top of page
  • higan2021



イエスは言っています。

 「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見出すであろう。門を叩け、そうすれば開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見出し、門を叩く者は開けてもらえるからである」(マタイによる福音書7・7、8)。

 イエスは何を求めよとは一切言っていないのです。しかし与えられると言っている。これは何を言っているのかということです。

 求めている者は与えられているはずです。どのように与えられているかです。これは自分の本心が何を求めているかということです。聖書を何十年も勉強している人でも、本心を言わなければ分からないのです。また、聖書を勉強し始めた人でも、本心を言えば分かるのです。

 こういうことは宗教観念では全く分かりません。キリスト教の牧師ではこの説明ができる人がいないのです。内村鑑三氏は神学ばかりを説いていたのです。こうしたら信じられるとか、信じるためにはこうしたらいいとか、神学ばかりを説明していたのです。

 イエスは宗教観念が大嫌いです。ところが日本ではキリスト教の教師、学者の中で内村鑑三氏が一番偉い人として扱われているのです。ドイツのキリスト教界の中でも、日本の内村鑑三氏を特別に評価しているのです。日本のクリスチャンの代表者として認めているのです。ところが内村鑑三氏は求めよ、そうすれば与えられるであろうということが全然分かっていなかったのです。

 皆様も現在求めているはずですが、何を求めているのでしょうか。本心を言ってみてください。本心が七章七節の文句に合っていればいいのです。合っていなければいくら勉強してもだめです。


求めよ、そうすれば与えられる

 「求めよ、そうすれば与えられる」とあります。与えられると言っていますが、的確に、実証的に、具体的に自分で承知できるという形で、手答えがある形で与えられるということですから、そのような求め方をしなさいと言っているのです。

 自分に手答えがあるような与えられ方をするには、どういう求め方をしたらいいのかということです。正当で確実な求め方をしますと、命の実物が分かってくるのです。これをイエスが言っているのです。

 イエスは命を求めよとは言っていませんけれど、求めよ、そうすれば与えられるという言い方の中には、命という言葉が無言のうちに入っているのです。

 命の本質を求めるにはどうしたらいいのかと考えたらいいのです。求めるというのは原語では必要とする、執拗にしつこく欲しがるという意味があるのです。ただ単に欲しいと思うのではないのです。

 もし本当に求めている人であるとしたら、宗教では満足できないはずです。宗教の指導者として威張ることができる人は、求めるという真剣な気持ちがない人です。

 キリスト教の指導者は求めるという気持ちが分からない人です。人生に理屈をつけてそれで満足しているからです。神学者とか牧師という人々は自分の人生に自分で理論づけをしているのです。それで満足しているのです。

 日蓮がそうでした。自分の人生に理論づけをして満足していたのです。満足できたのです。親鸞はそれができなかったのです。満足しようと思ったけれど、満足できなかったのです。それで苦しんだのです。自分の教団を造っていながら、その教団を捨ててしまって乞食になったのです。

 親鸞は女が好きで好きでたまらなかったのです。なぜこんなに女が好きになるか分からなかったのです。いかなる行をしようが女を好きになる気持ちをやめられない。地獄一定の身であると歎異鈔で言っているのです。

 この人が宗教家ではない宗教家であったと言えるでしょう。宗教家になりきれなかったのです。親鸞は浄土真宗を捨ててしまった男です。本願寺で祀っている親鸞は浄土真宗を造った親鸞です。本当の親鸞は六十三歳から九十歳までの間、浄土真宗を捨ててしまった親鸞です。三十三歳から六十三歳までは浄土真宗を信じていたのです。

 浄土真宗では親鸞は偉い人だと言われているのです。捨てられた信者が親鸞は偉いと言って拝んでいるのです。一体宗教は何をしているのかと言いたいのです。

 親鸞は宗教家ではなかったのです。理屈を言って自分をごまかしておけなかったのです。日蓮は自分をごまかしておけたのです。

 釈尊も自分自身をごまかすことができなかったのです。自分で自分を満足できる人、自分の人生に満足ができる人はだめです。

 皆様も同様です。自分の信仰を自分で満足していたらだめです。自分の信仰では満足できない人、イエス・キリストの信仰でなかったら満足できない人になって頂きたいのです。

 人間が生きているということは、生きていること自体が機能性です。生かされていることなのです。生かされているということは神に生かされているのです。神に生かされているという機能性が私たちの人生経験になっているのです。

 私たちは生かされているということを経験しているのです。経験させられているのです。私たちという立場で神の命を経験させられてはいますけれど、私たち一人ひとりの命があるのではないのです。一人ひとりというあり方で、経験をさせられているのです。

 一つの命をたくさんの人間が経験させられているのです。命は一つしかありません。それをたくさんの人が経験させられているのです。それを自分が生きていると考えるのですから、自分が救われたいと考えるのです。

 親鸞は女が好きでした。法然でも、日蓮でも女が好きだったに違いないのですが、女が好きではないような態度をしていただけのことです。

 女が好きであるということほど、素直に、大胆に、素朴に命のあり方を教えてくれるものはないのです。親鸞の正直さというものは、実に見上げた立派なものです。ところが親鸞はそれを恥ずかしいことだと考えたのです。人間の本能が何であるのか分からなかったのです。恥ずかしいことだと考えたのです。

 親鸞の命に対する見方が間違っていたのです。それは女が何を求めているかということの真意を理解していなかったからです。

 女が本当に求めているものに答えるような形で、男は女が好きになったらいいのです。女が好きになるというのは宇宙の本能です。地球存在自体の本然性です。

 地球の本然性が本能となって人間に現われているのです。性の問題と食の問題は地球自体の本然なのです。地球自身の本然性です。これは前世の問題です。前世から今世に続いている問題です。

 セックスのことは誰にも教えられなくても知っているのです。教えられなくても知っているということが、前世からの問題を意味しているのです。これほど尊くてすばらしいものはないのです。

 ところが人間は性のことが一番恥ずかしいことだと考えているのです。性は人間の本能性です。本能性ということは霊魂の本性ということです。人間は自分自身の霊魂の本性を恥ずかしいものと考えているのです。これが悪魔の性格です。

 悪魔は現世の生活を非常に尊んでいます。現世の法律を尊ぶのです。現世の道徳性を尊ぶのです。現世で行儀が良いことを尊ぶのです。現世のことを大変気にするのです。現世の人の噂とか、他人の商売とか、人の批判を大変気にするのです。本然的ではないのです。

 親鸞は自分の女好きが気になってしかたがなかったのです。男女の問題は前世からの問題です。この問題がはっきりしないことには、永遠の命が分かるはずがないのです。

 親鸞のように女が好きで好きでたまらない人間でなかったら、実は霊魂のことが分からないのです。日蓮は日本の政治とか、国の安定のことばかりを考えていたので、前世が全然分かっていなかったのです。

 本能は性だけではありません。食も本能です。食のことは生まれる前から知っているのです。生まれる前に食べていたのです。性の問題、食の問題は本然性です。性の問題と食の問題が本当に分かれば、永遠の命のことは分かってくるのです。

 性の問題、食の問題は本然性の問題ですから、こういう問題が神を信じることと重大な関係になるのです。性と食が分からなければ、とても永遠の命は分からないのです。

 生きているということは前世からの問題です。例えば皆様の精神状態は昨日があって今日があるのです。昨日、今日、明日を考えなければ生活が成立しないのです。過去、現在、未来を考えなければ生活ができないのです。これが皆様の生命構造の表現形式になっているのです。

 精神構造と生命構造とは同じものです。皆様の生命構造は生まれる前からあったのです。生まれた後の現世があります。死んだ後の来世があるのです。過去世と現世と来世があるのです。

 精神的に過去、現在、未来があるように、生命的にも過去、現在、未来があるのです。このことを考えると、性の問題、食の問題にも生まれる前と現世と来世とがあることが分かるのです。これが分からないようではとてもイエス・キリストを信じることはできないのです。

 創世記に、骨の骨という言葉があります(2・23)。これは女の本質のことを言っているのです。骨というのは霊のことです。肉というのは目に見える物質現象を指しているのです。骨は肉体によって隠れています。隠れていますが、骨がなければ肉体は成り立たないのです。

 筋肉も骨によって造られているのです。血となり肉となるという言葉がありますが、骨の働きが重要です。

 骨は人間の霊のことをいうのです。生活で言いますと、肉体が働いているのは骨があるお陰です。骨の働きによって肉体が保たれているのです。

 人間の精神構造を骨という言葉で現わしているのです。これが霊です。本来人間はアダム一人で、エバがまだ造られていなかった時があったのですが、男がぼんやりしていたために、神が全然分からなかったのです。そこでアダムが眠らされて、ほとんど半死になってしまったのです。その時にアダムのあばら骨が抜かれてエバが造られたのです。

 女はアダムのあばら骨で造られたので骨です。ところがアダムの前に現われたエバはすばらしく上等に見えたのです。これが骨の骨です。女のすばらしさ、美しさ、色気が骨の骨です。ただの骨とは違うのです。

 女の素質は骨です。女のあり方、色気が骨の骨です。女は男の真心、真髄です。これが女に出ているのです。だから男は女が好きで好きでしょうがないのは当たり前です。

 本当に女が好きにならないような男は、命の真髄が分からないのです。イエスと女性の関係については聖書には書いていませんが、とても深いものがあったのです。

 人間の素朴な感覚で、甘いものが好きな人がいますが、なぜ甘いものが好きなのかを考えたらいいのです。酒が好きな人は酒が好きだという自分の精神状態をじっと見つめてみるのです。

 自分が欲望的であろうが、本能的であろうが、自分が生きている精神状態をそのまま読んでいくのです。そうすると聖書に書いていることと自分の命が同じであることが分かるのです。

 自分自身の中に、永遠の命があるのです。自分自身のあり方が聖書になっているのです。人間存在はこういうものです。

 本能というものを肉の思いで見ないで、霊の思いでゆっくり見ると、すばらしいものであることが分かるのです。霊で見なければだめです。

 世間の男がどこをどう間違えたのかということが本当に分からなければいけないのです。世間の人間の肉の思いの間違いが分かることです。同時に霊の思いで見たらどうなるのか。両方分からなければいけないのです。

 イエスは両方分かっていたのです。何もかも分かってしまうと、気楽なものになるのです。



天地万物は神の言葉

 天地万物はことごとく神の言葉です。天地万物を読んでいったらいいのです。きれいなもの、汚いものも皆万物です。神の言葉です。きれいとか汚いというのは、その時のその人の感情で思うだけのことです。

 天地万物はすべて神の言葉ばかりです。この神の言葉を読んでいったらいいのです。汚いというものは一つもないのです。自分の心が汚い人は汚いものがあると思えるのです。自分の心をきれいにしたら、汚いものは一つもないのです。

 生きているということが本当に分かってくると、自分の命が何であるのかが分かってくるのです。「求めよ、そうすれば与えられるであろう」とイエスが言っています。求めることさえしていれば、必ず求める心に応じて与えられるのです。

 霊的に求めなければ霊的に与えられません。肉的にしか求めていない人は、霊的に与えられないのです。霊的に求めれば霊的に答えられるに決まっているのです。すべてそうなるのです。

 霊の思いで求めたら何でも霊になるのです。人間が生きているということは、大変なことをしているのです。現在皆様が生きているということは、すばらしいことをしているのです。

 求めるという言葉に対して、与えるという言葉を使っているのです。与えられるとはどういうことかです。皆様は現在人間の常識で生きておいでになるのです。常識的にきれいなものをきれいだと思っています。また、常識的に女とか男とかを考えているのですが、この時は与えられていないことを意味しているのです。正しく求めていないからです。

 世間並みの常識でセックスを考えている。また、食を考えている。性と食は欲望だと考えている。これが間違っているのです。

 本能は先天性です。先天性というものは、人間が生きている以上、なければ死んでしまうものです。先天性の性がなければ人間が伝承できないのです。これが本能性です。本能性がなければ人間社会を続けることができないのです。これが欲であるはずがないのです。

 欲というものは悪いと思ったらやめることができるものです。やめてもさしつかえがないことをいうのです。性と、食をやめたらどうなるのか。人間社会が絶滅してしまうのです。常識はこういう間違ったことを言っているのです。

 本能というものは生まれる前からの伝承であって、先天的なものです。この世に生まれてからできたものではないのです。

 金銭を貯めるというのは欲です。物欲とか名誉欲というのは欲です。現世に生まれたから金銭を貯めたい。物が欲しいと考えるのです。これが欲です。本能ではありません。

 現世に生まれる前の本能と、現世に生まれてからできた欲とは、本質が違うのです。お金を儲けなければ人間社会が伝承されないということはないのです。

 「求めよ、そうすれば与えられるであろう」という言葉をよくよく考えますと、現在生きている状態について、人間はまだ知っていないということが分かるのです。これをよくよく知りたいと思えば、人間が知っていない事がらについて分からせられると言えるのです。まだ知っていないことを分からせられるのです。

