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  • higan2021

現在の人間は生きていると思っていますが、これが間違っているのです。一人前の人間であると考えているのですが、これがキリスト教の考えです。これが間違っているのです。

 神は今の人間を全然相手にしていないのです。相手にしているのはキリスト教です。キリスト教は今の人間を相手にしています。

 私は社会人としての皆様を相手にしていません。もし相手にしていたら、聖書の勉強は成り立たないのです。

 イエスも相手にしていなかったのです。「私は上から来たものであるが、おまえたちは下から出たものである」と言っているのです(ヨハネによる福音書8・23)。

 皆様は固有名詞の自分を問題にしないで、幼子である感覚をそのまま見るようにして頂きたいのです。

 水というものは何か。水の原点を言いますと、すべての物質は水から出ているのです。これはペテロの第二の手紙に書いているのです(同3・5)。

 すべてのものは水から出て、水によって成り立ったものであると書いているのです。これは第一原子である水素原子のことを言っているのです。目に見える水ではなくて、目に見えない水のことを言っているのです。霊の水のことを言うのです。

 これは物質の原点を指すのであって、水の中に生きている魚は、肉を住まいにしている獣とは命の素質が違うのです。

 地上の生き物は動物です。肉なる動物です。水中の魚は動物には違いないのですが、次元が違うのです。地上の動物を肉の動物だとしますと、水中の動物は霊の動物になるのです。霊の動物の雛形、譬になるのです。

 肉の動物に対する神の処置と、霊の動物に対する神の処置とは違うのです。地上のものを食べるということは、肉なるものが肉なるものを食べることを意味するのです。

 水中の動物が水中のものを食べるのは、霊なる動物が霊なるものを食べることを意味するのです。

 皆様は新に生まれて神の国に入るということを勉強して頂きたいのです。水からと霊から生まれて神の国に入るとなると、皆様の霊魂そのものが水の生物になってしまうのです。

 現世に生きていても、普通の生物と全然違ったものになってしまうのです。これがとこしえの命を持っている人の生き方です。現世に生きていて、死ぬべき命を持っている人が、死なない命を現実に経験することができるということが、魚の譬です。

 初代教会の時代に魚の絵を描いて、イエス・キリストを信じる者の暗号に使われたという伝説がありますが、魚というのはそのような意味があるのです。永遠の命のシンボルになっているのです。

 現世に生きていても、現世の命に生きていない。現世における神の国の命に生きているのです。

 現世には普通の人間が生きているこの世と、この世ではない神の国と二重になっているのです。イエスが、「時は満ちた。神の国は近づいた」というのは(マルコによる福音書1・15)、これを言っているのです。

 イエス・キリスト復活によって、復活の霊、復活の御霊がこの地球上に下っているのです。「終わりの時には、私の霊をすべての人に注ごう」というヨエルの預言にありますように(使徒行伝2・17)、神の御霊が地上に下っているのです。

 神の御霊が地上に下っているということは、現存する地球上に既に神の国が実現しているということです。この実体がキリスト教では全然分かっていないのです。

 キリスト教は神の信じ方ばかりを問題にしているのです。神の信じ方をいくら問題にしても、神を信じるということはできません。信じ方に対して良いか悪いかばかりを問題にしているのです。


内村鑑三氏の信仰

 キリスト教は神について勉強しているのです。神に属する勉強をしているのです。これが神学です。内村鑑三氏はこればかりをしていたのです。内村鑑三氏は神について勉強していたのであって、神そのものを全然知りません。彼はキリスト教の先生でしたが、神の証を全然していないのです。内村鑑三氏の信仰はこういう信仰でした。

 「天にいますわれらの父よ、御名が崇められますように」とありますが(マタイによる福音書6・9)、これが全然分かっていなかったのです。

 イエス・キリストの信仰と内村鑑三氏の信仰とでは全然違うのです。

 カルマとは何か。仏教大学ではカルマという言葉を常識のように使っているのです。

 聖書にある原罪と同じ意味になるのです。

 ノアの洪水の時に、滅ぼされなかったものは魚だけです。地上の生物は全部罰せられたのです。地上の生き物は、鳥類や獣から虫類に到るまで、全部滅ぼされたのです。

 この時に、神の刑罰を逃れたのは、水中の生き物だけです。従って、水中の生き物がとこしえの命の雛形になっているのです。

 水中の命というのは、地球上に住んでいても別種の命を持っている生き物を指しているのです。

 日本人はノアの洪水の意味が全然分かっていないのです。これはキリスト教が悪いからです。キリスト教はノアの洪水のことを全然知りませんから、洗礼は受けても受けなくてもいいというばかなことを内村鑑三氏が言っているのです。

 水のことを知らない、洗礼のことをはっきり認識していないということは、イエス・キリストそのものをばかにしていることになるのです。神を足蹴りにしているのです。こういうばかなことを内村鑑三氏はしているのです。これを現在のキリスト教の人々は知らないのです。

 水と御霊とが一つになって働く状態が、創世記の一章二節に書かれているのです。神の御霊が水のおもてを覆っていたとあるのです。

英訳ではAnd the spirit of God moved upon the face of water.となっています。moved uponというのは動かしていたという意味です。神の御霊が水のおもてを覆い尽くすような形で動かしていたという意味になるのです。

 水があることが神の御霊が動かす対象としてあるのです。水があることが御霊の働きがあることを意味するのです。

 現在の物質が存在するということは、水があることが原点になるのです。物質的存在を自然科学の原理から考えることをなるべくやめて頂いて、霊的に見て頂きたいのです。

 闇が淵のおもてにあったということを対象にして、神の霊が水のおもてを覆っていたということを考えて頂きたいのです。

 淵と水とは同じものです。水は動いているのです。流れているのです。淵は流れていない、留っているのです。こういう違いがあるのです。

 水のおもてというのは、水のあり方です。水のあり方をいつも動かしている。これが水素原子の働きを暗に示唆しているとも考えられるのです。

 水素原子が地球の物質の九十%以上を占めているのです。神の霊が水のおもてを動かしていることが、物質世界の原点になっているという聖書の言い方は、現在の科学から考えても間違っていないと言えるのです。


ノアの洪水

 水ということが物の原点になっているのです。人間が水から生まれるということは、皆様の肉体がもう一度やり直されることを示しているのです。皆様の肉体が現在あることは、今の状態では死ぬためにあるのです。ところが、ノアの洪水をよくよく考えて、これをもう一度自分の肉体がかぶるのです。

 ノアの洪水を自分の肉体が受けることになりますと、皆様は生まれる前に帰ってしまうのです。これを水から生まれるというのです。

 皆様の現在の肉体が消滅しても、別の形で存続するのです。肉体が完全に消えてしまうのではありません。

 マタイによる福音書にありますが、イエスが洗礼を受けて水から上がった時に、神から見たらイエスの肉体が見えなかったのです(3・16、17)。これがイエスが正当に、正式にノアの洪水を受け取ったという証明になるのです。

 父なる神の御心に従って洗礼を受けますと、その人の肉体が消えてしまうのです。神の目からご覧になると、その人自身はいないのです。本人の信仰が神の御心に接着するからです。イエスがノアの洪水を受けたということが神に分かったのです。その結果、神からはイエスの肉体は見えなかったのです。

 イエスはノアの洪水を真正面から受け止めたのです。これを神は非常に喜ばれたのです。

 ノアの洪水を真正面から受け止めるということは、めったにないことです。神がアブラハムに約束を与えた後、二千年間の間、一人もなかったのです。イエスが初めてこれに成功したのです。

 そこで神が非常に喜んだのです。I am well pleasedと言っているのです。神の喜びの表現が、神の御霊が鳩のように下ったとあるのです。

 ノアの洪水を水のバプテスマとして真正面から受け取るということは、その人自身の肉体が消えてしまうことになるのです。これが洗礼の本当の意味です。キリスト教ではこれが全然分からないのです。

 キリスト教の牧師で洗礼について正しく説明できる人は一人もいません。

 イエスは、「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」とはっきり言っていますが(ヨハネによる福音書3・5)、この意味がキリスト教の指導者に分かっていないのです。

 これは日本だけではありません。アメリカでも、ヨーロッパ、南米でも同様です。全世界のキリスト教に分かっていないのです。白人社会が聖書をばかにしているのです。白人社会が聖書を踏みつけにしているのです。これが白人社会の行き詰まりの原因になっているのです。

 やがて世界に大混乱が起きますけれど、これは白人社会の罪によるのです。日本は白人社会ではないから有難いのです。日本は白人文明と異質の文化を持っている。だから、白人が罰せられる時に、日本は側杖を食らいますけれど、日本は比較的に軽い罰になるだろうと思われるのです。それから、日本には皆様のように、真面目に本当の聖書を勉強しようという方がいるからだとも言えるのです。

 世界の状勢はこれからどんどん悪くなっていきます。白人文明は全然根っ子を持っていない文明です。聖書を正しく信じていないのです。神をばかにしているのです。キリストを踏みにじっているのです。

 キリスト教がキリストを踏みにじっているのです。私は公の場でキリスト教の間違いを発言しています。神がそれを許しているからです。神が言わせているのです。

 水ということがよく分からないということは、神の御霊を踏みつけていることです。皆様は水ということを注意して考えて頂きたいのです。

 水から新しく生まれるのです。水のバプテスマということは、非常に重大な問題です。水をかぶらなければ新しく生まれることはできないのです。これをはっきり説明できる牧師が日本にはいないのです。

 水は地球の物質の原点になっているのです。ノアの洪水は、神が今から五千年も前に、現在の地球を否定しているのです。神が完全に否定しているのです。

 この世界は神に否定されている世界です。ユダヤ人はこれをまともに考えていないのですから、無くもがなの文明が無くもがなの状態で現われているだけなのです。

 現在の文明を神は根本から認めていないのです。国際連合は人間が勝手に集まって、神を踏みつけているのです。

 国際連合が基本的人権を主張しています。これを日本も主張していますけれど、これは全く笑い話です。もし基本的人権が人間にあるとしたら、基本的神権を認めないことになるのです。神権を踏みつけなければ、人権という考えは成立しないのです。

 神権を考えるための非常に重要な点が水になるのです。地球の原点は水です。これは霊の原理を指していることにもなるのです。水の中に住んでいる動物と同じことを意味するのです。

 肉体があると考えている方は、その肉体を脱いでしまわなければ死んでしまいます。

 ヨハネは、「イエス・キリストは、水と血とを通って来られた方である」と言っています(ヨハネの第一の手紙5・6)。

 イエス・キリストの肉体は水です。イエスは水のバプテスマによって消えてしまったのです。

 皆様の肉体は瞬間、瞬間、絶えず動いています。これを実感されますと、固定的な意味での肉体は消えてしまいます。これを霊なる体というのです。霊なるボディーは水の生物と同じ意味を持つ生態になるのです。

 洗礼を受けるということは、そのような確信を与えられることを意味するのです。停止している状態から動く状態に変わってしまうのです。血液が循環しているのです。血と肉とはいつでも動いているのです。

 血となり肉となると言いますが、皆様の肉体の健康状態はいつも動いているのです。肉体の生理は霊です。生理はいつも動いているのです。

 動いているものは霊です。肉があると考える考え方が間違っているのです。

 今日の医学の根本原理が間違っているのです。医学は肉体があると考えていますけれど、医学は命を知りません。生理は知っていますけれど、生理を科学的にしか見ていないのです。

 生理は科学ではないのです。肉体存在の原点が生理です。肉体存在の原質が生理であって、生理がボディーになっているのです。肉体という物質があるのではなくて、生理がボディーになって現われているのです。

 人間は物質的に存在する肉体があると考えている。これが白人文明、白人哲学の基本的に間違っている点です。白人は神を信じていないのです。神を信じていないために本当の命が分からないのです。

 死なない体があるのです。医学ではこれが分からないのです。死なないボディーが原則です。 死ぬに決まった肉体があるというのは、間違った医学によって考えられた理屈です。

 医学を信じている人は必ず死にます。医学以上のものがあるのです。自分が生きている命を信じなければならないのです。命を信じれば、死なない自分の生態の原点が分かるのです。

 神の霊が水のおもてを覆っているということが本当に分かれば、死なない自分の命が分かるのです。信仰はここまで行かなければ本物とは言えないのです。

 今、皆様は生きていることによって、知らず知らずのうちに自分の名前の小説を書いているのです。これは本当の自分ではないのです。世間の人間は、これを本当の自分だと思っているのです。


ジーザス・アズ・ロード

 小説の私の一生というものと別れてしまうのです。そうすると、本当の自分の命が分かるのです。これがイエスが主であるというのです。これをJesus as Lordと言います。

 Jesus as Lordというのは非常におもしろい言葉です。as Lordというのはどのように訳したらいいのでしょうか。日本語に訳したら、彼は私のシンボルであると訳したらいいかもしれないのです。

 イエスは私のシンボルなのです。日本国の憲法に、天皇は国民統合のシンボルであるという言葉があります。イエスは人間統合のシンボルなのです。イエスはこのことを宣言しているのです。

 Jesus as Lordが分かると、初めて人間文明の本当の秘密が分かってくるのです。イエスが主であるという本当の意味が分かってくるのです。

 皆様は固有名詞の自分があるような気がするでしょう。山田太郎という人がいるとしたら、山田太郎という小説を書いているのです。小説の主人公が自分になっているだけです。

 聖書は人間のことを書と言っているのです。「地球の歴史が終わる時に、かつて地球に存在した何百億人の人間が、全部書であった」と書いているのです(ヨハネの黙示録20・12)。

 書であった人間は全部火の池へ放り込まれるのです。医学を信じている人は書を信じている人です。商売に一生懸命になっている人は、書に一生懸命になっているのです。金儲けとか恋愛とか、家族のことを考えていることは、皆書なのです。皆様は自分という題名の小説を書いているのです。

 皆様は自分の人生に何の目的があるのでしょうか。ただ死ぬだけです。固有名詞の人生は死ぬだけしか目的はありません。それが嫌なら聖書を勉強するしかないのです。

 死ぬしかないことを皆様はよくご存知です。皆様は皆自分という題名の長い小説を書いているのです。その結果どうなるのかと言いますと、死んでいくとなるのです。

 そこでジーザス・アズ・ロード(Jesus as Lord)を考えて頂きたいのです。

 国民統合のシンボルという言葉が、日本の憲法にあるのです。これは人類統合のシンボルがあるということの非常に有力な証明になるのです。

 日本の憲法が世界全体の人間の霊魂の証明になっているのです。日本の国柄が全世界の人間の象徴の決め手になっているのです。日本の憲法以外にアズ・ロードについて証明しているものは何処にもないのです。

 人間が考えているものは皆嘘です。性欲がある、食欲があると考えている。これが嘘です。恋愛も家庭も、親子も嘘です。本当に聖書を見ていくと、こういうことが分かるのです。

 人間は自分で自分の小説を書いていながら、自分のリビングが分かっていないのです。自分の感情の起伏、利害得失の観念、自分に気に入った理屈、自分の喜怒哀楽の感情とかいうものは、すべて小説の内容になっているのです。

 皆様の生活の実体は何でしょうか。これが分かると救われるのです。自分自身の生活の実体が分からないので、自分の小説を書いているのです。だから、自分の肉の思いが自分の主観の中心になってしまうのです。これが自分自身のストーリーになってしまうのです。自分のヒストリーになるのです。

 皆様の存在の実体は何でしょうか。生活的実体の実存は何でしょうか。フランスで実存主義の哲学がありました。ところが、実存の実体を掴み損ねていたのです。だから、実存主義の哲学は、訳が分からないうちに消えてしまったのです。

 本当の実存というのは何でしょうか。人間生活の実存とは何でしょうか。皆様はこの世で何十年間も苦労して生きてきましたが、未だに分からないでしょう。

 人間の生活の主体はリビングです。これが人間に分からないのです。これが水です。生活の主体認識というのは、水における自己認識です。これをイエスは「水から生まれよ」という言い方をしているのです。

 水からと霊からとによって新に生まれると、主体認識がはっきり変わってしまうのです。水からと霊からとによって生まれない者は、主体認識が変わらないのです。

 生活の主体性はリビングです。リビングの主体性は前世、前生です。これがイエスという小説です。人間の本心はイエスという小説を読みたがっているのです。

 聖書はイエスのことをたくさん書いています。これは何かと言いますと、イエスのリビングを書いているのです。イエスが生まれてくる前のリビング、天にいた時のリビング、そうして、地上にいた時のリビングを書いているのです。

 イエスは天から下って、なお天にいた。聖書はそれを書いているのです。四福音書はイエスの伝記を書いているのです。この小説は光っているのです。

 イエスは天から下った。しかしなお、天にいたのです。天から下るという形は取ったけれど、実体的にはなお天にいたのです。

 皆様方も同様です。皆様も天から下ったという形を取っていますが、皆様のリビングはなお天にいるのです。

 皆様は自分のリビングがありながら、それが分かっていない。リビングがなければライフは成り立たないのです。リビングというのを日本語でいうと、生きていること、生き方になるのです。

 皆様が生きていることを直感してください。実はそれは固有名詞に何の関係もないのです。

 皆様が目で見ていること、耳で聞いていること、手で触っていることが、初めからあった命の言葉です。固有名詞の人間は肉体人間です。

 五官が皆様の主体です。これは初めからあったものです。初めからあったというのは、皆様が生まれる前からあったのです。もっとはっきり言えば、地球ができる前からあったのです。もっと正確に言えば、太陽系宇宙ができる前からあったということです。ビッグバーンの前からあったのです。

 大爆発の前からあったのです。約百三十億年前にビッグバーンが発生したと言われますが、その前からあったのです。

 「初めに言葉(ことば)があった。言は神と共にあった。この言に命があった」とあります(ヨハネによる福音書1・1)。地球ができる前、太陽ができる前、ビッグバーンの前に言があったのです。

 言が太陽になった。地球になったのです。そして、人になったのです。私になったのです。

 今、私たちは初めからあった言を、森羅万象として見ているのです。これに触っているのです。現世では加藤さんとか、山田さんとかいう固有名詞を付けていますけれど、これは影、嘘としてあるのです。

 初めに皆様の原形があったのです。その時は加藤さんも山田さんも同じだったのです。一つの命だったのです。一つの命があったのです。

 皆様は今、初めからあった命の言を見ているのです。それを聞いているのです。これが分かったら今生きている固有名詞の人間には何の価値もないのです。

 皆様には初めからあった力が今宿っているのです。その力によって見たり聞いたりしているのです。これがイエスです。それを固有名詞の自分として生きているからいけないのです。

 イエスとして生きるのです。これをジーザス・アズ・ロードと言うのです。そうして四福音書の中へ入ったらいいのです。ヨハネは皆様に初めからあったことを教えるために、福音書を書いたと言っているのです。

 初めからある命を掴まえたら、この世に生きていても生きていなくても同じことです。これをよくご承知頂きたいのです。

 皆様が現在生きている命は、必ず死ぬ命です。死ぬに決まっている命です。皆様は死ぬに決まっている命を、自分の命だというように思い込んでいますが、これはどういう訳でしょうか。

 皆様は死なねばならないことを、百も二百もご承知です。皆様の本心は死にたくないという気持ちがはっきりしているのです。

 死にたくないと思えばこそ、ちょっと病気になればすぐ病院へ行くのです。治療を受けて薬を飲むのです。

 もし死にたければ、病院に行く必要はありませんし、薬を飲む必要もないのです。

 とにかくおかしいのです。死なねばならないことが分かっていながら、その命を自分の命だと考えているのです。これはどういう訳でしょうか。これを冷静に考えて頂きたいのです。

 これは宗教の話をしているのではありません。現実に皆様が生きている精神状態に根本的な矛盾があるのです。

 死ななければならないに決まっていることをよくよく承知していながら、その命を自分の命だと思い込んでいるのです。これはどういうことでしょうか。そういう思いをやめて、死ななくてもよい命を見つけたらどうでしょうか。 

 皆様の本心は本当に死にたくないと思っているのですから、その本心に従って考えたらいいのです。

 死んでも仕方がないと、本当に堂々と言える方があるのでしょうか。死なねばならない命であるために、やむを得ず死ぬのが当たり前だと思い込んでいるだけのことなのです。

 しかし、死にたくないのが本音なのです。死にたくないという本音は、すべての人の中にあるのです。これを仏教では本願と言っています。本願、本心というのは、死にたくないという気持ちです。これがはっきりあるのです。

 ところが、本願、本心どおりの命を皆様は掴まえていないのです。そうして、死なねばならないに決まっている命を自分の命だと思い込んでいるのです。こういうばかなことをどうしてしているのでしょうか。

 命に対する見方を変えさえすれば、死なない命を見つけることは十分にできるのです。私はそれを実行しているのですから、これをはっきり申し上げているのです。


命と生

 人間の命は死ぬべきものではありません。命という言葉をよくご覧になったら分かります。いのちというのは生命の生(せい)と書くのが本当のいのちです。

 命(めい)というのは、人間が現世に生きているいのちを指すのです。生(せい)というのは、いのちの本質を意味するのです。生(せい)は死を意味する言葉ではないのです。

 生が皆様の本当のいのちです。ところが、皆様は死なねばならない、死なねばならないというように思い込んでいるのです。

 キリスト教で長年聖書の勉強をしている方でも、死なねばならないと思っているのです。死んでから天国へ行くと考えているのです。

 天国へ行くか地獄へ行くかは別として、とにかく死んでからということを考えているのです。死んでから仏国浄土へ行く。死んでから天国へ行くと考える。死ぬということを呑み込んでいるのです。これが間違っているのです。

 本来的に言いますと、人間の命は死ぬべきものではないのです。ところが、本来的な命というものを、現在の人間は全然見ようとしていないのです。死ぬに決まっているような命を、自分の命だというように思い込んでいるのです。これはとんでもない人生観の間違いなのです。

 もし死ぬに決まっているのが本当の人生であるのなら、人間は真面目に汗水たらして働く必要はないのです。死ぬに決まっているのですから、したい放題のことをして生きたらいいのです。倫理、道徳を守る必要はないのです。

 人間の命は明日をも知れぬ命です。しかも死ぬに決まっている命を自分の命だと思っていながら生きているというのは、どういう訳でしょうか。

 これは全くの敗北思想です。負けてしまっているのです。喧嘩をする前から白旗を出しているようなことになっているのです。全くの負け犬思想です。初めから負けているのです。 

