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  • higan2021

基本的人権とは何か

基本的人権という言葉がありますが、これは政治家が造った言葉です。政治家または学者が造った言葉です。

 皆様は根本的に政治を信用しておられないでしょう。日本人でも本当に政治を信用している人はいないでしょう。政治とはどういうものかということを知っているからです。景気を良くすると言いながら、一向に景気が良くならないのです。生活を向上させると言いながら、全然良くならないのです。

 政治家が言っていることと行っていることは正反対のことが多いのです。こういうものが政治というものです。これは今の内閣が悪いのではない。政治という事がらの本質がそういうものです。

 人間の生活がでたらめです。生活態度がでたらめな人間を養っていこうとしたら、政治全体がでたらめなものにならざるを得ないのです。

 「水清ければ魚棲まず」と言っています。濁っていればこそ政治が行えるのです。菅原道真のような人が内閣総理大臣になったら、日本の政治はたちまち行き詰まってしまうでしょう。影で汚職をしたり、巧妙に賄賂をもらったりして金儲けがうまい人ならやっていけるのです。

 生真面目な人間には政治はできません。また、そういう人は政治家になろうとしないでしょうけれども、世の中が歪んでいますから、歪んだ気持ちを持っている人でなかったら政治ができないのです。これは誠に悲しいことですけれど、現実的な事実です。

 そういう政治家が造ったのが、基本的人権という言葉です。政治がいんちきであることを知っていながら、基本的人権だけを信じるというのはおかしい話です。

 あるスーパーマーケットで客寄せのために、格安の目玉商品を広告に載せた。その目玉商品だけを買いに行こうという感覚です。スーパーの特売なら目玉商品だけを買った方が得ですが、基本的人権という思想は政治家の目玉商品なのです。

 人々はそれを買っているのですが、基本的人権という思想は嘘です。そういうものが人間にあるはずがないのです。国民は健康で文化的な生活を営む権利があり、政府はそれを保証する義務があると、日本国憲法第二十五条にありますが、なぜ路上生活者がたくさんいるのでしょうか。

 生きる権利があると主張しても、心臓が止まったら死ななければならないのです。結婚する権利があると言っても、相手がいなければ結婚ができないのです。健康で文化的な生活をする権利があると憲法でうたっていますが、お金がなければ文化的な生活はできないのです。

 ところが権利があると盛んに思わせるのが政治のいんちき性です。政治を利用するのはある場合には必要ですが、私たちの人生観の思想まで政治の言いなりになるのはばからしいことなのです。学者や政治家がいう基本的人権は嘘です。存在していないのです。それを信じても何にもならないのです。信じたら却って不幸になるだけです。

 嘘を信じたら人間は不幸になるに決まっているのです。基本的人権という言葉は、非常に虚しい言葉です。一度、皆様が基本的人権という言葉を朝、昼、晩に数十回唱えてみてください。その虚しさがよく分かるのです。

 人権という言葉が何と虚しいものなのかということが分かるのです。例えば得意先へ行って基本的人権、基本的人権と言ってみてください。笑われるだけでしょう。

 現代人はマスコミで宣伝されると、すぐに鵜呑みにするという悪い癖がついているのです。だから人間はだんだん不幸になるのです。

 私はこういうことを言っているので、人々から嫌われるのですが、本当のことだから言わなければならないのです。おべっかを言って、人々が好むことを言えば大歓迎されるでしょう。そうしたら私の言うことが宗教になってしまうのです。

 私は正直に、本当のことを言いすぎるから嫌われるのです。今の人間は嘘が好きです。嘘を言うと歓迎されるのです。本当のことを言うと敬遠されるのです。私はそういう意味では嫌われているのです。

 人権という言葉が悪いのではなくて、基本的人権と言われているその内容が悪いのです。本当は人権はあるのです。例えば牛や豚を殺したら月給がもらえますけれど、人間を殺したら刑務所に送られるのです。これはどういう訳でしょうか。人間を殺しても月給がもらえるのは軍人だけです。

 人間を殺したら監獄行きになるのは人権があるからです。豚や犬と同じにはならないのです。市役所には犬殺しの役人がいます。大阪のような大都会には数人いるでしょう。しかし人殺しの役人はいないのです。

 いくら大酒飲みで、仕事をしないで博打ばかりしている人間でも、殺す訳にはいかないのです。こういう人間は狂犬よりもっと悪いのです。振り込み詐欺で何十億円も騙し取る人がいても、殺す訳にはいかないのです。狂犬は人に噛みついたらすぐに殺されるのです。

 何十軒も放火をした人が捕まえられたのです。何でそんなことをしたのかと聞いたら、気持ちがむしゃくしゃしてやったというのです。こういう人でも殺す訳にはいかないのです。

 人々に本当に嫌われたのはイエスです。人々にとことん嫌われて殺されたのです。パウロも人々に嫌われたのです。

 世間の人間の考えは全く顚倒しているのです。人権という言葉が悪いのではない。思想の内容が悪いのです。

 現代文明と言います。文明という言葉を使っていますけれど、実は政治そのものです。文明があるのではない、政治があるだけです。文明は全くないのです。

 現代の人間社会には政治があるだけで、文明は存在していないのです。現代政治のことを現代文明と言っているのです。

 現代の人間の思想は、政治思想ばかりです。政治というのは人間の肉体生活の世話をすることです。こればかりです。従って政治思想で考えた人権は間違っているのです。

 ところが本当の人権はあるのです。これは人間の魂の本質的なものです。これを知っている人はほとんどいません。皆様も本当の人権をご存知ないのです。

 本当の人権というのは、魂の尊厳のことです。人間存在の本質のことです。これはありますが、これは生活のことではないのです。人間の霊魂のことです。

 人間が考えている常識は生活上の概念のことです。これは全部空です。皆空っぽです。間違っているのです。人間は現在生きていると思っていますが、命を知らないままの状態で生きているのです。これは生きているのではありません。だから人間が生きていると思っている思想が空です。