 本能性とはどういうことなのか。欲とはどういうことなのか。欲ではないということはどういうことなのか。知識と欲とはどう違うのか。道徳と欲望とは本質的にどう違うのか。信じることと、行うということとどう違うのか。違わないのか。信仰と道徳とはどう違うかという問題です。自分が生きていることと、神が生きているということとどう違うかという問題です。アスクしたらこういうことについて答えが与えられるのです。

 生きているというのは、自分が生きているのか神が生きているのか分からない面があるのです。自分が生きていたいと思っても、神が殺そうと思ったら命がなくなってしまうのです。

 命と言いますけれど、自分の命であるのか、神の命であるのか分からない面があるのです。アスクすると、こういうことが分かってくるのです。

 「求めよ、そうすれば与えられる」というのは、今まで生きていることについて、命について、肉体について、地球存在について分からないことがたくさんありますが、こういうことがだんだん分かってくるのです。地球の主人公として知らねばならないことがどんどん分かってくるのです。だから求めよと言っているのです。万物の霊長として知らねばならないことを知ることができるのです。

 イエスのように、私は命であり道であると思えるようになってくるのです。皆様が生きているという命の実質、実体をアスクするのです。尋ねるのです。自分の命の実質が分かると、他人の命の実質、実体も分かってくるのです。太陽の命の実質までも分かってくるのです。そうして地球の運命も分かってくるのです。こういうことをアスクするのです。

 自分が死んでから天国へ行くという話とは違います。生きているうちに、天国そのものが分かってくるのです。自分が天国にいるかいないかが分かってくるのです。自分が生きている状態のままでアスクするのです。生きているということをアスクするのです。

 生きているということを尋ねるのです。求めるということと、尋ねるということを一緒にしたらいいのです。求めて尋ねる、尋ねて求めるのです。これをするといいのです。そうすると求めていることの内容を教えられるのです。

 そのためには一番分かりやすい問題は食と性の問題です。これが分かってくると命が分かるのです。性と食の問題の後に、命の問題、国の問題が続いているのです。

 日本の憲法の第一条に、天皇は国民統合の象徴であるとあります。天皇は日本国の象徴であるという言葉と、天皇は国民統合の象徴であるという言葉があるのです。国のシンボルと国民統合のシンボルがあるのです。国民統合という妙な言葉が使われているのです。

 この言葉は新約聖書の思想でなければ分からないのです。人間融合のシンボルはイエスである。これをイエスが主であるとなっているのです。イエスが主であるとは、人間は融合、または総合されるという意味です。人間総合のシンボルがキリストなのです。

 キリストは人間総合のシンボルである。天皇は国民統合のシンボルです。日本の憲法第一条とローマ人への手紙第十章九節とは、ぴったり合うのです。

 人間が生きていることはキリストの現象体をそのまま現わしているのです。現在生きている皆様は統合されるべきなのです。そうしないと人間の目的はないのです。個々の人間がいても何もならないのです。ただ死ぬだけなのです。

 お金を儲けても死ぬに決まっているのです。死んだら儲けたお金は誰のものになるのか。国のものになるだけです。

 現世で皆様は食べたり、テレビを見たり、異性を愛したりしています。何をしているのか。本人が経験しているのではないのです。食の問題、性の問題を本人が経験しているのではない。霊が経験しているのです。それを自分の魂とどのように結びつけるかが問題です。

 人間の経験をどのように記憶していくかが、永遠の命と重大な関係があるのです。

 宗教はすべて各宗派、各教派がそれぞれの意見を教えているのです。宗教には教義があります。仏教でもキリスト教でも宗派神道でもすべて教義がありまして、これを教えるのが宗教の目的です。

 ところが教義は教えではありますが、真実ではないのです。すべて教えるというものは教祖が自分が造った教義をお弟子さんに伝承させているのです。これは良い所もありますが、悪い所もあるのです。

 例えば日本の神道の教義のようなものを、ロシアのモスクワへ持って行っても通用しないでしょう。またニューヨークへ持って行っても通用しないでしょう。

 日本で通用する宗教様式は日本人だけのものです。ところが人間が生きているということは、全世界の七十一億の人間の共通の問題です。ここに宗教ではないということを考えられなければならないのです。

 人間が生きているということと、宗教の教えとはよく似たようなものですが、実は根本から違った物です。宗教を信じるということはもちろんご自由ですけれど、それを信じたからと言って、必ず宗教の教えどおりになるものとは限らないのです。

 釈尊は宗教家ではなかったのです。皆様もご存知のようにインドのある国の皇太子だったのです。宗教にはまったくの素人だったのです。この人が、人間はなぜ死ぬのか。なぜ生まれて病気になって死んでいくのか。いわゆる生老病死という問題を考えるために、王宮を捨てて、バラモン経の修行をしたのです。釈尊はただの素人だったのです。

 イエスは大工の青年です。田舎大工の倅であって、この人もまた、宗教家ではなかったのです。

 イエスはとても宗教が嫌いで、当時の宗教を非常に攻撃したのです。宗教が大嫌いで徹底的に宗教を叩いたのです。ところが今のキリスト教は、このイエスを教祖として拝んでいるのです。これがおかしいのです。

 キリスト教には教義がありますが、本当の聖書を全く説いていません。キリスト教がいうことと、聖書がいうこととは全く違うのです。似たようなこともありますけれど、根本的なことでは全然違うのです。

 キリスト教では神の実体が全く分かっていません。神を信じなさいと言いますけれど、神とはどういうものかということの説明をどこの教会でもしていません。ただ信じなさいと言っているのです。

 神様とは何ですかと牧師に聞きますと、神様は信じるものであって、考えるものではないというのです。牧師は皆こう言って逃げるのです。

 私たちはキリスト教ではない新約聖書、キリスト教ではない聖書を勉強しなければいけないのです。また、仏教ではない般若心経を勉強する必要があるのです。

 般若心経は釈尊の悟りを要約したものです。二百七十六文字に縮めているのですが、現世の人間を中心にして考えたものではありません。色即是空、空即是色が般若心経の中心テーマになっているのです。

 色即是空というのは、目に見える物理的現象は一切実体がないと言っているのです。これが般若心経の主張です。もし色即是空を本当に信じるとすれば、本当にこれを悟って実行するとしたら、現在の仏教教団は全部消えてしまうことになるでしょう。

 色即是空というのは宗教、寺があることが空だと言っているのです。これは考え方によって、そういうことを教えるためには寺が必要だという言い方もあります。般若心経を教えるために寺がいるのだと言えないこともないのですが、現在の寺は目に見えるものは一切空だということをはっきり教えていないのです。

 それよりも檀家が増えること、お金がたくさん集まることの方が関心が高いのです。例えば般若心経を写経して千円を送るとご利益があるというのです。奈良のあるお寺は百万写経と言いまして、百万人から千円送られてきましたから、十億円の収入になったのです。今日までに六百万人の人が千円ずつ送ってきていますから、寺は六十億円の収入があったのです。このお金で金堂、西塔などの伽藍を復興したのです。

 これが宗教です。色即是空という言葉はありますが、色即是空という実体が今の仏教にはありません。

 私は宗教ではない般若心経と聖書を提唱しているのです。釈尊は本当に何を言いたかったのか、何を悟ったのか。イエスは何を伝えたのかということを皆様にお話ししたいと思っているのです。

 般若波羅蜜多というのは、サンスクリットで、パニャーパーラミターとなっていまして、彼岸へ渡る知恵を言うのです。般若というのは普通の人間の知恵ではない上等の知恵、叡智を指すのです。ハラムとは彼の土、向こう岸です。イターというのは到るということです。

 彼の土へ到るための知恵が、般若波羅蜜多です。これは現世の常識とは全然違うのです。学問とか知識とは違うのです。



新陳代謝

 皆様の常識は肉体人間が存在するという考えが土台になっているのです。肉体人間が存在するという考えを無明と言います。迷いというのです。

 なぜかと言いますと、肉体というのは新陳代謝しているもので、食べたものが胃で消化、腸で吸収されて、しばらくするとまたお腹がすくのです。毎日三回これをしているのです。これは体が新陳代謝しているからそういうことになるのです。

 そうすると皆様の肉体があるのではなくて、新陳代謝という事がらがあるのです。生きているということは、流れているということです。これを頭で知るだけでなくて、本当に心で実感できるようになれば、現世は全く空であるということがよく分かるのです。また、無であるということが分かるのです。

 般若心経は二百七十六文字という非常に短いお経ですが、この中に無が二十七文字もあるのです。全体の一割も無があるのです。

 無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃無意識界、無無明亦無無明尽とたくさん無が出ているのです。

 無というのは無いということです。皆様が考えていらっしゃる肉体が新陳代謝するというのは、天地の流れです。天地の流れがあるのです。

 天地の流れとは一体何であるのか。これが本当の命です。命はじっと固定しているものではありません。流れ動いているものです。哲学的に言いますと、弁証法的に存在しているのです。流動的に存在しているのです。

 ところが皆様は、常識的に自分の肉体が固定的に存在していると考えているのです。こういう考え方を持っておいでになると、必ず死んでしまうことになるのです。

 皆様は死ぬのは嫌だと思っているでしょう。死ぬのが嫌に決まっているのです。ところが人間は死ななければならないと勝手に思い込んでいるのです。死にたくないけれども、死なねばならないと考えている。これが迷いです。

 死にたくないという気持ちは誰でもあるのです。死にたくないという気持ちがあるのは、死ななくてもいい方法がどこかにあるからそう思っているのです。

 人間の希望というのは、必ず叶えられる望みがあるから持てるのです。叶えられる可能性がない場合には、望みが一切発生しないのです。

 例えば、お金を儲けたいと思います。お金を儲ける方法があるからお金を儲けたいと思うのです。

 人間の望みというものは、叶えられる可能性があるから持てるのです。死にたくないというのは、人間の最も熱心な、最も真剣な、最も真面目な考えです。従って死にたくないという真面目な考えは、叶えられるに決まっているのです。

 もし皆様が般若心経に言われていますように、一切空、五蘊皆空、色即是空ということが本当にお分かりになったら、死なない命が分かるのです。

 現在皆様の肉体は生きているのではなくて、流れているのです。このことが分かっていないために、自分が生きていると思い込んでいるのです。自分の思いが間違っているから死ななければならないのです。

 皆様の心の中から迷いを取り去ってしまえば、本当の命が見えてくるのです。

 人間が生きていることは神と対話していることです。神は絶対に死にません。だから神を掴まえたら皆様も死なないのです。神とは何かと言いますと、キリスト教で考えているものとは違います。聖書にある神はキリスト教で考えている神ではないのです。

 何かと言いますと、皆様が生きていらっしゃることが神です。皆様の肉体的な形を通して命が流れているのです。命が流れていることが神です。

 皆様の心臓が動いています。血液が流れています。皆様の全身に血液が循環しています。これは命が流れている証拠です。こういう事実を神というのです。

 皆様の目が見えること、耳が聞こえることが神です。皆様は現在神を経験しておいでになるのです。

 生きていることは神と対話していることなのです。これが分かれば死ななくなるのです。私はこれを現在経験しているのです。毎日、神と対話しています。だからこうしてお話ししているのです。

 これは宗教のお筆先みたいな言い方になって恐縮ですが、これは当たり前のことなのです。私は毎日神と対話していることが分かった普通の人間です。これが分からないのは無知蒙昧の証拠です。無明です。分からない方が間違っているのです。

 人間は死なないのが当たり前です。命が分かったら死なないのです。これが当たり前です。

 宇宙の命は死なないのです。死なないのが命です。大自然は新陳代謝しています。新陳代謝の原理が皆様に分かれば、命の原点がはっきり掴まえられたら、皆様の生活の考え方が、がらっと変わるでしょう。

 商売人はやはり商売をするでしょう。会社員はいつものように会社へ行くでしょう。生活の形態は変わらないでしょう。しかし生活の心構えが全く変わってしまうのです。

 私は宗教の宣伝をしているのではありません。命を勉強したいと思われるなら、ご相談相手になりたいと思っているのです。

 すべての人間の行き着く所はどこか。人間が空であることが分かれば、般若波羅蜜多が分かるのです。人間が空であることが分かれば死ななくなるのです。

 人間が生きている常識、知識、皆様の今までの人生観、世界観や価値観は皆空です。間違っているのです。

 人間は物質が存在すると思っていますが、物質が存在するのではありません。新陳代謝という宇宙の法則が存在するだけのことです。これが命です。この命さえ分かれば死なないのです。