 現代文明は死ぬに決まっている人間を、人間だとして公認しているのです。死なねばならないに決まっている人間の命を、現代文明はそのまま呑み込んでしまっているのです。

 人間は死ぬのが当たり前ということを前提にして、文明が成り立っているのです。こういう文明が正しいものだと思えるのでしょうか。こういう宗教、こういう教育、こういう政治が正しいと思えるのでしょうか。なぜ正しいと思えるのでしょうか。

 死ぬのを丸呑みにしてしまうくらいなら、教育や政治、経済を考える必要はほとんどないのです。死ぬに決まっている人間を守ってみて何になるのでしょうか。

 人間文明にはそのような根本的な間違いがあるのです。皆様の命は死ぬに決まっているのです。必ず死ぬのです。現在の命で生きていたら、必ず死ぬのです。これを皆様は鵜呑みにしているのです。

 なぜ鵜呑みにしているのでしょうか。これは文明構造が皆様にそういう思想を押し売りしているからです。

 国家社会、国際連合、国際政治が、死なねばならないのが人間だという観念を押しつけているのです。

 皆様はそれを押しつけられているのですが、それに対して、なぜ反対しないのでしょうか。ヨーロッパでは物価が上がったと言ってデモが起きました。また、税金が上がったと言って激しいデモが起きました。若者が働く仕事がないと言ってデモが起きました。

 韓国や中国では、日本の政府の歴史認識が間違っていると言って激しいデモが起きました。中国では反日デモによって日本の商店が焼き討ちされ、多くの日本車に火をつけられて燃え上がりました。これらはテレビによって生々しく報道されたので、皆様はよくご承知のことだと思います。

 物価上昇率の問題、税金上昇の問題、国家間の歴史認識の問題は、死ぬということに比べたらとても小さい問題です。ところが、絶対に死ぬ命を無理やりに押し付けられていても誰も反対しない。一向にデモ騒ぎが起きたことがない。これは一体どういうことなのでしょうか。

 人間を死へ引っぱり込んでいく。このような恐ろしい文明、教育をなぜ有難いと思うのでしょうか。これをよく考えて頂きたいのです。

 私が言っているのは宗教の話ではありません。皆様の命の問題、永遠の運命の問題なのです。

 皆様が考えている宗教は、人間が死ぬことを認めているのです。ある宗教に入っていれば、死ぬけれど、また、良い状態になって生まれ変わるというのです。七回も輪廻転生すると言っている宗教もあるのです。ばかなことを言うなと言いたいのです。七回生まれ変わろうが、百回生まれ変わろうが、死ぬべき命の繰り返しをしているだけなのです。こういうばかな思想を真面目に信じている人が多くいるのです。

 死ぬに決まっている命を押しつけている宗教、教育、政治、文明をなぜ皆様は呑み込んでいるのでしょうか。ここに皆様の人生観の根本的な誤りがあるのです。

 今の命が死なねばならない命であることを、皆様は十分に承知しているのです。ところが、死なねばならないに決まっている命を自分の命だと思い込んでいるのです。

 死にたくない、死にたくないという気持ちがいつもありながら、死なねばならないと考えている。このような命に対する根本的な矛盾を、皆様は押しつけられているのです。

 なぜ皆様はそのような矛盾した思想を呑み込んでいるのでしょうか。般若心経をしっかり読んでください。死にたくないというのが皆様の本心なら、死ななくてもよい命を見つけて頂きたいのです。死なない命を見つけて頂きたいのです。

 死ななくてもよい命はあるに決まっているのです。私はそれを見つけました。それは難しいことではないのです。

 皆様の人格というものの真髄が分かりさえすれば、人間は死なないのです。イエス・キリストを信じるとか、阿弥陀如来を信じるとか色々な言い方をしますが、そういう言い方は回りくどい言い方です。

 イエス・キリストを信じるとはどうすることでしょうか。これをキリスト教でははっきり説明ができないのです。イエス・キリストはどういう人物なのか。彼が復活したとはどういうことなのか。これと今の皆様の命とどういう関係があるのか。これが宗教ではなく本当の実体として皆様に提供することは、今のキリスト教ではできないのです。

 仏教でもできません。ただ信じよと言います。信じるとはどうすることなのか。これが分からないのです。信じるとは自分がそのように思い込むことだと思っているのです。そんなものとは違います。

 問題は皆様の人格です。現在皆様が生きているその人格の正体がはっきり分かれば、皆様は死なない命を見つけることは十分にできるのです。

 人格の本体を見つけることを、現代文明が妨害しているのです。現代の宗教、教育がこれを妨害しているのです。

 人間が素直に命を考えることを、文明がさせないように、させないようにしているのです。こういうことについて日本の首相に文句を言ってもしょうがないのです。宗教家や大学教授に言ってもしょうがない。誰も解決方法を知らないからです。

 もう一度言いますけれど、皆様の命は死ぬに決まっているのです。今の皆様は一人残らず全部死んでしまうのです。今の死ぬ命を捨てて、死なない命を掴まえようと考えたらどうでしょうか。

 死にたくないというのは皆様の本心です。ところが、この本心を素直に見ることを、現代の文明、教育、宗教、政治が許さないのです。

 皆様は現世の常識で生きているのです。人間の常識で生きている人は皆死んでしまうのです。必ず死ぬのです。常識は人間が死ぬことを鵜呑みにしているからです。

 ところが、常識は生きている間だけしか通用しないのです。人間の常識、知識は生きている間だけしか通用しません。心臓が止まってしまうと、皆様は現世から去って行かなければならないのです。

 文明とか、教育、宗教は現世だけのものです。皆様の現世の考え方は、この世にいる間だけに通用するのです。ところが、この世だけのものではないもう一つの考え方があるのです。これは何かと言いますと、人格の本体を捉えることなのです。人格の本体を捉えたら死なない命がはっきり分かるのです。

 実は皆様の本心はこれを狙っているのです。自分自身の人格の本体を知ることをしない。これが現代人の最大の欠陥です。これを現代文明が厳しく妨害しているのです。

 現代文明は社会構造という大きな組織によって、皆様の本心を押し潰しているのです。圧倒しているのです。

 皆様の人格は自分が造ったものではありません。人間が造ったものではないのです。

 これは簡単なことです。難しくないのです。人格というのは、人間が造れるものではないのです。人間は人格を持ってはいますけれど、自分が造ったものではないのです。


右と左

 人間は右という考えと、左という考えと二つの考えを持っているのです。イエスは、「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と妙なことを言っているのです(マタイによる福音書6・3)。これは右の手という命と、左の手という命と二つの命があることを示しているのです。

 右の手で死なねばならないような生き方をしていても、左の手を見れば死なない生き方をしているのです。現実に皆様の人格のあり方を冷静に判断して頂きたい。自分の人格をよく見るのです。

 現代人にはこれができないのです。自分で自分の人格を見ることができないのです。宗教ではこれができないのです。ナンマイダー、ナンマイダーと言ってもできないのです。アーメン、アーメンと言ってもできないのです。

 これは皆様の命の問題です。人間は自分が生きていると考えています。これが間違っているのです。命を自分で造ることはできないのです。人格や命を人間が造ることは絶対にできないのです。こんなことは皆様はよく分かっているでしょう。

 人格や命を自分で造れるはずがないのに、自分のもののように考えている。こういう根本的な考え違いがあるのです。

 こういう点をはっきり考えて仕分けをするのです。貸し方と借り方を仕分けするのです。人の中にある死ぬ命と死なない命とを仕分けするのです。

 そうすると、皆様は命に対する間違いを知ることができるのです。ですから、人間は死なない命を掴まえることは十分にできるのです。これを掴まえますと、つまらない心配とか、取り越し苦労、悲しみ、苦しみ、いわゆる不定愁訴、人生の矛盾から逃れることができるのです。訳が分からない不安がなくなってしまうのです。

 死なない命が分かれば、あらゆる苦しみや悩みから逃れることができるのです。

 自分自身の本当の命が見つかると、人間は初めて生きていることの楽しさ、すばらしさを経験することができるのです。心から命を楽しむことができるのです。

 現在の皆様は個性で生きているのです。学校教育のキャッチフレーズに個性の完成というのがあります。

 個性というのは何でしょうか。これは死んでしまう人間の性格をいうのです。

 現代人は良くても悪くても個性で生きているのです。個性は本当の人格ではないのです。肉の思いによる性格です。これを解脱して頂きたいのです。そのことによって人格に触れることができるのです。

 人格の真髄をよくよく見極めれば、これが本当の命だということが分かります。今まで生きていたのは、自分の本当の命だと思わせられていた命なのです。

 人は誰でも生まれた時には全く天真爛漫の命を与えられたのですが、少年時代から青年時代、大人になるに従って、自我意識が芽生えてくるのです。その結果、命は自分のものだというとんでもない誤解を持ってしまうのです。これが死んでしまう原因になるのです。

 命は自分のものだというのが根本的な誤解です。これは個々の人間が自分の個性によってそう思っているのです。

 個性というのは人格ではなくて性格です。人格と性格はとんでもない違いです。性格が人格のような顔をして皆様の中で威張っているのです。これを追い出すのです。

 人格というのは本来一つしかないのです。例えば、砂糖をなめて甘いと思うのは、世界中の人間の共通の感覚です。白人も黒人も、アジア人でも砂糖は甘いと感じるのです。

 砂糖が甘いと感じるのは、人格的な認識です。世界中で誰でも同じように感じるのです。これさえ分かればいいのです。日本人特有とか、現代人特有とかいう考えが間違っているのです。

 人間の歴史が始まって文化的な生活を開始したのは、約六千年前です。例えば、記録とか、政治とか、社会構造を幼稚ながらも始めてから、六千年になるのです。

 ところが、六千年も生きていながら、人間は何のために生きているのか未だに分からないのです。六千年も生きていながら分からないのです。

 古代社会でも、中世社会でも、相当真面目に考えていた人はいたようです。それが遺跡になって残っているのです。人生を相当真面目に考えていた人はいたのですけれど、何のために生きているのかが分かっていなかったのです。未だに分かっていないのです。

 六千年も経っていながら、人間が何のために生きているのかが全く分かっていないのです。こんな文明を皆様はどうして信じるのでしょうか。こんな文明は、人間存在について真面目な文明だと言えるのでしょうか。

 人間は六千年間生きていたけれども、真面目に生きていなかったようです。性格的に生きていたのです。個性的に生きていたのです。

 民族は民族の主張で生きていた。国家は国家の主張で生きていた。こういうものが個々の人間の個性を造ってしまったのです。

 その結果、本当の人格を見ることができなくなってしまったのです。

 宗教には宗教という個性があります。はっきり個性があります。こういうものを信じていると、自分の命が見えなくなるのです。

 六千年の間、人間は生活を経験していながら、何のために人間は生きているのかが全く分かっていないのです。現在の日本人もそれが全然分かっていないのです。しかも、近代文明になればなるほど、いよいよ分からなくなっているのです。

 近代文明というのは、人間自身が人格的に考えることができなくなって、教育構造のようなもの、政治構造のようなもの、そして、民族意識を造って、人間をその中へ引きずり込んでしまったのです。

 中世や古代でも、そういう弊害があったのですけれど、現代よりはまだましだったのです。近世から現代にかけて、人間は霊魂ということ、命の本性ということ、人格の本質ということを全く考えられない人間になってしまったのです。これが現代人の偽らざる姿です。

 宗教はたくさんあります。ところが、宗教で言っていることはお伽話です。これは人間が勝手に造り上げた情報にすぎないのです。

 学問は情報です。宗教も情報です。政治、経済も情報です。皆情報ばかりです。人間文明に情報はありますが、真理は全くないのです。

 命の光が全く消えてしまっているのです。こういう現代文明の間違いをよく考えて頂きたいのです。よく考えて頂きたいと言っても、考えられないでしょう。

 皆様の頭には現代文明の常識がしっかり入り込んでいるのですから、とても考えられる状態ではないのです。そこで、般若心経の色即是空という考え方、五蘊皆空という考え方が必要なのです。

 今までの考え方に捉われないで考えるのです。どうぞ死にたくないという本当の命の捉え方を勉強して頂きたいのです。勇気を奮って今までの人生観に捉われないという考えを持って頂きたいのです。世界観を根本から変えてみたいというお気持ちを持って頂きたいのです。

 そうしたら、これが本当の命か、なるほど死なないものだということがはきり分かるのです。皆様はその実感を持つことができるのです。

 絶対とは何か。カントは神という言葉を使ってはいますけれど、神の実体を説明していません。カントは宗教家でもありませんし、神についてそれほど勉強してはいなかったようです。

 彼は哲学の論理としては非常に広範なものを展開していますけれど、命を知らなかったようです。絶対ということは何でもないことです。いのちがあることが絶対です。

 いのちには命と生とがあるのです。生というのは死なないいのちです。命は死ぬべきいのちです。人間の場合には生が命になって現われているのです。

 命の本質を突き詰めていきますと、生が分かるようにできているのです。例えば、砂糖をなめて甘いと思います。なぜ甘いと思えるのか。砂糖に味をつけたのは製糖会社ではありません。

 砂糖の味は天然の味です。天然とはどういうことなのか。これはおのずからであって、絶対というしかないのです。人間は天然という事実を認めない訳にはいきません。


絶対とは何か

 花が咲いているのは天然に咲いているのです。天然の命が花として現われているのです。天然として現われているものが絶対なのです。

 絶対は神と言ってもいいですし、宇宙人格と言ってもいいのです。人間がどうすることもできないこと、例えば、赤いものが赤いと見えることが絶対です。五官の本性が絶対です。五官は絶対から来たものです。

 人間は現在生きていますが、命には格があるのです。動物の命と植物の命とは違います。命格と言ってもいいのですが、人間だけしかない格ですから、人格と言わなければならないのです。人柄と言ってもいいでしょう。

 命があるという事実、地球があること、命があること、あるということが絶対です。

 「我は有りて在るものなり」という言葉があります(出エジプト記3・1)。あるということが神です。太陽系の地球においてあるということが神です。山があること、川があること、海があること、あるということが皆神です。

 カントはあるということを説明していないのです。何かがあるということは分かっているが、なぜあるかについては説明ができないとカントが言っているのです。

 あるということが絶対です。これは生の本体です。これに人格があるのです。人として現われている人格があるのです。これは人格と言わなければしょうがないのです。

 神の本質も人格になるのです。神格と言ってもいいのです。けれど、神も人間も認識の格式においては同じものなのです。神が造った砂糖の味が、人間が味わっても分かるのですから、人間の人格性というもの、五官の本体が人格性であって、これはそのまま神が造ったものの味が分かるのです。

 雲の流れが分かるのです。花の姿が見えるのです。地球が丸いということ、時間、空間があるということが分かるのです。神が造ったものを人間が確認することができるのです。

 三位一体の神のペルソナというものと、人間の人格とは本質的には同じなのです。そこで怖いのです。

 皆様は神と同じものを持っているのです。これはすばらしいものです。皆様の人格の本質はすばらしいものです。天地の存在を認識することができるのです。万物を見分けることができる。これはすばらしい命の働きです。

 皆様はこういう命を格式として持っているのです。だから、世間の常識に捉われないで、自分自身の生活の実体をよくよく見れば、分かると思います。

 皆様が生きているということは、実は自分が生きているのではなくて、神が自分という格好で生きているのです。だから、これさえ分かれば死ぬはずがないのです。

 皆様の五官の働きは神の認識と同じものなのです。神が造った天然自然を、皆様は見ることができるのです。これさえ分かればいいのです。世間の常識とか学問とか、いわゆる現世の考え方が間違っているのです。

 本来皆様の五官の本当の働きは、宇宙的に言えば、神と同じものなのです。そういうものを持っていながら、自分が生きていると思っているのです。これが悪いのです。

 人格を自分のものだと考えることは、神の天性を人間が横取りしていることになるのです。これは怖ろしいことです。これを皆様の人格はよく知っています。だから、死にたくないと思うのです。

 今のままの状態で死んでしまえば、自分の命がどうなるのかを、皆様の本心はよく知っているのです。だから、死にたくないと考えざるを得ないのです。

 人格という言葉が難しく思えるのなら、人柄と言えばいいのです。自分が生きている人柄、生きている状態の本当のあり方を見極めさえすれば死ななくなるのです。人柄の実体は神ですから、死なないのです。

 私たちが生きているということが、あることです。人間がいるのです。これが神です。命がありますが、これが神です。これさえ分かれば死なないのです。

 これを見つけることが皆様の命の目的なのです。この世で生活することが目的ではありません。生活をしたところで仕方がない。死んでしまうだけです。

 死んでしまうに決まっている命を持ちながら、死なない命を見つけようと考えることが人生の目的なのです。

 神とか人間とか命とか言いますと、宗教の話かと思われるかもしれませんが、そうではないのです。神とか命とかを言わなければならないので言っているだけであって、宗教の話をしているのではないのです。皆様が今生きている事実をお話しているのです。

 絶対と人間の人格との関係についてですが、人間は生まれたいと思って生まれたのではないのです。これはばかみたいな幼稚な問題ですけれど、これを素朴に考えて頂きたいのです。

 人間は自分で生まれたいと思ったのでありません。従って、皆様の命は自分のものではありません。自分で生まれたいと思ったのなら、命は自分のものだと言えるかもしれないのですが、この場合でも仮に自分で生まれたいと思っても、自分の肉体を自分で造る訳にはいかないのです。

 生まれたとしても、水を造ったり、空気を造ったり、太陽を造ったりすることはできません。結局、人間は宇宙の力、自然の力によって生かされているのです。自然の力は絶対です。私たちが造ったものではないのです。自然は自然です。天然自然です。

 天然が自然になっているのです。天然というのはおのずからです。おのずからというのは説明ができないのです。おのずからあるものが絶対の本体であって、皆様は絶対と同じような人格、立場で考えることができるのです。

 人間は神と同じ本質を持っているのです。人間は神と同じ本質を持っていますが、初めから神と同じ能力を発揮できるのではないのです。人間はどれだけ頭が良くても、神と同じ考えをすることはできないのです。

 皆様は現世に生まれたのですが、皆様の意志によるものではありません。人間は生まれたいと思ったのではありません。従って、皆様の人格、命は、皆様のものではありません。

 人間は現世で生活するために生まれてきたのではないのです。生活をすることは大切ですが、何のために生活があるのかと言えば、生活することを通して神と接触するためです。


神に生きている

 人間の衣食住ということは、神と接触しなければ成立しないのです。皆様は朝から晩まで神と向かい合って生きているのです。神と向かい合っていながら、神に面会していないのです。神と向かい合っていながら神と会っていないのです。神の本物に会っていないのです。

 宗教がいう神は皆情報ばかりです。ユダヤ教、イスラム教は宗教です。キリスト教も仏教も宗教です。宗教は人間が人間のために造った教えです。教義です。こういうものをいくら勉強しても命は分かりません。だから、私は宗教が間違っていると痛撃しているのです。

 宗教を何十年勉強しても、本当の神の実物は分かりません。キリスト教は教義を教えているのであって、神を与えているのではないのです。神の本当の命を与えてくれないのです。神を無視しているからです。教義を重んじているのです。本当の真実を軽視しているのです。

 皆様には生きているという事実があるのです。生きているということが絶対です。花が咲いています。太陽が輝いています。地球が自転、公転しています。このエネルギーの実体が神です。これを神の御霊と言います。

 太陽を見ただけで神がいることが分かるのが、本来の皆様です。ところが、「生まれながらの人は、神の霊を弁えることができない」とパウロが言っています。そのとおりです。現世に生きていて、現世が絶対と思っている人は、神が分かりません。

 人間は自分がいると考えています。自分という人間がいると考えています。こういう考えでは神が分かりません。生まれながらの人は、神の霊の働きを掴まえることができないのです。

 皆様は目が見える状態、耳が聞こえる状態、砂糖をなめて甘いと思える状態をじっと考えて頂ければ分かるのです。花が咲いているのを見るということだけで、大変なことをしているのです。太陽が輝いていることが目で見えるのです。これは大変なことをしているのです。

 太陽系エネルギーの実体を、皆様は目で見ることができるのです。これは皆様の命がそのまま生ける神の子であることを証明しているのです。

 皆様は毎日神と一つになって営みをしているのです。皆様が生きていることは、神の営みをそのまま経験しているのです。

 神は分かりやすいものです。砂糖が甘いことが神です。太陽が輝いていることが神です。朝日の堂々たる威勢が、神の品格をそのまま現わしているのです。ですから、神を掴まえるということは難しくないのです。

 誠の神とはお天道さんです。お天道さんを掴まえたらいいのです。お天道さんなら誰でも知っているでしょう。ご来光を、お天道さんとして拝んでいるでしょう。これが本当の神の見方に非常に近いのです。

 お天道さんの本当の姿を見分けるためには、人間の常識にこだわっていたらできないのです。そこで、今までの常識を軽く見たらいいのです。

 常識を捨てなくてもいいのです。常識を捨てたら仕事ができませんから、常識は持っていてもいいのですけれど、それが皆様の命の光になるのではありません。

 皆様の衣食住において、皆様はどのように生活をしているのでしょうか。空気はどのように供給されているのでしょうか。太陽のエネルギーがあるかないかによって、人間の生活はどのように違ってくるのか。こういうことを坦々たる気持ちで考えて頂きたいのです。そうすると、皆様は本当の人格を見極めることができるのです。

 皆様の中には文明の情報の間違いがたくさん入り込んでいますから、これを一つ一つ取り除いていかなければならないのです。面倒ですけれど、これをしなければいけないのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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  • higan2021

今の人間は生きていながら命を知らないのです。命の本質を皆様がしっかりと掴まえれば、死なないことになるのです。

 命は死ぬべきものではありません。死ぬべきものではないから命というのです。それを、人間は死ななければならないと勝手に思い込んでいるのです。これが人間に共通する最大の弱点です。

 生死(しょうじ)と命との関係が分かっていないのです。皆様は現在生きていますが、これは生命の現象です。命そのものではありません。

 人間には生命現象を意識することはできます。これを生命意識と言います。生命意識がありながら、命の実質が分からない。これが人間の恐るべき弱点であり、欠点です。


 このことについて、道元禅師は正法眼蔵生死の巻で、次のように言っています。

 「生を明らめ死を明らむは、仏家一大事の因縁なり。生死の中に仏あれば生死なし。ただ生死即ち涅槃と心得て、生死としていとふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし。是時初めて生死を離るる分あり」


