現在の人間は生きていると思っていますが、これが間違っているのです。一人前の人間であると考えているのですが、これがキリスト教の考えです。これが間違っているのです。
神は今の人間を全然相手にしていないのです。相手にしているのはキリスト教です。キリスト教は今の人間を相手にしています。
私は社会人としての皆様を相手にしていません。もし相手にしていたら、聖書の勉強は成り立たないのです。
イエスも相手にしていなかったのです。「私は上から来たものであるが、おまえたちは下から出たものである」と言っているのです(ヨハネによる福音書8・23)。
皆様は固有名詞の自分を問題にしないで、幼子である感覚をそのまま見るようにして頂きたいのです。
水というものは何か。水の原点を言いますと、すべての物質は水から出ているのです。これはペテロの第二の手紙に書いているのです(同3・5)。
すべてのものは水から出て、水によって成り立ったものであると書いているのです。これは第一原子である水素原子のことを言っているのです。目に見える水ではなくて、目に見えない水のことを言っているのです。霊の水のことを言うのです。
これは物質の原点を指すのであって、水の中に生きている魚は、肉を住まいにしている獣とは命の素質が違うのです。
地上の生き物は動物です。肉なる動物です。水中の魚は動物には違いないのですが、次元が違うのです。地上の動物を肉の動物だとしますと、水中の動物は霊の動物になるのです。霊の動物の雛形、譬になるのです。
肉の動物に対する神の処置と、霊の動物に対する神の処置とは違うのです。地上のものを食べるということは、肉なるものが肉なるものを食べることを意味するのです。
水中の動物が水中のものを食べるのは、霊なる動物が霊なるものを食べることを意味するのです。
皆様は新に生まれて神の国に入るということを勉強して頂きたいのです。水からと霊から生まれて神の国に入るとなると、皆様の霊魂そのものが水の生物になってしまうのです。
現世に生きていても、普通の生物と全然違ったものになってしまうのです。これがとこしえの命を持っている人の生き方です。現世に生きていて、死ぬべき命を持っている人が、死なない命を現実に経験することができるということが、魚の譬です。
初代教会の時代に魚の絵を描いて、イエス・キリストを信じる者の暗号に使われたという伝説がありますが、魚というのはそのような意味があるのです。永遠の命のシンボルになっているのです。
現世に生きていても、現世の命に生きていない。現世における神の国の命に生きているのです。
現世には普通の人間が生きているこの世と、この世ではない神の国と二重になっているのです。イエスが、「時は満ちた。神の国は近づいた」というのは(マルコによる福音書1・15)、これを言っているのです。
イエス・キリスト復活によって、復活の霊、復活の御霊がこの地球上に下っているのです。「終わりの時には、私の霊をすべての人に注ごう」というヨエルの預言にありますように(使徒行伝2・17)、神の御霊が地上に下っているのです。
神の御霊が地上に下っているということは、現存する地球上に既に神の国が実現しているということです。この実体がキリスト教では全然分かっていないのです。
キリスト教は神の信じ方ばかりを問題にしているのです。神の信じ方をいくら問題にしても、神を信じるということはできません。信じ方に対して良いか悪いかばかりを問題にしているのです。
内村鑑三氏の信仰
キリスト教は神について勉強しているのです。神に属する勉強をしているのです。これが神学です。内村鑑三氏はこればかりをしていたのです。内村鑑三氏は神について勉強していたのであって、神そのものを全然知りません。彼はキリスト教の先生でしたが、神の証を全然していないのです。内村鑑三氏の信仰はこういう信仰でした。
「天にいますわれらの父よ、御名が崇められますように」とありますが(マタイによる福音書6・9)、これが全然分かっていなかったのです。
イエス・キリストの信仰と内村鑑三氏の信仰とでは全然違うのです。
カルマとは何か。仏教大学ではカルマという言葉を常識のように使っているのです。
聖書にある原罪と同じ意味になるのです。
ノアの洪水の時に、滅ぼされなかったものは魚だけです。地上の生物は全部罰せられたのです。地上の生き物は、鳥類や獣から虫類に到るまで、全部滅ぼされたのです。
この時に、神の刑罰を逃れたのは、水中の生き物だけです。従って、水中の生き物がとこしえの命の雛形になっているのです。
水中の命というのは、地球上に住んでいても別種の命を持っている生き物を指しているのです。
日本人はノアの洪水の意味が全然分かっていないのです。これはキリスト教が悪いからです。キリスト教はノアの洪水のことを全然知りませんから、洗礼は受けても受けなくてもいいというばかなことを内村鑑三氏が言っているのです。
水のことを知らない、洗礼のことをはっきり認識していないということは、イエス・キリストそのものをばかにしていることになるのです。神を足蹴りにしているのです。こういうばかなことを内村鑑三氏はしているのです。これを現在のキリスト教の人々は知らないのです。
水と御霊とが一つになって働く状態が、創世記の一章二節に書かれているのです。神の御霊が水のおもてを覆っていたとあるのです。
英訳ではAnd the spirit of God moved upon the face of water.となっています。moved uponというのは動かしていたという意味です。神の御霊が水のおもてを覆い尽くすような形で動かしていたという意味になるのです。
水があることが神の御霊が動かす対象としてあるのです。水があることが御霊の働きがあることを意味するのです。
現在の物質が存在するということは、水があることが原点になるのです。物質的存在を自然科学の原理から考えることをなるべくやめて頂いて、霊的に見て頂きたいのです。
闇が淵のおもてにあったということを対象にして、神の霊が水のおもてを覆っていたということを考えて頂きたいのです。