 人間が生きていると考えているその考え方が空です。命を知らずに生きているからです。皆様は本当の幸福を知らないのです。本当の幸福というのは、いわゆる宗教的な幸福という意味とは違います。現実的に本当に幸福になるのです。

 ところが現実という意味がもう違うのです。死ぬという言葉を使うとしても、もう違うのです。死んだらしまいと言います。死んだらしまいではないのです。死んだらしまいなら簡単です。死んだらしまいではないのです。



永眠と本当の死

 人間が考えている肉体的に死ぬというのは、死ぬのではありません。ただ眠るだけのことです。眠った後に本当の死があるのです。

 現世を去るのはご永眠遊ばすのです。ご永眠とは眠ることです。他の世界へ行くのです。これを他界と言います。死ぬのではなくて他界するだけのことです。ご永眠するだけのことです。

 眠った後にもう一度死ぬのです。これが恐いのです。今の人間は魂のことを知らないのです。だから本当の幸福、本当の自由を知らないのです。本当の自由が分からないのです。

 私は五蘊皆空がはっきり分かります。分かりすぎるくらい分かるのです。これは知っている者の不幸かもしれません。人間は物事を知ると不幸になるのです。他人がものを知らないことが気になって、あなたはそんなことでは死んでしまいますよと言いたくなるのです。

 皆様は本当に神と和解してください。和睦してください。神と和解しないと、皆様は本当にひどい目にあうのです。本当の幸福というものは、神と和解することによって初めて分かるのです。

 道徳と言っても、自由と言っても、生活と言っても、今の人間が考えている概念は、皆間違っています。これが五蘊皆空ということです。

 宗教があるとか、芸術があるとか、学問があるとかを考えていますけれど、そんなものはないのです。ただ政治があるだけです。本当の宗教もありません。本当の学問もないのです。政治があるだけです。今の学問は全部間違っています。本当のものとは違います。

 自然科学も間違っています。今の人間は自由という言葉の意味を知らないのです。自由というのは得手勝手なことをすることだと思っている。自分勝手なことができることを自由と思っている。こんなものは不自由です。自分自身の思想に捉われているから不自由です。自分の思いに自分が捉われているから不自由です。

 捉われないことが自由です。例えば天地を造った神は自由です。何者にも捉われていないからです。だから神と一つになったら自由になるのです。

 神は誰にも拘束されないのです。この神を掴まえたら自由になるのです。

 皆様が生きているのは神の子である証拠です。神の子であるから神の親を掴まえたらいいのです。何でもないことです。ところが人間は妙にひがんでいるのです。一番悪いのは現代の人間のひがみ根性です。劣等感が悪いのです。

 私みたいな者と考えるのです。私みたいな者は神を掴まえられるのかと考えるのです。そのくせ腹の中では自分は一番偉いと思っているのです。劣等感とひがみ根性と優越感がごちゃごちゃになって、自尊心という妙な感覚になっているのです。これがその人を不幸にしているのです。

 これを真っ向から叩くので、私は人々から嫌がられるのです。自尊心を叩くから嫌がられるのです。

 日本人、また世界中の人に対して言いたいのですが、私は世界中の人間と一緒に住んでいるのです。私と世界中の人間は、一つの命を同じように生きているのであって、私は世界中の人間を放っておく訳にはいかないのです。同じ命を同じように生きているという因縁があるために、皆様が生きている状態が間違っていることを、見過ごしにできないのです。

 ですからお願いしたいのです。自由な人間になって頂きたいのです。幸福な人間になって頂きたいのです。自分の思想の中に自分が閉じこもって、自分を縛り上げているというのはばかなことです。本当にばかなことです。

 般若心経に無色無受想行識とあります。色というのは目で見ている物質的現象世界です。受想行識はそれを意識している世界です。色受想行識を五蘊というのです。

 蘊というのは、積み重ねるとか、蓄えるという意味です。人間が目で見るという感覚をそのまま信じて、常識、知識、宗教、道徳、芸術を造っていますけれど、その元になるものが目で見ている世界です。

 目で見ている世界にはすべて色があるのです。色彩があるのです。例えば空気でも、水でも、色があるのです。色彩があるのを、物質的現象だと言っているのです。

 色は物質的現象です。諸行無常という言葉がありますが、諸行とは色のことです。色と言っても諸行と言っても同じことです。少し違う所がありまして、諸行というのはあり方の本質を指しているのです。色という言葉は目で見た感じを指しているのです。ここが違うのです。

 なぜ諸行かと言いますと、すべて物は流れ動いているのです。例えば空気は絶えず動いているのです。これを行というのです。入れ代わっていることを行というのです。動いている状態を現わしているのです。

