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本当の有と本当の無




イエスは言っています。

 「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見出すであろう。門を叩け、そうすれば開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見出し、門を叩く者は開けてもらえるからである」(マタイによる福音書7・7、8)。

 イエスは何を求めよとは一切言っていないのです。しかし与えられると言っている。これは何を言っているのかということです。

 求めている者は与えられているはずです。どのように与えられているかです。これは自分の本心が何を求めているかということです。聖書を何十年も勉強している人でも、本心を言わなければ分からないのです。また、聖書を勉強し始めた人でも、本心を言えば分かるのです。

 こういうことは宗教観念では全く分かりません。キリスト教の牧師ではこの説明ができる人がいないのです。内村鑑三氏は神学ばかりを説いていたのです。こうしたら信じられるとか、信じるためにはこうしたらいいとか、神学ばかりを説明していたのです。

 イエスは宗教観念が大嫌いです。ところが日本ではキリスト教の教師、学者の中で内村鑑三氏が一番偉い人として扱われているのです。ドイツのキリスト教界の中でも、日本の内村鑑三氏を特別に評価しているのです。日本のクリスチャンの代表者として認めているのです。ところが内村鑑三氏は求めよ、そうすれば与えられるであろうということが全然分かっていなかったのです。

 皆様も現在求めているはずですが、何を求めているのでしょうか。本心を言ってみてください。本心が七章七節の文句に合っていればいいのです。合っていなければいくら勉強してもだめです。


求めよ、そうすれば与えられる

 「求めよ、そうすれば与えられる」とあります。与えられると言っていますが、的確に、実証的に、具体的に自分で承知できるという形で、手答えがある形で与えられるということですから、そのような求め方をしなさいと言っているのです。

 自分に手答えがあるような与えられ方をするには、どういう求め方をしたらいいのかということです。正当で確実な求め方をしますと、命の実物が分かってくるのです。これをイエスが言っているのです。

 イエスは命を求めよとは言っていませんけれど、求めよ、そうすれば与えられるという言い方の中には、命という言葉が無言のうちに入っているのです。

 命の本質を求めるにはどうしたらいいのかと考えたらいいのです。求めるというのは原語では必要とする、執拗にしつこく欲しがるという意味があるのです。ただ単に欲しいと思うのではないのです。

 もし本当に求めている人であるとしたら、宗教では満足できないはずです。宗教の指導者として威張ることができる人は、求めるという真剣な気持ちがない人です。

 キリスト教の指導者は求めるという気持ちが分からない人です。人生に理屈をつけてそれで満足しているからです。神学者とか牧師という人々は自分の人生に自分で理論づけをしているのです。それで満足しているのです。

 日蓮がそうでした。自分の人生に理論づけをして満足していたのです。満足できたのです。親鸞はそれができなかったのです。満足しようと思ったけれど、満足できなかったのです。それで苦しんだのです。自分の教団を造っていながら、その教団を捨ててしまって乞食になったのです。

 親鸞は女が好きで好きでたまらなかったのです。なぜこんなに女が好きになるか分からなかったのです。いかなる行をしようが女を好きになる気持ちをやめられない。地獄一定の身であると歎異鈔で言っているのです。

 この人が宗教家ではない宗教家であったと言えるでしょう。宗教家になりきれなかったのです。親鸞は浄土真宗を捨ててしまった男です。本願寺で祀っている親鸞は浄土真宗を造った親鸞です。本当の親鸞は六十三歳から九十歳までの間、浄土真宗を捨ててしまった親鸞です。三十三歳から六十三歳までは浄土真宗を信じていたのです。

 浄土真宗では親鸞は偉い人だと言われているのです。捨てられた信者が親鸞は偉いと言って拝んでいるのです。一体宗教は何をしているのかと言いたいのです。

 親鸞は宗教家ではなかったのです。理屈を言って自分をごまかしておけなかったのです。日蓮は自分をごまかしておけたのです。

 釈尊も自分自身をごまかすことができなかったのです。自分で自分を満足できる人、自分の人生に満足ができる人はだめです。

 皆様も同様です。自分の信仰を自分で満足していたらだめです。自分の信仰では満足できない人、イエス・キリストの信仰でなかったら満足できない人になって頂きたいのです。

 人間が生きているということは、生きていること自体が機能性です。生かされていることなのです。生かされているということは神に生かされているのです。神に生かされているという機能性が私たちの人生経験になっているのです。

 私たちは生かされているということを経験しているのです。経験させられているのです。私たちという立場で神の命を経験させられてはいますけれど、私たち一人ひとりの命があるのではないのです。一人ひとりというあり方で、経験をさせられているのです。

 一つの命をたくさんの人間が経験させられているのです。命は一つしかありません。それをたくさんの人が経験させられているのです。それを自分が生きていると考えるのですから、自分が救われたいと考えるのです。