淵と水とは同じものです。水は動いているのです。流れているのです。淵は流れていない、留っているのです。こういう違いがあるのです。
水のおもてというのは、水のあり方です。水のあり方をいつも動かしている。これが水素原子の働きを暗に示唆しているとも考えられるのです。
水素原子が地球の物質の九十%以上を占めているのです。神の霊が水のおもてを動かしていることが、物質世界の原点になっているという聖書の言い方は、現在の科学から考えても間違っていないと言えるのです。
ノアの洪水
水ということが物の原点になっているのです。人間が水から生まれるということは、皆様の肉体がもう一度やり直されることを示しているのです。皆様の肉体が現在あることは、今の状態では死ぬためにあるのです。ところが、ノアの洪水をよくよく考えて、これをもう一度自分の肉体がかぶるのです。
ノアの洪水を自分の肉体が受けることになりますと、皆様は生まれる前に帰ってしまうのです。これを水から生まれるというのです。
皆様の現在の肉体が消滅しても、別の形で存続するのです。肉体が完全に消えてしまうのではありません。
マタイによる福音書にありますが、イエスが洗礼を受けて水から上がった時に、神から見たらイエスの肉体が見えなかったのです(3・16、17)。これがイエスが正当に、正式にノアの洪水を受け取ったという証明になるのです。
父なる神の御心に従って洗礼を受けますと、その人の肉体が消えてしまうのです。神の目からご覧になると、その人自身はいないのです。本人の信仰が神の御心に接着するからです。イエスがノアの洪水を受けたということが神に分かったのです。その結果、神からはイエスの肉体は見えなかったのです。
イエスはノアの洪水を真正面から受け止めたのです。これを神は非常に喜ばれたのです。
ノアの洪水を真正面から受け止めるということは、めったにないことです。神がアブラハムに約束を与えた後、二千年間の間、一人もなかったのです。イエスが初めてこれに成功したのです。
そこで神が非常に喜んだのです。I am well pleasedと言っているのです。神の喜びの表現が、神の御霊が鳩のように下ったとあるのです。
ノアの洪水を水のバプテスマとして真正面から受け取るということは、その人自身の肉体が消えてしまうことになるのです。これが洗礼の本当の意味です。キリスト教ではこれが全然分からないのです。
キリスト教の牧師で洗礼について正しく説明できる人は一人もいません。
イエスは、「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」とはっきり言っていますが(ヨハネによる福音書3・5)、この意味がキリスト教の指導者に分かっていないのです。
これは日本だけではありません。アメリカでも、ヨーロッパ、南米でも同様です。全世界のキリスト教に分かっていないのです。白人社会が聖書をばかにしているのです。白人社会が聖書を踏みつけにしているのです。これが白人社会の行き詰まりの原因になっているのです。
やがて世界に大混乱が起きますけれど、これは白人社会の罪によるのです。日本は白人社会ではないから有難いのです。日本は白人文明と異質の文化を持っている。だから、白人が罰せられる時に、日本は側杖を食らいますけれど、日本は比較的に軽い罰になるだろうと思われるのです。それから、日本には皆様のように、真面目に本当の聖書を勉強しようという方がいるからだとも言えるのです。
世界の状勢はこれからどんどん悪くなっていきます。白人文明は全然根っ子を持っていない文明です。聖書を正しく信じていないのです。神をばかにしているのです。キリストを踏みにじっているのです。
キリスト教がキリストを踏みにじっているのです。私は公の場でキリスト教の間違いを発言しています。神がそれを許しているからです。神が言わせているのです。
水ということがよく分からないということは、神の御霊を踏みつけていることです。皆様は水ということを注意して考えて頂きたいのです。
水から新しく生まれるのです。水のバプテスマということは、非常に重大な問題です。水をかぶらなければ新しく生まれることはできないのです。これをはっきり説明できる牧師が日本にはいないのです。
水は地球の物質の原点になっているのです。ノアの洪水は、神が今から五千年も前に、現在の地球を否定しているのです。神が完全に否定しているのです。
この世界は神に否定されている世界です。ユダヤ人はこれをまともに考えていないのですから、無くもがなの文明が無くもがなの状態で現われているだけなのです。
現在の文明を神は根本から認めていないのです。国際連合は人間が勝手に集まって、神を踏みつけているのです。
国際連合が基本的人権を主張しています。これを日本も主張していますけれど、これは全く笑い話です。もし基本的人権が人間にあるとしたら、基本的神権を認めないことになるのです。神権を踏みつけなければ、人権という考えは成立しないのです。
神権を考えるための非常に重要な点が水になるのです。地球の原点は水です。これは霊の原理を指していることにもなるのです。水の中に住んでいる動物と同じことを意味するのです。
肉体があると考えている方は、その肉体を脱いでしまわなければ死んでしまいます。
ヨハネは、「イエス・キリストは、水と血とを通って来られた方である」と言っています(ヨハネの第一の手紙5・6)。
イエス・キリストの肉体は水です。イエスは水のバプテスマによって消えてしまったのです。
皆様の肉体は瞬間、瞬間、絶えず動いています。これを実感されますと、固定的な意味での肉体は消えてしまいます。これを霊なる体というのです。霊なるボディーは水の生物と同じ意味を持つ生態になるのです。
洗礼を受けるということは、そのような確信を与えられることを意味するのです。停止している状態から動く状態に変わってしまうのです。血液が循環しているのです。血と肉とはいつでも動いているのです。