 命が分かれば死なないのです。私はこの命の勉強を皆様と一緒にしたいと考えているのです。

 皆様は今までの考えで生きていますと、必ず死んでしまいます。必ず迷います。迷いの果ては死です。無明の果ては死に決まっているのです。ところがただ死んだだけではすまないのです。死んだ後が恐いのです。何十年もの長い間、何のために生きていたかということを弁えないで、ただ自分の生活の欲望のために、人生を費やしておいでになったのですから、これは怠慢です。その怠慢を必ず咎められるのです。ですから目の黒いうちに、命の実質を勉強して頂きたいのです。

 現実は真実ではないし、現世は真世ではないのです。真実と真世とを見極めるために、思い切って自分の人生の実体を突き止めるだけの勇気がいるのです。

 現世だけが人生のすべてではないのですから、人生の実体を知る必要があるのです。生まれながらの人間は死ななければならないのです。また、何のために生きているのか分からないのです。だから人生そのものが虚しいものだと感じられるのです。

 しかし本当は人生が虚しいものではなくて、現代人の人生観が虚しいのです。人間とは何かということを明らかにしないままで生きているという人生が虚しいのです。これを当てにしていると、虚空を掴まされることになるのです。

 霊魂とは何か。実は霊魂という言葉が仏教にはないのです。仏典に魂という言葉がないのです。魂という言い方は神道でも使いますが、魂という言葉の意味をはっきり説明ができる宗教家はいないのです。これは禅宗でも分かりません。いくら座禅を組んでも分かりません。

 般若心経をいくらお読みになっても、いくら写経をなさっても本当の魂は分かりません。空ということさえも分からないのです。般若心経は釈尊の悟りを要約した論文のようなものです。釈尊の悟りを縮めて言うと般若心経になるのです。



究竟涅槃

 般若心経には悟りはあります。遠離一切 顚倒夢想 究竟涅槃というのは悟りです。このとおりです。人間が考えていることは一切顚倒夢想であって逆さまにひっくり返っているのです。

 人間は常楽我浄の四つのことを全く考え違いをしているのです。そのために逆さまの考え違いをしているのです。こういう考え方を捨ててしまって、究竟涅槃するのです。

 涅槃というのはニルバーナーという言葉から来ているのでありまして、冷えて消えてなくなってしまうことをいうのです。般若心経によって人間が冷えて消えてなくなってしまうことを勉強するのです。命を勉強するのとは違うのです。

 般若心経によって悟りは分かります。空は分かります。空はそのとおりです。これは全く同感します。一切は空です。ところが救いがないのです。命の説明は一切していないのです。

 究竟涅槃とは涅槃を極めつくすことです。これが般若心経の目的でありまして、命を与えるとはどこにも書いていないのです。これが釈尊の悟りの特長です。大乗仏教の本当の特徴は空です。一切空です。

 この一切空が徹底しますと、初めて人間のばかばかしさが分かるのです。そうして命に対する目が開かれるのです。もし皆様が涅槃の境地を体得なさっていたら、すぐに命が分かるのです。

 聖書は命を説いています。イエスは、「私が言った言葉は命である」と言っているのです(ヨハネによる福音書11・25)。「私は命のパンである」(同6・48)。「私は道であり、真理であり、命である」(同14・6)。「私は甦りであり、命である」(同11・25)。命である。命であると言っているのです。

 これが新約聖書の特徴です。般若心経は空を説き、新約聖書は命を説いているのです。般若心経の空と新約聖書の命の二つを皆様が勉強されたら本当のことが分かるのです。

 旧約とは古い約束、新約は新しい約束です。この約束を勉強して頂くことが必要です。

 人間は皆自分の考えが正しいと思っています。ところが本当に正しいのかと言いますと、それを決定するのが神です。仏教的に言いますと、大日如来のようなお方になるのです。

 例えば皆様が赤い花をご覧になって、Aという人が見て赤だと思うのと、Bという人が見て赤だと思うことは、厳密に言えば違っているのです。各人の健康の状態とか、生理機能の状態が違うはずです。

 馬が見ている赤と人間が見ている赤とは違うようです。そのように自分が見ている赤は、十人十色、百人百色と言いますように、少しずつ違った受け取り方をしているはずです。心理機能や生理機能の状態は、各人で皆違っているのです。だから自分の考えが正しいと思っても、神の前には通用しないのです。

 神の前に通用するのは、究竟涅槃です。自分自身の考えは良かれ悪しかれ皆空であるということです。これは神の前に通用するのです。

 般若心経の真理は神の前、宇宙の絶対者の前に通用する思想です。この意味で釈尊は偉いと思います。

 まず皆様は自分の考えは宇宙全体の考えではないことを悟って頂きたいのです。これを謙遜というのです。自分の考えは、自分の経験は宇宙の絶対者の経験ではないことを悟るべきです。

 自分はこう考えているから自分の考えは正しいだろうという考えを捨てて、命とは何か、神とは何か、何のために生きているのかということに対して、新しく考えて頂きたいのです。

 はっきり言いますと、宗教は造り事です。哲学も造り事です。これは人間が造ったものです。そういうものではなくて、絶対者の原理を学びたいものです。神の約束は天地が存在する原理でありまして、天地が存在するということが約束の実体です。

 地球に森羅万象がありますが、こういうものは金星にも木星にもありません。他の天体にも全くありません。なぜ地球にだけこういうものがあるのか。なぜ太陽系宇宙にだけ特別の現象があるのかということです。この説明は現在の学問ではとてもできないのです。こういう事がらを原理にしたものが神の約束です。

 自分の考えや自分の経験は正しいというのは自分の妄念ですから、この妄念から抜け出して頂きたいのです。妄念を解脱することから始めて頂きたいのです。

 政治をどのように考えたらいいのか。現代の政治のあり方が宇宙の基本原理から脱出しているのです。これは日本でもアメリカでも世界中どこでも言えることです。従って現代社会の政治を取り上げてあげつらうことになりますと、何時間話してもしょうがないのです。無明煩悩の見本みたいなものが政治です。本当の政治というのは政(まつりごと)でありまして、政というのは人間自身の魂の営みをいうのです。

 個人個人の魂が集まって世の中ができている。その世の中全体を引っ張っていくことが国の政です。こういう政の原理が分かっている政治家は今の日本には全然いません。今の政治家にこういうことが全然分かっていないのです。

 現代社会において軍事と政治が狂っているのです。私たちはこういうことをいうために生きているのではありません。政治や軍事は妄念ですが、今の世界ではそういうこともやむを得ないのです。

 私たちはそういうことを問題にせずに、本当の命を学ぶために、般若心経の精神に従って、色即是空を生活的に実感したいと思うのです。

 「ある」ということが今の人間に分かっていないのです。ある禅のお坊さんが自分は無を見たと言っていました。允可証明をもらっているし、自分自身は立派な禅僧であると思っているのです。

 無を見たというのです。無とは何かと聞いたら、それは無ですよというのです。説明ができないのです。有とは何かと聞いても分からないというのです。あると思っているのも皆無だと言うのです。これが間違っているのです。

 「ある」というのはあるのです。現在皆様はご飯を食べてお茶を飲んでいるのですが、これはあるのです。飲んだり食べたりして、そのお坊さんは生きているのです。そうすると自分自身があるのです。これを無と言ってごまかしてはいけないのです。



有と無

 本当の「有」が分かって、初めて本当の「無」が分かるのです。「有」が分からなければ「無」は分かりません。従って現在の日本の禅宗には本当の「無」が分かっている人はいないのです。

 「有」が分からない状態で、ただ「無だ」というのは禅の概念です。宗教観念です。そういう宗教観念の悟りは本当の般若心経の精神ではないのです。

 本当の「有」が分かって初めて、本当の「無」が分かるのです。「有」とは何かと言いますと、あるという事がらです。命が流れているという事がら、皆様の目が見えるという事がらが有です。これが神です。

 「我は有りて在るものなり」と旧約聖書で言っています(出エジプト記3・14)。キリスト教ではこの有りて在るという意味が分からないのです。あるとはどういうことなのか。これが分からないのです。

 現象的な感覚で物があると思っている。こういう感覚では本当の有が分かりません。物があることがあるのではなくて、物を物としていることがあるのです。これが有です。

 我は有りて在るものなりというのは、そういう意味でありまして、「無きものを有るがごとくに呼びたもう神」という言葉が聖書にあるのです(ローマ人への手紙4・17)。

 神が無きものを有るがごとくに呼んでいるのです。これが聖書の神です。これがキリスト教では全然分からないのです。

 無きものを有るがごとくに呼んでいるとはどういうことなのか。これがキリスト教では何のことか全く分からないのです。宗教は宗教教義を信じていますが、聖書の言葉をはっきり捉えてはいないのです。

 「神は霊である」という言葉がありますが、霊なる神とはどういうことなのか。あるということは霊です。あるという事がらが霊なる事がらです。

 本当の有が分からなければ、無は分かりません。有があって無があるのです。逆に言いますと、無があって有があるのです。だから般若心経と聖書は、影と形の関係になるのです。形があって影がある。影がある所には必ず形があるのです。これは前編と後編の関係になるとも言えるのです。

 パウロは、「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」と言っています(ローマ人への手紙8・6)。これはどういうことかと言いますと、現在人間が肉体的に生きていると思い込んでいます。目で見たような状態で家がある、車がある、道路がある、鳥が飛んでいると思っています。これが現象感覚です。

 現象感覚というものが肉の思いです。肉の思いを信じている人間は未完成です。イエスや釈尊は未完成の状態から完成へに到る灯火になってくれたのです。

 肉の思いは死であるとありますが、人間の常識は肉の思いで成り立っているのです。物質が存在すると考えているのです。しかし実は物質は存在しないのです。これは物理学でも証明しているのです。原子の運動があるだけであって、物質は存在しないということは物理学でも証明しているのです。

 そのことを湯川秀樹さんはよく言っていました。私は学校では物質は存在しないということを学生に教えている。しかし家へ帰ると物質が存在するような気持ちで生活している。私は偽善者のような気がすると言っていたのです。

 これは非常に正直な発言です。物質がないことを自然科学の理論では証明できるのですが、人間の生活感覚は物質があると思っているのです。実は人間は未完成どころではありません。人間は精神的に死んでいるのです。

 現在皆様は自分の命があると思っておられるかもしれませんが、その人は死んでいるのです。未完成ということは死んでいるということです。だから命がどこにあるかということを探したらいいのです。死なないようにと警戒するよりも、命がどこにあるかを考えて、その命を見つけたらいいのです。

 皆様は今生きていらっしゃいます。生きていますが命が分かっていないのです。ところがイエスは、私はいのちであると言っているのです。永遠の命に生きているから死なないと言ったのです。その証拠に十字架につけられて殺されたのですが、復活したのです。

 日曜日はイエスの復活記念日です。イエスが死を破ったのは歴史的事実です。死を破った、死が破られたという事実が、この地球上にあるのです。これは世界的な事実です。

 死を破った人間がいるのです。イエスはどうして死を破ったのか。肉の思いを破ったからです。肉の思いは死である。肉の思いを破ったのです。だから死を破ったのです。

 イエスがしたことは、皆様もできるに決まっているのです。未完成である人間、不完全である人間、死んでいく人間から鞍替えしたらいいのです。

 これはできるから、したらいいのです。肉の思いを解脱することは、ある程度座禅でもできるのです。禅の悟りは空の悟りであって、命を見極めているものではありませんけれど、般若心経の空をご理解頂いたら、肉の思いは空になるのです。従って自分の死が空になるのです。

 肉の思いが死ですから、肉の思いから出ることができたら、死から出ることもできるのです。これをして頂いたらいいのです。

 私は天地の命理を申し上げているだけです。何かの宗教の理屈を申し上げているのではありません。ありのままのことをありのままに申し上げているのです。

 どうか肉の思いは死であるということをよくお考え頂いて、肉の状態から抜け出して頂きたいのです。

 皆様は今のままでは死ぬに決まっているのですから、死ぬような人間から抜け出して頂ければいいのです。そういう勇気を持って頂きたいのです。

 人間の魂は現世に出てくるまでは神と共にいたのです。生まれるには生まれる理由があって生まれてきたのです。皆様の五官の根本原理は神の言(ことば)です。神の言が人間に植えられているのです。

 言が肉体となって地球上へやってきた。これがイエスです。イエスはすべての人を照らす誠の光です。イエスが死を破ったということは歴史的事実です。

 イエスは神の元から出てきて神に帰ったのです。皆様もイエスと同じです。皆様の五官は神が植えたのです。皆様は五官を用いて現在生活しているのです。

 五官の本当の意味、皆様に命が与えられているということを考えて頂きたいのです。皆様は五官で本当の命を経験しておいでになるのです。これがはっきり分かりさえすれば、皆様は神の元へ帰るに決まっているのです。

 神から出て神によって生かされているのです。そして神に帰るのです。これが人間の当たり前のコースです。イエスは当たり前の人間の当たり前のコースを人間に教えただけのことです。