 親鸞は女が好きでした。法然でも、日蓮でも女が好きだったに違いないのですが、女が好きではないような態度をしていただけのことです。

 女が好きであるということほど、素直に、大胆に、素朴に命のあり方を教えてくれるものはないのです。親鸞の正直さというものは、実に見上げた立派なものです。ところが親鸞はそれを恥ずかしいことだと考えたのです。人間の本能が何であるのか分からなかったのです。恥ずかしいことだと考えたのです。

 親鸞の命に対する見方が間違っていたのです。それは女が何を求めているかということの真意を理解していなかったからです。

 女が本当に求めているものに答えるような形で、男は女が好きになったらいいのです。女が好きになるというのは宇宙の本能です。地球存在自体の本然性です。

 地球の本然性が本能となって人間に現われているのです。性の問題と食の問題は地球自体の本然なのです。地球自身の本然性です。これは前世の問題です。前世から今世に続いている問題です。

 セックスのことは誰にも教えられなくても知っているのです。教えられなくても知っているということが、前世からの問題を意味しているのです。これほど尊くてすばらしいものはないのです。

 ところが人間は性のことが一番恥ずかしいことだと考えているのです。性は人間の本能性です。本能性ということは霊魂の本性ということです。人間は自分自身の霊魂の本性を恥ずかしいものと考えているのです。これが悪魔の性格です。

 悪魔は現世の生活を非常に尊んでいます。現世の法律を尊ぶのです。現世の道徳性を尊ぶのです。現世で行儀が良いことを尊ぶのです。現世のことを大変気にするのです。現世の人の噂とか、他人の商売とか、人の批判を大変気にするのです。本然的ではないのです。

 親鸞は自分の女好きが気になってしかたがなかったのです。男女の問題は前世からの問題です。この問題がはっきりしないことには、永遠の命が分かるはずがないのです。

 親鸞のように女が好きで好きでたまらない人間でなかったら、実は霊魂のことが分からないのです。日蓮は日本の政治とか、国の安定のことばかりを考えていたので、前世が全然分かっていなかったのです。

 本能は性だけではありません。食も本能です。食のことは生まれる前から知っているのです。生まれる前に食べていたのです。性の問題、食の問題は本然性です。性の問題と食の問題が本当に分かれば、永遠の命のことは分かってくるのです。

 性の問題、食の問題は本然性の問題ですから、こういう問題が神を信じることと重大な関係になるのです。性と食が分からなければ、とても永遠の命は分からないのです。

 生きているということは前世からの問題です。例えば皆様の精神状態は昨日があって今日があるのです。昨日、今日、明日を考えなければ生活が成立しないのです。過去、現在、未来を考えなければ生活ができないのです。これが皆様の生命構造の表現形式になっているのです。

 精神構造と生命構造とは同じものです。皆様の生命構造は生まれる前からあったのです。生まれた後の現世があります。死んだ後の来世があるのです。過去世と現世と来世があるのです。

 精神的に過去、現在、未来があるように、生命的にも過去、現在、未来があるのです。このことを考えると、性の問題、食の問題にも生まれる前と現世と来世とがあることが分かるのです。これが分からないようではとてもイエス・キリストを信じることはできないのです。

 創世記に、骨の骨という言葉があります(2・23)。これは女の本質のことを言っているのです。骨というのは霊のことです。肉というのは目に見える物質現象を指しているのです。骨は肉体によって隠れています。隠れていますが、骨がなければ肉体は成り立たないのです。

 筋肉も骨によって造られているのです。血となり肉となるという言葉がありますが、骨の働きが重要です。

 骨は人間の霊のことをいうのです。生活で言いますと、肉体が働いているのは骨があるお陰です。骨の働きによって肉体が保たれているのです。

 人間の精神構造を骨という言葉で現わしているのです。これが霊です。本来人間はアダム一人で、エバがまだ造られていなかった時があったのですが、男がぼんやりしていたために、神が全然分からなかったのです。そこでアダムが眠らされて、ほとんど半死になってしまったのです。その時にアダムのあばら骨が抜かれてエバが造られたのです。

 女はアダムのあばら骨で造られたので骨です。ところがアダムの前に現われたエバはすばらしく上等に見えたのです。これが骨の骨です。女のすばらしさ、美しさ、色気が骨の骨です。ただの骨とは違うのです。

 女の素質は骨です。女のあり方、色気が骨の骨です。女は男の真心、真髄です。これが女に出ているのです。だから男は女が好きで好きでしょうがないのは当たり前です。

 本当に女が好きにならないような男は、命の真髄が分からないのです。イエスと女性の関係については聖書には書いていませんが、とても深いものがあったのです。

 人間の素朴な感覚で、甘いものが好きな人がいますが、なぜ甘いものが好きなのかを考えたらいいのです。酒が好きな人は酒が好きだという自分の精神状態をじっと見つめてみるのです。

 自分が欲望的であろうが、本能的であろうが、自分が生きている精神状態をそのまま読んでいくのです。そうすると聖書に書いていることと自分の命が同じであることが分かるのです。