 弁証法的唯物論がありますが、弁証法というのが、諸行と同じ意味になるのです。すべて新陳代謝しているのです。お腹がすくと食事をします。食事が血となり肉となっていくのです。これが新陳代謝です。人間の体を見れば諸行が一番よく分かるのです。

 黒板でも机でも椅子でも新陳代謝していますが、速度が非常に緩慢ですから、新陳代謝していないように見えますけれど、ある年数が経過したら形が変わっているのです。

 無常の常というのは同じ状態のことを言うのです。とこしえ、常世と言います。無常というのはとこしえの状態ではなくて、いつでも流れ動いているというのです。これが弁証法的唯物論です。

 物質は固定しているのではなくて、いつでも新陳代謝しているのです。この思想は正しいのですが、弁証法的唯物論を基礎にした革命論は間違っているのです。弁証法的唯物論は間違っていないのですが、マルクスが見た社会の見方が間違っていたのです。

 すべての存在は同じ形ではないというのが、弁証法的唯物論ですが、これは五蘊皆空と同じ意味になるのです。

 皆様が現世にお生まれになったのはどういうことなのか。肉体は魂の入れ物です。肉体は魂の着物です。ところが肉体は消耗品ですから、古くなって役に立たなくなるのです。

 皆様は目の黒いうちに服を着替える必要があるのです。衣替えをするのです。これが悟るということです。または信じるということです。魂の衣替えをするのです。これをすれば、大人になるのです。

 衣替えをするまでの人間は子供です。一人前ではないのです。一人前になる前の人間と、一人前になった後の人間とは、全然違います。物の見方が違うのです。

 どこが違うかと言いますと、一人前になる前の人間は孤独です。自分の気持ちを誰も分かってくれないのです。自分の気持ちを分かってくれる人は誰もいません。兄弟でも、親子でも、夫婦でも分かりません。夫婦こそ分かってくれないかもしれないのです。夫婦は仲が良い時はいいのですが、悪くなったら敵どうしになってしまうのです。憎さも憎いが、またかわいいとなるのです。悪くなったら本当に憎み合いをするのです。

 夫婦であっても相手の気持ちは絶対に分かりません。これが孤独な状態です。兄弟でも同様です。ましてや他人どうしなら分かり合えるはずがないのです。

 人間は孤独である間は、本当の大人になりきっていないのです。未完成の人間です。昆虫で言いますと、青虫とか芋虫という幼虫です。毛虫みたいなものです。毛虫は蝶にならなければいけないのです。

 そのようにして、皆様も衣替えをして大人になる必要があるのです。どうしたら大人になるかと言いますと、神と和解することです。そうしたら大人になれるのです。



神と和解する

 神と和解したらどうなるのかと言いますと、皆様の気持ちがそのまま神に分かるのです。神の気持ちがそのまま自分に分かるのです。

 友だちの気持ちくらい分かっても大したことはありません。男の気持ちくらい分かっても大したことはありません。どうせ助平に決まっています。人間どうしの気持ちが分かってもつまらないのです。お金が欲しいと思っても、めったにお金をくれる人がいないのです。

 ところが、神と和解すると神の気持ちが分かるのです。これは儲かるのです。私がいうことはあまり儲かることではないと思われますが、そうではない。神と和解すると、とんでもない儲けがあるのです。莫大な儲けがあるのです。

 神が分かりますと、人間がすぐに大人になるのです。そうして皆様の気持ちをとことんまで神が分かってくれるのです。神の気持ちがとことん分かるという訳にはいきませんが、私という入れ物に一杯分かるのです。神というのは大きすぎるのです。神の全部は私の入れ物にはとても入らないのです。だから私がもう結構というくらいに神が分かるのです。そうすると、私が独りぼっちではないことがはっきり分かるのです。

 こういう状態を人間完成とか、大悟徹底とかいうのです。これが本当の自由です。独りぼっちではなくて、二人ぼっちになるのです。人間の二人ぼっちではありません。神との二人ぼっちはとても頼りになるのです。この時、初めて人間は自由とか幸せ、平安が分かるのです。命がどういうものかが分かるのです。命が分かったら、もう絶対に死なないのです。命が分からないから死ぬのです。

 現世を去るのは死ぬのではありません。ご永眠遊ばすだけのことです。これは大したことではないのです。心臓が止まるくらいのことは大したことではないのです。ところがその後にくるのが怖いのです。

 そこで皆様は目が黒いうちに、どうしても神と和解しなければならない絶対的な必要性があるのです。これは知らぬ存ぜぬと言って通ることではないのです。

 皆様の人生は皆様のものではないのです。これをよく考えて頂きたいのです。その証拠に皆様は自分で生まれたいと思って生まれたのではないのです。これは皆様にとって嫌なことかもしれませんが、言わなければならないのです。言えば私は必ず嫌われますが、言わなければならないのです。

 皆様は自分で生まれたいと思って生まれたのではないのです。従って皆様の人生は自分一人のものではないのです。神と二人のものです。

 皆様は現世においてある程度のことを決める自由はあります。何を食べようかとか、どこへ旅行に行こうかと決める自由はありますけれど、何のために生きるかという人生目的を、自分一人で決めてはいけないのです。人間には一人で決める程の知恵がないからです。ところがそれを無理して勝手に決めるのです。だから不幸になるのです。