血となり肉となると言いますが、皆様の肉体の健康状態はいつも動いているのです。肉体の生理は霊です。生理はいつも動いているのです。
動いているものは霊です。肉があると考える考え方が間違っているのです。
今日の医学の根本原理が間違っているのです。医学は肉体があると考えていますけれど、医学は命を知りません。生理は知っていますけれど、生理を科学的にしか見ていないのです。
生理は科学ではないのです。肉体存在の原点が生理です。肉体存在の原質が生理であって、生理がボディーになっているのです。肉体という物質があるのではなくて、生理がボディーになって現われているのです。
人間は物質的に存在する肉体があると考えている。これが白人文明、白人哲学の基本的に間違っている点です。白人は神を信じていないのです。神を信じていないために本当の命が分からないのです。
死なない体があるのです。医学ではこれが分からないのです。死なないボディーが原則です。 死ぬに決まった肉体があるというのは、間違った医学によって考えられた理屈です。
医学を信じている人は必ず死にます。医学以上のものがあるのです。自分が生きている命を信じなければならないのです。命を信じれば、死なない自分の生態の原点が分かるのです。
神の霊が水のおもてを覆っているということが本当に分かれば、死なない自分の命が分かるのです。信仰はここまで行かなければ本物とは言えないのです。
今、皆様は生きていることによって、知らず知らずのうちに自分の名前の小説を書いているのです。これは本当の自分ではないのです。世間の人間は、これを本当の自分だと思っているのです。
ジーザス・アズ・ロード
小説の私の一生というものと別れてしまうのです。そうすると、本当の自分の命が分かるのです。これがイエスが主であるというのです。これをJesus as Lordと言います。
Jesus as Lordというのは非常におもしろい言葉です。as Lordというのはどのように訳したらいいのでしょうか。日本語に訳したら、彼は私のシンボルであると訳したらいいかもしれないのです。
イエスは私のシンボルなのです。日本国の憲法に、天皇は国民統合のシンボルであるという言葉があります。イエスは人間統合のシンボルなのです。イエスはこのことを宣言しているのです。
Jesus as Lordが分かると、初めて人間文明の本当の秘密が分かってくるのです。イエスが主であるという本当の意味が分かってくるのです。
皆様は固有名詞の自分があるような気がするでしょう。山田太郎という人がいるとしたら、山田太郎という小説を書いているのです。小説の主人公が自分になっているだけです。
聖書は人間のことを書と言っているのです。「地球の歴史が終わる時に、かつて地球に存在した何百億人の人間が、全部書であった」と書いているのです(ヨハネの黙示録20・12)。
書であった人間は全部火の池へ放り込まれるのです。医学を信じている人は書を信じている人です。商売に一生懸命になっている人は、書に一生懸命になっているのです。金儲けとか恋愛とか、家族のことを考えていることは、皆書なのです。皆様は自分という題名の小説を書いているのです。
皆様は自分の人生に何の目的があるのでしょうか。ただ死ぬだけです。固有名詞の人生は死ぬだけしか目的はありません。それが嫌なら聖書を勉強するしかないのです。
死ぬしかないことを皆様はよくご存知です。皆様は皆自分という題名の長い小説を書いているのです。その結果どうなるのかと言いますと、死んでいくとなるのです。
そこでジーザス・アズ・ロード(Jesus as Lord)を考えて頂きたいのです。
国民統合のシンボルという言葉が、日本の憲法にあるのです。これは人類統合のシンボルがあるということの非常に有力な証明になるのです。
日本の憲法が世界全体の人間の霊魂の証明になっているのです。日本の国柄が全世界の人間の象徴の決め手になっているのです。日本の憲法以外にアズ・ロードについて証明しているものは何処にもないのです。
人間が考えているものは皆嘘です。性欲がある、食欲があると考えている。これが嘘です。恋愛も家庭も、親子も嘘です。本当に聖書を見ていくと、こういうことが分かるのです。
人間は自分で自分の小説を書いていながら、自分のリビングが分かっていないのです。自分の感情の起伏、利害得失の観念、自分に気に入った理屈、自分の喜怒哀楽の感情とかいうものは、すべて小説の内容になっているのです。
皆様の生活の実体は何でしょうか。これが分かると救われるのです。自分自身の生活の実体が分からないので、自分の小説を書いているのです。だから、自分の肉の思いが自分の主観の中心になってしまうのです。これが自分自身のストーリーになってしまうのです。自分のヒストリーになるのです。
皆様の存在の実体は何でしょうか。生活的実体の実存は何でしょうか。フランスで実存主義の哲学がありました。ところが、実存の実体を掴み損ねていたのです。だから、実存主義の哲学は、訳が分からないうちに消えてしまったのです。
本当の実存というのは何でしょうか。人間生活の実存とは何でしょうか。皆様はこの世で何十年間も苦労して生きてきましたが、未だに分からないでしょう。
人間の生活の主体はリビングです。これが人間に分からないのです。これが水です。生活の主体認識というのは、水における自己認識です。これをイエスは「水から生まれよ」という言い方をしているのです。
水からと霊からとによって新に生まれると、主体認識がはっきり変わってしまうのです。水からと霊からとによって生まれない者は、主体認識が変わらないのです。
生活の主体性はリビングです。リビングの主体性は前世、前生です。これがイエスという小説です。人間の本心はイエスという小説を読みたがっているのです。
聖書はイエスのことをたくさん書いています。これは何かと言いますと、イエスのリビングを書いているのです。イエスが生まれてくる前のリビング、天にいた時のリビング、そうして、地上にいた時のリビングを書いているのです。
