて目を覚ますのです。そうすると怖いことになりますから、この世に生きている間に、このことを考えて頂きたいのです。
現在皆様は死んでいるのです。「ある」ということが分からないからです。命の本体が分からないからです。
命(めい)というのは現世に生きる状態です。命の本質は生(せい)です。生(せい)が命(めい)になって現われているのです。生(せい)と命(めい)の両方がある間に、生(せい)を掴まえた人は勝ちです。命(めい)だけしか分からない人は、死んでから裁きを受けることになるのです。目の黒い間に勝負をするのです。
どうぞ、自分の命のことを真面目に考えてください。これは永遠の運命に係わることですから、重大問題です。本当の命が分からない原因は何かと言いますと、存在することが分かっていないからです。
これは哲学の話ではありません。人間の命の実体のことです。人間は「ある」ということを掴まえることが目的です。これをよく考えて頂きたいのです。
人間は死なねばならない状態で、この世に生まれてきたのです。私たちは生まれたいと思って生まれたのではありません。生まれたいと思って生まれた人は一人もいないのです。生まれたいと思って生まれたのではないということは、客観的には生まれたのですけれど、生まれたということを主観的に認識している訳ではないのです。
人間は自分の命を持っているのではないのです。自分が生きているのではないのです。私たちは人格を与えられています。人格を与えられていますから、自分が生きているような気がするのです。そういう気がするだけです。
生きるという言葉は、走るとか、歩くという言葉と同じように自動詞です。自動詞は本人の自由意志によって動き出すことを意味するのです。
人間は生まれるという自動詞を用いていますけれど、自分の意志で生まれた経験がないのです。これは生まれさせられたということができるのです。しかし、生まれたのではないのです。従って、皆様は自分の意志によるのではなくて、客観的な方法によって生まれさせられたのです。
皆様は天地自然の理法に従って、おのずから生まれてきたのです。おのずからというのが皆様の親です。このおのずからとは何かということです。これを皆様が見つけたら、自分の意志によって生まれることができるのです。おのずからの本体は何かと言いますと、「ある」ということです。
「ある」というのはおのずからであって、これがはっきり分かるか、分からないかによって、皆様がこの世に生まれてきた目的を果たしたかどうかが決まるのです。理屈をいくら覚えてもだめです。いくら苦労をしてもだめです。
人間の命は「ある」という所から出てきているのです。カール・マルクスというユダヤ人が、人間は偶然に生まれてきたと言っていたのです。これは大間違いです。従って、共産主義というのは土台を持たない主義です。
人間は社会的、経済的には土台を持っているでしょう。しかし人間存在から考えると、マルクスの理論は全く子供じみた、だだっ子みたいな理論になるのです。これが資本論です。こういうものに興味を持つ人が大変多いのです。
皆様は今生きていると思っていますが、それは人間の思いでそう思っているのです。人間の思いは徹底していないのです。人間の思いは常識に基づくもので、生きている間は通用するのですが、この世を去ってしまえば一切通用しないのです。
皆様が勉強しなければならないのは、この世を去ってからでも通用するものです。これを聖書では新しく生まれると言っているのです。
この世に生まれた人間は自分の自由意志で生まれたのではありませんから、改めて、皆様方自身の意志によって、命の本質をはっきり捉えるのです。これを新に生まれるというのです。これはしなければならないことです。やらなければならないことです。これをしないでごまかして生きていたら、必ず罰金を取られるのです。責任を果たさなかったから必ず追及されるのです。
税金を納めなかったら追及されるのと同じことです。引っ越してもどこまでも追いかけてくるのです。皆様に与えられている能力を利用すれば、命の本性を究明することはできるのです。
おのずからの命
私はただ死にたくないと考えたのです。これを真剣に考えたのです。それだけでおのずからという命を教えられたのです。
神は愛という本性に従って、私たちにアピールしているのです。例えば、太陽光線の状態です。太陽光線が照っていると明るいですし、また、暖かいのです。これが愛を示しているのです。