 自分自身の中に、永遠の命があるのです。自分自身のあり方が聖書になっているのです。人間存在はこういうものです。

 本能というものを肉の思いで見ないで、霊の思いでゆっくり見ると、すばらしいものであることが分かるのです。霊で見なければだめです。

 世間の男がどこをどう間違えたのかということが本当に分からなければいけないのです。世間の人間の肉の思いの間違いが分かることです。同時に霊の思いで見たらどうなるのか。両方分からなければいけないのです。

 イエスは両方分かっていたのです。何もかも分かってしまうと、気楽なものになるのです。



天地万物は神の言葉

 天地万物はことごとく神の言葉です。天地万物を読んでいったらいいのです。きれいなもの、汚いものも皆万物です。神の言葉です。きれいとか汚いというのは、その時のその人の感情で思うだけのことです。

 天地万物はすべて神の言葉ばかりです。この神の言葉を読んでいったらいいのです。汚いというものは一つもないのです。自分の心が汚い人は汚いものがあると思えるのです。自分の心をきれいにしたら、汚いものは一つもないのです。

 生きているということが本当に分かってくると、自分の命が何であるのかが分かってくるのです。「求めよ、そうすれば与えられるであろう」とイエスが言っています。求めることさえしていれば、必ず求める心に応じて与えられるのです。

 霊的に求めなければ霊的に与えられません。肉的にしか求めていない人は、霊的に与えられないのです。霊的に求めれば霊的に答えられるに決まっているのです。すべてそうなるのです。

 霊の思いで求めたら何でも霊になるのです。人間が生きているということは、大変なことをしているのです。現在皆様が生きているということは、すばらしいことをしているのです。

 求めるという言葉に対して、与えるという言葉を使っているのです。与えられるとはどういうことかです。皆様は現在人間の常識で生きておいでになるのです。常識的にきれいなものをきれいだと思っています。また、常識的に女とか男とかを考えているのですが、この時は与えられていないことを意味しているのです。正しく求めていないからです。

 世間並みの常識でセックスを考えている。また、食を考えている。性と食は欲望だと考えている。これが間違っているのです。

 本能は先天性です。先天性というものは、人間が生きている以上、なければ死んでしまうものです。先天性の性がなければ人間が伝承できないのです。これが本能性です。本能性がなければ人間社会を続けることができないのです。これが欲であるはずがないのです。

 欲というものは悪いと思ったらやめることができるものです。やめてもさしつかえがないことをいうのです。性と、食をやめたらどうなるのか。人間社会が絶滅してしまうのです。常識はこういう間違ったことを言っているのです。

 本能というものは生まれる前からの伝承であって、先天的なものです。この世に生まれてからできたものではないのです。

 金銭を貯めるというのは欲です。物欲とか名誉欲というのは欲です。現世に生まれたから金銭を貯めたい。物が欲しいと考えるのです。これが欲です。本能ではありません。

 現世に生まれる前の本能と、現世に生まれてからできた欲とは、本質が違うのです。お金を儲けなければ人間社会が伝承されないということはないのです。

 「求めよ、そうすれば与えられるであろう」という言葉をよくよく考えますと、現在生きている状態について、人間はまだ知っていないということが分かるのです。これをよくよく知りたいと思えば、人間が知っていない事がらについて分からせられると言えるのです。まだ知っていないことを分からせられるのです。

 本能性とはどういうことなのか。欲とはどういうことなのか。欲ではないということはどういうことなのか。知識と欲とはどう違うのか。道徳と欲望とは本質的にどう違うのか。信じることと、行うということとどう違うのか。違わないのか。信仰と道徳とはどう違うかという問題です。自分が生きていることと、神が生きているということとどう違うかという問題です。アスクしたらこういうことについて答えが与えられるのです。

 生きているというのは、自分が生きているのか神が生きているのか分からない面があるのです。自分が生きていたいと思っても、神が殺そうと思ったら命がなくなってしまうのです。

 命と言いますけれど、自分の命であるのか、神の命であるのか分からない面があるのです。アスクすると、こういうことが分かってくるのです。

 「求めよ、そうすれば与えられる」というのは、今まで生きていることについて、命について、肉体について、地球存在について分からないことがたくさんありますが、こういうことがだんだん分かってくるのです。地球の主人公として知らねばならないことがどんどん分かってくるのです。だから求めよと言っているのです。万物の霊長として知らねばならないことを知ることができるのです。

 イエスのように、私は命であり道であると思えるようになってくるのです。皆様が生きているという命の実質、実体をアスクするのです。尋ねるのです。自分の命の実質が分かると、他人の命の実質、実体も分かってくるのです。太陽の命の実質までも分かってくるのです。そうして地球の運命も分かってくるのです。こういうことをアスクするのです。

 自分が死んでから天国へ行くという話とは違います。生きているうちに、天国そのものが分かってくるのです。自分が天国にいるかいないかが分かってくるのです。自分が生きている状態のままでアスクするのです。生きているということをアスクするのです。