 これが必要です。生死内に仏あれば生死なし。生死即ち涅槃と心得て、生死としていとふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし。この時、初めて生死を離るる分ありとありますが、これが命を知った状態です。

 「生を明らめ死を明らめるは、仏家一大事の因縁なり」とありますが、諦めるというのは、理論的に哲理的にその真諦を見極めることをいうのです。

 明らめるというのは明らかにすること、自分が生きている状態において、生きているとは何であるのかということを、はっきり捉えることを意味しているのです。

 道元は明らめると言っているのです。生を明らめ死を明らめることは、人間の一番大きい責任であると言っているのです。

 生死というのは、私たちが現世的に生きている状態を言っているのです。生きている状態の中に死がある。死の中に生がある。生と死とがより混じって縄のようになっている。生と死が裏表のような関係になっている。

 人間はいつ死ぬか分からない状態で生きている。生きていながら死の危険にさらされていることを生死と言っているのです。


 「生死の内に仏あれば生死なし」とありますが、仏というのは何かと言いますと、悟りのことです。仏とは仏陀という言葉から出ていますが、仏陀というのは正覚すること、または正覚した人物を指しているのです。

 仏陀というのは中国で漢訳した言葉ですが、これを日本では仏という一字に翻訳している場合があるのです。

 仏というのは悟ることです。元来、悟ることを仏というのです。生を明らめること、生の内容をはっきり明らかにすること、死の内容を明らかにすることが仏だと言っているのです。

 生死の中に仏あれば生死なしとはどういうことかと言いますと、私たちが生きている状態の中に、本当の悟りがあれば、解脱することができるということです。

 生死としていとふべきもなくとありますが、いとふべきというのは、人間が生と死の間をうろうろしていますと、生活問題とか、人間関係の問題、経済問題、政治問題、社会問題というごたごたした問題が大なり小なりあるのです。生死の中にいやなことがいっぱいこびりついているのです。

 ところが、生死の内に仏あればというのは、本当の悟りがあれば、また、生死に関する明快な悟りがあれば、ごたごたした問題は一切消えてしまうというのです。

 般若心経がいう、五蘊皆空度一切苦厄となるのです。五蘊皆空が分かれば、一切の苦厄を度することができるのです。

 大体、この世に生きていることは厭うべきことなのです。この世に長々と生きていることは、決して嬉しいことではないのです。

 ある宗教ではナムミョウホウレンゲキョウを信じて生きていれば、もう一度この世に生まれるというのです。ところが、道元はこの世に生きていることが厭うべきものだと言っているのです。この世に生きていることは、決して歓迎すべきものではない。喜ぶべきものではないというのです。

 だから、もう一回この世に生まれるということが、厭うべきことなのです。

 涅槃として欣うべきもなしとは何か。涅槃というのは、生きている人間は蝋燭の火が消えるように、すっと消えてしまう状態をいうのです。

 涅槃の状態になれば、生死というものを離れてしまって、本当の命に立ち帰ることができるのです。

 ところが、この道元禅師の言葉が間違っているのです。道元禅師が言っているのは、何か。生を明らめ死を明らめるのはいいのです。「生死として厭うべきもなし、涅槃として欣うべきもなし。この時生死を離るる分あり」というのですが、人間が本当に救われた気持ちになって、現在の厭わしいこの世の中を出てしまうことができる。解脱徹底ということを言っているのですが、これは正しいのです。

 これは個人としては正しいのです。ところが、個人として生死を離るる分があるとしても、これは実は本当の悟りではないのです。

 これは道元禅師だけではなくて、大乗仏教全体の間違いがあるのです。大乗仏教の重大な欠陥があるのです。間違いという言い方が妥当でないのなら欠陥と言います。大乗仏教は完全無欠なものではないということです。完璧なものではないのです。

 大乗仏教は大乗仏教であるために、一つの欠陥があるのです。仏教は仏教という概念を認めているのです。仏教というのは、一つの概念です。悟りという概念です。これを認めているのです。

 私は般若心経だけでは救われないと言っていますけれど、般若心経は悟りの境涯を説いている。五蘊皆空は非常にけっこうですが、これだけで人間完成はあり得ないのです。

 道元禅師も般若心経と同じような誤りに陥っているのです。道元禅師は個人の悟りを非常に強調しました。しかし、全人類の悟りのことを言っていないのです。

 個々の人間に現われている命は仮の姿です。これは個々の人間の命ではないのです。私たちは宇宙の命に与っているのです。与っているということは、お相伴しているということです。

 私たちは宇宙の命にお相伴しているのであって、本当の命を掴まえることができたら、死ななくなるのです。

 自分の命、個人の命を生きている状態でいますと、死んでしまいます。これが人間の弱点です。今の人間は命の認識に対する正確さがないのです。これが人間の弱点です。

 命は宇宙にただ一つあるだけです。絶対の命があるだけです。太陽が輝いていること、地球が自転公転していることは宇宙の命です。

 花が咲いているのは宇宙の命が咲いているのです。命が咲いているのです。自在が咲いているのです。花は枯れることはありますが、死ぬことはないのです。

 花には弱点がありません。花の生きざまには弱点がないのです。弱点がない生き方をしているから、皆様には花の生きている姿が美しく見えるのです。

 ところが、命に対する弱点を持ったまま生きている人間の姿は醜いのです。私には死ぬかもしれない命が肉体的にありますので、醜い姿になっているのです。

 私の魂は死なない状態になっていますけれど、肉体は死ぬべき状態になっているのです。だから、醜いのです。

 肉体を持っているのは醜い命を持っていることの現われです。肉体に関係がない命を経験して頂きたいのです。

 花には地球の命がそのまま現われているのです。天地の命をそのまま現わしているのです。これをとこしえの命というのです。

 雲が流れている姿、水が流れている状態、雨が降っている状態を通して、とこしえの命の実物を皆様は見ているのです。

 雨を見ながら、命が分からない。花を見ながら、命が分からない。これが人間の弱点です。

 万物と人間の魂との関係は、命によってつながっているのです。花の命は完全な命、とこしえの命です。人間の命は死んでゆく命です。花の命は死なない命です。

 花に学ぶことができれば、皆様は死ななくなるのです。これを道元禅師は、「生を明らめ、死を明らめるは仏家一大事の因縁なり」と言っているのです。

 個人の命を解脱徹底できたくらいではだめであって、本当に知らなければならない命というのは、地球が生きている命です。これを見つけなければいけないのです。

 大乗仏教にはこういう大きい思想はありません。山川草木悉皆成仏という言葉はありますが、草木国土悉皆成仏ということについてのはっきりした説明を、大乗仏教ではしていないのです。

 命の本体が仏教では明白に捉えられていないのです。般若心経にもないのです。そこで、聖書を勉強しなければならないのです。

 命には個として現われる命と、全として現われる命とがあるのです。この両方の命を知らなければならないのです。道元禅師の考えは日本人としては非常に結構な考えですが、全人類という立場から考えますと、結構とは言えないのです。

 日本人の考え方は非常に小さいのです。せせこましいのです。民族とか家族をいちいち問題にしているのです。民族とか家族というものは、現世に生きている間だけの問題です。

 現世に生きている人間から見れば、民族とか家族は大切ですが、永遠の命、宇宙の命から考えますと、本当の命を掴まえるためには、民族とか家族を出てしまわなければいけないのです。

 仏教では出家と言います。出家とはこの世を出ることです。出世するのです。出家していても、仏教という概念に捉われていたらだめです。

 宗教から一切離れてしまうのです。私が聖書を勉強しなさいというのは、宗教の聖書ではありません。宗教としての聖書はだめです。これはキリスト教です。

 仏教としての経典もだめです。仏教と仏法とは全然違うのです。日本に仏教はありますが、皆ご開山の宗教です。日本の仏教にはご開山がたくさんあります。弘法大師、伝教大師、親鸞上人、法然上人、日蓮上人というご開山が並んでいます。これは仏教です。

 仏教はご開山の教えです。仏法は釈尊の悟りです。釈尊の悟りが日本にはないのです。ただ般若心経にだけあるのです。だから、私は般若心経は宗教ではないと言っているのです。

 あらゆる経文の初めには、如是我聞という言葉があります。般若心経にはないのです。般若心経以外には必ず如是我聞という言葉があるのです。私はこのように聞いたと書いているのです。これは仏自身の悟りではなくて、仏の教えを聞いた人の文章です。

 般若心経は観自在菩薩がそのまま真諦を悟っているのです。ここが違うのです。

 現在の人間の弱点は、現在生きている命に対する認識がないことです。これが大欠点です。

 本当の健康法とは、宇宙に漂っている生気を自分の中に取り入れることです。この場合には、万物の命と自分の命が一つであるという意味での、永遠の生命についての知識や悟りがなければならないのです。そうしないと、ただ現世においてだけ通用するという健康法になってしまうのです。

 肉体の命は現世だけのものです。これはこれでいいのですが、肉体が生理機能状態に基づいて存在するのは、現世だけのことです。

 生理機能がやがてだめになることはあります。肉体がこの世を去るということはあります。肉体は消耗品であって、魂を完成するための消耗品です。

 肉体を永遠に持続することはできません。持続しようと思っても、自然に磨滅するのです。すり減っていくものなのです。

 金でも鉄でも、ダイヤモンドでさえも風化していくのです。物質は消えていくのが当たり前です。人間がこの世を去るというのは当たり前のことです。

 人間が肉体的に生きている状態の本質が魂です。魂は人間が現世に生きている間に働いているのです。人間は肉体的に生きている間に色々な経験をしますが、これが記憶になって残っていくのです。記憶は魂が経験したことがらの蓄積です。

 この記憶が天地自然の理に適うものであれば、その人は死なないのです。宇宙の生気を身につけることによって、本当の健康が獲得できるように、天地宇宙の理を生きるようにするのです。

 人間の生理機能と同じようなものです。生理は命が物質的に働く状態をいうのです。これが心理的に働くと心理機能になるのです。

 命というのは機能として働く面と、思いとして働く面と両方あるのです。有形的な面と無形的な面とがあるのです。花にも有形的な面と無形的な面とがあるのです。

 花を見て美しいと感じるのは、無形的な面を見ているのです。有形的に咲いている花が、無形的に美しいということを現わしているのです。

 美しいという事がらは形がないのです。花は形があるのです。花が美しいというのは、花という有形的な面と美しいという無形的な面との両方が一つになって現われているのです。

 肉体の健康法の原理を自分自身の心を養う原理に延長していくのです。そうしますと、生理的な命の他にもう一つの命、心理的な命が分かるはずです。

 形ある命と形がない命と両方の命が分かるのです。これが永遠の命です。

 今の皆様に一番必要なことは純情です。人間の精神の純情が一番の健康のもとになるのです。


可能根拠

 皆様がこの世にやってきた。つまり、男性が女性と交わることによって、命が誕生した。男性が命の種になって子供を生んだのです。男性のあり方は可能根拠です。自分の父というのは自分自身の可能根拠です。

 可能根拠というのは、おやじという意味です。神は皆様のおやじです。これを宗教ではいろいろな言い方をしていますけれど、神様は何処にもいないのです。これは宗教観念に基づく意識であって、本当の神は皆様の命のおやじです。命のおやじが神であって、このおやじをおやじ扱いするのは当たり前のことです。おやじをおやじ扱いしないのが間違っているのです。

 自分の命のおやじと交際するのです。交わるのです。神と交際する方法が祈りです。祈るというのは、声を出して、「おお神よ、神よ」と言って祈るのではない。これも祈りの一種ですが、祈りは神と人間の思想の交換をすることです。

 神は皆様のおやじですから、心やすく付きあったらいいのです。

 人間の肉体は存在していません。色即是空と般若心経にありますように、すべて現象は実体がないのです。私たちの肉体も実体がありません。しかし、魂があるのです。これが人間の実体です。

 魂というのは形がないけれど、こころが形になって現われたものという意味です。聖書に、「言が肉体となった」とありますが(ヨハネによる福音書1・14)、言は言語であり思想でもあるのです。理でもありますが、これが肉体になって現われているのであって、現在生きている肉体の命は仮の命であって、本当のものではないのです。

 仮の命を抜け出して、本当の命につながるような勉強が必要です。これが本当の勉強です。

 人間は死ぬものだと思っている人は死にますが、死なない命がはっきり分かれば死なないのです。イエスは死なないと考えていたので、十字架によって殺されましたが、復活したのです。死んでから三日目に堂々と甦っているのです。そのように、人間は堂々と死を破ることができるのです。

 死ぬ、死ななければならないと思っているから死ぬのであって、イエスの生き方を詳しく勉強したら、死を乗り越えることができるのです。

 日本に氏の神がありますが、氏の可能性の根拠になるのです。産土の神は土の神です。日本には土の神、水の神という考え方がありました。天地万物にそれぞれ神があるのだという考え方をしていたのです。

 土を耕して、土からできたものを食べている人間は、土の神に養ってもらっていると考えたのです。これが産土の神です。

 氏神というのは、自分の先祖の一番最初の方、自分の氏を造った人が氏の神です。

 日本民族が土に土着して土によって生きていた。自分の先祖の氏によって生きていた。そういう伝統的な祖先と、農産物的、作物的な祖先を神にしていたのです。これが八百万の神々の初めです。

 これは現世の神です。現世に生きていることに係わりを持つ神です。現在の生活、現世の生活の神であって、霊魂のことを司ることはできないのです。

 日本の神道は霊魂という思想がありません。だから、葬式をしなかったのです。今では神道の神社で葬式をする所がありますが、これは間違っているのです。本来、日本の神道は葬式をしなかったのです。葬式の帰りには神社の前を通ったらいけないと言われたのです。神道は葬式には関係がなかったのです。

 日本の神道は霊魂に関係がない神です。この神は人間が造れるのです。自分のご先祖を神にしようと思ったらできるのです。例えば、乃木大将を乃木神社にしたり、東郷元帥を東郷神社にしたりしているのです。明治天皇を明治神宮にしているのです。

 そのように、日本の神は人間が造れる神です。そういう神ではなくて、本当の可能根拠としての神は、人間を造った神です。人間が造れる神ではなくて、人間を造った神です。命を造った神です。これが本当の神です。

 日本人は八百万の神々という思想があるために、本当の神が分からないのです。八百万の神々という概念と、人間の命の礎である神とは全然違うのです。

 地球を造った神、地球を自転公転している神、雨を降らせ、太陽を輝かせている神を掴まえなければ、本当の命が分からないのです。

 呼吸の呼は吐き出すことです。吐き出すことが呼ぶことになるのです。皆様の弱点を神の前にさらけ出すことが、呼ぶことになるのです。弱点をさらけ出すと、神を吸い込むことになるのです。

 自分の弱点をさらけ出して、命を吸い込むのです。これが祈りです。八百万の神々に対して祈ることとは違うのです。宗教と真実とはこのように違うのです。


彼岸に渡る

 般若心経は現世から出ることをやかましく言っています。彼岸へ渡れと言っている。彼岸へ渡るのですが、彼岸は何処にあるのか。彼岸とはどういうものか。彼岸の内容はどういうものかについては、ほとんど説明していないのです。これが般若心経の欠点です。

 彼岸へ渡れ、彼岸へ渡れと盛んに言っています。般若波羅蜜多と言っていながら、彼岸の説明を全くしていないのです。

 波羅蜜多というのは彼岸へ渡る知恵を意味するのです。彼岸へ渡るための上智と言っていながら、彼岸についての説明を全くしていないのです。これが般若心経の欠点です。

 仏典は彼岸へ渡れと言っていながら、彼岸の実体の説明ができません。これが、仏教思想の大欠点です。

 釈尊は仏教を説いたのではありません。釈尊は仏性を悟ったのです。一見明星によって、明けの明星を見たことによって、大変なことを悟ったのです。明けの明星を見たことによって、彼岸の真髄を見たのです。

 彼岸を見たのですが、それを人々に説明しても分からない。そこで、生活の心得のようなことを説いたのです。これがいわゆる仏教になったのです。

 仏法と仏教とは全然違うのです。このことが日本の仏教家に全く分かっていないのです。一見明星が何であるのか。釈尊は何を見たのか。この説明ができる仏教家が日本には一人もいないのです。

 実は明けの明星は聖書を学ばなければ分からないのです。皆様のような素人の人でも、聖書を綿密に学べば分かるのです。ところが、仏教家は聖書を全然学んでいませんから、釈尊が明けの明星を見たということがどういうことなのかを説明できる人が、日本には一人もいないのです。仏教大学の教授でもいないのです。

 日本の仏教大学の教授に、釈尊の本当の悟りが分かっていないのです。

 般若心経を読んでご利益を期待する方が間違っています。ご利益を期待することが彼岸へ行っていないことを意味しているのです。

 新約聖書の神の国を勉強しなければ、彼岸は絶対に分からないのです。

 「人は誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」とイエスが言っています(ヨハネによる福音書3・3)。「水と霊とによって新しく生まれて神の国に入りなさい」とイエスが言っているのです。これが新約聖書の般若波羅蜜多です。

 「神の国に入りなさい」。これが新約聖書の目的です。新約聖書は神の国について書いているのです

 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1・15)。神の国が近づいたから、悔い改めて福音を信ぜよと言っているのです。これが彼岸です。

 新約聖書の神の国と、般若心経の彼岸は同じものなのです。そうしますと、釈尊は何を見たのか。釈尊が明けの明星を見たのは、イエス・キリストが説いた神の国を見ているのです。こういう関係になっているのです。

 西洋文明の真髄と、東洋文明の真髄とは、一つのものです。これが世界的に初めて言われたのです。

 私たちがいうのは仏教でもないし、キリスト教でもない。イエス・キリストの本当の意中は、釈尊の悟りと同じものです。釈尊の本当の悟り、仏性の本当の悟りはイエス・キリストを見ることです。妙心寺の管長の山田無文さんが、「悟ったらどうなるのか」と聞かれた時、「悟っただけではだめだ。イエス様のようにならなければいけない」と、盛んに語っていました。ところが、無文さんは本当のイエスを知らずに死んでしまったのです。

 山田無文さんの言葉は本当ですが、無文さんは本当のイエスを知らなかったのです。イエス・キリストの復活を知らなかったのです。だから、無文さんは死んでしまったのです。

 世間の宗教はインチキばかりです。無文さんのインチキは上等です。一般の仏教大学の先生と比べれば、無文さんは正直です。

 本当の真実は一つしかないのです。般若心経は彼岸と言っていますけれど、彼岸の実体を教えていないのです。

 新約聖書は神の国という言い方で、彼岸の実体をはっきり教えているのです。そこで、宗教ではない般若心経を言うとしたら、聖書を言わなければならないのです。

 般若心経全体で二百七十六文字ですが、その中に無と空を合わせて三十二文字あるのです。般若心経は空と無を言いたいのです。

 般若心経がいう空とは、彼岸のことです。皆様が肉体的に生きていると思っていることが空です。これが間違っているのです。

 色即是空ということは、物質はないということです。物があるという感覚が色です。色即是空というのは、物があるというその気持ちが空だと言っているのです。

 空即是色というのは、空が色になって現われているのだと言っているのです。物はない。ないということがらが、あるということがらになって現われているのです。

 これはなかなか難しいことでして、皆様は物質があると思っているのです。現在の文明は物質があると思い込んでいるのです。物質があると思っているから、自然科学が幅をきかしているのです。

 自然科学のおかげで、現在の文明ができているようなものです。これが全部嘘です。

 物質があると思うから自然科学ができているのです。ところが、般若心経では色即是空と言っているのです。物質は空であると言っているのです。物がないというのがあるという格好で現われているというのです。

 花が咲いていますが、これが空です。花というのは地球のエネルギーが花になって現われているのです。地球のエネルギーとは何でしょうか。これは自然の力です。これは地球ができるまでの天然の力が地球の中に入っているのです。これが花になって現われているのです。

 これは花だけではありません。肉体のエネルギーも同様です。ミカンにはミカンの味がします。これは地球が出来る前にあった世界の味です。

 地球ができる前に世界があったのです。地球の前の状態があった。地球のファウンデーションが地球になって現われているのです。

 皆様が見ている花は地球のファウンデーションを見ているのです。地球の花ではないのです。地球のファウンデーションが花になって現われているのです。また、色、味になっているのです。

 色、味、香りは、地球ができる前の地球のファウンデーションが現われているのです。

 現在の地球ができる前に、地球の前準備があったのです。これが現在の地球の根源になっているのです。これが皆様に色、味、香りになって感じられるのです。

 皆様の五官は地球ができる前の地球のファウンデーションを経験しているのです。だから、今の地球を見ているのではなくて、地球ができる前を見ているのです。これを般若心経は言っているのです。これと同じことを聖書も言っているのです。


 聖書に次のようにあります。

 「私は口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(マタイによる福音書13・35)。


 現在の地球が造られる前に、地球の前準備があったのです。それが今の地球に現われているのです。だから、物質があるのではない、前準備があるのだと言っているのです。

 花が咲いているのではない、地球の前準備が花になって現われているのだと言っているのです。

 これが聖書の本当の原理であって、こんなことは今のキリスト教では分かるはずがないのです。現在の人間文明は完全に行き詰っています。その証拠に、私たちが現われて、文明の間違いを証明しているのです。

 西洋文明が間違っている。東洋文明が間違っているということを、神が私たちを通して言わせているのです。

 学問が全部間違っているのです。科学も間違っているのです。哲学も間違っているのです。今の学問は物質があると思い込んでいますが、物質はないのです。

 物はないのです。般若心経は物質がないと言っているのです。物質がないことになりますと、現在の文明は成り立ちません。現在の学問、特に理論物理学では物質がないことに気がつき始めているようですが、今までの学問をやめる訳にはいかないのです。

 科学も物質がないということに気がつき始めていますが、今さら科学を押さえつける訳にはいかないのです。

 今の文明は行く所まで行って、自爆するしかないのです。やがて、文明は潰れます。世界は大混乱に陥るでしょう。

 政治的にも、経済的にも、物理的にも、思想的にも大混乱するのです。本当のことが分からないままで、政治、経済をしていますから、そうなるに決まっているのです。

 今の政治には目的がありません。アメリカの大統領、ロシアの大統領、イギリスや日本の首相が、本当の目的を持って政治をしているのではありません。来年のこととか、三年後のことは考えていますが、将来、人間の文明がどうなればいいのかということが、皆目分からないままの状態で政治をしているのです。だから、行き詰るに決まっているのです。