 例えば結婚とは何かを知らずに結婚します。そこで不幸になるのです。結婚したら必ず不自由になるのです。ところが女の人は妙に結婚したがるのです。

 男は結婚したら便利になるのです。助平が解消されるから助かるのです。女は不自由になるのです。ところが女の人は結婚、結婚と言って結婚に憧れるのです。そこで男にうまく丸め込まれるのです。なぜ女の人は結婚に憧れるのでしょうか。

 これはとても深い意味があるのです。女の人が結婚、結婚という理由があるのです。これは間違ってはいないのです。女の人が結婚という意味を知らないのです。男の人ももちろん知らないのです。結婚の意味が分かっている男はめったにいないのです。

 結婚ということを知らずに結婚するのは世間並みのことです。だから結婚すると不幸になるのです。現世の人間の世間並みの結婚は、本当の結婚とは違うのです。ただの野合、私通です。肉体の結合だけしている。魂はばらばらです。だから不幸になるのです。親子とは何かが分からないのです。

 親に産んで欲しいと頼んだ覚えはないでしょう。そうすると皆様の親は本当の親ではないのです。親は生まれたからしょうがないから育てただけです。

 人間は、親子とは何か、兄弟とは何か、夫婦が何か、世間が何か、生活が何か、社会が何か、何にも分からないのです。これが幼年時代、少年時代の様相です。この状態は孤独です。何も知らないから孤独です。

 神が分かると皆分かるのです。全部分かるのです。神と和解するということは大したことです。このことをお話ししたいのです。



尽天地、尽衆生

 私は皆様と同じ時代に生きている人間として、放っておけないのです。尽天地、尽衆生という言葉が仏教にあります。これはあまり使わない言葉ですけれど、尽天地とはことごとくの天地という意味です。天地全体ということです。

 尽衆生ということは生きているものの全部という意味です。虫であろうと獣であろうと、もちろん人間も含めて、命あるもの全体を衆生というのです。尽天地尽衆生とは、天地全体、衆生全体と共に人間はあるということです。

 人間は尽天地、尽衆生という状態で生きているのです。皆様は天地全体と一緒に生きているのです。生き物全体と一緒に生きているのです。

 蟻が一匹歩いているとしますと、蟻と皆様とは同じ命で生きているのです。こういう思想から不殺生戒という戒律が生まれているのです。同じ天地に同じ命に生きている人間は、お互いにおもいやりを持たなければならないというのが、仏法の慈悲の心の基本になっているのです。

 私と皆様とは同じ命で生きているのです。皆様と同じ天地に生きているのです。だから分かった以上、黙っている訳にはいかないのです。そこでこうして話したり、本を書いたりしているのです。

 皆様も尽天地尽衆生というすばらしいことにお気づき頂き、一緒に働いて頂けないかと思っているのです。協力して頂くか、頂けないかで皆様の永遠の運命が決まってくるのです。全く違ってくるのです。皆様は天地衆生に命を与えるような仕事をして頂きたいのです。これはイエス・キリストがした事と同じ仕事をして頂くことになるのです。

 だいたい人間の仕事と大自然が動いていることは一つのことです。人間の仕事と天地の動きは一つのことです。雲の流れ、水の流れと皆様の仕事の流れ、家庭の流れとは同じものです。

 天地の営みを人間は個人的に営んでいます。だから仕事をしていることが、宇宙全体の動きと係わりがあるという気持ちでして頂きたいのです。これが本当の幸いというものです。これをしていますと、知らず知らずのうちに自分の運命が変わってしまうのです。

 皆様の人生は皆様自身の所有物ではないということを、よく知って頂きたいのです。自分の魂が自分の所有物であるのなら、私の話をお聞きになる必要はないのです。

 しかし皆様の魂は皆様の所有物ではないのですから、私の話を聞かなければならない義務があるのです。その責任があるのです。魂に対する責任があるのです。

 生活に関係がないと言われるかもしれませんが、魂のために生活があるのです。肉体のために生活しているのではないのです。肉体は魂の着物ですから、着物のために生きている人はいないでしょう。体のために着物があるのです。魂のために肉体があるのです。ですから魂のための営みが生活になるのです。

 この世に生きている者は、同じ時代に同じ命で生きているのです。ですから放っておく訳にはいかないですから、こういう話を申し上げているのです。

 般若心経と聖書の二つを並べますと、宗教にはならないのです。般若心経だけなら宗教になります。聖書だけならまた宗教になるのです。般若心経と聖書を並べますと、現在の社会的な概念では宗教にならないのです。

 この二つを並列的に考えないと、本当の人生の正解は不可能なのです。

 人間には二つの面があるのです。肉体的に生存している面と、霊魂的に存在している面があるのです。肉体人間と霊魂人間があるのです。生活人間と生命人間と言ってもいいでしょう。

 近代の文明では生活することが人間の目的のように考えられているのです。もちろん生活は必要ですけれど、生命があるからこそ生活があり得るのです。生きているから生活があるのです。命があるから生活があるのです。ところが肝心の命の問題を現在の文明は考えようとしていないのです。

 例えば医学について言いますと、病気は治すけれど、命のことは分からないと言っています。病気の診断はするが、命のことは全く分からないという妙な理屈が通用するのです。

 政治経済はもちろんのことですが、学問という概念でも、人間の命のことは全く考えていないのです。一般の人たちはそれが悪いとは思っていないのです。

 これは奇妙な話です。今の本質を考えないで、生活のあり方だけを考えようとすることは、人生が全く分かっていないことになるのです。

 近代文明は白人の現象感覚に基づいて造られているものですが、白人の意識は全く現象意識でありまして、これが物質文明になっているのです。生命の本質、命の本体を全く考えようとしていないのが、白人の考え方です。