 生きているということを尋ねるのです。求めるということと、尋ねるということを一緒にしたらいいのです。求めて尋ねる、尋ねて求めるのです。これをするといいのです。そうすると求めていることの内容を教えられるのです。

 そのためには一番分かりやすい問題は食と性の問題です。これが分かってくると命が分かるのです。性と食の問題の後に、命の問題、国の問題が続いているのです。

 日本の憲法の第一条に、天皇は国民統合の象徴であるとあります。天皇は日本国の象徴であるという言葉と、天皇は国民統合の象徴であるという言葉があるのです。国のシンボルと国民統合のシンボルがあるのです。国民統合という妙な言葉が使われているのです。

 この言葉は新約聖書の思想でなければ分からないのです。人間融合のシンボルはイエスである。これをイエスが主であるとなっているのです。イエスが主であるとは、人間は融合、または総合されるという意味です。人間総合のシンボルがキリストなのです。

 キリストは人間総合のシンボルである。天皇は国民統合のシンボルです。日本の憲法第一条とローマ人への手紙第十章九節とは、ぴったり合うのです。

 人間が生きていることはキリストの現象体をそのまま現わしているのです。現在生きている皆様は統合されるべきなのです。そうしないと人間の目的はないのです。個々の人間がいても何もならないのです。ただ死ぬだけなのです。

 お金を儲けても死ぬに決まっているのです。死んだら儲けたお金は誰のものになるのか。国のものになるだけです。

 現世で皆様は食べたり、テレビを見たり、異性を愛したりしています。何をしているのか。本人が経験しているのではないのです。食の問題、性の問題を本人が経験しているのではない。霊が経験しているのです。それを自分の魂とどのように結びつけるかが問題です。

 人間の経験をどのように記憶していくかが、永遠の命と重大な関係があるのです。

 宗教はすべて各宗派、各教派がそれぞれの意見を教えているのです。宗教には教義があります。仏教でもキリスト教でも宗派神道でもすべて教義がありまして、これを教えるのが宗教の目的です。

 ところが教義は教えではありますが、真実ではないのです。すべて教えるというものは教祖が自分が造った教義をお弟子さんに伝承させているのです。これは良い所もありますが、悪い所もあるのです。

 例えば日本の神道の教義のようなものを、ロシアのモスクワへ持って行っても通用しないでしょう。またニューヨークへ持って行っても通用しないでしょう。

 日本で通用する宗教様式は日本人だけのものです。ところが人間が生きているということは、全世界の七十一億の人間の共通の問題です。ここに宗教ではないということを考えられなければならないのです。

 人間が生きているということと、宗教の教えとはよく似たようなものですが、実は根本から違った物です。宗教を信じるということはもちろんご自由ですけれど、それを信じたからと言って、必ず宗教の教えどおりになるものとは限らないのです。

 釈尊は宗教家ではなかったのです。皆様もご存知のようにインドのある国の皇太子だったのです。宗教にはまったくの素人だったのです。この人が、人間はなぜ死ぬのか。なぜ生まれて病気になって死んでいくのか。いわゆる生老病死という問題を考えるために、王宮を捨てて、バラモン経の修行をしたのです。釈尊はただの素人だったのです。

 イエスは大工の青年です。田舎大工の倅であって、この人もまた、宗教家ではなかったのです。

 イエスはとても宗教が嫌いで、当時の宗教を非常に攻撃したのです。宗教が大嫌いで徹底的に宗教を叩いたのです。ところが今のキリスト教は、このイエスを教祖として拝んでいるのです。これがおかしいのです。

 キリスト教には教義がありますが、本当の聖書を全く説いていません。キリスト教がいうことと、聖書がいうこととは全く違うのです。似たようなこともありますけれど、根本的なことでは全然違うのです。

 キリスト教では神の実体が全く分かっていません。神を信じなさいと言いますけれど、神とはどういうものかということの説明をどこの教会でもしていません。ただ信じなさいと言っているのです。

 神様とは何ですかと牧師に聞きますと、神様は信じるものであって、考えるものではないというのです。牧師は皆こう言って逃げるのです。

 私たちはキリスト教ではない新約聖書、キリスト教ではない聖書を勉強しなければいけないのです。また、仏教ではない般若心経を勉強する必要があるのです。

 般若心経は釈尊の悟りを要約したものです。二百七十六文字に縮めているのですが、現世の人間を中心にして考えたものではありません。色即是空、空即是色が般若心経の中心テーマになっているのです。

 色即是空というのは、目に見える物理的現象は一切実体がないと言っているのです。これが般若心経の主張です。もし色即是空を本当に信じるとすれば、本当にこれを悟って実行するとしたら、現在の仏教教団は全部消えてしまうことになるでしょう。

 色即是空というのは宗教、寺があることが空だと言っているのです。これは考え方によって、そういうことを教えるためには寺が必要だという言い方もあります。般若心経を教えるために寺がいるのだと言えないこともないのですが、現在の寺は目に見えるものは一切空だということをはっきり教えていないのです。