 世界全体はめちゃくちゃになるでしょう。大崩壊するのです。そうして、新しい文明が始まるのです。 

 イエス・キリストが再び来るのです。イエス・キリストの再臨が実現します。イエス・キリストの復活の命が歴史の真ん中にやってくるのです。

 イエス・キリストは殺されたのですが、復活したのです。これが歴史の実体になって現われます。そうして、人間の命に対する見方が全く変わってしまうのです。今までの政治、経済も、完全に変わってしまいます。学問の根底が引っくり返ってしまうのです。

 本当のことが知りたいのなら、宗教ではない般若心経と聖書を徹底的に勉強するしかないのです。これが嫌なら地獄しか行く所がないのです。

 現在の学問も、宗教も思想も、全部間違っているのです。物質がないのに、あると思い込んでいるからです。ないものをあると思っているからです。だから、文明は完全に行き詰ります。

 現在の文明の指導者は白人です。白人の指導者はユダヤ人です。ユダヤ人が間違えたために、世界全体が間違えたのです。


地球の前準備

 現在の地球ができる前に、地球の前準備のようなものがあったのです。どんなことでも相当大きな仕事をしようと思ったのなら、前準備がいるに決まっているのです。

 地球には前準備があったのです。これが創世記の第一章に出ているのです。地球の前準備の時の状態が、現在の地球のエネルギーの根源になっているのです。

 現在の地球のエネルギーは、現在のエネルギーではなくて、地球ができる前のエネルギーです。地球のエネルギーが花になったり、味、命になっているのです。だから、現実の地球は地球ができる前準備の状態が、現われているのです。

 皆様の五官の感覚というものは、先天性であって、生まれる前に皆様の五官の本質が与えられているのです。これが植えられた言葉です(ヤコブの手紙1・21)。

 神の言葉が命の本質である五官として、生まれる前に準備されていたのです。これが現在、肉体的に現われているのです。

 皆様が現在生きているのは、生まれる前の命が肉的に生きているのです。地球も生まれる前の地球が今あるのです。

 昨日の前準備があって、今日あるのです。昨日のエネルギーが今日になって現われているのです。今日のエネルギーが今日現われているのではないのです。昨日のエネルギーが今日になって現われているのです。

 今日という日は空です。昨日が実です。昨日という準備構造があったために、今日という現実が現われているのです。これが地球と人間との関係です。

 皆様が花を見てきれいだと思うのは、地球ができるまでの力を見ているのです。地球ができる前のエネルギーを見ているのです。

 現在のエネルギーではない。地球ができる前のエネルギーを見ているのです。地球ができる前のエネルギーが今の地球のエネルギーになって現われているのです。

 今の人間は、目の前に物があると思い込んでいるのです。学校教育によって、ばかにされてしまったのです。その頭で考えてもだめです。考え方を根本的に入れ替えてしまわなかったらだめです。これを五蘊皆空というのです。

 今までの物の見方、考え方を全部捨ててしまうのです。特に男はこれをしなければいけないのです。

 女の人は素直ですから、まだいいのです。男よりもずっと素直ですからいいのですが、男が悪いのです。威張っているだけ悪いのです。

 現在の社会の中心をなしているのは男です。男が悪を造っているのです。男性中心の文明は男が腐っていることを証明しているのです。

 今までの自分の考えをはっきり捨ててしまえる人を究竟涅槃と言っています。涅槃というのは、自分の考えを全部捨ててしまうことです。何かも全部捨ててしまって、空っぽになるのです。これが涅槃です。

 これが実行できない人は死んでしまうのです。死んでからひどいめにあうのです。

 仏教には禅宗とか、真宗、浄土宗とかいろいろありますが、これは仏教であって、仏法ではないのです。釈尊の本当の悟りというのは、仏法です。親鸞は釈尊の悟りの中の他力本願的な部分を勉強して、これだと考えた。日蓮は法華経を勉強して、これがいいと考えた。日蓮は法華経を重視した。親鸞は三部経を重視したのです。

 仏典には一万七千六百巻の経文がありますが、釈尊は明けの明星を見たことについて、説明しよう思ったけれども、本当のことを言っても人々には分からないのです。

 釈尊は来たるべき新しい世界を見たのです。明けの明星は太陽が出る前の星です。太陽が出る前の星を見たことによって、やがて、本当の世界が来ることを直感したのです。

 これを人々に言っても分からない。そこで、分かるように話をしたのです。これが仏教になって残っているのです。仏教というのは釈尊が言いたかったこととは違うのです。

 釈尊は本当の世界のことを話そうとしたが分からないので、譬話をしたのです。法華経の二十八巻は譬話です。第一巻、第二巻には、たくさんの仏さんが集まって会議をしていると書いています。これを取り上げないで、後の方の譬話ばかりを日蓮宗は取り上げているのです。

 仏法は釈尊の本当の悟り、新しい国、新しい命がやってくると言っていますが、これを説いても人々に分かりませんから、分かるように譬を説いたのです。これが仏教になっているのです。

 仏教と仏法は全然違います。日本に仏教はありますけれど、仏法は一つもありません。日本は仏教国であって、仏法国ではありません。これをよく考えて頂きたいのです。

 五蘊皆空をよく考えて頂きたいのです。五蘊の土台となっているものが、色薀です。色薀というのは、物があるということです。目で見ているとおりの実物があると思えることです。これが皆様の霊魂を殺しているのです。これが皆様の咎の大きいものです。

 人間の意識、生活意識、自我意識は色薀が土台になっているのです。物があると思うことがすべての間違いの原因になっているのです。人間は物があるということに基づいて、考える、記憶する、行動する、発明する、思索しているのです。

 色薀が一番厄介です。実はこれがイマジネーションなのです。イマジネーションとは心象です。目で見ていると見ているような気持ちがするのです。そういう気持ちが一つの世界を造ってしまうのです。心象の世界を造ってしまうのです。これが皆様の迷いの第一現象です。

 子どものうちからこういう迷いの中へ入れられているのです。人間は四十年も五十年もこれをしているのですから、皆様の中に色薀がしっかりと入り込んでいるのです。色薀に従って、記憶とか、意識の中に、しっかりと根付いているのです。これが皆様の魂を殺しているのです。

 今の皆様は魂が全く分からないでしょう。魂は何処にあるのか分からないでしょう。皆様は人間としてばかり生きているのです。人間として生きていますけれど、霊魂が死んでしまっているのです。これほど五蘊は恐ろしいものです。

 目で見ている世界は幻の世界です。人間は心象の世界で生きているのです。

 人間は目で見ているとおりのものがあると考える。現代文明は心象の世界が第一に考えられているのです。唯物論というのはそれです。マルキシズムは目で見ているとおりの物が存在していると考えているのです。これが唯物史観です。

 唯物史観が十三億の中国を支配しているのです。唯物史観が政治、経済を動かすという力を持っているのです。そのように、心理構造が人間の歴史、政治、経済、学理学説を造っているのです。

 日本で一番最初にノーベル賞をもらった湯川さんが随筆に、「自分は学校では、物質は存在しないと学生に教えている。物理運動が物質になっているだけのことであって、物質、物体は存在していないということを教えている。しかし、家に帰ると物質があるような気持ちで家族と話をしている。自分は二重人格者のような気がする」と書いていました。

 湯川さんは正直な人だから、そのようなことを書いたのでしょう。湯川さんが言っていることは本当です。理論物理学で言えば、物質はないのです。感覚的にはあるように見えるのです。

 これはどういうことかということです。皆様は目で見ています。見ているのは地球ができる前のエネルギーを見ているのです。地球ができる前のエネルギーを見ていながら、花という物質があると思っている。

 目の働きは正しいのです。目の働きは地球ができる前を見ているのです。それを受け止めている皆様の生活意識が間違っているのです。

 生活意識は肉の思いです。聖書でいうと肉の思いになるのです。般若心経ではこれを色というのです。色が色薀になっているのです。

 色、色薀は人間の迷いです。色という迷いがあるために、何もかも皆間違っているのです。そのために、皆様の霊魂が死んでいるのです。

 皆様は五十年、六十年生きていて、霊魂、本当の命が全く分からないでしょう。五十年、六十年、この世に生きていて、何が分かったのでしょうか。

 何も分からなかったでしょう。それは色薀のためです。最も重大な間違いは結婚ということです。結婚という重大な間違いをしているのです。男と女の関係が根本から間違っているのです。これは恐ろしい間違いです。

 女はこの間違いに何となく気づいているようです。男の欲望はどうも悪いようだと思っているのです。男は性欲は当たり前だと考えているのです。女は何となく間違っていると思えるのです。

 男は妻は自分に従うのが当たり前だと考えているのです。この考えが土台から間違っているのです。

 性の問題と、食の問題は本能です。本能を根本的に考え違いしているのです。本能の意味が分からなくなっているということは、霊魂の本体が分からなくなっているからです。だから、女の貞操観念が皆間違っているのです。


色薀

 女の人は肉体を持っていると考えてるのです。肉体があると思い込んでいるのです。これが色薀です。色薀に基づいて貞操観念を持っている。道徳と言っても、倫理と言っても、貞操と言っても、土台から皆間違っているのです。

 色薀の間違いを知っているのと知らないとでは、大変な違いになるのです。この世を去ってからどうなると思っているのでしょうか。

 皆様は花を見る力を持っているのです。皆様の視覚は花を見る力を持っているのです。視覚とか聴覚は感覚です。これは生まれる前からの感覚です。これを受け止める生活意識が間違っているのです。

 感覚は直感的に正しく花を見ているのです。ところが、それを受け止めている意識が間違っているのです。感覚は正しいのですが、意識が間違っているので、意識を転換しなければならないのです。これを究竟涅槃というのです。色即是空というのです。また、五蘊皆空というのです。意識をがらっと変えてしまうのです。そうすると、死んでから後の世界が見えてくるのです。

 皆様の霊魂は死なない命を見るだけの力を十分に持っているのです。現在、目や鼻は花を見てきれいだと思っているのです。花がきれいだと見えるのは、滅んでいく地球ではなくて、滅びない地球を見ているのです。

 先天的なエネルギーが花になっている。これを先天的な機能である目は見ているのです。先天的なエネルギーを先天的な目の力で見ているのです。この先天的な力を魂というのです。

 皆様の魂は死んでいるのですから、生き返らせる必要があるのです。それを甦らせる必要があるのです。

 これは宗教ではできません。パウロ以降、二千年の間、誰も分からなかったことをお話ししているのです。

 皆様の社会に対する見方、人間関係の見方、生活意識が全部間違っているのです。することなすことが全部間違っていたのです。

 六十年、七十年の間違いをどうして取り返すのでしょうか。これはイエス・キリストの十字架と復活を信じて、新に生まれるしかないのです。新しい命を経験するしか方法がないのです。

 彼岸に入るというのは神の国に入ることです。神の国に入る方法は一つしかないのです。私は本当の悟り、本当の霊魂の価値を皆様にお話ししているのです。

 これは五回や十回聞いても分かる話ではありません。勉強会に毎回出席して、辛抱強く、根気よく勉強して頂くことが必要なのです。自分の命をかけて、自分の生涯、人生をかけて勉強する気持ちが必要です。永遠の生命を得るためには、そのくらいの犠牲は必要です。

 皆さんは今のままで死んだら、大変なことになります。これをよくご承知いただきたいのです。

 死んでゆくのは自分一人ではない。何万人、何億人の人が死んでいくから、恐くない。世間の人が皆死んでいくから、自分も死んでいくのは当たり前だと思っているのです。これが間違っているのです。

 皆死んでいくから死ぬのは当たり前だという感覚は、現在生きている人間の妄想です。人間の生活意識はすべて妄念です。死んだら友人に会えるとか、親しかった人に会えるというのは、大間違いです。

 これは現世に生きている間の人間の妄念です。現世に人間が生きているということが、カルマです。人間は現世で肉体的に生きていることがカルマです。これをこのまま鵜呑みにしてしまうと、カルマが永遠に続くことになるのです。だから、カルマから永遠に逃れられないことになるのです。

 現世に、2019年現在で、76億の人間が世界にいます。日本には1億2500万人の人が住んでいます。だから、私一人くらいはと考えることは間違っているのです。

 死んでしまうと、自分一人の世界になるのです。全くの孤独になるのです。死というのは完全な孤独の世界です。そこで、永遠の苦しみに会うことになるのです。

 性欲は間違っています。性行為が悪いのではなくて、心構えが根本から間違っているのです。食行為が間違っているのではない。食べることについての心構えが間違っているのです。

 性も食も、すべて霊魂の問題であって、とこしえの命の問題です。死なない命をどうして見つけるのかということが、性の問題、食の問題になるのです。これを本能というのです。

 性を現世の生活構造だと思っていると、全部姦淫になるのです。全部咎められるのです。皆様の霊魂はそれを知っているはずです。特に、女の人は良く知っているのです。男は当たり前だと思っている。それだけ男が悪いのです。

 皆様は六十年、七十年の間、霊魂のことを全く考えずに生きてきました。この世の生活ばかりに追いまくられて、命の勉強をしてこなかったのです。これを深く反省して頂きたいのです。

 般若心経と聖書が宗教のテキストのように考えられているのです。般若心経は釈尊の悟りの真髄を要約したものでして、現在、人間として生きていると考えているその感覚が、一切空だと言っているのです。

 これは全く真実そのものです。肉体人間が生きていることは、必ず死ななければならないという必然性に基づいて生きている。これが空であることは当たり前です。

 死なねばならないという必然性に基づいていることが空なのです。これは私たち個人が空であるだけではなくて、人間の歴史、文明が空なのです。こういうものがあってもしょうがないのです。


何のために生きているのか

 六千年の間、人間文明が続いてきましたが、六千年の文明を通して、人間が何のために生きているのかという、極めて素朴な単純な問題の答えが出ていないのです。

 六千年かかっても、何のために人間が生きているのかということについて、解答が出されていないのです。これをよく考えてみますと、人間の常識が全くあてになるものではないことがはっきり分かるのです。

 般若心経は人間の考えが空だと言っているのです。これは極めて端的な言い方ですが、これを宗教のテキストとして扱いますと、その真理が必然的にぼけてしまうのです。

 信教の自由という言葉が憲法にありますように、宗教は信じても信じなくてもどうでもいいことになるのです。

 般若心経は信じても信じなくてもどうでもいいのではないのです。人間が現在生きていることが空であるということは、現在生きている私たちにとって、非常に重大な、また、絶対的な事実です。

 肉体人間が死んでしまうということは、はっきりした事実です。ところが、般若心経を宗教だという感覚で見ていきますと、霊魂的な事実を見極めることを放棄したことになるのです。

 般若心経を信用しても信用しなくても、どちらでも良いことになるのです。聖書については、もっとひどいのです。聖書はイエスが死を破ったこと、人間は本質的に死なないものであることを証明したことを書いているのです。

 人間は本質的には死なないものであることを、死を破るという形で証明したのです。これは神からの保証なっているのです。

 人間は死ぬものではないということは、神が保証しているのです。これが宗教であることになりますと、信じても良い、信じなくても良いということになるのです。

 日本人は永遠の命ということを、まともに考えたことがない国民です。復活という言葉はありますが、トルストイの小説の題名であるという程度にしか捉えられていないのです。

 とにかく、聖書と般若心経が宗教として論じられていることは全く愚かなことです。聖書と般若心経の絶対性を無視してしまうことになるのです。つまり、信じてもいいし、信じなくてもいいというあやふやなものになってしまっているのです。

 だから、日本人は生活のことは非常に熱心ですが、命のことを全く考えようとしていないのです。

 生活のことは熱心に考えていると言いましたが、これは中年以上の方についてであって、若い人たちは生活のことさえも考えていないのです。生活をどのように楽しむかということだけを考えているのです。もっと次元が低い状態です。人間はだんだんと安物になっているのです。

 これは現代文明の世界観が根本的に間違っていることを示しています。文明の世界観が皆様の頭に非常に強い影響を与えているのです。皆様の頭に覆いかぶさるような、圧倒的な力を持って、皆様の心理構造を支配しているのです。

 現代文明の世界観が間違っているのです。人間の命をまともに考えようとしない世界観です。ただ生活だけを見ようとしているのです。

 だから、人間自身の性根がだんだん腐っていくのです。白人主義の文明はこういう悪いものです。

 般若心経や聖書を宗教のテキストとして弄ぶのです。宗教のテキストとして扱うことになりますと、全く無価値なものになってしまうのです。宗教というものは宗教教義によって成り立っているのです。

 宗教というのは、仏教の場合で言いますと、親鸞上人とか、日蓮上人、道元禅師、弘法大師とかいう人々がご開山になっているのです。この人々の教えが宗教になっているのです。

 人間の概念が教えの基礎となっているのです。これが宗教です。

 教義に基づいて聖書を見ますと、本当のことが見えなくなるのです。般若心経の空でも本当の意味での五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃ということが捉えられなくなるのです。これを宗教で取り上げられますと、般若心経ではそのように言っているそうだということになるのです。

 涅槃というのは何かと言いますと、人間の命は蝋燭の火がともっているようなものですが、これが一陣の風によって吹き消されてしまう状態をいうのです。

 蝋燭の火が消えてしまった状態、人間の命が消されてしまったような状態を涅槃というのです。皆様が人間として生きている。社会人として生きている状態が消されてしまった状態です。

 しかし、まだ心臓が動いているのです。皆様の生存意識、自分が生きているという意識が消えてしまって、なお、目が見える、心臓が動いているという状態が涅槃です。

 これが分かりますと、皆様は個人の人生に対する見方が全く変わってしまうのです。皆様の人生は主観的なものではなくて、純粋に客観的なものであることが分かるのです。これが涅槃です。自分が生きているのではない。生かされているのだということが分かるのです。

 これは当たり前のことですが、これが現在の人間には全然分からないのです。例えば、人間は空気や水を自分で造っているのではないし、太陽光線も自分で造ったのではない。森羅万象を自分で造ったのではないのです。

 ところが、人間は毎日、太陽光線のお蔭で昼には仕事をすることができるのです。農作物を作ることができます。鼻から息をすることができるのです。人間が生存できるのです。

 人間は生きているのではない。生かされているのだということは明々白々な事実なのです。ところが、現代人は自分の力で生きていると思っているのです。だから、国と国との争いが起きるし、核兵器をやめようとしないのです。軍縮会議は形ばかりで、成果が上がらないのです。

 これは文明の基礎概念である世界観が間違っていることを意味しているのです。政治が間違っている。経済が間違っているという枝葉末節の問題ではない。人類の世界観の根本が間違っているのです。

 学問に全世界を指導する原理は一つもありません。ただ現在の生活に便利を与えるという程度のことです。人間の知識、常識は空なるものです。五蘊皆空です。これがなかなか分からないのです。

 人間のあり方、考え方は根本からひねり潰されてしまうのです。もうぼつぼつ潰れかかっているのです。

 死なない命を見つけることができるように、新しい世界観が日本から発揚される時が来ているのです。現在の文明の発展はこれ以上望めません。第一、般若心経が分からない。聖書の原理が分からない。キリスト教の聖書は分かりますが、イエス・キリストの実体、神の聖書がキリスト教社会では全然分からないのです。

 今のキリスト教ははっきり西洋の宗教です。聖書は西洋の宗教ではないのです。私たちはこういう間違いの根本をえぐり出して、宗教ではない聖書、宗教ではない般若心経、そして、東西の文化の真髄である本当の霊魂に関する捉え方をぜひ提唱したいのです。

 宗教のテキストとして般若心経や聖書を扱うことになりますと、信じても信じなくてもどちらでも良いことになるのです。

 宗教ではない般若心経と聖書になりますと、信じても信じなくてもどちらでも良いことにはならないのです。イエスかノーかはっきりしなければならないのです。

 聖書が絶対であるのかないのか。般若心経が絶対であるのかないのか。このことについて、よく話し合いたいのです。

 現在の社会通念が間違った世界観に基づくものであって、この世の中で偉い先生と呼ばれている人々は、皆現代の文明に奉仕している人々に決まっているのです。この世の文明を賛美する人でなかったら、偉い人にはなれないのです。大学教授にはなれないし、宗教の指導者にはなれないのです。

 この世の偉い人は宗教を説くか、既成概念を勉強するか、そういうことをするに決まっているのです。

 私はただの三文奴です。聖書と般若心経が宗教ではないことを知っています。私はそれを体験しているのです。だから、皆様に般若心経の真髄と、聖書の真理を話したいと思うのです。

 私たちは自分の意志で生まれたのではありません。従って、命は皆様のものではないのです。それを自分が生きていると考えているのです。

 人間は自由意志を与えられていますから、自分が生きていると思いやすいのです。なぜ自由意志が与えられているのか。私たちは現世で命を経験することによって、何を捉えるかが、人生の目的です。

 何のために生きているのか。生きていることを通して、命をどのように経験したのか、経験するのかということです。これが私たちの生涯の目的です。その結論が皆様の永遠の生命のあり方を決定するのです。

 五十年、六十年、この世に生きていて、命について何を感じたのか。命を経験したことによって、何をどのように悟ったのか。これが皆様がこの世を去った後の永遠の問題の基礎になるのです。

 皆様はどのようにこの世を見てきたのか、自分の生活を見てきたのか。これが神が皆様に問うているのです。


 神とは何かと言いますと、何でもないのです。皆様の心臓が動いていることが神です。地球が自転公転していること、目が見えることが神です。皆様は知ると知らずとに係わらず、好むと好まざるとに係わらず、皆様の命、皆様の存在は神によって管理されているのです。

 ところが、人間はこの神を全く考えようとしていない。命の根源である神を全く考えようとしていないのです。人間はこういう間違った生き方をしているのです。

 私たちは命を経験するために生きているのです。この世で生活するために生きているのではありません。生活するということは命を経験する形のことをいうのです。

 生活は表面の形であって、本質は命をどのように経験しているのかという事です。

 私たちは般若心経と聖書を一緒に勉強しています。宗教なら一緒に勉強しないのです。般若心経か聖書のどちらか一つを勉強するでしょう。

 ナザレのイエスと、釈尊は宗教家ではなかったのです。イエスは宗教家を徹底的に攻撃したのです。その結果、彼は宗教家に捕えられて殺されたのです。これが十字架という事件です。

 こういう点を再認識して頂きたいのです。人間歴史の中で、イエスが死を破ったということだけしか信用できるものはありません。六千年の人間歴史の中で、本当に命がけで信用できるものは、イエスが死を破ったということだけです。これ以外に信用できる事実はありません。