 キリスト教ではイエスを超特別の人間のように言うのですが、これは宗教観念で考えているからです。イエスは当たり前の人間です。だから誰でもイエスを信じることができるのです。

 難しいと思わないで頂きたい。死ぬことを思えば少々難しくてもがまんして頂きたいのです。常識によって死んでしまわないで、肉の思いを踏みつけて、死を破って頂きたいのです。

 肉の思いを解脱するのです。死を解脱するのです。この勇気を持って頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

閲覧数:0回0件のコメント
  • higan2021

皆様がよくご承知のことですが、織田信長が桶狭間で決戦を挑む前に、「人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を受け、滅せぬ物のあるべきか」という謡曲「敦盛」の一節を舞ったという話があります。

 当時はこの歌が流行ったようですが、言葉として誰でも理解できますが、本当に実感している人はいないのです。もしこれが実感できさえすれば、死なない命が分かるはずです。

 死なない命というのはそれほど難しいことではないのです。現代では人間五十年ではなくて、人間八十年と言えるのです。ところが人間が七十年、八十年生きていても、命が分からないままで生きていますと、生きていたことがかえって不幸なことになるのです。

 生きていることを経験していながら、命が分からないままで七十年、八十年過ごしていたということになりますと、ひどいことになるのです。

 皆様は生きていることを通して、幸せのようなことを経験しておいでになったはずです。不幸なこともあったでしょう。しかし生きているということは楽しいことなのです。

 本能性に従って生きているということは楽しいことです。そうすると、その楽しさの本当の意味は何かということが分からなければならないはずです。

 人間は本能性に従って生きていたのです。本能性に従って生きてきたということは、何をしていたのか。このことが分からなければならないはずですが、それがさっぱり分からないままの状態で人生を終わってしまうのです。これが世間一般の通例になっているのです。

 現代文明は生活することだけを考えて、命を全く考えようとしないのです。こういう根本的な欠陥があるのです。これが当たり前の生き方になっているのです。

 生きているということは、命を経験しているということです。ところが、皆様は生活をしていますけれど、命を経験していない。これが間違っているのです。

 生活していても、やがて死ななければならないに決まっているのです。

 人生は七十年にしても、八十年にしてもそれだけのものです。そうすると、七十年か八十年の間に命を経験することができさえすれば、死なない命が分かるはずです。

 だいたい死なないものが命です。死なないから命というのです。死に関係がないから命です。

 生命と言いますが、生(せい)というのは大自然のいのちです。太陽が輝いているいのち、海の色は生といういのちです。これは死なないいのちを指すのです。



地球に死なない命が満ちている


 地球には死なないいのちがあふれているのです。これが大自然に現われているのです。花の形、色、葉の形、色、植物、動物に死なないいのちが現われているのです。

 皆様は毎日死なないいのちを見ているのです。死なないいのちの色、形を見ているのです。花をご覧になってきれいだとお考えになります。皆様の目はきれいだという状態で命の本質を認識しているのです。

 ところが目で見ていながら、心に全然触れていないのです。きれいだと思うけれど、きれいというのはどういうことなのか分からないのです。

 きれいだというのはいのちを見た感動です。いのちを見て皆様はきれいだと考えるのです。また、牛肉のステーキとか、マグロの刺身、桃、リンゴ、梨、メロンを召し上がると、おいしいと思うのです。おいしいというのが命の味です。

 そのように、皆様は命の味とか、命の色をご覧になっているのです。青空、海の青さも命の色です。雲の形はいのちが現われているのです。

 現在、皆様の目とか舌、耳は命の実物を捉えているのです。命を経験しているのです。ところがそれが分からないのです。命を現実に経験していながら、命が皆様の頭に理解されていないのです。

 これはどういうことかと言いますと、文明が間違っているのです。文明は人間の生活だけを考えているのです。命のことを全然考えようとしないのです。これが現代の学校教育の弊害です。

 学校教育が発達すればするほど、人間は命から遠ざかってしまうのです。色々な理屈は学びますけれど、命が分からなくなってくるのです。これが現代の人間文明の根本的な間違いです。

 般若心経は五蘊皆空と言っています。これは人間の思想は皆間違っているという意味です。現在目で大自然を見ていながら命が分からない。これは人間の考えが間違っているからです。生活に有頂天になっているために、見ていながら命が分からないことになってしまっているのです。皆さんはこういう間違いの中に引き込まれているのです。

 こういうことは般若心経を真面目にご覧になれば分かるのです。般若心経は般若波羅蜜多を提唱しているのです。



向こう岸へ渡る


 波羅蜜多とは向こう岸へ渡るという意味です。向こう岸へ渡るということが人生の目的です。その目的を忘れてしまって、生活のために一生懸命になっている。これが根本的に間違っているのです。

 今の日本人には向こう岸(彼岸)へ渡るという考え方がありません。

 宗教はすべて人間が現世で幸福になるように考えているのです。現世で幸福になっても、命の本質が分からなければ必ず死んでしまうのです。死んでしまえば、現世の宗教は一切通用致しません。般若心経はこのことをはっきり言っているのです。

 般若心経は仏教の経典ではありません。ところが、日本のお寺は般若心経が仏教の教本であるように取り扱っているのです。

 仏教が般若心経を今まで伝承してくれたということは良かったのです。ところが般若心経の本当の精神が骨抜きになってしまったのです。今日の日本の仏教にはその精神が全くありません。

 五蘊皆空とは何かと言いますと、人間の考え方、思い方は皆間違っていると言っているのです。寺で説いている般若心経の解釈が間違っているのです。

 仏教学者の思想、寺のお坊さんの考えが五蘊なのです。五蘊で話しているお坊さんの話を五蘊で生きている人が聞いているのです。五蘊が五蘊に向かって話をしている。全くマンガみたいなことになっているのです。盲人が盲人の手引きをしているのです。

 こういうことをいくら勉強しても、この世を去ってしまえば一切通用しないのです。

 皆様は空の色、海の色、花の色、雲の流れをご覧になれば、天地自然の命が分かるはずです。天地自然の命をよく見て、それを掴まえようとすれば、自分の間違った考えをまず棚上げして頂く必要があるのです。

 間違った自分の考えを持ったままで命を理解しようとしても無理です。皆様の頭には現世の常識がいっぱい詰まっています。現世の常識が一杯詰まっている所へ、天地の命を入れようとしても、入りません。そこで私の話が難しく思えるのです。聞いても、聞いても分からない。聞けば聞くほど分からなくなると言われるのです。

 それは皆様が今までの常識を一杯持ったままで話を聞こうとするから、入らないのです。

 難しいのではなくて、般若心経の考え方が皆様の頭に入っていくだけの余裕がないのです。このことをよくご承知頂きたいのです。

 コップに一杯水が入っているとします。その上に水を注いだらこぼれるに決まっているのです。新しい水を入れようと思えば、既に入っているコップの水を流してしまってからっぽにしなければ入らないのです。

 般若心経が難しい、聖書が難しいのではなくて、皆様に受け止めようとする態勢がないから難しく思われるのです。

 まず空が分からなければ命は絶対に分かりません。宗教は空を受け取らないままで命を受け取ろうとするのです。現世に生きている自分が幸福になろうとするのです。そうして、死んでから極楽や天国へ行こうとするのです。こういう間違いをしているのです。

 人間の考えは根本から間違っているのです。欲が深すぎるのです。

 生命の生は天地自然の命のことです。これは死なないいのちです。例えば空の色、海の色は死なない色です。花の色も死なない色です。花は枯れますけれど、枯れるまでは死なないいのちの色を見せているのです。精一杯咲いて死なない命を見せているのです。

 花一輪が分かれば、皆様の命の心髄が分かるはずです。花の色は天然自然の命の色です。皆様の目は天然自然の命の色を見ているのです。

 良く晴れた日には必ず、「今日は良い天気ですね」と言います。これは皆様の命が天地の命、大自然の命を賛美しているのです。

 このように皆様の五官の本質は、死なない命を捉える力を持っているのです。ところが皆様の常識が悪いのです。人間の知恵とか、人間の理屈、人間の利害得失の考えが間違っているのです。人間の物心が詰まっているために分からないのです。皆様の目や耳は大自然の命を捉えているのに、頭で理解していないのです。

 目や耳は命の色を捉えているのです。ところが、頭の中の考え方が間違っているために、せっかく目が命の色を捉えていながら、それを理解することができない。そこで死んでしまうのです。

 このことを般若心経は、「五蘊は皆空だから人間の考え方を捨てなさい。究竟涅槃」としきりに言っているのです。色即是空、空即是色、諸法無我、是故空中という言い方で空を教えているのです。

 皆様には空が難しく思えるのでしょう。般若心経を信じていても、空が分からないと言われます。私がお話ししても空が分からないと言われます。

 分からない、分からないとわがままなことを言っていられるのは、生きている間だけです。生きている間は空が分からないと言っていられますが、この世を去ったらどうしますか。この世を去ってしまったら、一冊の本もありませんし、指導してくれる先生もいません。皆様は自分一人で命を見つけなければならないことになるのです。これは本当に大変なことです。

肉体は死ぬが霊魂は死なない

 人間は死んだらしまいという訳にはいきません。肉体は死にますが、霊魂は死なないのです。死んだら皆様の精神の働きは直ぐに凍結してしまいます。凍結してしまいますから、精神は働かなくなります。

 凍結状態は永遠に続くのではありません。凍結したということは眠ったということですから、必ず目を覚ます時がやってきます。その時が恐いのです。

 人間は現世では命の真ん中で生きているのです。だから命を掴まえるという工夫をしさえすれば、死なない命を捉えることは難しくないのです。

 生命の命は人間が現世に生きているいのちを指すのです。肉体的に生きているいのちが命です。

 生は生まれる前からのいのちです。霊魂の本質が生です。肉体人間のあり方は命です。生と命が一緒になって、生命になっているのです。こういうことを勉強して頂いて、本当に命のあり方を考えて頂きたいのです。

 日本人の考え方は仏教と儒教の考え方が中心になっているのです。仏教も儒教も命を教えていないのです。現世で生活することだけを教えているのです。

 実は仏教では命のことを教えているのです。命の本質は空だという言い方で教えていますが、空が分からないのです。お坊さん自身が空が分からないのです。そこで仏教の教えは現世の道徳のようなことを教えていることになっているのです。

 日本では儒教と仏教がほとんど同じ感覚で受け止められているのです。従って命のことが分からないのです。

 お坊さんはナムアミダーと称えれば、死んでから極楽へ行くと言いますが、ナムアミダーと言わなかった人間はどうなるのか。これがさっぱり分からないのです。仏を信じればいいのですけれど、信じない者はどうなるのか。この説明が仏教ではできないのです。

 人間はこの世を去ったら眠っています。眠っている間はいいのですけれど、目を覚ましたら恐いことになるのです。こういうことが日本人は全然分からないのです。

 日本人は聖書を読まないのです。聖書と言っても、キリスト教の宣伝をしているのではありません。キリスト教は大変間違っているのです。

 キリスト教は聖書をキリスト教のテキストにしているのであって、聖書はキリスト教のテキストではありません。聖書は人間と自然との命に係わる根本原理を教えているのです。ところが、日本のキリスト教は西洋の宗教であって、イエス・キリストを信じると罪が許される。そうして天国へ行くと考えているのです。

 そんなこと聖書には全く書いていません。とこしえの命については書いていますが、永遠の命がキリスト教では分からないのです。永遠の命を経験している牧師さんは、日本には一人もいないのです。もし牧師さんが永遠の命を経験しているとしたら、キリスト教の中でいられるはずがないのです。これが本当の神を知らない証拠です。本当の命を知らない証拠です。

 人間が死んでから目を覚ますと大変なことになると申し上げました。一体どうなるのか。人間は生きているうちに、正当な意味での命の経験をしない状態で、自分の欲望に従って生きていた。その結果、七十年八十年の人生を全く無駄にしていたという責任を追求されることになるのです。

 人間には生きる権利がありますが、同時に命に対する認識の義務があるのです。または責任があるのです。日本人は命に対する認識の義務を全然考えていないのです。自分の霊魂に対する義務を考えようとしないのです。これが日本人の物の考え方の大変な欠陥です。

 日本人は魂が全く分からない民族です。なぜかと言いますと、儒教にも仏教にも魂という言葉がないからです。常識的に霊魂という言葉は使いますが、本当の意味を知らずに使っているのです。

 大乗仏教の一万七千六百巻と言われる膨大な仏典の中に、魂という文字が一字もないのです。魂という言葉に匹敵する言葉はあります。観自在の自在が魂に匹敵する言葉だと、解釈できないことはないのです。しかし霊魂という言葉はないのです。