イエスは天から下って、なお天にいた。聖書はそれを書いているのです。四福音書はイエスの伝記を書いているのです。この小説は光っているのです。
イエスは天から下った。しかしなお、天にいたのです。天から下るという形は取ったけれど、実体的にはなお天にいたのです。
皆様方も同様です。皆様も天から下ったという形を取っていますが、皆様のリビングはなお天にいるのです。
皆様は自分のリビングがありながら、それが分かっていない。リビングがなければライフは成り立たないのです。リビングというのを日本語でいうと、生きていること、生き方になるのです。
皆様が生きていることを直感してください。実はそれは固有名詞に何の関係もないのです。
皆様が目で見ていること、耳で聞いていること、手で触っていることが、初めからあった命の言葉です。固有名詞の人間は肉体人間です。
五官が皆様の主体です。これは初めからあったものです。初めからあったというのは、皆様が生まれる前からあったのです。もっとはっきり言えば、地球ができる前からあったのです。もっと正確に言えば、太陽系宇宙ができる前からあったということです。ビッグバーンの前からあったのです。
大爆発の前からあったのです。約百三十億年前にビッグバーンが発生したと言われますが、その前からあったのです。
「初めに言葉(ことば)があった。言は神と共にあった。この言に命があった」とあります(ヨハネによる福音書1・1)。地球ができる前、太陽ができる前、ビッグバーンの前に言があったのです。
言が太陽になった。地球になったのです。そして、人になったのです。私になったのです。
今、私たちは初めからあった言を、森羅万象として見ているのです。これに触っているのです。現世では加藤さんとか、山田さんとかいう固有名詞を付けていますけれど、これは影、嘘としてあるのです。
初めに皆様の原形があったのです。その時は加藤さんも山田さんも同じだったのです。一つの命だったのです。一つの命があったのです。
皆様は今、初めからあった命の言を見ているのです。それを聞いているのです。これが分かったら今生きている固有名詞の人間には何の価値もないのです。
皆様には初めからあった力が今宿っているのです。その力によって見たり聞いたりしているのです。これがイエスです。それを固有名詞の自分として生きているからいけないのです。
イエスとして生きるのです。これをジーザス・アズ・ロードと言うのです。そうして四福音書の中へ入ったらいいのです。ヨハネは皆様に初めからあったことを教えるために、福音書を書いたと言っているのです。
初めからある命を掴まえたら、この世に生きていても生きていなくても同じことです。これをよくご承知頂きたいのです。
皆様が現在生きている命は、必ず死ぬ命です。死ぬに決まっている命です。皆様は死ぬに決まっている命を、自分の命だというように思い込んでいますが、これはどういう訳でしょうか。
皆様は死なねばならないことを、百も二百もご承知です。皆様の本心は死にたくないという気持ちがはっきりしているのです。
死にたくないと思えばこそ、ちょっと病気になればすぐ病院へ行くのです。治療を受けて薬を飲むのです。
もし死にたければ、病院に行く必要はありませんし、薬を飲む必要もないのです。
とにかくおかしいのです。死なねばならないことが分かっていながら、その命を自分の命だと考えているのです。これはどういう訳でしょうか。これを冷静に考えて頂きたいのです。
これは宗教の話をしているのではありません。現実に皆様が生きている精神状態に根本的な矛盾があるのです。
死ななければならないに決まっていることをよくよく承知していながら、その命を自分の命だと思い込んでいるのです。これはどういうことでしょうか。そういう思いをやめて、死ななくてもよい命を見つけたらどうでしょうか。
皆様の本心は本当に死にたくないと思っているのですから、その本心に従って考えたらいいのです。
死んでも仕方がないと、本当に堂々と言える方があるのでしょうか。死なねばならない命であるために、やむを得ず死ぬのが当たり前だと思い込んでいるだけのことなのです。
しかし、死にたくないのが本音なのです。死にたくないという本音は、すべての人の中にあるのです。これを仏教では本願と言っています。本願、本心というのは、死にたくないという気持ちです。これがはっきりあるのです。
ところが、本願、本心どおりの命を皆様は掴まえていないのです。そうして、死なねばならないに決まっている命を自分の命だと思い込んでいるのです。こういうばかなことをどうしてしているのでしょうか。
命に対する見方を変えさえすれば、死なない命を見つけることは十分にできるのです。私はそれを実行しているのですから、これをはっきり申し上げているのです。
命と生
人間の命は死ぬべきものではありません。命という言葉をよくご覧になったら分かります。いのちというのは生命の生(せい)と書くのが本当のいのちです。
命(めい)というのは、人間が現世に生きているいのちを指すのです。生(せい)というのは、いのちの本質を意味するのです。生(せい)は死を意味する言葉ではないのです。
生が皆様の本当のいのちです。ところが、皆様は死なねばならない、死なねばならないというように思い込んでいるのです。
キリスト教で長年聖書の勉強をしている方でも、死なねばならないと思っているのです。死んでから天国へ行くと考えているのです。
天国へ行くか地獄へ行くかは別として、とにかく死んでからということを考えているのです。死んでから仏国浄土へ行く。死んでから天国へ行くと考える。死ぬということを呑み込んでいるのです。これが間違っているのです。
本来的に言いますと、人間の命は死ぬべきものではないのです。ところが、本来的な命というものを、現在の人間は全然見ようとしていないのです。死ぬに決まっているような命を、自分の命だというように思い込んでいるのです。これはとんでもない人生観の間違いなのです。