 皆様は現在命を経験しているのです。ところが、命とは何かと聞かれると、返事ができないでしょう。生きていながら、命が分からないのです。これは困った日本人の状態です。

 「神は乳飲み子、嬰児の口に基を置いて、それを敵に対する砦にした」とあります(詩篇8・2)。嬰児というのは赤ん坊ですが、生まれたばかりの赤ん坊の口に、神が悪魔に対する砦を置いたのです。これはどういうことか。

 赤ん坊の口に要塞を置いたとはどういうことなのか。これがキリスト教では全く分かりません。キリスト教の神観というのは、宗教の神観でありまして、聖書の神観ではないのです。

 キリスト教は聖書は神の言葉であるという概念は持っていますけれど、神の言葉としての聖書の説き方ができないのです。

 キリスト教がなぜ間違っているのかと言いますと、神の言である聖書を人間が説いているからです。神の聖書は神が説かなければならないのです。神が説くとはどういうことかと言いますと、聖霊によって説くということです。

 聖霊によらなければ、神の言、イエスが主であるということが分からないのです。

 神の実体とは何か。これは神の名です。イエスが山上の垂訓で、「天にまします我らの父よ、願わくば、御名を崇めさせたまえ」と言っています(マタイによる福音書6・9)。キリスト教では御名を崇めるとはどういうことなのか分からないのです。具体的に、生活的に、実際的に御名を崇めるとはどういうことなのか、分からないのです。分からないままで、御名を崇めると言っているのです。

 これでは他力本願の阿弥陀如来の名号と同じになるのです。神の御名とは何であるのか。これは神自身に聞かなければならないのです。

 神の御霊の正しい導きというのは、必ず聖書の言葉を通してなされるのです。聖書の言葉を通さないものは、正しいとは言えないものがあるのです。神霊科学はそういうもので、必ず教義があって、それに基づいて考えているのです。

 パウロも異言について言及していますので、異言がすべてだめだというのではありませんが、日本語に聖書が訳されていますから、聖書の言葉に基づいて神の御霊の導きを受けることが必要です。これでなかったら正確なものではないのです。

 キリスト教の信仰では、悔い改めて神を信じることができないのです。心を替えて新にすることができないのです。自分の気持ちを持ったままで、聖書を読んでいるのです。ですから、御霊の導きを受けることができないのです。

 シャーマニズムというのがあります。これは本当の霊ではありません。人間の宗教観念を持っている人には、シャーマニズムという霊の働きがあるのです。これは正当な意味での御霊の導きではありません。

 神の聖霊というのは、シャーマニズムとは全然違うものです。聖霊は宇宙の指導霊であって、物理的な意味での原理、心理的な意味での原理、本当のエネルギーそのもの、生命そのものです。命の働きそのものが神の御霊の働きです。

 人間の霊が人間の霊に感動するというのは、シャーマニズムです。シャーマニズム的な考えに興味を持つのではなくて、皆様自身の命を直視するという考え方を持って頂きたいのです。

 皆様は現在、命を勉強しているのです。だから、命の実体を捉えることが正当な神を見る方法になるのです。

 命の現われの一つはライフです。もう一つはリビングです。ライフというのは、生活的な在り方です。リビングというのは、具体的な命の在り方です。リビングゴッドという言葉がありますが、神の本質はリビングそのものです。

 人はリビングソールです。生きている魂です。リビングというのは、世間の人間が考えているような命ではありません。命の実体です。目が働いていることの実体です。

 理屈でいろいろ考えるのではなくて、皆様自身の命を見るようにして頂きたい。そうしないと、シャーマニズムの霊に引っかき回されることになるのです。そういう危険性があるということを、ご注意頂きたいのです。


宗教であるか宗教ではないか

 宗教であるか宗教ではないかを、何処で見極めるということです。宗教というものは、現在生きている人間を救うこと、人間に幸いを与えることを第一にしています。これを目的にして宗教教義ができているのです。

 現在、生きている人間を救うために、宗教があるのです。ところが、聖書は現在生きている人間を認めていないのです。人間の魂に呼びかけているのです。人間の魂に呼びかけるのが神の御霊です。

 自分が生きているという気持ちを持ったままで、聖書を学ぼうとする。自分が幸いになりたい、救われたいと考えて、聖書を学ぶ。そこで、神の意志と人間の意志とが、全く違ってしまうのです。

 日本のキリスト教は全部宗教になっているのです。これは日本だけではありません。ローマカトリックもプロテスタントも、全部宗教です。全世界二十数億のキリスト教信者は全部宗教を信じているのです。

 これは重大な問題です。近代文明の世界観が根本から間違っていると私が言っているのは、人間が幸せになりたいと思っているからです。これが聖書の基本原理に反しているのです。

 キリスト教の人々は本当のキリストを知りませんし、キリスト教の神しか分かりません。宗教であるかないかは、今生きている人間が救われるか救われないかということによって判別できるのです。

 宗教という言葉を霊的、人々の魂において用いますと、それは宗教ではないことになるのです。

 世間並の宗教は肉体人間を幸せにするのですが、本当の宗教という言葉が使えるとしたら、これは宗教と言えるのです。イエスの復活が本当の宗教というのなら、それでいいのです。

 リリージョン(religion)というのは、神と人間の魂とのつながりを教えるという意味になるようですが、神と人間のつながりがどういう意味なのかということです。

 現在の人間を認めた形で神とつながるのか、人間の霊魂だけを認めて神とのつながりを考えるのかです。

 聖書の原点を申しますと、「人間はすべて罪を犯したから、神の栄光を受けることができない」と、はっきり書いているのです(ローマ人への手紙3・23)。

 今の人間の状態では神に救われる資格はありません。悔い改めて福音を信じるのです。心を更えて福音を信じるのです。これを英訳では、by the renewing of your mindになっています。レニューというのは全く新しくなって出直すという意味です。やり直すのです。考え直すことです。

 チェンジではないのです。チェンジというのは、右にあったものを左にするのです。レニューというのは、心の在り方そのものを根本的に更えてしまうのです。

 レニューとチェンジとは全然違います。だから、人間が神を信じることは不可能です。人間の頭で神を正当に正確に信じることはできません。

 イエス・キリストの十字架を信じなければならないのです。十字架とは何であるのか。これについての正当な解釈がキリスト教ではできないのです。


 パウロは、「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである」と言っているのです(ガラテヤ人への手紙2・19、20)。


 パウロはキリストをどのように生きていたのか。これがキリスト教では分からないのです。キリスト教ではキリスト教のキリストはありますが、神のキリストはありません。

 「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのである」とあるのです(コロサイ人への手紙3・3)。このキリストが栄光の内に現われる時に、「おまえたちも栄光の内に現われるのである」と言っているのです。

 まだ本当のキリストはこの世に出ていないのです。贖いのキリストは来ましたが、栄光のキリストはまだ現われていないのです。

 イエスという人がそのままキリストであったと誤解しているのです。イエスをキリストとしたのは神です。イエスは甦った後にキリストとされたのですが、地上に生きている間はイエスはキリストではなかったのです。

 イエスはキリストであると信じていたのです。キリストであると考えて行動していましたが、神をそれを公認していなかったのです。

 彼が本当にキリストになったのは、甦った後のことです。イエスがキリストとなった証拠に、第三の天へ上げられて、神の右に座したのです。神の右ということがキリスト教では分かっていないのです。

 第三の天とは何処にあるのか、これが分かっていないのです。現在、皆様が人間として生きていることに対する考えですが、今の人間の一番悪い所は、自分の人生は自分のものだという考え方です。また、自分が生きていると考えている点です。

 自分が生きているという事実はありません。自分が生まれたいと思って生まれたのではないのですから、自分という人格が固定的に、個人的に存在するはずはありません。

 人間の霊魂は経験の当体です。命を経験することの当体が魂と言われるものであって、経験の当体のためには、人格がなければ経験できないのです。そこで、私という人格を神が人間に与えているのです。

 動物には本能がありますが、人間には霊魂があるのです。死に対して、動物は本能的な恐怖はありますが、人間は霊魂的な恐怖があるのです。

 人間はリビングソールです。生きている魂です。魂が肉体的に生きている。これを人間というのです。理性と良心とが肉体的に働いている。動物は動物的本能が肉体的に生存しているのです。

 動物本能と理性、良心は全然次元が違うのです。死を恐れることも違います。行動も違うのです。

 人間の場合、困ったことには、この世に生まれてきた以上、自分の霊魂に対する責任を果たさなければ、ひどいめにあうことになるのです。

 なぜかと言いますと、理性と良心というのは神にかたどりて造られたのです。理性と良心は人間の人格の中心です。神にかたどられているので、衣食住の生活において、自由に選択できるのです。自分の意志に従って何を食べようか、何を着ようか、何処に住もうかを選択できるのです。これは神が肉体を取っている状態と同じ自由度を意味するのです。

 仮に神が肉体を持ったとしたら、皆様が生きていることと同じ方法でしか生きられないでしょう。


無限の可能性

 人間の霊魂は神と同質のすばらしいものです。魂は無限の可能性を約束されているのです。イエスがそれを証明したのです。

 私は神様とは言いません。神と言っています。神様というと宗教になってしまうからです。イエス様というと偶像になってしまうのです。こういう考え方が聖書から逸脱してしまっているのであって、私はイエスと言っています。聖書もイエスと書いているのです。

 こういう言い方はカトリックの人々から見れば、甚だ不敬虔のように思えるでしょう。

 イエスは肉体的な条件で生まれたのです。ざっくばらんな言い方をしますと、イエスは私たちと同じように小便をしていたのです。もしイエスが小便をしない人なら、私たちの救い主にはならないのです。小便をするイエスがはっきり分からなければ、宗教になってしまうのです。

 「肉体で来たイエスを言い現わさない者は、神から来ている者ではない」とヨハネが言っているのです(ヨハネの第一の4・2、3)。肉体で現われたイエスをはっきりいう者は、神から遣わされた霊であると言えるのです。肉体できた小便をしたイエスがキリストであったのです。だから、小便をする私たちが救われるのです。

 私たちはイエスをありのままに見たいと考えているのです。見なければならないと思っているのです。

 皆様がこの世に出てきて、肉体的に衣食住を自由に選択しているということを実行しているのです。これは神の子としての生活態度をそのまま取っているのです。

 何を食べようか、何を着ようか、自由に選択しているのです。これには経済的に許される範囲ということですが、その範囲内では自由に選択できるのです。

 こういうことができるということが、皆様が生ける神の子であることを証明しているのです。

 だから、皆様は自分の魂を生ける神の子として確認しなければならない責任があるのです。人間としてこの世に生きている以上、このままで平気で死んでいくことは、絶対にできません。このまま死んだら、ひどいめにあうのです。

 なぜなら、皆様は人間としての特権を数十年に渡って行使していたからです。日本人はこういうことを全く考えない国民です。そんなことを誰が決めたのかと言いたいでしよう。こういう考え方は日本人が神の約束に関係がない浅ましい民族である証明になるのです。

 日本人は神の約束をまともに見ようとしない。また、見ることができない民族です。だから、親鸞も、日蓮も、本当の命が分からなかったのです。魂とは何かが分からなかったのです。

 道元のような非常に優秀な人でも、「受けがたき人身を受け、会いがたき仏法にあい」と言っています。人間が肉体を持ってこの地上に現われたことを、非常に尊いことであると言っています。しかし、どのように尊いのかということをはっきり定義していません。

 道元は命の本質が分からなかったのです。分かろうと努力したということは言えますが、彼は仏の子と考えたのですが、仏の子とはどういうことであるのか。世界的に通用する通念として、どのように見たらいいのか分からなかったのです

 日本人は人間として生きていることの尊さを知らないのです。現在、生きている自我意識の塊のことを自分だと思い込んでいるのです。実はこれは悪魔の子です。

 自我意識を持っている主観的に存在する人間は、悪魔の子です。皆様が今のままの生活を続けていれば、必ず死んでしまいます。死んだ後には、神の子としての生活を送っていながら、それに対する正しい責任を考えようとしなかったので、必ず税金を取られることになるのです。相当痛烈な税金を取られることになるのです。

 現代文明の世界観はユダヤ人が造ったものであって、これに日本人はまんまと引っかかっているのです。白人主義の文明が間違っているのです。

 基本的人権というありもしないことを言っているのです。現在、肉体的に生きている人間を、最高のもののように言っているのです。これは夢物語、茶番狂言であって、この考えは現世では通用しますけれど、死んでしまえば、こういう概念は全く通用しません。

 私たちの人生観は永遠に通用するものでなかったらいけないのです。皆様の理性は永遠無窮に通用する値打ちがあるのです。だから、現代文明の世界観で限定されるという考え方を持たないで頂きたいのです。

 皆様の理性は無限に成長する可能性があることを、よくご承知頂きたいのです。

 そのためには、まず五蘊皆空ということを受け止めて頂きたいのです。人間の常識が間違っているのです。これは現代文明の世界観を信じているために間違っているのです。

 現代文明は人間本位の文明です。ヒューマン文明です。ヒューマンというのは肉体人間を指すのであって、魂の人間を指していないのです。これは死ぬに決まっている人間です。この人間の生き方をしていると、必ず厳しい審判を受けなければならないのです。審判を受けるということは、皆様が数十年の間、どのような世界観で、どのように人生を歩んで来たのかということが裁かれるのです。

 命をどのように経験していたのかが、皆様の記憶になっているのです。皆様がこの世を去る時は、記憶がこの世を去ることになるのです。

 肉体は火葬場に行けば灰になりますから、大自然に同化しますけれど、皆様がこの世に生きていたという記憶は、灰にはならないのです。

 だから、皆様は目の黒いうちに、自分自身の記憶に対して責任を持たなければならないのです。これは持てるのです。皆様が素直な感覚になれば、イエスがどういう気持ち生きていたのかは、必ず分かるのです。


リビング

 皆様が生きているという事実はリビングであって、そのまま神の実体を意味するのです。皆様のリビングがゴッドを指しているのです。リビングゴッドとリビングソールは同じものです。リビングを中心にしてゴッドとソールがあるのです。

 リビングを神から見ればゴッドです。人から見ればソールです。これは同じものです。

 リビングという事実が神と魂をつなぎ合わせているのです。この事実を掴まえたら、皆様方の記憶が変わってしまうのです。

 今まで生きていたのは自分ではなかったことが分かるのです。これを素直というのです。私は七十七歳になります。今まで生きていたのは自分だと思って今まで生きていたなら、恥ずかしくて神の前に出ていけないのです。

 ところが、有難いことに、今まで生きていたのは自分ではなかったのです。これがはっきり分かりますと、初めてイエスが主であるということが分かるのです。自分自身の主体が自分ではなくてイエスそのものです。

 皆様の主体的人格は、実はイエスです。このことを悟って頂きたいのです。つまり、イエスが主であると口で言えとパウロが言っているのです。

 「心で彼が死人の内から甦ったことを信じたら救われる」とパウロが言っているのです(ローマ人への手紙10・9)。これがキリスト教では分からないのです。

 イエスが主であるとはどういうことなのか。彼が死から甦ったことが、私たちとどのような関係にあるのかということを、具体的にはっきりお話ししたいのです。私みたいな者に分かるのだから、皆様にも分かるに決まっているのです。ただやる気があるかないかだけのことです。

 私たちがこの世に生まれた以上、生まれたことに対する責任を回避することはできないのです。どうしても、神に負けなければいけないのです。

 人間は神に負けるのは当たり前のことです。皆様が鼻から息を出し入れしているのは、神そのものです。心臓が動いていることが神です。神はこういう具体的な事実であって、魂はエネルギーであるとも言えるのです。心理機能でもあるが生理機能でもあるのです。

 心理機能のエネルギー、生理機能のエネルギーの本質が神の御霊です。皆様は現在神の御霊で生きているのです。神の御霊が皆様の心に悟りを与えることになりますと、リビングが分かるのです。

 皆様が生きているといることが、神の御霊です。これが神の約束ということになるのです。御霊を神の約束との関係はどうなるのか。これは天地創造を考えれば分かるのです。

 日本人は創世ということを知らないのです。創世ということは、世が始められたということです。ゼネレーション(generation)が始められたのであって、物が造られたのではないのです。

 般若心経は色即是空と言っている。現象は空だと言っているのです。空なるものを神が造ったのではありません。般若心経の色即是空という概念と、聖書の創世をしっかり勉強して頂きたいのです。

 皆様の肉体はないのです。ところが、皆様はあると考えているのです。これを肉の思いというのです。肉の思いは死です。肉の思いを信じているからいけないのです。そこで、般若心経の色即是空という考え方が、燦然として光ってくるのです。色即是空、空即是色が燦然と光っているのです。

 これをはっきり踏まえて聖書を見ると、初めてその意味が分かるのです。

 イエスは「神の国と神の義を求めよ」と言っています。神の義とは何であるのか。皆様が鼻から息を出し入れしていることが、神の義です。

 皆様がやろうという気持ちになれば、永遠の命を掴まえることは何でもないのです。創世とは世を造ったことです。物質を造ったのではないのです。

 世とは何か。ゼネレーションとは何か。神の栄光が有形的に現われていることです。これを造ったのです。

 花を見て下さい。神の栄光が集中的に現われているのです。神の栄光が可視的に、有形的に現われているのです。神の栄光が見えるのです。皆様はこういう時代に生きているのです。皆様の目の前に現われている現象世界には、神の栄光があふれているのです。

 これは宗教の話ではありません。私たちが生まれてきた以上は、生まれてきたという責任を回避することができないのです。強制的に勉強しなさいと言ってもいいのですが、皆様の自我意識がそれを許さないのです。皆様が今生きている命が何であるのかを、もう一度考えて頂きたいのです。

 皆様は現在、リビングによって神を経験しているのですから、このことをよく考えて頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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  • higan2021

本当の命の見つけ方というのは、私たちが生きていることを正確に知るということです。生きていることを正確に知れば、おのずから成仏できることになるのです。

 成仏するということは、自分という人間から抜け出すことです。成仏というのは仏になることです。仏というのは、自分自身が解かれることです。自分自身が解体されることです。

 自分が解体されると、自分が自分だと思っていたことが消えてしまうのです。そうすると、死ぬべき自分がなくなるのです。それが、いわゆる阿弥陀如来としての自分です。

 阿弥陀如来というのは阿弥陀経だけの理屈ではなくて、阿弥陀如来と言おうと、成仏と言おうと、仏子と言おうと、神の子と言おうと、自分が消えてしまって、消えない自分の命が見えてきたらいいのです。

 自分が消えてしまって、消えない自分が定着したらいいのです。これがなかなかできないのです。だから、他力本願もありませんし、自力本願もないのです。そういうものは、皆宗教の概念であって、あるべき道理がないのです。

 あるのは命だけです。命の本体を見極めるということだけです。


 イエスは言っています。

 「あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイによる福音書6・6)。

 また、次のように言っています。

 「あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官に渡し、裁判官は下役に渡し、そして、あなたは獄に入れられるであろう」(マタイによる福音書5・25)。


 訴える者と和解するとか、部屋に入り、戸を閉じるとか、いろいろな言い方をしています。

 例えば、仏典の場合には、訴える者と和解するという点を取り上げて、それをいろいろな角度から仔細に説明するのです。哲学的な場から、実践的な場から、瞑想的、理論的に、いろいろな角度から説明するのです。

 訴える者と和解するということだけで、一冊のお経になってしまうのです。

 聖書の一句を仏典が解釈すると、一巻のお経になるのです。

 仏教とかキリスト教という看板をかけますと、一つの理屈が金看板になってしまうのです。例えば、「南無妙法蓮華経」という看板をかけるのです。そうすると、大思想のように思えるのです。これが宗教のいんちき性です。

 宗教はそういう看板で脅かすのです。宗教は金看板で商売をしているのです。そういうものに引っかかると、ばかをみるのです。お金をたくさん取られますが、何も実益はないのです。ただ概念や観念ばかりを押しつけられて、それでいいと思い込んでしまうのです。

 宗教はいくら信じても、命は全然分からないのです。宗教を信じて命が分かるのなら、信じたらいいのです。

 宗教を信じている間は、命は全く分かりません。宗教を解脱すると命が分かるのです。ところが、宗教を解脱することが、なかなかできないのです。

 日本人は日本人という国籍があることが優れた民族だと思っているのです。ところが、人間という立場から言えば、日本人も、アフリカの人々も、南米の人々も、皆同じです。それを、日本人という金看板で優秀だと思い込んでいるのです。

 これがこの世のいんちき性です。文明はいんちきばかりで固まっているのです。どんな宗教でも信じたらだめです。どんな理屈や教えでも信じたらだめです。ただ生きているということを、しっかり見るのです。

 自分の部屋に入り、戸を閉じて、祈ったらいいのです。これだけでいいのです。人間存在は一つの部屋です。自分の部屋に入って、ぴしゃっと戸を閉じるのです。

 戸を閉じるというのは、宗教とか哲学、人間の思いと断交するのです。断絶するのです。宗教でも、哲学でも、常識でも、すべて死んでいった人間が言い残したことばかりです。死を破った人はイエスしかいないのですから、イエスを学ぶしかしょうがないのです。

 歴史的事実として、死を破った者は、大工の倅のイエスしかいないのです。大工の倅がキリストになったということは、天下公然たる事実です。この天下公然たる事実を日本人は歪曲しているのです。


天皇制の値打ち

 日本という国の金看板に誤魔化されているのです。日本という金看板を外してしまうと、天皇制の値打ちが分かるのです。金看板をかけている間は、天皇制の本当の価値は分からないのです。

 人間文明の本質から考えますと、天皇制というのは驚くべきものです。これが分からないのです。金甌無欠というのは、日本の国には関係がないことです。

 日本の天皇制に金甌無欠という事実はありますが、これは日本という金看板には関係がないのです。皆様はこれが分かれば死ななくなるのです。

 日本人は金甌無欠と謳っていながら、何のことか分からなかったのです。金の壺に欠けがないというのです。これは人間の歴史全体から見て、すばらしい大真理を言っているのです。このことが日本人には全然分かっていないのです。

 日本の国という概念で、金甌無欠という大真理を分からなくしてしまっているのです。日本という国号の中で、金甌無欠を仕切ってしまっているのです。囲いの中に閉ざしてしまっているのです。だから、本当の金甌無欠が分からないのです。