 霊魂不滅という言葉は常識的な言い習わしでありまして、これは仏教の言葉ではないのです。また、神道の言葉でもないのです。儒教にもないのです。そこで日本人は魂とはどういうものか分からないのです。

 聖書には魂という言葉が何回も出てきます。キリスト教の牧師さんは魂という言葉を使ってはいるけれど、魂という言葉の説明ができる牧師さんはいないのです。なぜこういうことになっているかと言いますと、神学校へ行ってキリスト教の教義を勉強してくるからです。牧師さんはその説明をしているのです。

 宗教教義はすべて人間が造った理屈です。人間が造った理屈では魂の実体は分かりません。私は聖書に書かれている魂という言葉をそのまま説明しているのです。私はキリスト教ではない立場から、聖書そのものを、聖書どおりに命の感覚で聖書を読んでいるという立場から、魂の説明をしているのです。

 私の魂に対する見解は一般の日本人が使っている魂という見方とは全然違います。キリスト教の見解と私とは全く違うのです。私は皆様に私の見解を押し売りしようとは決して思っていません。私は本当の命の見方、本当の霊魂の見方はこういうものだということをお話ししているのです。

 キリスト教では聖書の内容を正しく説明していません。神という言葉が聖書にありますが、これがキリスト教では分からないのです。

 キリスト教の牧師になるためには神学校へ行きますが、神学校では神とは何かについて説明しません。ただ神は信じるものだと言います。信じたら分かると言います。こういう言い方が宗教です。キリスト教という宗教です。

 神とは現在皆様の目が見えていること、心臓が動いていることです。これが神です。皆様が信じても信じなくても、皆様は神の中で生きているのです。信じても信じなくてもそうなっているのです。

 信じたくない人は信じなくてもいいでしょう。この世を去ったら分かりますから。この世を去ってしまえば黄泉(よみ)に行きます。黄泉というのは眠ってしまう場です。眠っている霊魂は必ず目を覚まします。目を覚ますと、本当の神が目の前にいるのでびっくりするのです。これから魂の苦しみが始まるのです。

 私がお話ししようとしていることは、宗教ではありません。宗教というのは結局商売です。仏教の経典を利用して、キリスト教は聖書を理論化して、お金を儲けているのです。宗教教団を造っているのです。こういうものが宗教でありまして、私はそれではないと言っているのです。

 日本人は命が分からない国民です。魂のことを知らないのです。今まで日本で本当のことを述べた人は一人もいなかったのです。空海でも、弘法でも、親鸞も日蓮も、道元も本当のことが分からなかったのです。

 生が命になって現在皆様は生きていらっしゃいます。神と人を対比して見ていきますと、魂という語法が生まれてくるのです。

 魂というのは神から見ると、神を小さくしたようなものです。神の子みたいなものです。だから死なないのです。魂が死なないということを、ナザレのイエスという人物が証明したのです。これが霊魂不滅の典型的な実証です。



日曜日はイエスが死を破った記念日


 イエスは死を破ったのです。日曜日はイエスが死を破った記念日です。日曜日は一週間に一度ずつ来るのです。一年間に五十回以上ありますが、キリスト教では日曜日の意味をはっきり説明しないのです。

 キリスト教では日曜聖日と言っています。ところがイエスが死を破った、復活したとはどういうことか、これがキリスト教ではよく分からないのです。

 教会は復活を信じなさいと言います。神を信じなさいと言います。キリストを信じなさいと言います。しかし、信じるための説明ができないのです。

 信じるというのは、皆様の精神状態を変えてしまわなかったら、信じることができないのです。私は神を信じろとは言いません。現在の皆様の心境では、神を信じることはとても不可能です。できるはずがないのです。

 だからまず般若心経の五蘊皆空を悟って、自分の考えが間違っているということに気づくことです。そうすると、初めて目を開くことができるのです。

 魂の目が開かなければ、神とか仏は分かるはずがないのです。仏というのは空を認識することを言います。空を認識しますと、自分自身の生活はなかったことが分かるのです。今までの自分の生活が嘘だったということがはっきり分かるのです。

 人生を空じるということができるのです。ところが、日本の仏教では人生を空じることをしますと、仏教のお寺も空じてしまわなければならないことになるのです。お坊さんが金襴の衣をかけて法要をしていますが、これが嘘になってくるのです。

 そこで般若心経を本当に認識することを仏教はためらっているのです。般若心経を宗教宣伝の道具に扱っています。宗教観念を養成するための道具にしていますけれど、本当の五蘊皆空を恐れているのです。こんなことを言えばけしからんと言われるかもしれませんが、実はそういう状態なのです。

 本当の空というのは、現在皆様が生きている命は死ぬ命だということを認めることです。これが空です。

 皆様は現在死ぬに決まっている命を自分の命だとお考えになっているでしょう。死ぬに決まっている命を自分の命だと思っていることは、皆様の人生が空だということになるのです。この点を冷静にご判断頂きたいのです。

 人間の常識は肉体的に人間が存在することを前提にして成り立っています。肉体的に人間が存在するという観念が、般若心経で言う色即是空になるのです。

 肉体は色です。色即是空ですから、肉体は空になるのです。肉体的に生きている自分は迷いになるのです。

 本当の般若心経は日本では説かれていません。しかし人間の霊魂はあるのです。現在皆様は魂として生きておいでになるのです。これを承知するかしないかは別として、皆様が肉体的に生きているということが、神を生きているのです。

 神という言葉と命という言葉とは、ほとんど同じです。非常によく似ているのです。そのように皆様は現在神を経験しているのです。命を経験しているのです。これを命として、また、神として認識することができないような常識を持っているのです。ですから皆様の常識と命が反発しているのです。

 皆様が生きている本質と、皆様の常識とが反対になっているのです。このことを般若心経では五蘊皆空と言っているのです。

 皆様の霊魂の本質は五官です。魂の本質は五官であって、皆様の五官は大空の色を見ことができるのです。花の色を見ることができるのです。天地自然の色を見ることができるような能力性を皆様の魂は持っているのです。ところが、皆様の常識がそれを受け止める力を持っていないのです。

 皆様の魂は五官の働きとして、天地自然の命を受け止める機能性を持っていますけれど、皆様の常識の方がそれを拒んでいるのです。そこで皆様の常識と皆様の魂とが相反することになっているのです。だから死んでからどうなるかが分からないのです。

 生きていながら命が分からないのです。現在命を経験していながら命が分からないのです。

 人間の常識が間違っているのです。命は間違っていません。皆様の五官は非常に正確に働いています。神の処置に従って目が見えるのです。神の処置に従って心臓が動いているのです。

 現在皆様は命を経験していらっしゃいますけれど、命の本質を掴まえることができないのです。皆様の常識がそれを無視しているからです。そこで般若心経をよくご注意頂きたいのです。

 五蘊皆空ということは、常識が間違っていると言っているのです。

 現在の人間は生活するという面と、命を見極めて永遠に繋がるような考え方をする面とがあるのです。現在の文明は現世に生きているということを基本にして考えているのです。



専門学


 いわゆる専門学がありますが、これは人間が現世に生きていくための考え方です。これは常識に属するのです。常識は顕在意識でありまして、肉体的に生きている人間が生活することを考えているのです。

 常識は現世に人間が生きている以上は必要です。私も常識を用いています。電車の切符を買う時には常識が必要です。常識は否定すべきものではありません。常識は常識として用いる時に、常識の価値があるのです。

 ところが常識は魂については考えることができないものなのです。専門学というのは専門的な学であって、人間が生きているのは専門的に生きているのではありません。全体的に生きているのです。

 人間は専門的に生きているのではありません。ところが学は全体的ではないのです。政治学とか経済学とか自然科学とか色々な学がありますが、これは単なる生活の知恵です。

 人間は現世に生きているので生活の知恵も必要でしょう。しかし、これがすべてではないのです。魂の問題は命の問題でありまして、人生の本質に関する勉強の問題です。

 現在の日本は生活の方は非常に発達しています。いわゆる経済大国と言われるようになりました。その結果、魂の方が全く没却されたのです。

 皆様の人生の本質は生です。命は現世のあり方です。現世のあり方はもちろん必要です。しかし現世のあり方ではいのちのことが分からないのです。

 現在の専門学は生活の知恵であって、人間のすべてではないことをよくご承知頂きたいのです。

 いのちは永遠の本質を持っているのです。私たちがよく考えなければならないことは、地球があるとはどういうことかです。地球には生命現象が充満しているのです。地球以外の惑星には生命現象は一つもありません。あるようなことをいう学者がいますが、これは御伽話です。宇宙人がいるという作り話を世界中にばらまいているのがユダヤ人です。ユダヤ人は聖書を空文化しようという謀略を企てているのです。

 太陽系はもちろんのこと、太陽系以外の宇宙でも生命現象は全くありません。ある必要がないのです。

 宇宙で生命現象が満載しているのは地球だけです。それでは地球はどうしてあるのか。これが専門学では全く分かりません。

 創世ということが日本人には分からないのです。世が始まったことです。地球が創造されたことです。これが分からないのです。宇宙に大暴発が起きたと言われていますが、なぜ起きたのか。これが分からないのです。

 皆様は時間があると考えています。時間があることを仮定しなければ、自然科学が成り立たないのです。科学は時間があることを仮定しているのです。科学の概念の基礎は人間の観念に基づいているのです。

 人間が生きているということはどういうことなのか。これは日本人の考えでは分からないのです。人類も分からないのです。分からなくしてしまっている原因はどこにあるかと言いますと、ユダヤ人にあるのです。

 ユダヤ人がとんでもない間違いをしているのです。そのために世界中の学の概念があやふやになっているのです。

 科学にどういう目的があるのか分からないのです。法律にはどういう目的があるのか。哲学にどういう目的があるのか。分からないのです。

 すべて人間が行き着く所が学問では分からないのです。これは聖書を勉強しなければ分からないのです。キリスト教の聖書ではありません。キリスト教ではこんなことは皆目分からないのです。

 日本人は聖書を大変嫌っています。敬遠しているのです。日本では徳川時代からキリシタンバテレンという思想が伝承されていました。日本人は無意識に聖書を敬遠しているのです。だから日本人は本当の聖書が分からないのです。

 創世が分からないのです。創世が分からなければ、人生全体をマスターすることができないのです。

 専門学の根幹を造ったのは、ユダヤ人学者です。現代文明はユダヤ主義の文明になっているのです。これが良いか悪いかという問題ではなくて、非常に不完全な所、足りない所があるのです。

 ユダヤ人は創人が分からないのです。なぜ人間が存在するのか。人間とは何かということです。

 人間がなぜ地球に存在したのか。これが学では分からないのです。人間はただの動物だという説があります。人間がただの動物だとして、人間に理性と良心があるのはなぜでしょうか。

 理性は無限の真理を探究するという性格を持っています。もっと本当のことを、もっと本当のことをと、とことん真実を追究するのが理性です。

 良心は最高の善を求めています。もっと良いことを、もっと良いことをと考えるのです。

 理性は一体何を求めているのか。良心は何を求めているのか。これを知ろうと思いますと、人間の理性の本源、良心の本源を考えなければならないのです。

 これを考えるためには、聖書を勉強するしかないのです。聖書以外に本当に信頼できるものはないのです。

 創世、創人を知るためには、聖書に聞くしか方法がないのです。仏教を調べても書いていません。古事記や日本書紀では間に合いません。

 ところが、キリスト教が聖書を間違えたのです。キリスト教の宗教観念に基づいて、間違えて解釈したのです。

 キリスト教は神学の説明をしているのです。キリスト教神学というのは、科学や哲学と同じように一つの学なのです。専門学です。専門学で聖書を説明してもだめです。できるはずがないのです。

 何のために地球があるのか。こんなことは専門学で分かるはずがないのです。現在、科学で考える原子爆弾と政治学で考える永久平和というものとが、かみ合わないのです。

 専門学はたくさんあります。何百という専門学がありますが、専門学全体を統合するような思想がありません。だから本当の平和をどうしたら実現できるのか、さっぱり分からないのです。これが現代文明です。

 文明は霊魂を殺しているのです。霊魂は人間存在の本質です。これを殺しているのです。

 人間はこの世に生きていてもいいのですが、間違った生き方をしてはいけないと言っているのです。人間存在の本質、地球存在の本質を考えなければいけないのです。地球は何のために存在するのか。この説明ができるような考え方をする必要があるのです。

 日本人はこういう考え方ができないのです。東洋哲学の粋が般若心経です。西欧社会の根底が聖書です。白人社会の文化的な根底と、東洋哲学の粋である般若心経とを一つにして掴まえてしまわなければいけないのです。これを日本人でする人が一人もいないのです。

 私は専門学の批判をするとか、現代教育の批判をしているのではない。学校教育の考えが小さいと言っているのです。政治学も科学も哲学も、スケールが小さすぎるのです。もっと大きいもの、もっと根本的なものを見つけて頂きたいのです。