もし死ぬに決まっているのが本当の人生であるのなら、人間は真面目に汗水たらして働く必要はないのです。死ぬに決まっているのですから、したい放題のことをして生きたらいいのです。倫理、道徳を守る必要はないのです。
人間の命は明日をも知れぬ命です。しかも死ぬに決まっている命を自分の命だと思っていながら生きているというのは、どういう訳でしょうか。
これは全くの敗北思想です。負けてしまっているのです。喧嘩をする前から白旗を出しているようなことになっているのです。全くの負け犬思想です。初めから負けているのです。
現代文明は死ぬに決まっている人間を、人間だとして公認しているのです。死なねばならないに決まっている人間の命を、現代文明はそのまま呑み込んでしまっているのです。
人間は死ぬのが当たり前ということを前提にして、文明が成り立っているのです。こういう文明が正しいものだと思えるのでしょうか。こういう宗教、こういう教育、こういう政治が正しいと思えるのでしょうか。なぜ正しいと思えるのでしょうか。
死ぬのを丸呑みにしてしまうくらいなら、教育や政治、経済を考える必要はほとんどないのです。死ぬに決まっている人間を守ってみて何になるのでしょうか。
人間文明にはそのような根本的な間違いがあるのです。皆様の命は死ぬに決まっているのです。必ず死ぬのです。現在の命で生きていたら、必ず死ぬのです。これを皆様は鵜呑みにしているのです。
なぜ鵜呑みにしているのでしょうか。これは文明構造が皆様にそういう思想を押し売りしているからです。
国家社会、国際連合、国際政治が、死なねばならないのが人間だという観念を押しつけているのです。
皆様はそれを押しつけられているのですが、それに対して、なぜ反対しないのでしょうか。ヨーロッパでは物価が上がったと言ってデモが起きました。また、税金が上がったと言って激しいデモが起きました。若者が働く仕事がないと言ってデモが起きました。
韓国や中国では、日本の政府の歴史認識が間違っていると言って激しいデモが起きました。中国では反日デモによって日本の商店が焼き討ちされ、多くの日本車に火をつけられて燃え上がりました。これらはテレビによって生々しく報道されたので、皆様はよくご承知のことだと思います。
物価上昇率の問題、税金上昇の問題、国家間の歴史認識の問題は、死ぬということに比べたらとても小さい問題です。ところが、絶対に死ぬ命を無理やりに押し付けられていても誰も反対しない。一向にデモ騒ぎが起きたことがない。これは一体どういうことなのでしょうか。
人間を死へ引っぱり込んでいく。このような恐ろしい文明、教育をなぜ有難いと思うのでしょうか。これをよく考えて頂きたいのです。
私が言っているのは宗教の話ではありません。皆様の命の問題、永遠の運命の問題なのです。
皆様が考えている宗教は、人間が死ぬことを認めているのです。ある宗教に入っていれば、死ぬけれど、また、良い状態になって生まれ変わるというのです。七回も輪廻転生すると言っている宗教もあるのです。ばかなことを言うなと言いたいのです。七回生まれ変わろうが、百回生まれ変わろうが、死ぬべき命の繰り返しをしているだけなのです。こういうばかな思想を真面目に信じている人が多くいるのです。
死ぬに決まっている命を押しつけている宗教、教育、政治、文明をなぜ皆様は呑み込んでいるのでしょうか。ここに皆様の人生観の根本的な誤りがあるのです。
今の命が死なねばならない命であることを、皆様は十分に承知しているのです。ところが、死なねばならないに決まっている命を自分の命だと思い込んでいるのです。
死にたくない、死にたくないという気持ちがいつもありながら、死なねばならないと考えている。このような命に対する根本的な矛盾を、皆様は押しつけられているのです。
なぜ皆様はそのような矛盾した思想を呑み込んでいるのでしょうか。般若心経をしっかり読んでください。死にたくないというのが皆様の本心なら、死ななくてもよい命を見つけて頂きたいのです。死なない命を見つけて頂きたいのです。
死ななくてもよい命はあるに決まっているのです。私はそれを見つけました。それは難しいことではないのです。
皆様の人格というものの真髄が分かりさえすれば、人間は死なないのです。イエス・キリストを信じるとか、阿弥陀如来を信じるとか色々な言い方をしますが、そういう言い方は回りくどい言い方です。
イエス・キリストを信じるとはどうすることでしょうか。これをキリスト教でははっきり説明ができないのです。イエス・キリストはどういう人物なのか。彼が復活したとはどういうことなのか。これと今の皆様の命とどういう関係があるのか。これが宗教ではなく本当の実体として皆様に提供することは、今のキリスト教ではできないのです。
仏教でもできません。ただ信じよと言います。信じるとはどうすることなのか。これが分からないのです。信じるとは自分がそのように思い込むことだと思っているのです。そんなものとは違います。
問題は皆様の人格です。現在皆様が生きているその人格の正体がはっきり分かれば、皆様は死なない命を見つけることは十分にできるのです。
人格の本体を見つけることを、現代文明が妨害しているのです。現代の宗教、教育がこれを妨害しているのです。
人間が素直に命を考えることを、文明がさせないように、させないようにしているのです。こういうことについて日本の首相に文句を言ってもしょうがないのです。宗教家や大学教授に言ってもしょうがない。誰も解決方法を知らないからです。
もう一度言いますけれど、皆様の命は死ぬに決まっているのです。今の皆様は一人残らず全部死んでしまうのです。今の死ぬ命を捨てて、死なない命を掴まえようと考えたらどうでしょうか。
死にたくないというのは皆様の本心です。ところが、この本心を素直に見ることを、現代の文明、教育、宗教、政治が許さないのです。
皆様は現世の常識で生きているのです。人間の常識で生きている人は皆死んでしまうのです。必ず死ぬのです。常識は人間が死ぬことを鵜呑みにしているからです。
ところが、常識は生きている間だけしか通用しないのです。人間の常識、知識は生きている間だけしか通用しません。心臓が止まってしまうと、皆様は現世から去って行かなければならないのです。