 これは世界歴史の秘密です。これが本当の阿弥陀如来だと言ってもいいのです。

 本当の命が分かりますと、歴史でも哲学でも、経済、政治も、宗教でも分かるのです。こういうものが全部分かるのです。

 「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という一休禅師の道歌がありますが、日本人は本当の頂を知らないのです。こういう愚かなことを、日本人はしているのです。

 イエスを勉強すれば、あらゆる宗教、学問に冠絶したことが分かるのです。弘法大師や伝教大師、道元、親鸞よりもすばらしいことが分かるのです。

 どんな大師でも、どんな学者でも、イエスのある面を説いているだけです。真言宗とか、天台宗とか、禅宗、日蓮宗は専門学みたいなことになるのです。

 専門学というと非常に上等なもののように思えますが、専門学というのは部分学です。例えば、経済学というのは、経済のことを勉強するから経済学というのです。国家社会全体のことを捉えているのではないのです。

 専門的ということになりますと、部分的になるに決まっているのです。近代学というのは専門学ばかりです。専門学以外の学問はありません。これがユダヤ人のトリックです。

 ユダヤ人問題の根本的な解明が、日本では全然できていないのです。これは日本だけではなくて、欧米社会も同様ですが、聖書をまともに読んでいないからこういうことになるのです。

 哲学や宗教をいくら勉強しても、ユダヤ人問題は絶対に分かりません。仏典をいくら勉強しても分からないのです。ユダヤ人問題が分からなければ、世界歴史の実体を捉えることができないのです。世界歴史の体が捉えられなければ、人間が生きているとうことの説明ができないのです。

 宗教ではない真理、絶対真理を学んでいるという人がいますが、ユダヤ人問題が分かりますかと聞けば、説明できないのです。どんな学者でも、どんな専門家にでも、ユダヤ人問題が分かっていますかと聞いても、返事ができないのです。

 大体、ユダヤ人問題が分からない人が、分かったようなことをいうことが間違っているのです。ユダヤ人がいなければ、今の歴史はないのです。ユダヤ人が分からなければ、本当の命は分からないのです。こういう考え方を全体学というのです。専門学ではないのです。何にでも通用する、何処にでも通用する、いつでも通用する、誰にでも分かることを全体学というのです。

 全体学を勉強しなかったらだめです。宗教や哲学を勉強している人々が全体学を知らないからいけないのです。宗教家は専門家です。専門家というのは、部分家のことです。部分家はだめです。

 他力本願の原理と政治経済の原理とを、どのようにして一つにするのかということです。ドイツ観念論と親鸞の信仰を、どのように一つにするか。こういうことが説明できなかったらだめです。それはできないと言ったら、全体学にはならないのです。

 イエスが分かれば全体学が分かるのですから、何でも説明ができるのです。イエスはすべてのすべてであると聖書に書いているのです。イエスはザ・キング・オブ・ザ・キングス(the king of the kings)です。だから、何でも分かるのです。

 今、世界に必要なものは、ザ・キング・オブ・ザ・キングスの再発見です。ナザレのイエスの再発見です。これしかないのです。これをする以外に、命を掴まえる方法はありません。

 こういうことは、阿弥陀経や三部経にも書いています。大無量寿経にも書いているのです。阿弥陀如来は命の根源であり、知恵の根源であると言っているのです。

 命の根源であり、知恵の根源であるのなら、そのような勉強をしなければいけないのです。無量寿如来、無量光如来を信じるなら、知恵も命も分かるはずです。

 これが分かっているなら、阿弥陀経とアメリカ経済の関係はどうなるのかです。こういうことが分からなければ、だめです。科学の問題でも、政治、経済の問題でも、人間の魂の問題の関係をきちっと説明できなければいけないのです。

 人間は生きていながら、命が分かっていない。こういう人は地獄へ行くに決まっているのです。命の有難さを知らないから、地獄へ行くことになるのです。

 宗教をいくら信じてもだめです。宗教は神の前では一切通用しないからです。神は厳然たる実体です。人間の観念は一切通用しません。全体学以外のものはだめです。

 宗教は専門学です。仏教も専門学です。自力とか他力、真言というと、専門学がさらに分派したものです。キリスト教も専門学です。ローマ法王は専門学のシンボルです。

 もっと高い立場から言えば、全体というものもないのです。一即多であり、多即一であって、部分というものもないのです。例えば、法律の勉強をしたとします。本当の法律が分かったら、それから出るのです。


堂に入って堂を出る

 「堂に入って堂を出る」という言葉があります。表から堂に入るのです。そうして、お堂の裏へ抜けてしまうのです。一つの堂を通れば、すべての堂を通ったのと同じ結果になるのです。

 例えば、他力でもやりきってしまうと、自力になってしまうのです。自力をやりきってしまうと、他力になってしまうのです。これが全体です。

 拝むということでも、本当に拝めたら偉いのです。ところが、本当に拝まずに、自分が拝んでいるのです。これはまだ本当に拝んでいないのです。

 宗教は皆自分が拝んでいるのです。自分が信じるのです。自分が祈るのです。これは全部だめです。

 あれほどの達人の親鸞でさえも、仏教という枠から完全に出ることができなかったのです。歎異鈔を読んでみますと、仏教という枠から出たいということをしきりに思っていたのです。

 自然法爾の文を本当に親鸞が書いたとしたら、大したものです。しかし、自然法爾は宗教的な角度からの概念であって、世界歴史の実体ではないのです。自然法爾が本当に分かると、人間としての悟りは分かりますが、世界歴史の説明ができないのです。ユダヤ人問題が分からないのです。共産主義のことが説明できないのです。それではだめです。

 親鸞が自然法爾の文を書いたとして、これは自然と人間との関係を抽象的に捉えたことになりますが、人間歴史の実体が説明できないのです。例えば、日本という国があることの説明ができないのです。

 親鸞は日本人でしたが、日本人であることの縁起の説明ができなかったのです。このことは日蓮にも言えるのです。日蓮は立正安国と言っていますが、世界全体のことが考えられなかったのです。こういう思想は今では通用しないのです。

 世界のことを知らずに政治をしていますから、日本の政治は頼りないものです。世界全体のことを知らずに政治をすることが、間違っているのです。公明党の世界観は非常に小さいものです。

 皆様が現在生きているということは、自然法爾の結晶であると同時に、世界歴史の実体です。私たちの心臓が動いているということは、自然法爾の実物であると同時に、世界歴史の実体です。

 私たちは今生きているという格好で、世界の歴史を造っているのです。会社を経営している方は、文明の流れと同時に、世界歴史の一部において、会社経営をしているのです。

 厳密に言いますと、会社の動きは歴史の動きの中に織り込まれているのです。世界歴史の中の一員として生きているのです。従って、世界歴史に対する正当な認識がなかったら、人間としての正当な認識があるとは言えないのです。

 命が分かると何でも分かるのです。私はでたらめを言ったり、ほら吹きではないのです。本当の命は一即多、多即一であって、一が分かると全部分かるのです。

 本当に阿弥陀如来が分かったら、聖書が全部分かるのです。聖書が分からない阿弥陀如来の分かり方は、まだ本当に阿弥陀如来が分かっていないのです。

 イエス・キリストが本当に分かったら、阿弥陀如来の説明が完全にできるのです。阿弥陀如来が分からないようなキリストの分かり方は、間違っているのです。

 一は全部です。全部は一です。皆様には本当の命を掴まえて頂きたいのです。

 一期一会とは何か。千利休が考えたのは、茶の心得としての一期一会を説いていたと思えるのです。利休が仏の心をどのように感じていたのかということです。また、自分の命をどのように見ていたのかということです。

 利休がもう少しスケールの大きい人物だったら、切腹はしなかったと思われるのです。利休は了見が狭かったのです。彼は茶に関しては達人でしたが、人間としては未完成でした。

 お茶でも花でも何でも分かる人になって頂きたいのです。一期一会というのは、お茶だけのことではないのです。皆様が現在椅子に座っているということが一期一会になるのです。これが分からないと、本当のことが分かったとは言えないのです。

 お茶だけではない、コーヒーを飲んでいても、一期一会が分からないといけないのです。お茶をしなければ一期一会にならないのではだめです。


欲得現前莫存順逆

 信心銘に「欲得現前莫存順逆」という言葉があります。信心銘は禅宗三祖鑑智僧燦禅師の著作と言われていますが、これと一期一会とは同じことになるのです。

 欲得現前莫存順逆というのは、法律にも、政治、経済にも通用する考え方です。現前というのは瞬間です。今生きているこの瞬間です。

 現前は現実ではありません。私たちの命は生きている瞬間しかないのです。鼻から息を出し入れしているこの瞬間だけがあるのです。

 息を出し入れしているというのは、この瞬間だけに通じる実体です。昨日、生きていたことには関係がないのです。また、明日の呼吸とも関係ないのです。

 命は厳密に言いますと、今だけのものです。今の他に命はありません。今生きているというこの瞬間を掴まえるのです。これを一期一会というのです。

 今、鼻から息を出し入れしている瞬間を一期というのです。一会というのは、今この瞬間に、命に面会している、万物に面会していることです。

 皆様が歩いても、バスに乗っても、一会です。靴をはくということが一会です。靴をはく前と、はいた時と、はいた後の瞬間があるのです。そこに、実感と満足と喜びがあるのです。納得があるのです。

 利休はこれを言っているのです。靴をはくだけで命が実感できるのです。これが分かる心境を仏というのです。私たちの行動の一つひとつが一期一会になっているのです。その一つひとつに納得があるのです。

 これを実感していますと、生きているだけですばらしい喜びがあるのです。歩いている時には、自分が歩いているのではなくて、一期一会が歩いていると思いながら歩くのです。そうしたら、素晴らしい実感を与えられるのです。この世に生きている人間ではないことが分かるのです。

 順逆とは、良し悪し、利害をいうのです。美醜、善悪を考えるのです。いわゆる差別諦です。私は儲かった、あの人は損をしたと考えるのです。こういう考え方が全部順逆になるのです。

 莫存とは、そういう考えをしてはいけないというのです。現前を本当に掴まえようと思ったら、また、一期一会を掴まえようと思ったら、損をしたとか得をしたとか、成敗利鈍を考えるなというのです。成敗利鈍をいちいち考えていたら、本当の命は掴まえられないと言っているのです。

 命が分かればいいのです。利害も得失もないのです。これを実行しますと、現世を出てしまえるのです。

 皆様は非常に合理的で、論理的に考えようとしているのです。非常に科学的な思考方式を持っているのです。こういう考え方の前に、まず解脱して頂きたい。そうすると、楽になるのです。解脱せずにこれをしていますと、順逆の世界に引きずり込まれて、これは良い、これは悪いという考えに掴まえられてしまうのです。こういう考え方をしていますと、労が多くて功が少なしになるのです。

 まず自分の考えを捨てることです。これをして頂きたいのです。


至道無難唯嫌揀擇

 信心銘の最初に、至道無難唯嫌揀擇(しどうぶなんゆいけんけんじゃく)とあります。この天地宇宙の中で本当の道は一つしかないのです。つまり、至りついた道、即ち、般若波羅蜜多は一つしかないのです。

 本当の般若波羅蜜多は一つしかないのです。仏教で言っているのは、仏教の般若波羅蜜多であって、これはまだ小さいのです。本当の般若波羅蜜多は全世界に通用するものでなければならないのです。

 至道は難しくないのです。難しいものだと思ったらいけないのです。これが至道無難です。唯嫌揀擇というのは、好き嫌いをしてはいけないということです。

 人間の悟りは一つしかない。その悟りを本当に得たいと思ったら、これは好きだ、これは嫌いだと言ってはいけないのです。

 自分の計らいを一切問題にしないで、鼻から息を出し入れしていることだけを考えなさいというのです。

 欲得現前というのは、鼻から息を出し入れしていることを知りたいと思ったら、順逆を考えてはいけないということです。


 聖書に次のようにあります。

 「イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。

 そこで、イエスは彼らに向かって言われた、『あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでも崩されずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう』」(マタイによる福音書24・1、2)。


 イエスの弟子はガリラヤの漁師が多かったので、人間的な常識で生きていたのです。この人々にイエスはいろいろと神のことを説明したのですが、エルサレムの神殿については何も言わなかったのです。

 当時、建築中の大神殿があったのです。その神殿に対して、イエスはどのような気持ちを持っているかを弟子たちは知りたかったのです。

 日本の神殿なら皆偶像です。日本には創造者としての誠の神がないのです。全知全能の神は日本にはありませんから、日本人に明治神宮を見せて何と思うかと言っても、何でもないのです。ただ明治天皇を祀っているだけのことです。国のシンボルとして祀っているだけのことです。命には関係がないことですから、どんな建物を造ろうと、異邦人の勝手です。

 ところが、ユダヤの場合はそうではないのです。ユダヤの神がイエスの神でなければならないのです。イエスの神がイスラエルの神でなければならないのです。そこで、神殿の神をどう考えるのかというような、難問に属するような質問をしたのです。

 現世の宗教を認めるということは、現世の文明を求めていることになるのです。弟子はイエスに対して、「あなたは目に見えない神がおいでになるということを言うけれど、一体、この世の文明が神殿という形で存在している人間文明を、どうお考えになるのですか」というような質問をしたのでしょう。

 これに対して、イエスは「建築物を良く見なさい。その石一つでも崩されずに、そこの石の上に残ることはないであろう」と言っているのです。

 イエスは皮肉な答え方をしているのです。今、目の前に立派な石造神殿があるが、これはやがて跡形もなく壊れてしまうと言っているのです。そうして、改めて、他の石によって、他の神殿が建てられると言っているのです。

 今のすべての文明は根底から全部潰されてしまう。目に見えるものも見えないものも、全部潰されてしまう。そうして、今石がある所に、新しい石が置かれるであろうと言っているのです。

 このことをご承知頂きたいのです。今、人間が造っている文明は死んだ人間が造っている文明です。死ぬに決まっている人間が造っている文明です。この世の道徳とか、しきたりとか、この世の生活の形は、すべて死んでいく人間が造ったものであり、死んでいくに決まっている人間が現在も造っているのです。

 現世に生きている人間は、現世に生きているように見えるのです。ところが、それは心臓が動いているだけであって、現世の人間はこの世に生きてはいますけれど、心臓が動いているということを知らないのです。自分の思いでこの世に生きているのです。

 人間の思いが人間になって現われているのです。人間の思いが文明になって現われているのです。ところが、人間の思いは命ではないのです。思いと命とは違うのです。

 本当の命というのは、心臓が動いているという事がらです。この心臓が動いているという実体的な事がらに基づかないで、自分が生きているという思いに基づいて生きているのです。

 例えば、皆様がお茶を飲んだ時、お茶の味を味わって飲んでいるのです。お茶の味を味わおうと思っていなくても、自然に味わえるのです。そうすると、味わいとは何かと言いますと、心臓が動いているのと同じ意味で、生まれる前の命が皆様の中に働いているということになるのです。

 目で物事を見るという視覚意識とか、味覚意識が皆様の中にあるのです。これは生まれる前からの命の延長です。

 生まれる前の命は死なない命です。まだ生まれていないのですから、死ぬはずがないのです。生まれる前の命が本当の命です。死なない命です。

 死なない命が肉体的な形になって、この世に現われたのです。これを魂というのです。ところが、肉体的に形になってこの世に生まれたことが業です。死なない命のままにしておいてくれたら、死ぬはずがないものを、肉体的な形でこの世に生まれたために、業の真ん中に放り込まれたのです。

 パウロは、「私は肉につける者であって、罪の下に売られた」と言っているのです(ローマ人への手紙7・14)。肉体的な形でこの世に生まれたことを、罪の下に売られたと言っているのです。これが人間の業です。

 肉体という条件でこの世に生まれた時に、人間は死ぬべき運命を背負わされたのです。霊魂は死にませんが、肉体は死ぬのです。

 肉体的な形でこの世に生まれてきたということは、死なねばならない条件で生まれてきたということです。死なねばならない条件で生まれてきた人間は、死なねばならない条件から抜け出す方法を考えなければならないのです。抜け出さなければ、死ぬに決まっているのです。

 今まで人間は六千年の間、死ぬに決まっている人間ばかりが文明を造ってきたのです。文明は死ぬに決まっている人間が造ってきたのです。だから、この文明は滅びるに決まっています。

 サミットと言って、世界七か国の国のリーダーが集まって話し合いをしていますが、滅びゆく文明を何とか滅びないようにと、遣り繰り算段しているのです。現世における遣り繰り算段ばかりであって、永遠に関する話し合いは全くしていないのです。

 こういう文明はやがて潰れるに決まっているのです。人間歴史が消えてしまうのです。

 このことをイエスは神殿に譬えているのです。ユダヤの神殿は文明のようなものであって、いかにも立派なもののように見えるのですが、内容は空っぽです。命が分かっていないからです。

 だから、今の文明は完全に潰れてしまって、ここに新しい文明が立ち上げられると言っているのです。これが千年のキリスト王国です。

 ユダヤ人は自分の力で、新しい文明を立ち上げようと考えているのです。マルクスの考えがそれだったのです。ワシントンのやり方とか、クレムリンのやり方は、新しい世界を人間の力で立てようとしているのです。


人盛んなる時は天に勝つ

 史記に、「人盛んなる時は天に勝つ、天定まって人に勝つ」という言葉があります。人間の勢いが良い時には、神なんかあるもんかと思うのです。人間の元気が良い時には、神なんかないと言って、横車を押してもまかり通るのです。

 天が正当な位置を獲得することになれば、人間は負けるに決まっているのです。

 今の文明は天に勝っている文明です。やがて、文明は天に負けるに決まっているのです。これをキリストの再臨と言います。

 人間の思いが石です。人間文明のシンボルが石です。「石の心を取り除き、肉の心を与える」という言葉がありますが(エゼキエル書36・26)、人間の常識は石の心です。石の心を持ったままで、イエスの命を掴まえようとしてもできないのです。だから、聞いた話は分かるけれど、どうも実感がないことになるのです。

 コップいっぱいに水が入っている所へ、新しい水を入れるようとしても入らないのです。コップの中の古い水を空っぽにしてから、新しい水を入れなければいけないのです。ところが、皆様は古い水を空っぽにすることに、なかなか賛成しないのです。

 死んでしまうに決まっている自分の常識が、どうしても重大に思えるのです。これをよく考えて頂きたいのです。病気とか、経済事情とかいろいろありますが、本当に自分が生きているということをはっきり見れば分かるのです。

 五十歳の方は五十年の間、いろいろな経験をしたと思うのです。ところが、人生の経験の仕方が、一期一会という仕方ではなかったのです。だから、皆無駄な人生経験になってしまっているのです。これは利益にならないで、却って、悪になっているのです。

 いろいろと楽しいことをしたと言われますが、それが全部、肉の記憶になっているのです。これがうるさいのです。自分の記憶は自分にしかない記憶です。記憶の正体が皆様の人生の正体です。

 どういう記憶が皆様の頭の中に残っているのかが、今までの皆様の霊魂の正体です。これを持ったままで死んだら、ひどいめにあうのです。記憶が皆様の霊魂を殺すのです。

 記憶が皆様を束縛しているのです。話は聞けば分かるが、受け取ることが難しいと言われるのです。誰がそういうのかと言いますと、皆様の記憶がそう言っているのです。

 皆様の記憶は皆様の思いです。皆様の思いが記憶になって残っているのです。これが皆様の地獄になるのです。

 地獄を引っくり返してしまうのです。このやり方が一期一会です。良心と仲良くするというのは、これをいうのです。良心と仲良くすると、今までの記憶をごそっと引っくり返せるのです。

 いろいろな記憶があるでしょう。今からでも遅くないですから、それを記憶し直すのです。例えば、ハイキングに行って空の青さを見たことがあるでしょう。ところが、その時の人生経験が薄っぺらであったために、空の青さが持っている生命的な価値が分からなかったのです。ただ空が青かったと思っただけです。

 空が青かったということは、神の栄光が青の色に現われていたのです。それを見ると、栄光がストレートに分かるのです。

 犬や猫は神の栄光が分かりません。第一、空を見ないのです。晴れであろうが、雨が降ろうが、関係がないのです。ただ腹が減っているかどうかだけです。

 人間には空の青さが分かるのです。空の青さとは何か。これは命の本源である神が皆様のハートにアピールしているのです。語っているのです。皆様のハートを刺激しているのです。どういう刺激かと言いますと、プロポーズという刺激です。これをしているのです。

 神は人間の魂に向かってプロポーズしているのです。空の青さを通して、花の美しさを通して、また、ご飯のおいしさを通して、牛肉のおいしさ、マグロのおいしさ、メロンのおいしさを通して、人の魂にプロポーズしているのです。神のプロポーズをさっと受け取って、「ああ有難い」と思える心を、無量寿、無量光というのです。その時に、無量光が輝いているのです。

 そこに仏があるのです。自分が仏になるのです。ところが、人間が青空を見ている、人間がご飯を食べているということだけですと、神の栄光を無視していることになるのです。その刑罰が地獄になって現われるのです。

 自分が納得しなくてもいいのです。自分の中にある霊魂に気が付けばいいのです。自分の思いによって考えると、大変難しいように感じるのです。霊魂で聞けば、難しいとは思わないのです。霊魂で聞くという訓練をしますと、非常に素直に聞けるのです。

 霊魂の素直さが女の本体です。ところが、今の女の人は女性になっているのです。創世記の二章二十三節に、「男から取ったものだから、これを女と名づけよう」とありますが、これは今の女性とは違うのです。

 今の女性はユダヤ文明が造ったもので、本当の女とは違うのです。神が造った女ではないのです。女の本当の姿が、男の霊魂です。

 男は女が好きで、好きでたまらないのです。実は、女が好きな人ほど、見込があるのです。女性が好きではない男性はだめです。

 とにかく、男は女性が好きです。なぜこんなに好きなのかと思うほど、女性が好きです。好きなはずです。男の一番良い所を取って女性にしたからです。男のハートが女性になっているのですから、好きでたまらないのは当たり前です。

 こういうことが日本の宗教では分からないのです。仏教でも分からないのです。本当の女の心になりきることができると、普通の人間が如来さんになれるのです。

 今の女はだめです。女性になっているからです。男が本当の女になる。女は元の女になるのです。そうすると、初めて、男でもない女でもない、本当の観自在菩薩になるのです。これが永遠の恋愛です。