 それよりも檀家が増えること、お金がたくさん集まることの方が関心が高いのです。例えば般若心経を写経して千円を送るとご利益があるというのです。奈良のあるお寺は百万写経と言いまして、百万人から千円送られてきましたから、十億円の収入になったのです。今日までに六百万人の人が千円ずつ送ってきていますから、寺は六十億円の収入があったのです。このお金で金堂、西塔などの伽藍を復興したのです。

 これが宗教です。色即是空という言葉はありますが、色即是空という実体が今の仏教にはありません。

 私は宗教ではない般若心経と聖書を提唱しているのです。釈尊は本当に何を言いたかったのか、何を悟ったのか。イエスは何を伝えたのかということを皆様にお話ししたいと思っているのです。

 般若波羅蜜多というのは、サンスクリットで、パニャーパーラミターとなっていまして、彼岸へ渡る知恵を言うのです。般若というのは普通の人間の知恵ではない上等の知恵、叡智を指すのです。ハラムとは彼の土、向こう岸です。イターというのは到るということです。

 彼の土へ到るための知恵が、般若波羅蜜多です。これは現世の常識とは全然違うのです。学問とか知識とは違うのです。



新陳代謝

 皆様の常識は肉体人間が存在するという考えが土台になっているのです。肉体人間が存在するという考えを無明と言います。迷いというのです。

 なぜかと言いますと、肉体というのは新陳代謝しているもので、食べたものが胃で消化、腸で吸収されて、しばらくするとまたお腹がすくのです。毎日三回これをしているのです。これは体が新陳代謝しているからそういうことになるのです。

 そうすると皆様の肉体があるのではなくて、新陳代謝という事がらがあるのです。生きているということは、流れているということです。これを頭で知るだけでなくて、本当に心で実感できるようになれば、現世は全く空であるということがよく分かるのです。また、無であるということが分かるのです。

 般若心経は二百七十六文字という非常に短いお経ですが、この中に無が二十七文字もあるのです。全体の一割も無があるのです。

 無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃無意識界、無無明亦無無明尽とたくさん無が出ているのです。

 無というのは無いということです。皆様が考えていらっしゃる肉体が新陳代謝するというのは、天地の流れです。天地の流れがあるのです。

 天地の流れとは一体何であるのか。これが本当の命です。命はじっと固定しているものではありません。流れ動いているものです。哲学的に言いますと、弁証法的に存在しているのです。流動的に存在しているのです。

 ところが皆様は、常識的に自分の肉体が固定的に存在していると考えているのです。こういう考え方を持っておいでになると、必ず死んでしまうことになるのです。

 皆様は死ぬのは嫌だと思っているでしょう。死ぬのが嫌に決まっているのです。ところが人間は死ななければならないと勝手に思い込んでいるのです。死にたくないけれども、死なねばならないと考えている。これが迷いです。

 死にたくないという気持ちは誰でもあるのです。死にたくないという気持ちがあるのは、死ななくてもいい方法がどこかにあるからそう思っているのです。

 人間の希望というのは、必ず叶えられる望みがあるから持てるのです。叶えられる可能性がない場合には、望みが一切発生しないのです。

 例えば、お金を儲けたいと思います。お金を儲ける方法があるからお金を儲けたいと思うのです。

 人間の望みというものは、叶えられる可能性があるから持てるのです。死にたくないというのは、人間の最も熱心な、最も真剣な、最も真面目な考えです。従って死にたくないという真面目な考えは、叶えられるに決まっているのです。

 もし皆様が般若心経に言われていますように、一切空、五蘊皆空、色即是空ということが本当にお分かりになったら、死なない命が分かるのです。

 現在皆様の肉体は生きているのではなくて、流れているのです。このことが分かっていないために、自分が生きていると思い込んでいるのです。自分の思いが間違っているから死ななければならないのです。

 皆様の心の中から迷いを取り去ってしまえば、本当の命が見えてくるのです。

 人間が生きていることは神と対話していることです。神は絶対に死にません。だから神を掴まえたら皆様も死なないのです。神とは何かと言いますと、キリスト教で考えているものとは違います。聖書にある神はキリスト教で考えている神ではないのです。

 何かと言いますと、皆様が生きていらっしゃることが神です。皆様の肉体的な形を通して命が流れているのです。命が流れていることが神です。

 皆様の心臓が動いています。血液が流れています。皆様の全身に血液が循環しています。これは命が流れている証拠です。こういう事実を神というのです。

 皆様の目が見えること、耳が聞こえることが神です。皆様は現在神を経験しておいでになるのです。

 生きていることは神と対話していることなのです。これが分かれば死ななくなるのです。私はこれを現在経験しているのです。毎日、神と対話しています。だからこうしてお話ししているのです。

 これは宗教のお筆先みたいな言い方になって恐縮ですが、これは当たり前のことなのです。私は毎日神と対話していることが分かった普通の人間です。これが分からないのは無知蒙昧の証拠です。無明です。分からない方が間違っているのです。