 人間がなぜ生きているのかという問題です。皆様の命がなぜあるのかという問題です。どういう考え方をしたら、命を全うすることができるのかということを考えなければいけないのです。

 現在皆様は死なない命を持っているのです。皆様の目の働き、五官の働きは天地自然の本質を見る力を持っているのです。皆様は自分の五官の意味が分かりさえすればいいのです。

 五官の意味は魂の意味です。霊魂の本質的な意味が分かればいいのです。そうしたら死なない命があることが分かるのです。

 自分の中に永遠の命が輝いているのです。私はこのことをお話ししたいと考えているのです。

 本当のことが分かる人はごく少数しかいないでしょう。少数でもよいですから分かって頂きたいと思うのです。

 般若心経は現世の人間が根本的に間違っていると言っているのです。此岸、こちらの岸から、彼岸、向こうの岸へ渡ることを提唱しているのです。そのためには空を悟ることが必要です。この世の人間の本質は空なのだ。これを究竟涅槃という言葉で述べているのです。

 究竟涅槃が般若心経の目的です。般若心経は空を悟ることを提唱しているのです。人間が現世に生きていることは本質にむなしいのです。これを悟らなければ、彼岸へ渡ることができないと言っているのです。これが般若心経の目的です。

 般若心経は命のことを書いていません。悟りはありますけれど、命を示していないのです。彼岸という言葉はありますけれど、彼岸はどういうものかという説明はありません。

 般若心経には悟りはありますが、救いがないのです。完成がないのです。

 聖書は人間の命がどういう形で完成されるのか、神とは何か、人間の霊魂とはどういうものかをはっきり書いているのです。

 般若心経は悟りを提唱しています。聖書は救いの実体を示しているのです。ですから、般若心経だけ分かっても、人間の命の本当のあり方を知ることができません。

 聖書の場合、聖書だけを信じればいいように思いますけれど、日本人のように聖書に関係のない民族が、いきなり聖書を信じることはできません。キリスト教が間違えた原因はここにあるのです。

 日本人の常識を持ったままで聖書を信じることはできません。キリスト教では信じられると言っているのですが、これは嘘です。宗教宣伝の言い方で聖書を信じなさいと言いますが、神とは何であるか。この説明ができないのです。

 まず人間の常識を空じてしまうのです。これが般若心経です。それから本当の命を掴まえることが聖書の目的です。従って、般若心経と聖書は車の両輪のような関係にあるのです。日本人はこのように考えなければ、本当のことは分からないのです。

 現代文明は目的がないのです。従って、皆様は何のために生きているのか分からない状態になっているのです。こういう人間が寄り集まってできているのが現代文明です。

 文明は目的を持っていないのです。文明が進歩繁栄して何になるのでしょうか。皆死んでしまうだけです。

 人間は命を経験していながら命の本質を理解していない。こういう人間が何のために生きているかを考えても、分からないのです。人間の文明が始まってから六千年になりますけれど、未だかつて人間が何のために生きているかということの説明をした人がいないのです。

 人間が何のために生きているのか分からない文明が、だらだらと六千年続いている。創世と創人が分からないからこういう文明になっているのです。

 何のためにこの世が造られたのか。何のために人間が存在するのか。人間とは何であるのか分からないのです。文明は目的を持っていません。

 文明は生活の役には立ちますけれど、人生の目的にはならないのです。何のために政治学があるのか。何のために経済学があるのか。学の究極の目的は何であるのかが分からないのです。

 そこで文明はやがて滅んでしまうのです。理想を持っていないからです。なぜこういう文明ができているのか。これがユダヤ主義の問題です。ユダヤ人が文明のあり方を間違えてしまったのです。



ユダヤ人が世界の指導方向を間違えた


 ユダヤ人が世界の指導方法を誤ったのです。ユダヤ人が現在の文明を指導しているのですが、ユダヤ人が本当の目的を見失ったのです。その結果、現在のような文明になってしまったのです。ですから、この文明はやがて潰れてしまうことになるのです。

 その後にどんな文明が到来するのか。イエスが死を破ったことを考える必要があるのです。日本人にはイエスが死を破ったことが何のことか分からないのです。これは困ったことです。本当に困ったことです。アメリカ人にも分かっていない。ヨーロッパの人々にも分かっていない。

 西欧人はキリスト教というもので聖書を信じているつもりでしょうけれど、これはキリスト教の観念で聖書を信じているだけなのです。本当の聖書を知らないのです。

 私はユダヤ人と西欧人に、本当の聖書の見方を教えてあげたいと思っているのです。本当の聖書とは何であるか。本当の神とは何であるか。これを全世界に教えなければならないのです。

 日本人でなければ本当の聖書の見方は発明できません。日本人は発明できる資格があるのです。日本人以外の民族はだめです。本当の聖書が分かる人はいないからです。

 日本は特殊な国です。天皇制という妙なものがあるのです。しかし、日本人には天皇制が全く分かっていないのです。

 やがて本当の目的を持った文明が表面に現われます。死なない命に基づく文明が現われるのです。

 イエスが死を破ったということは、イエスがどこかに生きているということです。復活したイエスがどこかに生きているに決まっています。どこに生きているのか。これがキリスト教では分からないのです。聖書には書いてありますが分からないのです。

 死を破った命、復活した命の現物が、この地球上にやってくるのです。これは夢物語のように思えますが、本当です。

 人間文明は目的を持っていないのです。やがて混乱し始めます。しどろもどろになるでしょう。学問も、常識も、法律も、条約も全く役に立たなくなるのです。そういう状態に文明がなるに決まっているのです。

 その結果、人間文明は恐るべき壊滅状態になるでしょう。その時に、イエスの復活の命が歴史のまん中に現われてくるのです。

 これが今の日本人に分かっていないのです。日本人は世界歴史を知らないのです。ユダヤ人問題を知らないからです。皆様が真面目に聖書をお読みになる時に、初めて本当のことが分かるのです。人間の命の実体がどんなものかが分かるのです。

 皆様の五官の働きがどんなものかが分かるのです。皆様が生きていらっしゃる命の中に、永遠の命が輝いているのです。

 人間文明は全く新しいものになります。神の国が到来するという形で実現するのです。

 般若心経の標題である般若波羅蜜多心経の前に摩訶という字をつける場合があります。

 摩訶というのは摩訶不思議という場合に用いられていますが、これは人間の常識では特定しがたいすばらしい内容を持ったものという意味になるのです。

 波羅蜜多というのはハラムというのが向こう岸、イタとは渡るという意味です。波羅蜜多とは向こう岸へ渡るということです。

 日本では般若心経は人口に膾炙した最も有名なお経です。テレビのドラマでお葬式の場面になると、だいたい般若心経を唱えているのです。

 これほど人々に馴染みが深い経文ですが、その意味が全く分かっていないのです。なぜ分かっていないのかと言いますと、般若波羅蜜多というのは彼岸へ渡る上智です。普通の常識ではないのです。常識の上に位する知恵です。

 上智は彼岸へ渡るための知恵です。今生きている人間の常識とは関係がないものです。ですから、現世の常識でいくら般若心経をお読みになっても分からないのが当たり前です。

 だいたい寺のお坊さんが分からないのです。寺のお坊さんが彼岸へ渡る知恵を持っているかというと、全然持っていないのです。昔のお坊さんは持っていたかもしれないということが言えるのです。

 鎌倉に建長寺という寺がありますが、かつて祖元禅師が座っていたのです。この人は中国から日本へ渡ってきたのです。

 北条時宗が青年の時に、どうも自分は物事に神経質で臆病で困ると思ったのです。神経の使い方が鋭い人物だったので、自分は臆病だと考えていたのです。そこで祖元和尚に臆病で困るのでどうしたらいいのかと聞いたのです。

 祖元和尚はじっと考えて、「誰が臆病じゃ」と聞いたのです。「この時宗が臆病です」と答えると、「時宗を殺してしまえ」と言ったのです。その時に時宗は分かったのです。

 それから時宗の心境ががらっと変わってしまったのです。これが本当の禅でしょう。今は「時宗を殺せ」とはっきり言うお坊さんはいないのです。

 「時宗が臆病であるのなら、時宗を殺せ」。これが般若波羅蜜多です。時宗は現世における固有名詞です。現世の固有名詞は彼自身の本体ではないのです。

 皆様にも名前がありますが、これは皆様の本体ではないのです。これが分からないために、自分が死ぬと勝手に思っているのです。

 自分が死ぬ、自分が死ぬと思って臆病神に脅かされているのです。時宗のように臆病だと思っている方がずいぶんあると思われるのです。

 時宗という人間は彼岸の人間ではなかったのです。此岸の人間です。こちら岸、現世の人間です。この世に生きている人間はやがて消えてしまうに決まっているのです。百人が百人、千人が千人共、全部死んでしまうに決まっているのです。

 般若波羅蜜多というのはこのことを教えているのです。現世にいる人間が、現世にいる常識で般若心経をいくら読んでも分かるはずがないのです。分からないのが当たり前です。

 ところが現在の仏教では、現世にいるお坊さんが現世の常識で般若心経を読んでいるのです。そうして分かったような顔をしているのです。宗教は全くいんちきです。祖元和尚のようなお坊さんは、今はいないでしょう。

 皆様が時宗のようにお考えになったら、般若心経は分かるのです。永遠の命を掴まえることができるのです。



霊魂不滅


 般若波羅蜜多とはどういうことか。彼岸と此岸とがあるのです。なぜ二つあるのか。霊魂不滅という言葉がありまして、誰でも知っている言葉です。ところがその意味を誰も知らないのです。宗教家でも知らないでしょう。霊魂不滅という言葉の本当の意味を知っている宗教家は日本にはいないのです。

 不滅というのは現世にいるだけが人間ではなくて、この世を去って、また、別の霊魂のあり方が存続するという意味なのです。なぜそうなるのかと言いますと、皆様の魂の機能は理性と良心の機能です。人間の理性と良心というのはすばらしいものです。

 例えば芭蕉が「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」と詠んでいます。名月の光に打たれて夜どおし池の回りを回っていたのです。芭蕉は何に惹かれたのでしょうか。芭蕉にもよく分からなかったのです。

 月の光が人間の魂に語りかけているのです。これは月だけではありません。自然現象というものは、人間の魂に非常に深い語りかけをしているのです。

 いわゆる行雲流水と言いますが、雲の流れをじっと見ていますと、人間の魂に非常に深い語りかけをしていることが分かるでしょう。そうすると、世の中のばかばかしさ、政治のばかばかしさ、社会状態の為体さとは別の世界があることが分かるのです。

 雲の流れをじっと見ていますと、人間の魂の底から感じるものがあるでしょう。癒しを感じられるでしょう。現代の医学ではできない効果があるのです。天然自然にはそういう効果があるのです。

 これは何かと言いますと、人間の魂は永遠を知っているのです。皆様が死にたくないとお考えになるのは、皆様の魂が永遠を知っているからです。そこで、自分の魂のあり方をよく考えて頂いたら、固有名詞で生きている自分が、一時的な現象にすぎないことがよく分かるのです。これが五蘊皆空、色即是空という考え方の基本になるのです。

 人間の理性と良心は宇宙現象の終極を見極めようとする本性を持っているのです。宇宙現象の終極は永遠であります。永遠の真理、絶対真理を追究しようという気持ちを、皆様の魂は持っているはずです。

 ところが、現代の人間は生活することに追いまくられて、永遠の真理を真面目に考えようとしない人間になり下がってしまっているのです。

 生活のことは考えますが、命のことを考えようとしない、非常に悪い人間になってしまったのです。

 今の人間は放っておけば誠の命が分からないままで死んでいくに決まっています。私は現在の日本人の世界観が根本から間違っているということを、お話ししたいと思っているのです。こういうことを警告したいと思っているのです。

 なぜ人間の理性や良心が永遠を求めているのかと言いますと、人間は観自在の本性を持っているからです。観自在とは何かと言いますと、生まれる前の命の本性を人間の霊魂は知っているのです。

 生まれる前に魂に本性が植え込まれているのです。生まれる前の人間の霊魂のあり方が、現在肉体的に現われているのです。従って肉体的に生きている人間の魂が永遠を求めるのは当たり前のことです。

 永遠を求めるというのは、魂の生まれ故郷を求めているのです。魂は何を求めているのかと言いますと、望郷です。故郷を求める思いが皆様の魂にあるです。

 現在の日本人はこういうことをまともに考えないという悪い習慣がついているのです。しかし皆様の魂の本性には潜在的にこのような意識がはっきり植えられているのです。この本性を生かすことが般若波羅蜜多です。

 この世を去っても、皆様が現世に生きていたという記憶は絶対に消えません。肉体は火葬場で灰になりますけれど、皆様が何十年間かこの世で生きていたという記憶は灰になりません。これが問題です。