 固有名詞の人間が頑張っている間はだめです。魂にならなければいけないのです。

 男は女に対して、考え違いをしていたということを反省しないといけないのです。女を知らなかったのです。女自身が女を知らないのですから、しょうがないのです。

 神殿の石が全く無くなってしまうのです。礎として据えてあった石までが無くなってしまうのです。そこへ全く別の石が持ってこられるのです。

 礎まで無くなってしまう地震は、余程の地震です。上の建物が潰れるような地震ならありますが、礎まで無くなるような大地震は今までには無かったのです。これから起きるのです。


文明は大崩壊する

 キリストの再臨は絶対に実現します。今の文明は大崩壊するのです。今まであったような地震ではないのです。関東大震災の何十倍の大地震が起きるのです。

 日本で私たちのようなグループが起こされたこと、また、皆様の中で神を見つけるという霊魂の目覚めが起きるようになりますと、日本だけは神の特別の恩恵に浴することになるでしょう。

 神は生きているのです。皆様の心臓が動いているように、神は現に生きているのです。生きているから掴まえたらいいのです。

 皆様は今までの人生の中で、命を経験していたのですが、命は死ぬいのちです。生とは死なない命をいうのです。この世の命は死ぬ命ですが、生という命は死なない命です。

 仏教では生死と言いますが、生は死なない命を指すのです。五十年間生きていた人は、実は五十年間、生を生きてきたのです。この命は死なないものです。

 例えば、花を活けるのと、ただ花瓶に突っ込んでおくのと、どう違うのかということです。これは華道の極意です。

 花はただ花瓶に突っ込んでおいても花ですが、それでは花の風格が出ないのです。花の風格と命を出すためには、花を活かさなければならないのです。

 花を活かさなければならないのであって、下手に活けると花を殺すことになるのです。花を活かすというのは、花が咲いている命を活かすのです。命が人間の心にアピールするように活かすのです。

 利休は、「浮かせるように、ごく自然に、花の命が感じられるように」と言っています。これが一期一会的に活け方です。

 花を見た瞬間に、はっと感じるのです。そうして、花をじっくり見ていると、その時、皆様の心が解脱する方法が分かるのです。

 花を見た時に、きれいだということは誰にでも分かるのです。きれいとはどういうことかを知るのです。花は活けられているが、生きているのです。生きているということをじっくり見るのです。

 目で花の命を見ているのです。花がきれいということは、死んでいないからきれいなのです。生きているからきれいなのです。

 きれいとか、おいしい、美しいというのは、命に対する形容詞です。マグロの刺身を食べてマグロの味がするということは、マグロの命がマグロの味になって感じられるのです。マグロの味はマグロの命の味です。

 花の色や形は、花の命の現われです。それを見ているのです。そこで、一期一会になるのです。花を見た時に、それを一期一会として見るのです。花をじっと見るのです。花の美しさを見ている自分の心に、花の命が映っているのです。

 花の美しさは花の命です。女の美しさは女の命です。それを見ていると、命が映ってくるのです。命が映ってくるのは、見ている自分が生きているからです。もし自分が生きていなかったら、美しさは分かりません。生きているから花の美しさが分かるのです。

 花の命と自分の命が一つになっている瞬間を感じるのです。その命は死なない命です。これが一期一会の捉え方です。

 神との交わりとは何か。どういうことが神との交わりになるのかということです。皆様は自分の心音を聞くような気持ちで、自分のリビングをじっと考えてみてください。

 自分はただ生きているのではなくて、定冠詞付のリビングを考えるのです。これが、ザ・リビングです。今ここに生きている。これを考えるのです。そうすると、分かるのです。

 皆様がこの世に生まれて来たのは、ザ・リビングを掴まえるためです。例えば、散歩をします。歩いているということは、生きていることです。歩いているという気持ちがあるのです。歩いているという実感があるのです。この実感は何かと言いますと、ザ・リビングの実物の実感です。

 私が歩いているのではないのです。他人から見れば、私が歩いているのですが、歩いているという事がらが私になって現われているだけです。この状態が魂です。

 私が生きているという事がらが魂です。私が生きているという事がらの実体が魂です。これをリビング・ソールというのです。この事がらの実体、実質はリビング・ゴッドです。

 リビング・ゴッドは原因の方です。リビング・ソールはそれを認識している方です。生きているということの実体はリビング・ゴッドです。

 皆様が生きているということは、それを知っていても知らなくても、神の実物をそのまま経験しているのです。ところが、人間が生きていると思っているから、全部無駄なことになるのです。もったいないことをしているのです。

 固有名詞の人間が生きていると考えると、せっかくのリビングが無駄になるのです。固有名詞の自分が生きているのではなくて、生きているという事がらが固有名詞の人間として現われているのです。


 人間として見れば、固有名詞の人間が生きているように見えるのですが、これも実はないのです。魂が現われているだけです。魂が肉体を持って現われているのです。固有名詞とは関係がないのです。

 正確に言えば、私はただ一つの魂であるだけです。人間が生きていると考えるのは、社会組織の習わしに過ぎないのです。国家構造の習わしとして、固有名詞の人間がいることになっているのです。

 実体的に言えば、固有名詞はあってもなくても同じことです。天皇も乞食も同じことです。問題はリビングの実体を掴まえることです。これが神です。

 私たちはリビングを経験しているのです。それを認識しているのです。自分が生きていると考えることは絶対にだめです。自分が生きていると考えることは、神のリビングを横取りしていることになるのです。横領しているのです。

 お金を盗んだら刑務所行きです。命を盗んだらどうなるのかということです。

 この世に生まれたのは自分の意志ではないのです。自分が生まれたいと思って生まれたのではありませんから、自分が生まれたのではないのです。

 自分と称する人間が生まれて来たという事実はありますが、これは自分が生まれたのではないのです。従って、生きているのは自分ではないと考えるのが当たり前です。

 自分ではないものを世間の人が自分と呼んでいると考えたらいいのです。世間の人が勝手に固有名詞で呼んでいるから、しょうがないのです。

 私が生きているのは、固有名詞の名前によって制限されるものではないのです。これが分かった人は、そのように生きて頂きたいのです。

 自分が生まれたのではありません。認識する能力があるものが、この世に生まれたのです。知ることができる力があるものが、この世に肉体を持って生まれたのです。肉体を持って生まれたということは、神が万物という形になってこの世に生きているのです。生きているということだけがあるのです。神が万物として、この世に生を現わしているのです。

 生が神です。リビングが神です。生が万物になって現われているのです。万物になって現われている生を魂が経験するために、この世に生まれて来たのです。

 この世で生活することが目的ではないのです。この世で生活してもいいのですが、何のために生活をするのかというと、生を見つけるために生活するのです。

 生きるということと、生活するということとは違うのです。生活は生きていることを経験していることです。生活というあり方によって、生きるということを経験しているのです。

 生きるとは何かと言いますと、花を見てきれいと思うことです。きれいとは何かというと、花の命を見ていることです。花を通して命を経験しているのです。

 お茶を飲んでいても、お茶を飲むということで命を経験しているのです。座っている時は座っている形で命を経験しているのです。

 見ていること、聞いていること、触っていること、味わっていることは命を経験していることです。これが神との交わりの連続です。神とずっと交際しているのです。


神の呼びかけ

 神が呼びかけているのです。「ああ自分は生きているのだ」と自覚することは、神の呼びかけに答えていることです。

 今、歩いている。今、食べている。今、飲んでいるという瞬間、瞬間はずっと神を生きているのです。リビングが神ですから、リビングを現実に経験しているということは、私が生きているのではなくて、神を生きているのです。

 天地を造った神、全知全能の神の実物が、今、命という格好で私と一緒にいるのです。全知全能の神が命という実体になって私と一緒にいるのですから、私たちは全知全能の神を掴まえることができるのです。もう掴まえているのです。このことを思うと、矢でも鉄砲でも持ってこいという気持ちになるのです。

 生きているという有難さが少しでも分かったら、それを逃したらだめです。トルストイが戯曲の中で「小鳥の足の爪が一本、網にかかったらもうだめだ」ということを書いていますが、これを逆に言いますと、命の網に人間の魂がほんの少しでもひっかかったら、しめたものだと考えたらいいのです。

 神が張り巡らしている命の網に、人間の魂の指が一本引っかかったら、もうしめたものだと考えるのです。

 ちょっとひっかかったら、それをたぐっていくのです。かすかな感覚だから、だめだと思ったらいけないのです。だめだと思わせるのは、悪魔の声です。自分の記憶がそう思わせるのです。記憶は魂の敵です。

 皆様の記憶が皆様の敵です。恐ろしい敵です。記憶のよい人間ほど、地獄に近いのです。

 神が人間創造の時に、鼻から命の息を吹き込んだとあります。命の息というのは、地球の命のことです。地球の表面を風が回っているのです。この風が命の波です。命のリズム、命の波長です。命波です。

 花が咲くのは命波があるからです。命波の働きがなければ花は咲きません。命波とは神です。リビングである神です。リビングである神が命の波として流れているのです。空気が動いているというのは、命の力が流れているのです。

 自分の鼻から息を出し入れしているということが、自分自身の命の波です。これが脳波です。脳波が外に流れている命波にアピールしているのです。脳波と命波との交わりが命の働きです。この働きの方向、その受け止め方を教えてくれるのが、神の言である聖書です。

 聖書はあってもなくてもいいのでが、神が分からない日本人には、聖書という形で文字に書いてもらわなければ分かりようがないのです。だから、神がわざわざ聖書という形で、命の受け取り方を教えてくれているのです。

 本当の信仰は文学には関係がないのです。聖書はあってもなくてもいいのです。それなら、聖書を勉強しなくても良いのではないかという人がいますが、これがいけないのです。人の言葉の揚げ足をとって、自分の都合の良いように解釈するからです。

 だから、皆様にはまず聖書は絶対であると言った方がいいのです。聖書を軽んじる人は、生ける神を見つけることはできないのです。

 聖書以外の宗教、例えば、イスラム教であろうと、仏教であろうと、天理教、PL教団でも、実は聖書を掴まえるための足台になるだけです。すべての宗教は聖書に到達するための足場になるのです。

 これは宗教だけではありません。茶道、華道、作法、医学の問題、歴史の流れ、あらゆる学問、習慣、伝統はすべて、聖書を掴まえるための足場になるのです。

 聖書を掴まえなければ、今心臓が動いていることが神の本物だということが絶対に分からないのです。神の本物を知るためには、神の命の波を掴まえて頂かなければならないのです。

 皆様の物の考え方には、根本的な欠陥があるのです。欠陥がある状態では、自由自在に神を掴まえることはできないのです。

 復活の命を掴まえることが重要ですが、その前に準備をする必要があるのです。復活の命は今生きている命ではないのです。もう一つ次元が高い命です。この命を皆様に掴まえて頂きたいのです。今生きている命の扱い方をまず知って頂きたいのです。

 その次に、永遠の命を知って頂きたいのです。復活したキリストが何処にどうしているのかということです。

 そのキリストがやがて地球上に降りてくるという世界歴史の展望があるのです。ユダヤ人問題がどのように解決されるのか、また、地球歴史の終わりについてお話ししたいのです。

 まず皆様の考え方の欠陥をご承知頂きたいのです。花を咲かせいているのは神の命によるのです。花が咲いている命が感じられなければいけないのです。花と一つになるような感覚で生きていなければいけないのです。これを本当の一期一会というのです。

 今、生きていることの瞬間は、神と自分は一つです。神の心と自分の心が一つになるのです。これ以外の状態ではだめです。

 心が一つになるのは、恋の他にはないのです。尊敬くらいではだめです。仲良しくらいでもだめです。ただ好意を持っているくらいではだめです。恋愛にならないとだめです。恋愛になると初めて、二つの心がぴたっと一つになるのです。


御霊を受ける

 これがアガペーという愛です。このアガペーを経験しようと思ったら、神と一つになるような恋愛状態にならなければいけないのです。これを御霊を受けるというのです。

 キリスト教では御霊を受けるということを、厳密に実行していないのです。厳密に実行しないから、生きている神を生きている神として扱うことができないのです。だから、神を観念の遊戯としてしか扱えないのです。

 御霊を受けると皆様の心の用い方が、がらっと変わってしまうのです。心の用い方の要領が分かるのです。神の御霊は地球を動かしている力です。地球を自転公転させている力です。花を咲かせている力です。この力が具体的に皆様の中に入ってくるのです。そうすると、理解したことが実行できるようになるのです。

 皆様は自分の心を自由に変えることができないのです。原罪によって、ぎゅっと心を掴まえられているからです。自分の意志によって、自分の心を転換することができないのです。私はそれができるのです。自分の気持ちを自分で方向転換するというのはすばらしい力ですが、この力を働かせるためには、地球の力を持ってこないとためです。自分がいくら頑張ってもだめです。

 これは連合艦隊が右翼旋回するくらいのこととは違います。連合艦隊の右翼旋回くらいのことなら、連合長官の命令で動きますが、人間の魂の方向転換は、人間の意志ではできないのです。

 皆様の思想は皆様の頭では動きません。神の頭を持ってくるのです。神の御霊を皆様の魂に持ち込むのです。そのためには、どうしても聖書がいるのです。

 神の御霊と、神の命を皆様の魂に流し込むことを、私は神から命じられているのです。

 カルマとは原罪です。業(ごう)です。皆様の業が神の命に抵抗しているのです。だから、地球の命が皆様の中へストレートに入っていかないのです。

 花を見ていながら、花の命が分からないのです。そのためには、皆様の精神状態を外科治療しなければならないのです。内科治療だけではだめです。外科手術をしなければならないのです。

 そのためには、地球が生きている本家本元の神の命、神の思想が必要です。神の御霊は思想であり、力です。思想と力が一つになって命になるのです。

 思想は光です。力は命です。無量光と無量寿が一つになるのです。思想が光になるのです。地球は自転公転していますから、風が必ず起こるのです。どんなに閉め切った部屋でも風があるのです。風が全くない部屋はありません。

 風が万物を生かす力になっているのです。この風が鼻から体の中へ入り込んでいるのです。皆様の体の中へ神の風が入り込んでいるのです。

 鼻から息を出し入れしているのは、神の御霊の力です。呼吸機能と外にある御霊の風が一つになっているのです。これが分かると、死なないということが分かるのです。これはどうしても経験して頂きたいのです。

 これは世間並の宗教では絶対に経験できません。これは行と言えるかもしれません。しかし、これはしなければならないことです。

 このためには、神がどういう目的で地球を造ったのか、地球があるのはどういうことなのか、太陽があることと、人間の霊魂とがどういう関係にあるのかということを勉強しなければならないのです。

 花は太陽光線によって咲いているのですが、人間の命も太陽光線によって咲くのです。これがどういう関係になっているのかということを考える必要があるのです。

 皆様が本当に神の中に溶け込もうとお考えになるなら、肉体を持っていることについて考え直さなければいけないのです。

 人間が肉体を持っているということを鵜呑みにしていますとだめです。神は霊ですから、肉体を持っているという意識では霊なる神は掴まえられません。

 肉体は実はないのです。あると人間が思っているだけです。色即是空というように、肉体はないのです。肉体がないことを認識しようと思うと、水のバプテスマか必要になるのです。洗礼を受けて頂きたいのです。

 洗礼はキリスト教の儀式ではないのです。イエスがしなければならないとはっきり言っているのです。イエス自身が洗礼を受けているのです。

 イエスは宗教家ではありませんし、宗教信者でもなかったのです。私も宗教信者ではありません。しかし、肉体を持っている者は、水によって体を洗ってしまわなければいけないのです。これが洗礼です。

 これは天地創造ということを勉強すれば分かるのです。

 イエスが、「幼子のようになりなさい」と言っていますが、これはどうすることか。大の大人が幼子のようになるということは、一つの方法しかないのです。

 この一つの方法が発見できた人は、よほど幸いな人です。キリスト教に熱中している人にはとてもできません。宗教に熱中するという気持ちが間違っているのです。

 宗教というのは教義を勉強するのです。日蓮宗なら日蓮宗の教義、浄土宗なら浄土宗の教義、キリスト教ならキリスト教の教義を勉強するのです。教義を教えるのが宗教です。

 禅のあり方についての説明をする宗教がありますが、これを聞きますと、般若心経の本当の勉強ができないのです。

 例えば、五蘊皆空という言葉、また、色即是空という言葉を徹底的に解明するということは、禅の研究をしているとできないのです。

 禅の勉強をした人は本当の意味での仏典の勉強はできないのです。禅宗のアイデアの勉強はできます。禅宗の教義、やり方の勉強になってしまうのです。

 キリスト教の場合には、それが甚だしいのです。イエス・キリストを信じると救われると言いますと。これはキリスト教の教義です。言葉としては間違っていませんが、第一にキリストとはどういうものかが分からないのです。その次に信じるとはどうすることなのか、これも分からないのです。

 キリスト教会はキリストを信じると救われるという概念を教えるのです。これが教義です。神学校では教義ばかりを教えているのです。こういう勉強を何十年してもだめです。神の実体、命の実体については全く教えないのです。

 教義を信じて死んだ人は、後でひどいめにあうことになるのです。

 イエスは、「あなたがたは聖書にとこしえの命があると思って、聖書を調べている。ところが、聖書は私のことを書いている」と言っているのです。これが分からないのです。

 聖書は直接的にはイエスのことを指すのですが、間接的には皆様方の赤裸々な命について書いているのです。

 皆様の命の状態がそのままイエスです。山田太郎という固有名詞の人間は、神の前には全く存在していないのです。神の前に存在しているのは赤裸々な人だけです。いま、何歳であるとか、何処で生まれたとか、どういう経歴があるのかということは、全く関係がないのです。

 人間の霊魂が赤裸々な人間です。これは加藤さんも木村さんも同じです。七十六億の人類共通のものが霊魂です。


 パウロは述べています。

 「また、一人の人からあらゆる民族を造りだして、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである」(使徒行伝17・26)。


 一人の人からすべての人間を造ったのです。一人の人から全人類を造ったのです。

 一人の人とはどういう意味かということが、宗教では全く分からないのです。人類全体は目的なしに生きているのです。ばかなことです。皆様は目的を持っているのでしょうか。何のために生きているのでしょうか。何のために結婚したのでしょうか。何のために家庭があるのでしょうか。

 皆様は固有名詞の自分があると思っているでしょう。そんなものはないのです。社会通念としてはあります。日本国は皆様の固有名詞を認めています。役所の戸籍台帳には皆様の固有名詞が登録されているのです。これは現世における社会現象であって、皆様の霊魂の実体を意味するものではないのです。

 固有名詞の人間を神は全然問題にしていないのです。皆様自身が問題にしているだけです。固有名詞の人間の感覚、感情は、自分しか通用しないのです。親にも兄弟にも、配偶者にも通用しないのです。本人だけしか通用しないのです。本人だけしか通用しないということは、公的にはそういう人間は存在していないということです。

 皆様一人ひとりの自我意識というものは、皆様自身だけしか通用しないのです。こういうものが死んでからも通用すると思うのでしょうか。通用すると思っているなら、よほどめでたい人間だと言わなければならないのです。


 イエスは言っています。

 「私に向かって、『主よ、主よ』という者が、皆天国にいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが入るのである」(マタイによる福音書7・21)。


 これをキリスト教の人々は何と思っているのでしょうか。神はキリスト教の信者を一人も問題にしていないのです。神は一人の人からあらゆる民族を造り出したと言っていますが、この一人の人とは誰のことでしょうか。これは名前のない人、名無しの権兵衛のことです。


人の子

 イエスは自分のことを人の子と言っています。人の子という言い方さえもキリスト教の人々には分からないのです。イエスはなぜ人の子と言ったのか。人の子とはどういう意味なのか。もう分からないのです。これが一人の人を意味するのです。

 人の子というのは、名前のない人間のことをいうのです。固有名詞を持たない人間ということです。固有名詞を持たない人間ですと、加藤さんでも、伊藤さんでも、山田さんでも同じことになるのです。

 固有名詞の家庭とか家族とか、経歴、経験とかに関係はない。五官と生理機能、心理機能で生きているのが人間です。

 砂糖をなめて甘いと思うのが人間であって、固有名詞には関係ありません。五官の感覚だけが人間です。これをよくご承知頂きたいのです。

 これが分からなければ、神を信じるということはできるはずがないのです。神が相手にしているのは、砂糖をなめて甘いという感覚です。花を見たら美しいと思う感覚です。

 神は固有名詞の人間を相手にしていないのです。天然自然の自分に帰って頂きたいのです。おのずからの自分に帰るのです。生まれたての赤ん坊の自分に帰ることです。

 おのずからと言うことが人間の実体です。自分をおのずからの分と読んだら、人間存在の原点になるのですが、現在の人間は自分をみずからの分と読んでしまうのです。みずからと読んでしまうと、一人ひとりの人間、七十六億の人間がいることになるのです。

 みずからという自分はいないのです。一人の人からすべての人を造ったというのは、一人から七十六億の人間ができたということではないのです。おのずからという人間だけしかいないのです。


 イザヤは次のように言っています。

 「この民に行って言え、

 あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。

 見るには見るが、決して認めない。

 この民の心は鈍くなり、

 その耳は聞こえにくく、

 その目は閉じている。

 それは、彼らが目で見ず、

 耳で聞かず、

 心で悟らず、悔い改めて

 癒されることがないためである」(イザヤ書6・9、10)。


 人間は見ていますが、本体が見えていないのです。花を見て美しいとは思いますが、その実体が分かっていないのです。

 今の人間には般若心経の思想が定着していないのです。なぜかと言いますと、固有名詞の人間が生きていると、固く思っているからです。

 現在の文明では、固有名詞の人間が絶対的な権威を持っているのです。これはからくりの文明です。ユダヤ人がそういうからくりをしているのです。ヘブライズムを捨てて、ヘレニズムを顕揚する形で、古代文明の復興を計ったのです。

 ユダヤ人が掟を行っても、行ってもさっぱり反応がない。いくら掟を行っても神が良しとしないのです。神が良しと言わない証拠に、いくら掟を行っても心に平安がないのです。心にやすらぎが与えられないのです。そうして、とうとうユダヤ人がやけを起こしたのです。

 そこで、ヘブライズムを捨てて、ヘレニズムを担ぎ出したのです。これがルネッサンスです。建築、絵画、彫刻、音楽などに凝りだしたのです。こういうものをアピールすることによって、肉体的に存在している個々の人間が実存するように言いふらし始めたのです。これが自由という思想の始まりです。人権思想の始まりです。