 人間は死なないのが当たり前です。命が分かったら死なないのです。これが当たり前です。

 宇宙の命は死なないのです。死なないのが命です。大自然は新陳代謝しています。新陳代謝の原理が皆様に分かれば、命の原点がはっきり掴まえられたら、皆様の生活の考え方が、がらっと変わるでしょう。

 商売人はやはり商売をするでしょう。会社員はいつものように会社へ行くでしょう。生活の形態は変わらないでしょう。しかし生活の心構えが全く変わってしまうのです。

 私は宗教の宣伝をしているのではありません。命を勉強したいと思われるなら、ご相談相手になりたいと思っているのです。

 すべての人間の行き着く所はどこか。人間が空であることが分かれば、般若波羅蜜多が分かるのです。人間が空であることが分かれば死ななくなるのです。

 人間が生きている常識、知識、皆様の今までの人生観、世界観や価値観は皆空です。間違っているのです。

 人間は物質が存在すると思っていますが、物質が存在するのではありません。新陳代謝という宇宙の法則が存在するだけのことです。これが命です。この命さえ分かれば死なないのです。

 命が分かれば死なないのです。私はこの命の勉強を皆様と一緒にしたいと考えているのです。

 皆様は今までの考えで生きていますと、必ず死んでしまいます。必ず迷います。迷いの果ては死です。無明の果ては死に決まっているのです。ところがただ死んだだけではすまないのです。死んだ後が恐いのです。何十年もの長い間、何のために生きていたかということを弁えないで、ただ自分の生活の欲望のために、人生を費やしておいでになったのですから、これは怠慢です。その怠慢を必ず咎められるのです。ですから目の黒いうちに、命の実質を勉強して頂きたいのです。

 現実は真実ではないし、現世は真世ではないのです。真実と真世とを見極めるために、思い切って自分の人生の実体を突き止めるだけの勇気がいるのです。

 現世だけが人生のすべてではないのですから、人生の実体を知る必要があるのです。生まれながらの人間は死ななければならないのです。また、何のために生きているのか分からないのです。だから人生そのものが虚しいものだと感じられるのです。

 しかし本当は人生が虚しいものではなくて、現代人の人生観が虚しいのです。人間とは何かということを明らかにしないままで生きているという人生が虚しいのです。これを当てにしていると、虚空を掴まされることになるのです。

 霊魂とは何か。実は霊魂という言葉が仏教にはないのです。仏典に魂という言葉がないのです。魂という言い方は神道でも使いますが、魂という言葉の意味をはっきり説明ができる宗教家はいないのです。これは禅宗でも分かりません。いくら座禅を組んでも分かりません。

 般若心経をいくらお読みになっても、いくら写経をなさっても本当の魂は分かりません。空ということさえも分からないのです。般若心経は釈尊の悟りを要約した論文のようなものです。釈尊の悟りを縮めて言うと般若心経になるのです。



究竟涅槃

 般若心経には悟りはあります。遠離一切 顚倒夢想 究竟涅槃というのは悟りです。このとおりです。人間が考えていることは一切顚倒夢想であって逆さまにひっくり返っているのです。

 人間は常楽我浄の四つのことを全く考え違いをしているのです。そのために逆さまの考え違いをしているのです。こういう考え方を捨ててしまって、究竟涅槃するのです。

 涅槃というのはニルバーナーという言葉から来ているのでありまして、冷えて消えてなくなってしまうことをいうのです。般若心経によって人間が冷えて消えてなくなってしまうことを勉強するのです。命を勉強するのとは違うのです。

 般若心経によって悟りは分かります。空は分かります。空はそのとおりです。これは全く同感します。一切は空です。ところが救いがないのです。命の説明は一切していないのです。

 究竟涅槃とは涅槃を極めつくすことです。これが般若心経の目的でありまして、命を与えるとはどこにも書いていないのです。これが釈尊の悟りの特長です。大乗仏教の本当の特徴は空です。一切空です。

 この一切空が徹底しますと、初めて人間のばかばかしさが分かるのです。そうして命に対する目が開かれるのです。もし皆様が涅槃の境地を体得なさっていたら、すぐに命が分かるのです。

 聖書は命を説いています。イエスは、「私が言った言葉は命である」と言っているのです(ヨハネによる福音書11・25)。「私は命のパンである」(同6・48)。「私は道であり、真理であり、命である」(同14・6)。「私は甦りであり、命である」(同11・25)。命である。命であると言っているのです。

 これが新約聖書の特徴です。般若心経は空を説き、新約聖書は命を説いているのです。般若心経の空と新約聖書の命の二つを皆様が勉強されたら本当のことが分かるのです。

 旧約とは古い約束、新約は新しい約束です。この約束を勉強して頂くことが必要です。

 人間は皆自分の考えが正しいと思っています。ところが本当に正しいのかと言いますと、それを決定するのが神です。仏教的に言いますと、大日如来のようなお方になるのです。

 例えば皆様が赤い花をご覧になって、Aという人が見て赤だと思うのと、Bという人が見て赤だと思うことは、厳密に言えば違っているのです。各人の健康の状態とか、生理機能の状態が違うはずです。