 皆様の魂は現世に生きていた記憶を持ったままで、他界することになるのです。そこで困るのです。現世のことだけしか知らない人間が、この世を去るとどうなるのか。

 霊魂不滅というのは人間の記憶は消えないということです。このことは誰でも少し静かにお考えになったら分かることです。

 現世は非常に矛盾しています。正直に暮らしていたからといって正当な報いを受ける訳でもない。でたらめに生きていても、何とか幸いになっている人もいるのです。親から莫大な資産を受けて、一生左団扇で暮らしている人もいます。

 反対に、「働けど働けどなお我が暮らし楽にならず」という人もいるでしょう。人生は非常に矛盾しているのです。このような人間の人生の矛盾はどこで決済されるのか。いつどこで決済されるのかということです。

 人間が生きているのは現世だけでおしまいというのなら、せいぜいごまかしてお金を儲けたらいいのです。現世は矛盾だらけ、不公平だらけですが、これがいつどこで精算されるのかということです。

 人間は現世では公平に精算されずに死んでいくに決まっています。そうしたら死んだ後に精算されるということは常識でも分かることなのです。従って人間が生きているのは現世だけではない、来世が必ずあるということが分かるのです。これが道徳の基礎になっているのです。

 なぜ人間は道徳を守らなければならないのか。現世を去るからです。なぜできるだけ人に親切にしなければならないのか。正直は最良の策と言いますが、なぜ正直でなければならないのか。死ななければならないからです。

 もし人間に死後の世界が全くないとしたら、現世ではできるだけごまかして生きた方が得です。石川五右衛門のような人間になったらいいのです。

 霊魂不滅という言葉は人間の魂は永遠のものであるということです。現世を去ったら魂は消えてしまうものではない。だから恐ろしいのです。従って現世ではどういう生き方がいいのかということが、どうしても問題になってくるのです。

 現代文明はこういうことを考えようとしないのです。これは文明の根本的な大欠陥です。この大欠陥が教育という形で現われているのです。

 人権、人権と言われますけれど、権利を主張するなら義務をせいぜい教えなければならないのです。ところが義務を教えない。権利だけを教えすぎるのです。責任を教えようとしない。そのために教育の混乱が起きているのです。これが現代文明の悪い面です。

 文明は現在生きている人間に媚びすぎているのです。良いことは良い、悪いことは悪いと、はっきりいう教育者がいないのです。こういう欠陥が現代文明にあるのです。

 永遠を見通すだけの上智を持っていないのです。人間は現世で生きているだけではない。

 生まれてきたという。死んでいくと言います。生まれてきたというのはどこからか来たのです。死んでいくのはどこかへ行くのです。人間の魂は過去と現在と未来という三世に繋がっているのです。

 人間の理性は神と同じ本質を持っているのです。だから死にたくても死ねないのです。神が死なないように、人間も死なないのです。そこで今生きている間だけではなくて、もっと長い、もっと大きい人生の捉え方をしなければならない。これが般若心経が言いたい所です。

 これに対して聖書はとこしえの命の実体を皆様に与えようとしているのです。とこしえの命の実体は何であるか。神とは何であるか。霊魂とは何であるか。これを皆様に自覚させようとしているのです。

 空という感覚が般若心経の哲学です。皆様に永遠の生命の実体を提供しようとするのが、新約聖書の実体です。

 現在のキリスト教では、永遠の生命の実体を教える牧師さんが一人もいません。宗教の中に入ってしまいますと、本当のことが分からなくなるのです。だから本当のことをいう牧師さんはいないのです。

 キリスト教の牧師さんはキリスト教の教義ばかりを話しているのです。ですから本当の神を皆様に教えることは全くできません。ましてやイエスが復活したことは全く分かりません。イエスの復活は具体的にはどういうことなのか。これを説明できる牧師さんが日本にいないのです。

 人間は記憶の塊がその人の世界観になっています。五十年間生きていた人は五十年間の記憶の集積がその人の世界観の根底になっているのです。自分が肉体的に生きていたという思いが自分の思想の基礎になっているのです。

 人間が肉体的に存在しているというのは、現在の人間の肉の思いでありまして、実は人間の肉体は真実に存在していないのです。



物質は存在していない


 これは肉体だけではありません。すべて物質は具体的に実在しているものではありません。原子爆弾ができるということが、物質が存在していないことの証明になるのです。もし物質が本当にあるのでしたら、原子爆弾は製造できないはずです。

 物理運動はありますけれど、物質はないのです。ところが人間は物質があると思って生きています。これが人間の世界観の間違いです。

 人間の考え方の土台が間違っているのです。善悪利害の考え方の根本がすべて物質が存在すると思っているのですが、物質は存在していないのです。

 近代文明というのは基本的なことを申し上げますと、ユダヤ主義によって成立しているのです。資本主義も社会主義も共産主義も、教育主義、政治経済主義も皆ユダヤ主義です。

 日本人は本当の聖書を知らないのです。実はアメリカ人も知らないのです。アメリカ人が知っている聖書はキリスト教の聖書であって、本当の聖書ではないのです。ローマ法王がキリストの代理者のように言っていますが、これは全く宗教的な言い方でありまして、聖書的にも非常に空疎な聖書の解釈をしているのです。

 現在生きている人間の考え方が唯物的に考えるか、即物的に考えるか、どちらかになっているに決まっているのです。物質があるという考え方に立って物事を考えているのです。この世界観がある以上、完全な命を見つけることはできません。

 完全な命とは何かと言いますと、皆様の目が見えることです。皆様の舌が味を味わい分けるという正確な働きが、このまま人間の命のあり方を教えているのです。

 皆様がマグロの刺身を召し上がるとしたら、マグロの刺身の味を正確に舌に感じられるのです。マグロの味は魚屋さんがつけたものではありません。大自然がつけた味です。

 皆様の目、耳、舌は正確に自然現象の真髄を弁える力があるのです。五官の働きの正確さを基礎にすることが、客観的な人間の実像です。客観的に存在する人間の実像は、五官の働きがそのまま正直に自分に教えてくれるのです。ところが社会思想とか、利害得失とかによって人間の常識はめちゃくちゃに曲げられているのです。その結果、今のような混乱した世界が現われているのです。

 これから人口は無制限に増加していきます。そうすると、食料が追いつかないことになるでしょう。資源の枯渇、環境汚染、人心の荒廃もあります。人間文明の将来に重大な危機が待っているということは誰でも分かるはずです。専門的に勉強するまでもなく、ちょっと考えたら分かることです。

 やがて文明は壊滅状態になるでしょう。これを今の指導者は知っているのですが、それを口に出すのが恐ろしいのです。自分が生きている間は大したことがないだろうと思ってごまかしているのです。

 遅かれ早かれ、地球に一人も人間が住めなくなる時が来るでしょう。原水爆戦争がなくてもそうなるに決まっているのです。このことを人間は潜在意識で知っているのです。皆様も知っているはずです。ところが、自分が生きている間は大丈夫だろうとごまかしているのです。

 地球上に人間が住めなくなる時が来たら、人間の世界観や価値観は役に立たなくなるのです。

 ですから、現在目の黒いうちに、私たちの舌が何を味わっているのか、目が何を見ているのかを真面目にお考え頂きたいのです。皆様の目の黒いうちに、永遠の生命の実物を見つけて頂きたいのです。

 イエスが死を破ったという歴史的事実があるのです。イエスは歴史的事実として、はっきり死を破ったのです。釈尊は死にました。だから釈迦の骨はあります。釈迦の墓もあります。イエスの墓はどこにもないのです。墓が本当にない人はイエスだけです。

 イエスは歴史的事実において復活したのです。死を破ったのです。これが人間歴史の中の最も重大な問題です。これは宗教ではなくて歴史的事実です。この歴史的事実を克明に勉強する気持ちさえあれば、皆様も死を破れるのです。

 イエスがどうして死を破ったのかということが、はっきり分かるのです。皆様の舌の感覚、目の感覚がそれを証明しているのです。ですから、死なない自分を発見することができるのです。私はそれを発見しているから申し上げているのです。これは宗教ではありません。本当の事実を申し上げているのです。

 現在の日本の既成宗教は腐りきっています。全く腐っているのです。皆様は宗教というばかなものに頼ることをやめて頂きたいのです。そうして、皆様の五官、理性や良心が何を求めているかをよくお考えになったらいいのです。



神とは何か


 神を知る、永遠の生命を知るということは、大悟徹底ということとは違うのです。最初にはっと気がついてこれが死なない命だということが分かります。しかしこれは入口でありまして、ずっと奧の院が広がっているのです。

 大体、人間の理性というものは、神の実物を認識する十分な能力を持っているのです。

 聖書に、「神のかたちに、神にかたどって人を造った」とあります(創世記1・26)。人間の理性は神にかたどられて、神の全能の性能がそのまま人間に植えられているのです。

 理性に基づいて自分をよく見れば、主観的に生きている自分ではない、客観的に生かされている自分の実体が分かるのです。

 神とは何かと言いますと、皆様の心臓が動いていることです。目が見えることが神です。皆様の命は神と一緒になって生きている。これが魂です。神と人間の魂が一つになって生きている。これを聖書ではインマヌエルというのです(マタイによる福音書1・23)。神と人が同時に住んでいるのです。

 神と人が同時に生きていることをインマヌエルというのです。インマヌエルが人間の実体です。このことが分かりますと、皆様は神が分かるのです。神が分かっていないと、命が本当に分かっているとは言えないのです。

 皆様は四十年、五十年の間、現世に生きていらっしゃいました。だから現世がよく分かったのです。また、神が分かった人もいるでしょう。神が分かったからと言って神の全体が分かったのではありません。

 死んでからも通用する永遠の生命を勉強しようとお考えになるのなら、現世に生きているという事がらを通して、神を経験するのです。皆様は毎日の生き様を通して、神の実物を経験して頂きたいのです。そうしてそのことを日本の人々に伝えて頂きたいのです。

 宗教ではない本当の命があるのですから、それを示して頂きたいのです。

 般若心経を読まれて分からないと言われますが、分からないのが当たり前です。此岸に生きていらっしゃる皆様が、彼岸が分からないのが当たり前です。ところが分からないではすまないのです。これを考えて頂きたいのです。

 分からないのはいいのですが、分からないという牙城をどのように攻めていけばいいのか。分からないという城を攻めるためには、どこをどう攻めたらいいのかという積極的な考えをして頂きたいのです。

 皆様は生きていらっしゃいますけれど、命をご存知ないのです。生命現象はありますし、生活意識もあります。生活意識は本当の生存意識ではありません。

 皆様の生活意識は主観的な意識であって、生存という事実は客観的な事実です。例えば、皆様は空気も水も自分で造ったものではありません。ところが、皆様はどんどん空気や水を消費しているのです。

 皆様が必要とする酸素は毎日購入するとしたら、一日に一万円は必要でしょう。それだけの酸素を天物として毎日与えられているのです。大自然は太陽光線も空気も、ただで皆様に供給しているのです。

 皆様は酸素という点だけを考えても、命は自分のものではないことがお分かりでしょう。自分で生きているのではないということは簡単に分かるのです。

 太陽のエネルギー、光が何を意味するのか。これは皆様に本当の命があることを語っているのです。

 神というのは、これを申すという字が一つになっているのです。神は事実を示しているのです。事実を示すことによって、真実を皆様に語っているのです。申すというのは語ることです。

 太陽という事実を示すことによって、皆様に本当の命を語りかけているのです。これが神です。

 地球とは何か。これはただの惑星とは違います。地球全体が生物です。地球は生きているのです。その証拠に台風が起きたり、地震が起きたり、津波が起きたりするのです。これは地球が生物であることを証明しているのです。

 火星や金星は死物です。生命現象は全くないからです。地球は生命だらけです。バイキンから象に到るまで生物で満ちているのです。地球そのものが大生命体です。

 皆様は地球で生きているのです。ところが、命とは何であるかが分かっていない。これは今の人間の致命傷です。生きていながら命が分からないのです。命を経験していながら命が分からない。なぜか。神が分からないからです。

 私がいうのはキリスト教の神様とは違います。様をつける必要がないのです。皆様の心臓が動いていることが神です。皆様の心臓が動いているという事実が示しているのです。これによって皆様に命の実体を語っているのです。

 皆様は神と共に生きているのです。生きていることが神と一緒にいることです。神と一緒に生きることをしますと、現世における矛盾は全部消えてしまうのです。苦しいとか悲しいとか、病気とか、経済の問題とか、家庭の問題、社会の問題は根本から消えてしまうのです。そうして、永遠の命を現世で経験することができるのです。

 イエスという大工の青年が生きていたのと同じ感覚が持てるのです。

 まず般若心経によって空を味わうのです。空とは何かと言いますと、主観的認識によって生きることが間違っていることをはっきり認めるということです。

 主観的に生きている自分の気持ちは神を無視した気持ちだからです。なぜ神は人間を生かしているのか。一万円もする酸素をなぜ毎日ただで与えているのか。これが分からなければいけないのです。