文明とか、教育、宗教は現世だけのものです。皆様の現世の考え方は、この世にいる間だけに通用するのです。ところが、この世だけのものではないもう一つの考え方があるのです。これは何かと言いますと、人格の本体を捉えることなのです。人格の本体を捉えたら死なない命がはっきり分かるのです。
実は皆様の本心はこれを狙っているのです。自分自身の人格の本体を知ることをしない。これが現代人の最大の欠陥です。これを現代文明が厳しく妨害しているのです。
現代文明は社会構造という大きな組織によって、皆様の本心を押し潰しているのです。圧倒しているのです。
皆様の人格は自分が造ったものではありません。人間が造ったものではないのです。
これは簡単なことです。難しくないのです。人格というのは、人間が造れるものではないのです。人間は人格を持ってはいますけれど、自分が造ったものではないのです。
右と左
人間は右という考えと、左という考えと二つの考えを持っているのです。イエスは、「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と妙なことを言っているのです(マタイによる福音書6・3)。これは右の手という命と、左の手という命と二つの命があることを示しているのです。
右の手で死なねばならないような生き方をしていても、左の手を見れば死なない生き方をしているのです。現実に皆様の人格のあり方を冷静に判断して頂きたい。自分の人格をよく見るのです。
現代人にはこれができないのです。自分で自分の人格を見ることができないのです。宗教ではこれができないのです。ナンマイダー、ナンマイダーと言ってもできないのです。アーメン、アーメンと言ってもできないのです。
これは皆様の命の問題です。人間は自分が生きていると考えています。これが間違っているのです。命を自分で造ることはできないのです。人格や命を人間が造ることは絶対にできないのです。こんなことは皆様はよく分かっているでしょう。
人格や命を自分で造れるはずがないのに、自分のもののように考えている。こういう根本的な考え違いがあるのです。
こういう点をはっきり考えて仕分けをするのです。貸し方と借り方を仕分けするのです。人の中にある死ぬ命と死なない命とを仕分けするのです。
そうすると、皆様は命に対する間違いを知ることができるのです。ですから、人間は死なない命を掴まえることは十分にできるのです。これを掴まえますと、つまらない心配とか、取り越し苦労、悲しみ、苦しみ、いわゆる不定愁訴、人生の矛盾から逃れることができるのです。訳が分からない不安がなくなってしまうのです。
死なない命が分かれば、あらゆる苦しみや悩みから逃れることができるのです。
自分自身の本当の命が見つかると、人間は初めて生きていることの楽しさ、すばらしさを経験することができるのです。心から命を楽しむことができるのです。
現在の皆様は個性で生きているのです。学校教育のキャッチフレーズに個性の完成というのがあります。
個性というのは何でしょうか。これは死んでしまう人間の性格をいうのです。
現代人は良くても悪くても個性で生きているのです。個性は本当の人格ではないのです。肉の思いによる性格です。これを解脱して頂きたいのです。そのことによって人格に触れることができるのです。
人格の真髄をよくよく見極めれば、これが本当の命だということが分かります。今まで生きていたのは、自分の本当の命だと思わせられていた命なのです。
人は誰でも生まれた時には全く天真爛漫の命を与えられたのですが、少年時代から青年時代、大人になるに従って、自我意識が芽生えてくるのです。その結果、命は自分のものだというとんでもない誤解を持ってしまうのです。これが死んでしまう原因になるのです。
命は自分のものだというのが根本的な誤解です。これは個々の人間が自分の個性によってそう思っているのです。
個性というのは人格ではなくて性格です。人格と性格はとんでもない違いです。性格が人格のような顔をして皆様の中で威張っているのです。これを追い出すのです。
人格というのは本来一つしかないのです。例えば、砂糖をなめて甘いと思うのは、世界中の人間の共通の感覚です。白人も黒人も、アジア人でも砂糖は甘いと感じるのです。
砂糖が甘いと感じるのは、人格的な認識です。世界中で誰でも同じように感じるのです。これさえ分かればいいのです。日本人特有とか、現代人特有とかいう考えが間違っているのです。
人間の歴史が始まって文化的な生活を開始したのは、約六千年前です。例えば、記録とか、政治とか、社会構造を幼稚ながらも始めてから、六千年になるのです。
ところが、六千年も生きていながら、人間は何のために生きているのか未だに分からないのです。六千年も生きていながら分からないのです。
古代社会でも、中世社会でも、相当真面目に考えていた人はいたようです。それが遺跡になって残っているのです。人生を相当真面目に考えていた人はいたのですけれど、何のために生きているのかが分かっていなかったのです。未だに分かっていないのです。
六千年も経っていながら、人間が何のために生きているのかが全く分かっていないのです。こんな文明を皆様はどうして信じるのでしょうか。こんな文明は、人間存在について真面目な文明だと言えるのでしょうか。
人間は六千年間生きていたけれども、真面目に生きていなかったようです。性格的に生きていたのです。個性的に生きていたのです。
民族は民族の主張で生きていた。国家は国家の主張で生きていた。こういうものが個々の人間の個性を造ってしまったのです。
その結果、本当の人格を見ることができなくなってしまったのです。
宗教には宗教という個性があります。はっきり個性があります。こういうものを信じていると、自分の命が見えなくなるのです。
六千年の間、人間は生活を経験していながら、何のために人間は生きているのかが全く分かっていないのです。現在の日本人もそれが全然分かっていないのです。しかも、近代文明になればなるほど、いよいよ分からなくなっているのです。