 馬が見ている赤と人間が見ている赤とは違うようです。そのように自分が見ている赤は、十人十色、百人百色と言いますように、少しずつ違った受け取り方をしているはずです。心理機能や生理機能の状態は、各人で皆違っているのです。だから自分の考えが正しいと思っても、神の前には通用しないのです。

 神の前に通用するのは、究竟涅槃です。自分自身の考えは良かれ悪しかれ皆空であるということです。これは神の前に通用するのです。

 般若心経の真理は神の前、宇宙の絶対者の前に通用する思想です。この意味で釈尊は偉いと思います。

 まず皆様は自分の考えは宇宙全体の考えではないことを悟って頂きたいのです。これを謙遜というのです。自分の考えは、自分の経験は宇宙の絶対者の経験ではないことを悟るべきです。

 自分はこう考えているから自分の考えは正しいだろうという考えを捨てて、命とは何か、神とは何か、何のために生きているのかということに対して、新しく考えて頂きたいのです。

 はっきり言いますと、宗教は造り事です。哲学も造り事です。これは人間が造ったものです。そういうものではなくて、絶対者の原理を学びたいものです。神の約束は天地が存在する原理でありまして、天地が存在するということが約束の実体です。

 地球に森羅万象がありますが、こういうものは金星にも木星にもありません。他の天体にも全くありません。なぜ地球にだけこういうものがあるのか。なぜ太陽系宇宙にだけ特別の現象があるのかということです。この説明は現在の学問ではとてもできないのです。こういう事がらを原理にしたものが神の約束です。

 自分の考えや自分の経験は正しいというのは自分の妄念ですから、この妄念から抜け出して頂きたいのです。妄念を解脱することから始めて頂きたいのです。

 政治をどのように考えたらいいのか。現代の政治のあり方が宇宙の基本原理から脱出しているのです。これは日本でもアメリカでも世界中どこでも言えることです。従って現代社会の政治を取り上げてあげつらうことになりますと、何時間話してもしょうがないのです。無明煩悩の見本みたいなものが政治です。本当の政治というのは政(まつりごと)でありまして、政というのは人間自身の魂の営みをいうのです。

 個人個人の魂が集まって世の中ができている。その世の中全体を引っ張っていくことが国の政です。こういう政の原理が分かっている政治家は今の日本には全然いません。今の政治家にこういうことが全然分かっていないのです。

 現代社会において軍事と政治が狂っているのです。私たちはこういうことをいうために生きているのではありません。政治や軍事は妄念ですが、今の世界ではそういうこともやむを得ないのです。

 私たちはそういうことを問題にせずに、本当の命を学ぶために、般若心経の精神に従って、色即是空を生活的に実感したいと思うのです。

 「ある」ということが今の人間に分かっていないのです。ある禅のお坊さんが自分は無を見たと言っていました。允可証明をもらっているし、自分自身は立派な禅僧であると思っているのです。

 無を見たというのです。無とは何かと聞いたら、それは無ですよというのです。説明ができないのです。有とは何かと聞いても分からないというのです。あると思っているのも皆無だと言うのです。これが間違っているのです。

 「ある」というのはあるのです。現在皆様はご飯を食べてお茶を飲んでいるのですが、これはあるのです。飲んだり食べたりして、そのお坊さんは生きているのです。そうすると自分自身があるのです。これを無と言ってごまかしてはいけないのです。



有と無

 本当の「有」が分かって、初めて本当の「無」が分かるのです。「有」が分からなければ「無」は分かりません。従って現在の日本の禅宗には本当の「無」が分かっている人はいないのです。

 「有」が分からない状態で、ただ「無だ」というのは禅の概念です。宗教観念です。そういう宗教観念の悟りは本当の般若心経の精神ではないのです。

 本当の「有」が分かって初めて、本当の「無」が分かるのです。「有」とは何かと言いますと、あるという事がらです。命が流れているという事がら、皆様の目が見えるという事がらが有です。これが神です。

 「我は有りて在るものなり」と旧約聖書で言っています(出エジプト記3・14)。キリスト教ではこの有りて在るという意味が分からないのです。あるとはどういうことなのか。これが分からないのです。

 現象的な感覚で物があると思っている。こういう感覚では本当の有が分かりません。物があることがあるのではなくて、物を物としていることがあるのです。これが有です。

 我は有りて在るものなりというのは、そういう意味でありまして、「無きものを有るがごとくに呼びたもう神」という言葉が聖書にあるのです(ローマ人への手紙4・17)。

 神が無きものを有るがごとくに呼んでいるのです。これが聖書の神です。これがキリスト教では全然分からないのです。

 無きものを有るがごとくに呼んでいるとはどういうことなのか。これがキリスト教では何のことか全く分からないのです。宗教は宗教教義を信じていますが、聖書の言葉をはっきり捉えてはいないのです。