 般若心経は現象的に存在する人間、肉体的に関する真相をずばり言い切っているのです。色即是空というのはそれです。五蘊皆空もそれです。

 般若心経の初めに、観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空度一切苦厄とあります。人生というものの苦厄、いわゆる人間苦とか、または人生のトラブル、矛盾を本当に見切ってしまうためには、どうしても必要なものが五蘊皆空です。



色即是空

 色即是空というのは、現象世界は本質的に空である、現象は実体ではないという考えです。このことは理論物理でも簡単に説明できることです。

 理論物理学では物質はあるのではない、物理があるのだと言っているのです。物理運動があるのだと言っているのです。原子核の回りを電子が回っている。電子の運動があるのです。物があるのではない。素粒子の運動があるのです。物質があるのではないということを、理論物理学では簡単に説明しているのです。

 この考え方の証明が原子力発電です。原子力発電が行われているということ、原子爆弾が存在することが、物質がないことを証明しているのです。

 色即是空というのは、物質は存在していないということです。このことは理論物理学でも証明しているのです。ところが普通の人間の考えでは物質が存在していると考えているのです。唯物論を信じている人もたくさんいるのです。科学で証明していることを、なお人間は概念的には承知していない。常識的にはなお物質が存在すると考えているのです。

 物質が存在するというのはどういう考えなのかということです。なぜ人間は物質が存在すると思えるのかということです。このことを知るためには人間の霊魂ということを究明しなければ分からないのです。

 物質が存在しないことを理論物理が証明していても、なお現実生活では物質が存在すると考えて生きているのです。このような根本的な矛盾が人間にあるのです。命が分からないから、このような矛盾が鵜呑みにされているのです。

 こういう矛盾を鵜呑みにしたままで人間文明が成立しているのですから、この文明は何が何やら訳が分からないものになっているのです。

 現代の文明は全く信用できないものです。矛盾に対して説明しようとしていないのです。生命とは何かを考えようとしていない。生活の面ばかりを強調しようとしているのです。こういう文明は根本的に信用できるものではないのです。

 文明は命を真面目に考えようとしていないのです。政治、経済はもちろんですが、学問の世界においても、命とは何か、死とは何かを全く真面目に考えようとしていないのです。こういう風潮が当たり前のようにされているのです。

 人間はただ漠然とこの世に生きるために、生活するために生まれてきたのではありません。人間は理性と良心とを与えられています。理性と良心を与えられているということは、人間の本質にふさわしいような人間完成をしなければならない責任があるということです。

 人間はただ生きているなら死ぬに決まっているのです。死ぬに決まっている人間が現世でただ生活を享楽しているということは、全く無意味です。享楽には楽しみがありますけれど、やがて死ぬに決まっているのです。死ぬに決まっていることを承知していながら、ただ漫然として生きていること自体が、人生に色々な矛盾を引き起こす結果になっているのです。

 何のために生きているかが分かっていないのです。何のために結婚するかが分かっていないのです。何のために社会生活があるのかがはっきりしていないのです。はっきりしていないことばかりがあるのです。

 命の本質が分からないから、結婚とは何か、貞操とは何か、親子の関係とは何かということの本質が全然分かっていないのです。ただ欲望を満足させるために生きているという誠に不徹底な状態になっているのです。

 キリスト教を信じている人、また、仏教を信じている人は自分の信仰が正しいと皆思っています。正しいと思っていればこそ信仰しているのです。ところが自分が正しいと思っても、それが本当に正しいかどうか分からないのです。

 例えば、親鸞の言葉を借りて申しますと、「行者の良から人とも悪しからんとも思うべきにあらず」となるのです。行者というのは信者のことですけれど、阿弥陀さんを信じている人間が、自分の信仰が正しいと思っても、正しくないと思っても、そういうことには関係がない。ただ如来の誓いだけに意味があるのだと言っているのです。

 如来の誓いとは天地自然の姿そのものを指しているのです。如来の言葉の本質は、天地自然の本質を指すものと考えて頂きたいのですが、天地自然の本質が証明するものだけが本当に正しいものだと親鸞上人が言っているのです。

 宗教は主観的な概念に基づいて自分の信じている神、仏が正しいものだと思い込んでいるのです。そのように思い込むのは勝手ですが、これは自分自身の独断にすぎないのです。

 これは宗教だけではなくて、いわゆる社会革命の思想においてもそのように言えるのです。人間は皆自分が考えている思想が正しいと考えているのです。それが果たして本当に正しいものであるのかどうかは、天地自然の法則に照らし合わせてみなければ分からないのです。

 現在の人間の命の本質について考えようとしていないのです。ただ生きている、生活していることだけが人間の目的だと考えられているのです。こういう人間は死ぬに決まっているのです。死ぬに決まっていることを承知していながら、ただ漫然として生きている。人生観の根底にはっきりしたものがないから、このようなことになっているのです。

 般若心経は現象的に存在している物、人間の概念、または観念は空であると言っているのです。五蘊皆空というのはそれを言っているのですが、これは現象的に存在する人間の本質をずばり言っているのです。