 こういう思想に踊らされて世界中の知識階級の人々が熱中したのです。学問というものを造り出したのです。学問は神の前には、一切通用しないものです。

 学問とは何でしょうか。学理学説とは何でしょうか。これはぴんからきりまで皆概念です。概念、概念と概念を積み重ねたのです。実体は一つもないのです。

 皆様には哲理的な思考方式が必要です。自分自身の存在を哲理的に認識することです。

 個人というものはいないのです。全人類は一人しかいないのです。一人の人から全人類を造った。歴史的な展開から見ればそういう言い方もできますが、実質的に言いますと、人類は一人しかいないのです。

 世界中の人間は全部、砂糖をなめたら甘いと思います。塩をなめたら辛いと思うのです。人間の五官は人類共通です。かつて私は世界一周を二回して、いろいろな国で多くの人と出会い、世界中の料理を食べて来ました。そうして、人類全体の五官は一つであることを、はっきり実感したのです。

 砂糖をなめて甘いと思うのは、人類共通の感覚を言っているのであって、一人の人から一人の人しか造られていないのです。全人類という言い方、諸民族という言い方は文明的な、文化的な感覚で見た言い方です。

 文明、文化の感覚は全部、人間の肉の思いです。こういう考え方をやめて、ただ自分が生きている、生かされている状態、生きている生態、生きているコンディションを見たら、これが霊だということが分かるのです。


人間は一人しかいない

 人間が生きているコンディションが霊です。霊的に人間を見ますと、一人しかいないのです。

 一人というのは一つの血を意味するのです。一つの血というのは、一つの魂が働く状態を指しているのです。明治時代に永井直治氏によって翻訳された新契約聖書によりますと、「一つの血からすべての人を造った」と訳しているのです。

 血というのは肉体を意味しないのです。生きている状態を意味するのです。生きている状態というのは、魂のことです。一つの魂が地球全体に展開していると言っているのです。一つの魂が地球の全面に展開しているのです。

 いろいろな国があって、いろいろな民族ができているのです。民族とか国家の淵源を辿っていけば、神が分かるようになっていると言っているのです。

 こういう考え方はキリスト教では通用しないのです。しかし、聖書はそう言っているのです。聖書とキリスト教とでは意見が違うのです。

 キリスト教では、2019年現在で、世界に76億の人間がいると考えているのです。日本には、1億2500万人の人がいると考えるのです。ところが、聖書は一人の人しかいないと言っているのです。

 人間には鼻から息を出し入れしていることがあるだけです。これは私も皆様も同じことです。目が見えることは、私も皆様も同じことです。

 一人の命が地球の全面に展開していると言っているのです。だから、国の歴史、民俗の歴史をよくよく調べると、そこには一人の命があるだけであって、神が分かるに決まっているとパウロは考えているのです。

 私は現在、神を経験していますけれど、皆様も経験できるに決まっているのです。経験しなければならないのです。

 イエスはそう考えていました。イエスは「私はキリストだ」と言いました。全人類を代表する人格だとイエスは考えたのです。私もそのように考えているのです。これは無茶でも乱暴でもないのです。人間の本質、本性を弁えて考えれば、イエスと同じことが言えるのです。

 聖書は私のことを書いているとイエスが言いましたが、私の立場から言えば、私のことを書いているのです。皆様の立場から言えば、皆様一人ひとりのことを書いているのです。

 イエスという人は丸裸の人間です。丸裸の私が丸裸のイエスを認識していることは、全然間違っていないのです。これをキリストを証しする、イエスを証しするというのです。

 イエスの証しは預言の霊であると言っています(ヨハネの黙示録19・10)、イエスの証しをするのは預言の霊です。固有名詞はイエスを証しすることはできないのです。

 キリスト教の信者も牧師も、固有名詞の人間で生きていますから、固有名詞で証ししているのです。この証しはイエスの証しになっていないのです。

 皆様は固有名詞の自分を信じるという悪い癖をやめて頂きたいのです。日本人であると考える自分、先祖代々の親から生まれた自分を自分だと考えることをやめて頂きたいのです。

 肉体の親と魂とは何の関係もありません。全く別のものです。兄弟とも関係がないのです。ざっくばらんに言えば、こういうことになるのです。

 固有名詞の人間を神は一切認めていません。神か認めているのは魂だけです。魂というのは、五官が働いていることです。生理機能が働いていることだけです。これが皆様の原形です。

 三十年生きていた、五十年生きていたという事実は何処にもありません。人間は毎日新しく生きているのです。新しく生きて新しい経験をしているのであって、昨日の自分には関係がないのです。

 朝、仕事をするにしても、新しい気持ちで始めているのです。清純な意味での恋愛を経験している方は、何回会っても、いつも新しい気持ちになっているのです。会うたびに新鮮な感覚を味わうに決まっているのです。

 人間の命の実体は毎日、毎日新しいのです。皆様の肉体の状態、また、心理状態は毎日、違っているのです。生理状態も、心理状態も、毎日、新しくなっているのです。

 時の流れと同時に、肉体も流れているのです。五十歳という年齢はないのです。人間の肉の思いでそう考えているだけです。

 イエスは「明日のことを思い煩うな」と言っています(マタイによる福音書6・34)。今日のことは今日で終わりです。命とはそういうものです。明日のことを思い煩わないという経験を、キリスト教の指導者はしていないのです。

 古い人間が生きているのです。二十年前も、十年前も、昨年も、今年も同じ人間が生きていると思っているのです。これがいけないのです。毎日、毎日、新しくなっていなければいけないのです。

 幼子というのは毎日、毎日、新しい気持ちで生きているのです。古ぼけた人間とは違います。年齢がないのです。職業も固有名詞もないのです。立場もないのです。

 誰にでも通用する、何処にでも通用する気持ちで生きているのが幼子です。イエスはこういう気持ちで生きていたのです。

 幼子になるというのは、今生まれた嬰児になることです。毎日、毎日、新しい命を経験するのです。イエスは自分のことを嬰児と言っています。こういう気持ちにならなければ、神の前に立つことはできないのです。

 神はいつでも新しいのです。瞬間、瞬間、新しいのです。「わが前に歩みて全かれ」と神が命令しているのです(創世記17・1)。この神の命令を実行するためには、皆様は昨日の自分を忘れて頂きたいのです。

 人間の理性的な働きは、過去があって現在があるのです。しかし、人間の魂の状態は、生きているそのことであって、いつも新しいのです。

 昨日がなければ生きていられない人間は、知性的な継続性です。ところが、命はいつでも新しいのです。この内面性があるのです。


からし種の信仰を持つ

 イエスは次のように言っています。

 「使徒たちは主に、『私たちの信仰を増してください』と言った。そこで、主が言われた、『もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、抜け出して海に植われと言ったとしても、その言葉どおりになるであろう』」(ルカによる福音書17・5、6)。


 からし種の信仰とは何かです。弟子たちは信仰の量を増し加えてくださいとイエスに言ったのです。イエスは増し加えるとか加えないと言うよりも、信仰の実体はからし種のようなものであると言っているのです。

 からし種というのは、最も小さいものです。芥子粒のようなものです。芥子粒一粒の信仰があれば、この桑の木に海に植われと言っても、そのとおりになるであろうと言っているのです。

 キリスト教ではこの意味がさっぱり分からないのです。イエスは何を言いたかったのでしょうか。

 般若心経は五蘊皆空と言っています。人間が生きている世界と意識している世界、目で見ている世界と心で意識している世界は、五蘊だと言っているのです。これを聖書で言いますと、肉の思いになるのです。

 肉の思いというのは幻覚です。人間の常識、知識、学理学説は、幻覚です。いくら熱心に勉強しても、人間の意識状態が五蘊ですから、だめです。

 無眼界乃至無意識界と般若心経にあります。人間が見ている世界と意識している世界はないと言っているのです。人間の思いは肉の思いです。パウロは肉の思いは死であると言っているのです。

 肉体的に人間を意識しているのは幻覚です。これを乗り越えて、本当に霊の思いが分かる人は、めったにいないのです。本当にイエス・キリストの復活に与る人はめったにいません。

 固有名詞の人間が救われると思ったら大間違いです。皆様の霊魂が救われるのです。人間の経験を神が認めていないのです。

 神はアブラムに、「汝わが前に歩みて全かれ」と言っています(創世記17・1)。神の前に歩むためには、人間の一切の常識を棚上げにしてしまうことが必要です。古き人を脱ぎ捨てるのです。

 古き人を脱ぎ捨てて、新に生まれて神の前に歩むことです。これをイエスやパウロは何回も言っているのですが、これをキリスト教では実行していないのです。自分自身を捨てて、新に生まれて神の前に歩むのですが、神の前とは何処かがキリスト教では分からないのです。神の前ということを正確に認識していないのです。こんなことで、聖書の勉強ができるはずがないのです。

 キリスト教は間違っています。神とイエスを正しく教えていないのです。ただ一つの長所は、聖書を今まで温存してきたことです。これ以外に、キリスト教の良い点は全くないのです。聖書の内容を改竄せずに伝えてきたという功績はありますが、それ以外の功績は何もないのです。

 人間が肉体的に生きているという感覚が五蘊です。目で見ているものが実体であると思うことが間違っているのです。

 イエスは、「おまえたちは見ていると思っているが、本当の意味で見ているのではない」と言っているのです。皆様が見ているのは、肉の目で見ているのであって、肉眼で見るのと霊眼で見るのとでは違っているのです。

 肉眼で見る女と、霊で見る女とでは、全然違っています。人間の常識、知識は全部幻覚です。皆様が生活している感覚が幻覚です。

 人間の思いは間違いではなくて幻の思いです。幻覚です。人間は非常に高度な記憶喪失にかかっているのです。

 皆様は生まれる前に神と一緒にいた前世を、すっかり忘れているのです。皆様の視覚は生まれる前に養成されていたのです。聴覚もそのとおりです。皆様の五官の感覚というのは、生まれる前に与えられていたのです。その証拠に、生まれたばかり赤ちゃんは、すぐに五官を働かせているのです。

 ドイツ観念論に、ア・プリオリという言葉があります。これは先験的という意味ですが、ア・プリオリという言葉を使っていながら、そのことを理解していないのです。

 先験というのは、生まれる前に経験していたことです。人間の五官は先験的なものであって、生まれる前に経験していたものです。こういう言葉がドイツ観念論にありながら、生まれる前がどういうものか分からないのです。

 人間は愚かなものです。カントは哲学界の大御所のように言われていますが、その程度のものです。全くひどいものです。

 デカルトはもっとひどいのです。「我思う故に我あり」ということが、第一原理のように言われていますが、これは全くの間違いです。どの哲学者も皆いい加減なことばかりを言って誤魔化しているのです。だから、人間の五蘊は全くの幻覚です。

 ア・プリオリという言葉を使っていながら、何のことか説明ができないのです。現世で通用する大学の先生とか、評論家は皆だめです。だから、この世の先生に習うことをやめて頂きたいのです。

 この世の学問や常識を尊んでいる人間は、幼子にはなれません。幼子になれない人は、神の前に出ることはできないのです。だから、生まれる前の命が分からないのです。

 生まれる前には、アダムという人間は一人しかいなかったのです。一人の人から、すべての人間を造ったというのは、アダムのことを言っているのです。アダムからすべての人間ができたと言っているのです。


第一のアダムと第二のアダム

 人間の人数は増えていますが、質的に言えば、皆アダムばかりです。イエスのことを第二のアダムと言っていますが、第一のアダムと第二のアダムがいるのです。

 アダムが現世で生活を始めたのは、約六千年前です。イエスが生まれたのは、今から約二千年前です。第一のアダムは前世の人間です。第二のアダムは現世の人間です。四千年も経過しても、人間は一人です。

 アダムがしたことは全人類がしたことです。イエスがしたこともまた、全人類がしたことです。アダムが第一、イエスが第二です。同じ人間が二回現われているのです。

 日本人はキリスト教には関係がないとか、聖書に関係がないと言いますが、日本人の常識は全く薄っぺらなものです。こんなものに捉われないで、人間の原点に立って考えればいいのです。

 人間がこの世に生まれる前から現世に到るまで、人間は一人しかいないのです。おのずからの人間は一人しかいないと言っているのです。

 五蘊皆空というのは、人間の常識は全部幻覚だと言っているのです。人間の常識、知識を全部捨ててしまいますと、人間は一人しかいないことが分かるのです。

 世界中の人間の味覚は同じです。視覚も聴覚も同じです。世界中の人間の五官は同じです。ですから、人間は一種類しかいないのです。

 現世に生きている人間は目的を持っていないのです。個人も、民族も、国も、目的を持っていないのです。目的を持って生きている人間は、一人もいないのです。

 現世における目的はあるでしょう。家を建てるとか、貯金をするとか、不動産を買うという目的はあるでしょう。子供を有名大学へ入学させたいという目的はあるでしょう。これは生活目標であって、人生の目的ではないのです。

 何のために生きているのか。死んだ後にまで続く永遠の目的が人生の目的ですが、これを持っている人は一人もいないのです。

 私は目的を持っています。死なない命を得る、永遠の生命を得て、神のヘルパーとして永遠に働くという目的を持っています。これはイエスが持っていた目的です。私とイエスは同じ目的を持っているのです。

 だから、イエスが到達したことが、私も到達すると願っているのです。これをキリストを信じるというのです。私はイエスと同じ本質を持っていますから、イエスが行った所へ私も行くに決まっているのです。

 人間の目的は宇宙の目的と同じ目的でなければならないのです。太陽系宇宙が造られたということが、イエスが地上に現われた目的です。

 創世と創人とは同じものです。神が天地を造ったということと、人を造ったということは同じです。

 皆様は太陽系宇宙が造られたということのために、この世に生まれてきたのです。個々の人間の生活をするためと思い込んで、どうしてもそういう生活を捨てることができない人はいるでしょう。こういう人は非常に多いのです。

 太陽系宇宙というのは、大宇宙における特殊現象です。約百五十億年前に、宇宙に大爆発が起きた。そうして、太陽系宇宙もできたのですが、これは宇宙のあちこちにあるものではないのです。

 現在の太陽系宇宙というのは、特殊な宇宙であって、大宇宙から考えますと、一つの異常現象です。アブノーマルな現象です。あるべき道理のないものが現われたのです。

 しかも、地球には森羅万象という不思議なものが満ちているのです。花が咲いているのです。鳥が鳴いているのです。魚が泳いでいるのです。牛や豚が肥っていくのです。こういう不思議な惑星が他にあるのでしょうか。

 大宇宙広しと言えども、こういう不思議な惑星は他にはないのです。中国の詩人杜甫が、「造化神秀をあつめて」という詩を書いています。造化は神秀を現わしていると言っています。

 神秀は特殊現象のことです。一般的なものとは違うのです。あちらもある、こちらにもあるということではないのです。特殊な現象です。

 地球が創造されたのは特殊現象であって、その中で最も不思議なものは人間が創造されたということです。人間という妙なものが造られたのです。甘い辛いを弁えている。真、善、美を弁えている。惚れたり惚れられたりしているのです。嘘を言ったり、言われたり、儲けようと思って儲けられたりしているのです。人間はこういう妙なことをしているのです。

 大体、人間がこの地球上にいることが奇跡です。日本には2019年現在で、1億2500万人の国民がいますが、1億2500万の奇跡があるのです。全くの奇跡です。

 砂糖を舐めて甘いと意識することがおかしいのです。味覚を自分で実感できるのです。これは神の天地創造の原理が分かっていることです。天地創造の原理が分からなければ、砂糖の味が分かるはずがないのです。

 皆様の五官というものは、太陽系宇宙が造られたことに関するすばらしい秘密を知っているのです。神の実物が分かってきて、神の実物を知りますと、五官は神を認識する機能としてできていることが分かるのです。これは大変なことです。


アイ・アム・イン・ザ・ファーザー

 イエスはこれを知っているのです。イエスはアイ・アム・イン・ザ・ファーザー(I am in the father.)と言っています。イン・ザ・ファーザーということが、アイ・アムであると言っているのです。私は父の内にいると訳していますが、この訳は正しいとは言えないのです。父の内にいることが私だと言っているのです。父の内に生きていることが私だと言っているのです。

 私が今ここにいることが、父の内にいることです。

 人間はこの世で生活するために生まれてきたのではない。命の実体を掴まえることが目的です。これを掴まえたら、イエスが人生目的を持っていたように、皆様も人生目的を持つことができるのです。そうして、アイ・アム・イン・ザ・ファーザーと言えるのです。

 イエスが人生目的を貫徹したことによって、すべての人に目的を与えることができたのです。イエスが持っていた目的以外に、人間の目的は何処にもありません。

 固有名詞の人間は目的を持っていない存在です。このことを良く考えて頂きたいのです。

 日本は目的を持っていない国です。日本という国があること、自分という人間がいることは、どうでもいいのです。問題は地球があること、太陽があることは何かということです。

 太陽が地球を愛していること、太陽と地球の愛の関係によって、どんどん命を産みだしているのです。この地球現象が永遠の生命をはっきり現わしているのです。

 皆様は花が咲いているのが見えるのですから、花が咲いている世界に入ったらいいのです。花が咲いているのが永遠の世界です。ここへ入るのです。自分のために生きていても仕方がないのです。

 私の話は幼子なら分かるでしょう。幼子は自分を持っていません。ただ生かされているように生きているだけです。幼子の生き方をしますと、初めて、神が分かってくるのです。

 神とは何か。心臓が動いていること、目が見えるということが神です。これが分かると、イエスのようにアイ・アム・イン・ザ・ファーザーという実感が持てるのです。

 父の内にいることが、自分が生きているという実感によって証明できるのです。皆様の命が神そのものです。目が見えることが神そのものです。これは阿弥陀如来という言い方もできるのです。

 阿弥陀如来とは無量寿、無量光のことです。人の中に無限の命と無限の知恵があるのです。これが阿弥陀如来です。

 念仏申すのではなくて、阿弥陀如来になったらいいのです。そうしたら、イエスが分かるのです。イエスと阿弥陀如来とは同じことです。

 仏教とかキリスト教があると思うからややこしいのです。般若心経と聖書があればいいのです。

 イエスが「もしからし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、抜け出して海に植われと言ったら、その言葉どおりになる」と言っています。これは何を言っているのかということです。

 桑の木はどういうものか言いますと、桑の木の根はしっかりと地面を抱いているのです。これを抜くというのは大変なことです。大地にしがみついているものが、桑の木です。これを抜く苦労は、実際にした人でないと分からないのです。

 桑の木はイスラエルでは無花果(いちじく)と言います。イスラエルの無花果は日本では桑の木になるようです。

 桑の木というのはユダヤ人の譬にもなるのですが、人間の古き人、原罪というものが桑の木です。この世に生まれてこの世に育った肉の思いというものが、肉をしっかりと抱いているのです。根がしっかりと大地を抱いているのです。死んでしまうに決まっている命を、自分で抱きしめているのです。

 自分の思いは間違っていない。私の命は私のものだと考えているのです。自分の世帯とか、自分の名誉、自分の命、財産にしがみついているのです。これが桑の木です。

 皆様方の性根は桑の根です。肉のこの世をしっかりと抱いているのです。自分の妻がいる、自分の子供がいる。自分の経験、自分の能力、自分の立場、自分の意見をしっかり抱いている。これが唯一無二の自分の命だと思い込んでいるのです。これが死んでいく人間の特長です。

 人間は瞬間、瞬間しか生きていないのです。四十年、五十年と生きていると思っているから、桑の根になるのです。四十年、五十年の人生というものはないのです。毎日、毎日、生きているだけです。毎日、毎日、新しい命を経験しているだけであって、五年前の自分、十年前の自分がいたと思うのが間違っているのです。

 妻に対する自分の気持ち、人に対する自分の気持ちを、すっかり捨ててしまわなかったら、とこしえの命を掴むことができないのです。

 そこで、からし種一粒の信仰が必要です。からし種の信仰さえあれば、桑の木が抜け出して海に植わることができるのです。

 からし種の信仰とは何かと言いますと、私が神について色々話していますが、その神についてほんの少し分かればいいのです。これをからし種というのです。

 自分は考え違いをしていた。本当の神はそういうものかと少し分かったらいいのです。

 イエスは神を信じていなかったのです。イエスの目が見えることが父でした。イエスの心臓が動いていることが、父なる神です。これをイエスは良く知っていたのです。

 イエスと同じように皆様の目は見ているのです。皆様はイエスが証をした神と同じ神を経験しているのです。これが分かったということが、神が少しだけ分かったのです。

 少しだけ分かった神をしっかり掴まえて、これを拡大するのです。これをマグニファイ(magnify)するというのです。拡大し、強化するのです。少しだけ分かった神をぐんぐんと広げるのです。

 これができたら、必ず救われるのです。少し神が分かったら、それを毎日、毎日、確認し、拡大するのです。そうして、実行するのです。これを神を崇めるというのです。これがマグニファイです。

 キリスト教では神を崇めると言いますが、これが分からないのです。目が見えること、耳が聞こえること、文章が理解できることが、皆神です。人間は神ばかりの中に生きているのです。リンゴの味、バナナの味、牛肉の味、魚の味が神です。生理機能、心理機能が働いていることが神です。

 皆様は神の中に生きているのです。この神が少しだけ分かったら、これをぐんぐんと拡大するのです。そうすると、生ける神がありありと分かってくるのです。

 桑の木である自分が現世をしっかり抱いていたのですが、この自分はなかったということが分かってくるのです。そうすると、海の中へ入れるのです。

 現世は不完全なものです。暑すぎたり、寒すぎたり、風邪をひいたり、病気になったりします。地震も台風も発生します。いつも波風がたっているのです。

 善意を持って接しても、誤解されたり、憎まれたりします。辛くにがいことを経験するのです。これが海の中にいることです。

 人間の霊魂がこの世に生きている状態を、海にいると言っているのです。海に植わるというのは、自分の自我意識が大自然の中へ溶けてしまうことです。そうして、自分が生まれたままの状態になるのです。そうすると、イエスと同じ状態になるのです。

 イエスと一つになれる信仰をからし種の信仰というのです。イエスを信じるとは、イエスと一つになることです。

 イエスは、「我に来たれ」と言っています(マタイによる福音書11・28)。また、「我におれ、さらば我、汝におらん」と言っています。我におれとイエスが言っているのは、イエスの中に住み込んでしまいなさいという意味です。そうすると、イエスが自分の中にいることが分かるのです。

 イエスと私が一つの命に溶けてしまうのです。ここまで聖書を勉強して頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

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