皆様の心臓が動いているのは、おのずからの命が心臓に働いているのです。皆様は鼻から息を出し入れしようと思わなくても、自然に呼吸ができているのです。自然に呼吸ができるということが、皆様が天地の命で生かされているということです。
人間が現世に生まれてきて、なぜ矛盾の中へ放り込まれたのか。なぜ命が分からない状態で生かされているのか。もし私たちの人生が完全無欠であったら、命を求めようとはしないでしょう。毎日遊んでいるでしょう。
現世で苦労しなければならない状態で生まれたということ、人生は何かということを考えなければならない状態で生まれたことが、神の愛の処置です。
神は皆様を罪の下に突き落としたのです。悪因縁の下へ放り込んだのです。なぜそういうことをしたのかと言いますと、悪因縁にほとほと閉口して、悪因縁から逃れるために、本当の悟りを開きたいという気持ちを持たざるを得ないように、おのずからが仕向けているのです。神がそのように仕向けているのです。
私たちはこの世において、人間関係において、人生について矛盾を感じるということは、実は神の愛だというようにお考え頂きたいのです。
私はこの神の愛をまともに受け取ったのです。現世において、何のために生まれてきたのか分からないような状態ではいけないと考えたのです。
人間は一体何のために生きているのか。ただ食って寝て、子供を産んで死んでいく。これはどこかおかしいと考えたのです。何か人生には重大な秘密があるのではないかと考えたのです。一生をかけてこのことを徹底的に究明してやろうと考えたのです。
私は現在、私自身が生きているのではありません。宇宙の命が私という格好で生きているのです。これが分かっていますから、私は死にません。ただ肉体と精神状態が分かれるだけです。これが現世を去ることです。
現世で皆様は矛盾や苦しみ、悲しみを感じなければ生きていけないという条件でこの世に生まれたのです。これがおのずからの愛の処置です。
皆様の人格は神の人格と同じものです。神と寸分違わない人格です。だから自分の主観的な考えを捨てて、本当の自然に帰るのです。おのずからに帰りたいという願いを持って、自分の命をご覧になれば誰でもできるのです。
神が人間に人格を与えたのは何のためかと言いますと、経験させるためです。生きるためとか、勉強するために生まれたのではない。経験するために生まれたのです。これが人生の目的です。
生(せい)と命(めい)
何を経験するのかと言いますと、生(せい)を経験するためです。命(めい)を与えられたのは、生(せい)を経験するためです。
皆様は今命(めい)を経験しているのです。命(めい)を経験している間に、生(せい)を掴まえるのです。これを神を経験するというのです。
神を経験するというのは難しいことではありません。そのやり方を少しお話しします。この方法はたった一つしかありません。上手も下手もないのです。アメリカ人も日本人もないのです。全世界の人が経験できるのです。
例えば、花を見ると美しいと思います。きれいだと思います。きれいだとなぜ思うのでしょうか。五官によってそれを感じているのです。五官の働きというのは霊魂の働きです。
霊魂に目があるのです。これが五官として現われているのです。ご馳走を食べておいしいと思う。これは皆霊魂の働きです。
おいしいと感じるのは、おいしいという当体があるから感じるのです。おいしいという当体、美しいという当体が、皆おのずからの正体です。これが「ある」ということの当体です。
「ある」というのは実におごそかな存在です。これは誠に厳粛なことです。日本では道元とか、親鸞とか、日蓮とか、弘法大師とかいう有名なお祖師さんが現われましたが、私がいうようなことを全然理解できなかったのです。
般若心経と聖書を両方並べて勉強する人がいなかったからです。私は幸いにも、この両方を勉強することを教えられたのです。宗教ではない般若心経と聖書を詳しく勉強した結果、本当の生(せい)、「ある」ということの実体を教えられたのです。
おいしいというこの当体が「ある」ということです。美しい、すばらしいということの当体が「ある」という永遠の生命です。これを受け取っている五官も、「ある」から出てきたのです。おいしいということも、それを受け取っている五官も、両方共永遠の生命です。私たちはこのようにして、永遠の生命の実物を経験しているのです。これが分かったことが、彼岸の世界にいることなのです。
(内容は梶原和義先生の著書引用)