 般若心経は肉体人間が空であることをはっきり言い切っているのです。聖書は肉体人間の面からではなくて、霊魂人間を取り上げているのです。

 肉体人間と霊魂人間をはっきり捉えていくことが、人生を正しく知ること、正しく見ることのために絶対しなければならないことですから、般若心経と聖書というテーマで皆様にお話ししているのです。

 文明によってあまりにも人間の本質が暴虐されているのです。人間の文明によってあまりにも人間の本質が忘れられているのです。人間の命を真面目に取り上げようとしない。人間観の本質が非常に不真面目に見られているのです。この点をご注意、喚起したいと思っているのです。



仏教と仏法

 般若心経は仏法の中核的な思想です。仏教と仏法は本質的に違います。仏法は仏の本質についてのことです。

 釈尊の悟りは今日で考えている仏教ではなかったのです。釈尊の思想を色々な角度から捉えて宗派集団ができていますが、本来釈尊は今日考えられているような宗教を造ることが目的ではなかったのです。

 人間とは何か。人間が生まれて、老いて、病気になって死んでいく。いわゆる生老病死という人間の基本的な矛盾、人間苦の本質を見極めようということが、釈尊が出家をした原因なのです。

 これは宗教を信じて幸いになろうとか、救われようとかいう気持ちがあった上で出家されたのではないという意味なのです。人間存在の本質を究明することが釈尊の目的でした。これが大悟徹底という形になって現われているのです。

 般若心経はその要点を観自在菩薩の悟りとして説いているのです。こういう意味で般若心経は仏法の中核思想ですが、仏教の中核思想ではないのです。

 仏教というのは仏法を宗教的に取り扱ったものです。仏教が間違っていると私が言うのではなくて、般若心経がそう言っているのです。五蘊皆空と言い、色即是空と言っているのは、仏教が間違っているという意味になるのです。

 本当に色即是空を貫きますと、今日の伽藍仏教は成立しないことになるのです。一切の現象は空です。宗教教団も現象の中に入るのです。そういうものが空だということになりますと、今日のいわゆる宗教思想のようなものは成立しないことになるのです。

 これは今日の宗教が良いか悪いかではなくて、釈尊の思想の本質とは違った所があるということです。

 般若心経の色即是空という考え方は、究竟涅槃をよくよく理解しないと分からないのです。

 涅槃というのは蝋燭の火を消してしまった状態です。人間の雑念が全部消えてしまった状態を言うのです。宗教が良いか悪いかというのは雑念です。こういうものが吹き消された状態が涅槃です。

 人間の本質は何であるのか。現在生きている人間が何であるのか。こういうことを現わしたのが空という言葉になるのです。般若心経を仏教の経文としてではなくて、人間哲学として、人間哲理としてこれを取り上げて、命の本質を究明するという意味です。

 般若心経の中心思想である空、あるいは涅槃という考え方は、現在生きている人間の考え方は誠に頼りなくていいかげんなものであるということです。

 聖書はイエス・キリストの十字架が中心になって説かれているのです。十字架と涅槃という考え方とは非常に密接な点がありまして、般若心経は空を説いていますが、聖書はとこしえの命という面を強調しているのです。

 空を説く般若心経と、とこしえの命を説く聖書とこの二つを並べて究明しますと、現在の混乱している人生観が非常に簡単明快に要約することができるのです。

 大乗仏教は非常に広範囲のものでして、俗に八万四千の法門と言われるくらいに門戸は多いのです。どの角度からどのように論じても、三百六十度の角度からどのように論じてもいいのです。三百六十度の角度から論じられるくらいに広範囲な論理が展開されているのです。

 どれが良くてどれが悪いかと言いますと、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うで、まるでつまらない理論闘争になってしまうのです。私たちは大乗仏教の理論的な勉強というよりは、現実に生きているという事実がありますから、これをよくよく見ていく必要があると思っているのです。

 何をどう思うかということですが、肉体人間としてどう思うかということと、霊魂人間としてどう思うかということでは、全然見方が違ってくるのです。立論の根底が違ってくるのです。従って理論闘争のようなことはなるべく避けて、現在私たちが生きているという事実に基づいて、人間の命とは何か、人間がすべて行き着く所とは何かということを考えて頂きたいのです。

 人間が行き着く所は、人間が死ぬということです。これは理論でもないし、宗教でもありません。こういうことにつきまして切実な考え方をして頂きたいのです。

 人間は一方では真面目に考えて自己完成をしたいと考えています。人生を見極めたいと考えているのです。ところが他方に欲望があるのです。例えば神を信じたいとか、悟りを開きたいという気持ちがあっても、欲望があるために自分が惑わされてしまって、やりたいと思いながらもやれない状態に陥ってしまうのです。

 こういう状態を西田哲学では、絶対矛盾の自己同一と言っているのです。「善を行いたいと思っているが、却って善が行えない。行わないと思っている悪を、却って行ってしまう」とパウロが言っているのです(ローマ人への手紙7・19)。

 善を欲しながら悪を行っているとなるのです。人間の欲望は肉体存在の自分に住み込んでいる先天的なものと言ってもいいほど強力な本能性です。

 このことを仏法的な言い方をしますと、現世に生まれてきたことが業(ごう)なのです。カルマです。人間が現世に生まれてきたことが、業です。現世に生まれてきた時に、業が魂につきまとっているのです。