近代文明というのは、人間自身が人格的に考えることができなくなって、教育構造のようなもの、政治構造のようなもの、そして、民族意識を造って、人間をその中へ引きずり込んでしまったのです。
中世や古代でも、そういう弊害があったのですけれど、現代よりはまだましだったのです。近世から現代にかけて、人間は霊魂ということ、命の本性ということ、人格の本質ということを全く考えられない人間になってしまったのです。これが現代人の偽らざる姿です。
宗教はたくさんあります。ところが、宗教で言っていることはお伽話です。これは人間が勝手に造り上げた情報にすぎないのです。
学問は情報です。宗教も情報です。政治、経済も情報です。皆情報ばかりです。人間文明に情報はありますが、真理は全くないのです。
命の光が全く消えてしまっているのです。こういう現代文明の間違いをよく考えて頂きたいのです。よく考えて頂きたいと言っても、考えられないでしょう。
皆様の頭には現代文明の常識がしっかり入り込んでいるのですから、とても考えられる状態ではないのです。そこで、般若心経の色即是空という考え方、五蘊皆空という考え方が必要なのです。
今までの考え方に捉われないで考えるのです。どうぞ死にたくないという本当の命の捉え方を勉強して頂きたいのです。勇気を奮って今までの人生観に捉われないという考えを持って頂きたいのです。世界観を根本から変えてみたいというお気持ちを持って頂きたいのです。
そうしたら、これが本当の命か、なるほど死なないものだということがはきり分かるのです。皆様はその実感を持つことができるのです。
絶対とは何か。カントは神という言葉を使ってはいますけれど、神の実体を説明していません。カントは宗教家でもありませんし、神についてそれほど勉強してはいなかったようです。
彼は哲学の論理としては非常に広範なものを展開していますけれど、命を知らなかったようです。絶対ということは何でもないことです。いのちがあることが絶対です。
いのちには命と生とがあるのです。生というのは死なないいのちです。命は死ぬべきいのちです。人間の場合には生が命になって現われているのです。
命の本質を突き詰めていきますと、生が分かるようにできているのです。例えば、砂糖をなめて甘いと思います。なぜ甘いと思えるのか。砂糖に味をつけたのは製糖会社ではありません。
砂糖の味は天然の味です。天然とはどういうことなのか。これはおのずからであって、絶対というしかないのです。人間は天然という事実を認めない訳にはいきません。
絶対とは何か
花が咲いているのは天然に咲いているのです。天然の命が花として現われているのです。天然として現われているものが絶対なのです。
絶対は神と言ってもいいですし、宇宙人格と言ってもいいのです。人間がどうすることもできないこと、例えば、赤いものが赤いと見えることが絶対です。五官の本性が絶対です。五官は絶対から来たものです。
人間は現在生きていますが、命には格があるのです。動物の命と植物の命とは違います。命格と言ってもいいのですが、人間だけしかない格ですから、人格と言わなければならないのです。人柄と言ってもいいでしょう。
命があるという事実、地球があること、命があること、あるということが絶対です。
「我は有りて在るものなり」という言葉があります(出エジプト記3・1)。あるということが神です。太陽系の地球においてあるということが神です。山があること、川があること、海があること、あるということが皆神です。
カントはあるということを説明していないのです。何かがあるということは分かっているが、なぜあるかについては説明ができないとカントが言っているのです。
あるということが絶対です。これは生の本体です。これに人格があるのです。人として現われている人格があるのです。これは人格と言わなければしょうがないのです。
神の本質も人格になるのです。神格と言ってもいいのです。けれど、神も人間も認識の格式においては同じものなのです。神が造った砂糖の味が、人間が味わっても分かるのですから、人間の人格性というもの、五官の本体が人格性であって、これはそのまま神が造ったものの味が分かるのです。
雲の流れが分かるのです。花の姿が見えるのです。地球が丸いということ、時間、空間があるということが分かるのです。神が造ったものを人間が確認することができるのです。
三位一体の神のペルソナというものと、人間の人格とは本質的には同じなのです。そこで怖いのです。
皆様は神と同じものを持っているのです。これはすばらしいものです。皆様の人格の本質はすばらしいものです。天地の存在を認識することができるのです。万物を見分けることができる。これはすばらしい命の働きです。
皆様はこういう命を格式として持っているのです。だから、世間の常識に捉われないで、自分自身の生活の実体をよくよく見れば、分かると思います。
皆様が生きているということは、実は自分が生きているのではなくて、神が自分という格好で生きているのです。だから、これさえ分かれば死ぬはずがないのです。
皆様の五官の働きは神の認識と同じものなのです。神が造った天然自然を、皆様は見ることができるのです。これさえ分かればいいのです。世間の常識とか学問とか、いわゆる現世の考え方が間違っているのです。
本来皆様の五官の本当の働きは、宇宙的に言えば、神と同じものなのです。そういうものを持っていながら、自分が生きていると思っているのです。これが悪いのです。
人格を自分のものだと考えることは、神の天性を人間が横取りしていることになるのです。これは怖ろしいことです。これを皆様の人格はよく知っています。だから、死にたくないと思うのです。
今のままの状態で死んでしまえば、自分の命がどうなるのかを、皆様の本心はよく知っているのです。だから、死にたくないと考えざるを得ないのです。