 「神は霊である」という言葉がありますが、霊なる神とはどういうことなのか。あるということは霊です。あるという事がらが霊なる事がらです。

 本当の有が分からなければ、無は分かりません。有があって無があるのです。逆に言いますと、無があって有があるのです。だから般若心経と聖書は、影と形の関係になるのです。形があって影がある。影がある所には必ず形があるのです。これは前編と後編の関係になるとも言えるのです。

 パウロは、「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」と言っています(ローマ人への手紙8・6)。これはどういうことかと言いますと、現在人間が肉体的に生きていると思い込んでいます。目で見たような状態で家がある、車がある、道路がある、鳥が飛んでいると思っています。これが現象感覚です。

 現象感覚というものが肉の思いです。肉の思いを信じている人間は未完成です。イエスや釈尊は未完成の状態から完成へに到る灯火になってくれたのです。

 肉の思いは死であるとありますが、人間の常識は肉の思いで成り立っているのです。物質が存在すると考えているのです。しかし実は物質は存在しないのです。これは物理学でも証明しているのです。原子の運動があるだけであって、物質は存在しないということは物理学でも証明しているのです。

 そのことを湯川秀樹さんはよく言っていました。私は学校では物質は存在しないということを学生に教えている。しかし家へ帰ると物質が存在するような気持ちで生活している。私は偽善者のような気がすると言っていたのです。

 これは非常に正直な発言です。物質がないことを自然科学の理論では証明できるのですが、人間の生活感覚は物質があると思っているのです。実は人間は未完成どころではありません。人間は精神的に死んでいるのです。

 現在皆様は自分の命があると思っておられるかもしれませんが、その人は死んでいるのです。未完成ということは死んでいるということです。だから命がどこにあるかということを探したらいいのです。死なないようにと警戒するよりも、命がどこにあるかを考えて、その命を見つけたらいいのです。

 皆様は今生きていらっしゃいます。生きていますが命が分かっていないのです。ところがイエスは、私はいのちであると言っているのです。永遠の命に生きているから死なないと言ったのです。その証拠に十字架につけられて殺されたのですが、復活したのです。

 日曜日はイエスの復活記念日です。イエスが死を破ったのは歴史的事実です。死を破った、死が破られたという事実が、この地球上にあるのです。これは世界的な事実です。

 死を破った人間がいるのです。イエスはどうして死を破ったのか。肉の思いを破ったからです。肉の思いは死である。肉の思いを破ったのです。だから死を破ったのです。

 イエスがしたことは、皆様もできるに決まっているのです。未完成である人間、不完全である人間、死んでいく人間から鞍替えしたらいいのです。

 これはできるから、したらいいのです。肉の思いを解脱することは、ある程度座禅でもできるのです。禅の悟りは空の悟りであって、命を見極めているものではありませんけれど、般若心経の空をご理解頂いたら、肉の思いは空になるのです。従って自分の死が空になるのです。

 肉の思いが死ですから、肉の思いから出ることができたら、死から出ることもできるのです。これをして頂いたらいいのです。

 私は天地の命理を申し上げているだけです。何かの宗教の理屈を申し上げているのではありません。ありのままのことをありのままに申し上げているのです。

 どうか肉の思いは死であるということをよくお考え頂いて、肉の状態から抜け出して頂きたいのです。

 皆様は今のままでは死ぬに決まっているのですから、死ぬような人間から抜け出して頂ければいいのです。そういう勇気を持って頂きたいのです。

 人間の魂は現世に出てくるまでは神と共にいたのです。生まれるには生まれる理由があって生まれてきたのです。皆様の五官の根本原理は神の言(ことば)です。神の言が人間に植えられているのです。

 言が肉体となって地球上へやってきた。これがイエスです。イエスはすべての人を照らす誠の光です。イエスが死を破ったということは歴史的事実です。

 イエスは神の元から出てきて神に帰ったのです。皆様もイエスと同じです。皆様の五官は神が植えたのです。皆様は五官を用いて現在生活しているのです。

 五官の本当の意味、皆様に命が与えられているということを考えて頂きたいのです。皆様は五官で本当の命を経験しておいでになるのです。これがはっきり分かりさえすれば、皆様は神の元へ帰るに決まっているのです。

 神から出て神によって生かされているのです。そして神に帰るのです。これが人間の当たり前のコースです。イエスは当たり前の人間の当たり前のコースを人間に教えただけのことです。

 キリスト教ではイエスを超特別の人間のように言うのですが、これは宗教観念で考えているからです。イエスは当たり前の人間です。だから誰でもイエスを信じることができるのです。

 難しいと思わないで頂きたい。死ぬことを思えば少々難しくてもがまんして頂きたいのです。常識によって死んでしまわないで、肉の思いを踏みつけて、死を破って頂きたいのです。

 肉の思いを解脱するのです。死を解脱するのです。この勇気を持って頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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