 肉体人間を絶対のものとして認めている人間は、業から逃げ出すことができないのです。業の本質と欲望の本質は同じものです。業から逃れたいと思いながら、業から逃れることができない人間の苦しみを、絶対矛盾の自己同一と言っているのです。

 西田哲学の不連続の連続というのも、これによく似た感覚です。人間の気持ちは神を信じてはいない。しかし生かされているという事実があるのです。太陽光線の恵みを提供され、空気を与えられ、水を与えられているという事実は、人間が神によって生かされているということを意味するのです。

 人間は神によって生かされているのです。自分が生まれたいと思ったのではないのに、この世に生まれてきたのです。この世に生まれてきたということが、宇宙摂理に基づく人間存在であると言えるのです。

 人間は神に生かされているのですが、神を全然知らない。これは不連続の連続のようなことになるのです。善を行いたいと思いながらそれが行えないのは、絶対矛盾の自己同一です。

 西田哲学は非常に正直な哲学ですが、現実に生きている人間を生身のままで扱うということをしていない。人間は何のために生きているのかということに、はっきり答えていないのです。哲学では答えられないのです。

 何のために人間は生きているのか。私たちはただ欲望を満足させるために生きているのではありません。現世で楽しく生きるため、マイホームを楽しんだら良いという考え方で生きている人は、人間自身の目的を冒涜していることになるのです。

 欲望とは何かと言いますと、魂が肉体に閉じ込められているという状態によって、やむを得ず発生している状態です。

 人間には本能があります。これは食本能と性本能の二つに分かれているものですが、性本能が肉体的にだけ取り上げられることになりますと欲望になるのです。

 現象世界が存在している。人間が肉体で生きているのは絶対的なものだと思い込んでしまいますと、欲望から逃れることができなくなるのです。ところが、人間が肉体的に生きているという状態から悟りによって解脱できると考えますと、欲望と縁を切ることが不可能ではないことになるのです。

 実は人間が肉体的に生きていることは絶対ではないのです。このことは新約聖書のイエス・キリストの十字架の原理から考えてもそう言えるのです。

 般若心経の涅槃という思想と新約聖書の十字架という思想とは、本質的には同じです。これは肉体的に生きている人間は妄念に閉じ込められているのだと言っているのです。

 こういう意味で、欲望は絶対的なものではないのです。しかし肉体人間が自分だと思い込んでいる間は、欲望から逃れることができないのです。



山頭火の生涯

 自由律俳人に種田山頭火という人がいました。この人の生涯を考えてみますと、全く人間の業をそのまま生きておられたようです。この人の記録や俳句から滲み出ている切実な感覚からそのように言えるのです。ある意味では般若心経の実験台のような人間でした。

 名誉を捨て、地位を捨て、家族を捨て、一生涯の人生の目的を全部捨ててしまって、ただ俳句の境涯だけを生きたのです。熊本市の曹洞宗報恩寺の僧侶でしたが、道元の思想と俳句だけに生きるという純粋な感覚は、驚くべき精進であったと思います。

 自分の業と真正面から取り組んだ。それと、一生涯相撲を取っていたという人でした。山頭火の俳句の一つに、「どうしようもない私が歩いている」というのがありますが、これは何とも山頭火らしい俳句です。切実な感覚が滲み出ているのです。

 名利を捨て、自分の欲望も家庭も捨て、世間的な常識や知識を捨てて生きていても、なお業から逃れられなかったという山頭火のさんたんたる生涯が現われているのです。

 人間は色即是空という概念が分かっただけでは救われないということが、山頭火によって証明されたのです。

 釈尊の時代には世の中が非常に素朴でしたから、五蘊皆空、色即是空という感覚だけでよかったかもしれませんけれど、現代の社会ではそれではだめです。山頭火は実際に五蘊皆空を生活したのですが、業から逃れることができなかったのです。

 肉体的に生きている人間の根源が何であるか、自我の根本が何であるかが、山頭火には分からなかったのです。これを新約聖書で勉強していきますと、自我は本源的には存在しないものになるのです。これはイエス・キリストの十字架という原理を探求しますとよく分かるのですが、生きているままの自分が、また、目が黒いままの自分が死んでしまえるのです。

 これは全く驚くべきことですが、十字架を信じるということによって、自分が完全になくなってしまうのです。

 パウロは、「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのはもはや私ではない」と言っているのです(ガラテヤ人への手紙2・19、20)。私はもはや生きていない。キリストと共に十字架につけられたので、私はもはや生きていないと言っているのです。

 もし山頭火がこの心境に到達することができたのなら、山頭火は生きている人間の業から解放されたことだろうと思います。

 色即是空、五蘊皆空の悟りだけではいけない。悟りだけでは救いがない。悟ることと同時に救われることが必要だということになるのです。

 般若心経に悟りはあるが、救いはないのです。そこで般若心経の悟りによって肉体的に存在する自分が空であることを悟ること、十字架によって自分の魂がはっきり救われていることを経験することです。この二つがなければ人間完成はできないのです。

 山頭火の生涯、また、彼の心境については全く同感ですが、惜しいことに山頭火はイエス・キリストの十字架に近づこうとしなかったことが、甚だ残念であったと言えるのです。

 人間は自分で生まれたいと思って生まれたのではないという、この簡単なことを忘れているために、自我意識に振り回されているのです。欲望の問題も、山頭火が業を果たせなかったという問題も、自分がいる、自我意識といういわれがない概念によって、魂が振り回されているからです。