人格という言葉が難しく思えるのなら、人柄と言えばいいのです。自分が生きている人柄、生きている状態の本当のあり方を見極めさえすれば死ななくなるのです。人柄の実体は神ですから、死なないのです。
私たちが生きているということが、あることです。人間がいるのです。これが神です。命がありますが、これが神です。これさえ分かれば死なないのです。
これを見つけることが皆様の命の目的なのです。この世で生活することが目的ではありません。生活をしたところで仕方がない。死んでしまうだけです。
死んでしまうに決まっている命を持ちながら、死なない命を見つけようと考えることが人生の目的なのです。
神とか人間とか命とか言いますと、宗教の話かと思われるかもしれませんが、そうではないのです。神とか命とかを言わなければならないので言っているだけであって、宗教の話をしているのではないのです。皆様が今生きている事実をお話しているのです。
絶対と人間の人格との関係についてですが、人間は生まれたいと思って生まれたのではないのです。これはばかみたいな幼稚な問題ですけれど、これを素朴に考えて頂きたいのです。
人間は自分で生まれたいと思ったのでありません。従って、皆様の命は自分のものではありません。自分で生まれたいと思ったのなら、命は自分のものだと言えるかもしれないのですが、この場合でも仮に自分で生まれたいと思っても、自分の肉体を自分で造る訳にはいかないのです。
生まれたとしても、水を造ったり、空気を造ったり、太陽を造ったりすることはできません。結局、人間は宇宙の力、自然の力によって生かされているのです。自然の力は絶対です。私たちが造ったものではないのです。自然は自然です。天然自然です。
天然が自然になっているのです。天然というのはおのずからです。おのずからというのは説明ができないのです。おのずからあるものが絶対の本体であって、皆様は絶対と同じような人格、立場で考えることができるのです。
人間は神と同じ本質を持っているのです。人間は神と同じ本質を持っていますが、初めから神と同じ能力を発揮できるのではないのです。人間はどれだけ頭が良くても、神と同じ考えをすることはできないのです。
皆様は現世に生まれたのですが、皆様の意志によるものではありません。人間は生まれたいと思ったのではありません。従って、皆様の人格、命は、皆様のものではありません。
人間は現世で生活するために生まれてきたのではないのです。生活をすることは大切ですが、何のために生活があるのかと言えば、生活することを通して神と接触するためです。
神に生きている
人間の衣食住ということは、神と接触しなければ成立しないのです。皆様は朝から晩まで神と向かい合って生きているのです。神と向かい合っていながら、神に面会していないのです。神と向かい合っていながら神と会っていないのです。神の本物に会っていないのです。
宗教がいう神は皆情報ばかりです。ユダヤ教、イスラム教は宗教です。キリスト教も仏教も宗教です。宗教は人間が人間のために造った教えです。教義です。こういうものをいくら勉強しても命は分かりません。だから、私は宗教が間違っていると痛撃しているのです。
宗教を何十年勉強しても、本当の神の実物は分かりません。キリスト教は教義を教えているのであって、神を与えているのではないのです。神の本当の命を与えてくれないのです。神を無視しているからです。教義を重んじているのです。本当の真実を軽視しているのです。
皆様には生きているという事実があるのです。生きているということが絶対です。花が咲いています。太陽が輝いています。地球が自転、公転しています。このエネルギーの実体が神です。これを神の御霊と言います。
太陽を見ただけで神がいることが分かるのが、本来の皆様です。ところが、「生まれながらの人は、神の霊を弁えることができない」とパウロが言っています。そのとおりです。現世に生きていて、現世が絶対と思っている人は、神が分かりません。
人間は自分がいると考えています。自分という人間がいると考えています。こういう考えでは神が分かりません。生まれながらの人は、神の霊の働きを掴まえることができないのです。
皆様は目が見える状態、耳が聞こえる状態、砂糖をなめて甘いと思える状態をじっと考えて頂ければ分かるのです。花が咲いているのを見るということだけで、大変なことをしているのです。太陽が輝いていることが目で見えるのです。これは大変なことをしているのです。
太陽系エネルギーの実体を、皆様は目で見ることができるのです。これは皆様の命がそのまま生ける神の子であることを証明しているのです。
皆様は毎日神と一つになって営みをしているのです。皆様が生きていることは、神の営みをそのまま経験しているのです。
神は分かりやすいものです。砂糖が甘いことが神です。太陽が輝いていることが神です。朝日の堂々たる威勢が、神の品格をそのまま現わしているのです。ですから、神を掴まえるということは難しくないのです。
誠の神とはお天道さんです。お天道さんを掴まえたらいいのです。お天道さんなら誰でも知っているでしょう。ご来光を、お天道さんとして拝んでいるでしょう。これが本当の神の見方に非常に近いのです。
お天道さんの本当の姿を見分けるためには、人間の常識にこだわっていたらできないのです。そこで、今までの常識を軽く見たらいいのです。
常識を捨てなくてもいいのです。常識を捨てたら仕事ができませんから、常識は持っていてもいいのですけれど、それが皆様の命の光になるのではありません。
皆様の衣食住において、皆様はどのように生活をしているのでしょうか。空気はどのように供給されているのでしょうか。太陽のエネルギーがあるかないかによって、人間の生活はどのように違ってくるのか。こういうことを坦々たる気持ちで考えて頂きたいのです。そうすると、皆様は本当の人格を見極めることができるのです。
皆様の中には文明の情報の間違いがたくさん入り込んでいますから、これを一つ一つ取り除いていかなければならないのです。面倒ですけれど、これをしなければいけないのです。
(内容は梶原和義先生の著書引用)