 自我意識によって自分の霊魂が振り回されているということが、現実における人生の一番大きい矛盾の根源になっているのです。



人間完成

 人間完成ということは、結論的に言いますと、大自然に帰ることです。大自然に帰るという言い方は、色々な人によって、色々な角度から言われてきましたが、私がいう大自然に帰るというのは、大自然が物質である、宇宙は物であるという考え方による大自然ではありません。大自然を大自然としている根本原理、大自然が造られる前の世界に帰るのです。

 私たちは五官を与えられています。人間が現在こうして生きているというのは、五官に基づいて生きているのです。

 人生は本質的に与件です。与件というのは与えられた条件という意味です。自分で生まれたいと思って生まれたのではないということが一つです。従って自分自身の意志によってだけ生きているのは、間違っているということです。これが第二です。

 自分が生まれたいと思って生まれてきたのなら、自分の意志によって生きているのは当然ですが、自分の意志によって生まれたのでないとしたら、自分の意志によってだけで生きているのはおかしいのです。

 人生は与件です。これをよくお考え頂きたいのです。

 新約聖書で申しますと、神を信じるということになるのですが、神を信じるということは、自分自身を信じないということです。自分自身の自我意識、自分自身の利害得失に基づいて考えることをしないのです。

 例えば、行雲流水のような事実、心臓が動いているという事実に基づいて考えるのです。滅私という言葉を使いますし、則天去私という言葉を孔子が言っています。

 孔子は則天と言っていますが、則天とは何であるかと言うことについて、孔子ははっきり答えていないのです。これについては神とは何か、仏とは何かについて細かいお話しをしなければなりませんが、私がいう大自然に帰るということは、天に帰ることを意味するのです。

 例えば、皆様の心臓が動いているということは、動いている理由があって動いているのです。このことを新約聖書では天と言っています。

 皆様は目で見ていると思っていますが、これは目が見えるのではなくて、外界の現象状態が皆様の目の網膜に映っているのです。皆様の目が見ているのではない。外界の諸現象が皆様の網膜に映っていることを、人間は見ていると考えているのです。

 人間は自分で見ているのではなくて、見せられているのです。このような客観的事実を聖書では天というのです。この天に帰るのです。不可視の世界へ帰るのです。

 人間は自主的な力によって生きているのではなくて、客観的な宇宙の力によって生かされているのです。空気を与えられ、水を与えられて生かされているのです。従って天に帰るという感覚こそ、基本的で当たり前のことなのです。

 私たちは宇宙の意志、天の意志によって生まれてきたのですから、天に帰るという感覚は宗教ではないのです。人間生命の本来のあり方に帰ることです。

 肉体的に生きているということは一つの条件ではありますが、絶対条件ではないのです。肉体的に生きているという感覚から解脱されることはできるのです。

 肉体と霊魂は本質的には別物です。従って私たちが肉体で生きていることを解脱するということは、十分に可能です。般若心経はこのことを言っているのです。

 例えば皆様が月をご覧になっているとします。明皓皓たる月の光をご覧になっていますと、皆様の心は月に吸い寄せられているのです。月の光と皆様の魂が一つになっている状態が感じられますが、このような状態を西田哲学では純粋経験の直下と言っているのです。

 こういう時にはその人の心は月と共にあるのです。爛漫として咲き誇っている桜の花を見ている時には、その人の魂は桜と共にあるのです。その人は瞬間的に肉体から解放されているのです。こういう人生観はあり得るのです。純粋経験の直下という理論で説明できるように、そのような経験が現実にできるのです。だから肉体と霊魂は必ずしも一つではないと言えるのです。

 そこで空という悟りが成立するのです。釈尊のいわゆる大悟徹底ということは、こういう心境を示しているのです。

 私たちの目標は天に帰ることです。人間本来の生命の本質は天です。現世における常識的な、知識的な顕在意識の頭で考えているようなものではない、もっと次元の高いスケールの大きいものが人間生命の本体ですから、それに帰ることはできるのです。

 イエスの復活の内容を皆様が詳しく研究されるとしたら、皆様方は肉体を離れて復活というすばらしい命の本体を掴まえることができるのです。

 これはキリスト教とは違います。新約聖書に現われた歴史的事実です。

 日曜日はイエスの復活記念日ですが、復活記念日を全世界の人間が守らされているのです。キリスト教信者であろうとなかろうと、すべての人が復活記念日を日曜日という形で守っているのです。こういう歴史的事実があるのですが、これが何を意味するかということをよくお考え頂ければ、皆様は永遠の生命の実体を掴まえることは十分可能であると申し上げたいのです。

 天に帰る事です。大自然の本来の姿に帰るのです。皆様が生まれる以前の状態に帰るのです。

 禅宗に、「如何なるかこれ、父母未生以前の面目」という考案があります。これは臨済宗の考案ですが、父母が生まれる前のおまえさんの本当の姿は何かと問うているのです。

 この世に生まれておいでになる前の皆様の本当の状態が、人間の真面目です。本当の姿です。

 生まれてきたと言います。どこからかやって来たのです。死んでいくと言います。どこかへ行くのです。どこからか来たのですから、どこかへ行くのです。生きている間だけが人生ではないのです。

 現世に生きている間だけが人生ではありません。もっとスケールを大きくして考えて頂ければ、皆様の本当の人生の真義を捉えて頂くことは、十分にできるのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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