 人間は万物の霊長でありますが、皆様の理性はまだ本当の働きをしていません。はっきり言いますと、皆様は頭が悪いのです。なぜ頭が悪いかと言いますと、皆様の理知性が十分に開発されていないからです。

 霊という実体が分からない。人間文明がどうしてできたのか。地球がなぜ宇宙に存在するのか。こういうことが皆様には十分に分かる可能性があるのですけれど、現在の人間の意識に捉われているために、皆様の頭はまだ十分に開発されていないのです。だから神が分からないのです。神が分からないから命が分からないのです。

 何のために自分が生まれてきたのか。このことさえも分からないのですから、今までの人間文明は非常につまらないものであることに気づいて、不完全な自分をもう少し完全なものにしたいと思うくらいのことは、考えて頂きたいのです。

 私がいうことは日本社会では通用しないでしょう。日本社会の方が間違っているのです。

 人間は目に見えるものが実在すると考えている。これを色蘊と言っているのです。五蘊とは色受想行識でありまして、人間が生きているという認識に基づいて五蘊が存在しているのです。これが間違っているというのが般若心経の見解です。

 皆様は体重があるとお考えです。五十キロとか六十キロという体重があるとお考えです。ところが、人間の体には重量はないのです。地球の引力があるだけのことです。引力に対する抵抗が重量として計測されるだけのことです。

 その証拠に宇宙ステーションに行けば人間は皆浮いているのです。もし本当に人間に重量があれば、人間の体が浮くということがないはずです。

 人間は自分の主観意識だけで、自分には目方があると考えているのです。目方はないのです。

 そのように人間の感覚は現世における感覚であって、永遠に通用するものではないのです。人間は目で見ていると思っていますが、人間の目は見ているのではない。光線が目の網膜に映っているから見えているのです。もし光線が網膜に映らなければ見えないのです。

 このように人間が現世に生きている常識の基礎は非常に間違っているのです。根本から間違っているのです。



この世に生まれてきたことが業(ごう)


 人がこの世に生まれてきたということが、業(ごう)を背負ってきたことになるのです。皆様が現世に生きていることが業です。ライオンの親が子供のライオンを谷底へ突き落としたようなものです。谷底からはい上がった強靱な子供だけを育てるという話がありますが、神はそれをしているのです。

 皆様を業の谷底へ突き落としたのです。これがこの世に生まれたことです。この世に生まれたという形で肉の世界へ放り込まれたのです。

 人間の常識ははっきり言いますと、悪魔の意識です。人間は悪魔の意識の中へ放り込まれたのです。この悪魔の意識の中から、皆様がはい出すことができるか、それができる能力があるかどうかを、現在テストされているのです。

 私は神の恵みによって、かろうじてそのテストに合格したのです。そのやり方を皆様にお話ししているのです。これはカンニング行為になるかもしれませんが、皆様自身の力でそれをしなさいと言っても、到底無理のように思いますので、そのやり方をお話ししているのです。カンニングでもかまわない。とにかく業から出たら勝ちです。

 人間は肉体があると思っていますが、肉体はないのです。あると思うのが肉の思いです。

 日本で一番最初にノーベル賞をもらった湯川秀樹さんが随筆で書いていました。私は学校では学生たちに物質は存在しないことを教えている。物理運動はあるけれど、物質は存在しないことを教えている。しかし家庭へ帰ると物質があるという気持ちで生きている。学者としては恥ずかしいと書いておられました。

 これは偉いです。正直な話です。偉いけれど、人間の弱さ、いたらなさが露呈されているのです。正直に自分の考えを言われるのは偉いと思いますけれど、湯川さんが永遠の命を知っていたかと言いますと、知らなかったのです。

 湯川さんは自分自身が二重人格であることを認めているのです。実は人間は全部二重人格なのです。これを一重人格にしなさいと言っているのです。一重人格にしたら死ななくなるからです。

 皆様が固有名詞の自分を自分としていたら、必ず死んでしまいます。死んだ後に大変なことが待っているのです。

 端的なことを申し上げると、皆様はセックスのことが全然分かっていないのです。セックスという重大な問題が全く分かっていないのです。何のためにセックスがあるのか。セックスとは何であるのか。これが分からないのです。これが分からないだけでも地獄へ行くのです。

 セックスは人間が考えているようなものとは違うのです。これは皆様の魂に重大な関係があるものです。肉体的な角度からだけしか考えていない。だから日本人は全部だめです。

 今の人間の考えは、赤信号皆で渡れば恐くないと言って、堂々と自我意識で生きているのです。神を無視して生きているのです。

 現在の道路で、十人も二十人もの歩行者が集団で信号無視をして渡っていたら、車の方で止まらざるを得ないのです。

 しかし神の前に立ったらそういうことは許されないのです。死んだら団体で地獄へ行くことは絶対にできません。死んだら皆一人ひとりになるのです。

 人間は今、主観的意識で生きています。これは一人ひとり独房にいる状態です。親子でも夫婦でも、お互いの気持ちが分かることはありません。本当に分かり合うことはできません。これが人間の心理状態です。

 自分の気持ちは自分だけしか分からないのです。これが地獄の始まりです。皆様はたった一人で生きています。皆様の本当の気持ちを知っている人は一人もいません。親も、兄弟も全然知らないのです。こういう状態で生きていることが危ないのです。

 人間は自分が生きていると思っていますけれど、命は自分のものではないのです。一人前の自分の命があるということはないのです。

 例えば、砂糖をなめたら世界中の人間は全部甘いと思っています。五官の感覚は全世界共通です。だから黒人と白人とが結婚できるのです。

 五官は世界の人間の共通の機能です。ということは、五官の機能は世界中に一つしかないということです。従って人間の人格も世界に一つです。ところが、何十億の人格があると考えているのです。これは愚かな考えです。

 命は自分のものだと考えている。これは救いがたい人間の迷妄です。ですから、死ななければならない自分を捨ててしまえばいいのです。

 「時宗が臆病なら、時宗を殺してしまえ」。これをしたらいいのです。自分が生きているという間違った考えを持っている。この自分を殺してしまったらいいのです。

 殺すとはどうすることか。般若心経の色即是空、五蘊皆空を実行したらいいのです。自分の思いが自分を不幸にしているのです。自分の思いを捨てたらいいのです。そうしたら主観的意識は見事に消えてしまいます。そうすると本当の命が分かるのです。死なない命が分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

閲覧数:0回0件のコメント
  • higan2021

 

 私がお話ししていることは宗教ではありません。宗教ではないとはどういうことかと言いますと、真実と命の勉強という意味です。

 宗教というのはこの世の人間のために、この世の人間が造り上げた理屈です。上品に言えば教えですが、教えは教義であって、人間が造った理屈になるのです。

 宗教は悪いと言いますと、皆様はとまどいのお気持ちを持たれるでしょう。日本人は宗教が好きです。宗教が嫌いなように見えますが、好きなのです。

 宗教が嫌いなように見えるというのは、自分の好きな宗教以外は嫌いだという意味になるのです。日本人の島国根性がそのようになって現われているのです。

 日本人は自分の経験とか自分の信心とか、自分の考え方に固執するのです。これが日本人の悪い点です。

 日本には宗教の悪さが色々な角度で現われているのです。例えば、皆様は現在生きています。生きているということは、命を経験しているということです。

 ところが、命を経験している皆様が、命とは何かを考えていません。宗教を信じているとそういうことになるのです。何とかなるだろう、何とかなるだろうと考えているのです。死んでから弥陀の浄土に行けるとか、天国へ行けると思うのです。こういう都合の良いことばかりを考えるのです。

 皆様がこの世を去ってしまいますと、宗教のない世界へ行くことになるのです。現世には寺も教会もありますが、現世を去ってしまいますと、寺も教会もない所へ行くのです。そうすると、寺や教団が言っている理屈は一切通用しないのです。

 宗教が通用するのは現世だけです。死んでから通用する宗教は一つもありません。どんな宗教でも生きている間だけの勉強になるのです。それも生きている間に本当のことが分かるかどうかは保障できないのです。その宗教が言っている理屈だけしか分からないのです。

 皆様の命は、全世界の人間に通用する命です。世界中どこでも通用する命です。しかし、その命に対する考え方が宗教的であるということは、世界中に通用しない考え方に、自分が凝り固まっているということになるのです。

 こういう考え方は、般若心経を勉強する上で非常に邪魔になるのです。

 般若心経は仏教の唯識論を堂々と真正面から否定しているのです。無苦集滅道と言っていますが、これは四つの悟りを否定しているのです。四諦を否定していますと、八正道が否定されることになるのです。

 無老死亦無老死尽と言っていますが、これは十二因縁を否定しているのです。これは般若心経のすばらしい英知です。

 十二因縁、四諦八正道は大乗仏教の唯識論の中心思想ですが、これを般若心経は堂々と否定しているのです。これは大したものです。

 宗教ではないという角度から、般若心経を真正面から見ていきますと、般若心経は仏教ではないことが分かるのです。仏教の教学を否定しているからです。

 ところが、仏教の世界では般若心経をお経のように取り扱っているのです。これは大間違いです。

 釈尊は宗教家ではなかったのです。むしろ宗教を否定した人です。

 皆様は今のままでは死ぬに決まっています。このことを真面目に考えてみませんか。皆様が死ぬに決まっているということは、宗教ではありません。本当のことです。

 織田信長が、「人間、五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」と歌って舞っていました。これは「敦盛」の一節ですが、皆様もよくご存知でしょう。ご存知でありながら、夢幻の世界でなぜ真実を捉えようとしないのでしょうか。

 皆様はぼやぼや生きていれば必ず死にます。絶対に死ぬのです。世間一般の人間は死ぬのだから、死ぬのはしかたがないと考えているかもしれませんが、この考え方が間違っているのです。

 こういう考え方が世間並みの常識に捉われている迷いです。生きている間は死ぬのは当たり前だという気楽な言い方ができますけれど、死んでしまうと大変なことになるのです。

 人間はこの世で生活するために生まれてきたのではありません。命を経験するために生まれてきたのです。生活するためではないのです。

 生活していて何になったのでしょうか。四十年、五十年、長い方は八十年、九十年と生活していて、命を経験していたのですが、命が分かったでしょうか。



死なない命


 現在皆様は命を経験しています。皆様の五官は太陽の光線が見えるのです。海の波の音が聞こえるのです。

 太陽光線は死なない命の象徴です。死なない命を現わしているのです。海の色、空の青さは命の色です。死なない命の色です。皆様の目や耳は、波の音を聞いたり、空の色を見たり、太陽光線を見ています。

 皆様の五官は死なない命を見ることができるのです。ところが、皆様の心が死んでしまっているのです。

 皆様の五官は死なない命を捉えているのです。これを命を経験するというのです。太陽の光を見ることができるのは、命を経験していることなのです。塩をなめれば塩辛い味がします。これが天然自然の味です。これは死なない命の味です。これを皆様は経験することができるのです。

 ところが、皆様は世間並の常識によって考えているために、心が盲目になっているのです。

 般若波羅蜜多とありますが、波羅蜜多というのは彼岸へ渡るという意味です。般若は彼岸へ渡るための知恵ということです。これは普通の知恵ではなくて上智をいうのです。上等の知恵です。

 彼岸へ渡る上智は、皆様の五官の中に宿っているのです。目の働き、舌の感覚の中に、般若波羅蜜多が宿っているのです。これが分からないのです。分からないようにしているのは宗教です。宗教で般若波羅蜜多を考えるから分からないのです。

 皆様はみすみす命を棒に振るようなことをしているのです。これはもったいないことです。

 命は上手に使えば永遠に使えるのです。死なないのです。肉体は耐用年数があります。家でも車でも耐用年数がありますから、ある年数を使えばだめになります。

 ところが、皆様の本体は肉体ではなくて、魂です。魂には耐用年数がないのです。魂は永遠のものです。死ぬことがないのが魂の本質です。

 魂の本質を知ることを般若というのです。宗教で般若波羅蜜多といくら言っても、絶対に波羅蜜多は分かりません。

 皆様が自分の人生を冷静に、平明に、そして綿密に見ればいいのです。皆様が生きていることを、冷静に、平明に、綿密にご覧になれば死なない命が分かるのです。

 皆様の五官の働きは、天地自然の命、死なない命を捉えているのです。海の波の音は永遠の音です。これが皆様の耳に聞こえるのです。

 そのように、皆様の五官は現在永遠の命に触っているのです。花の色が見えること、花の美しさが見えることは、皆様の目が永遠の命を見ている証拠です。

 ところが、人間の考えが間違っているのです。般若心経を宗教だと思っているのです。宗教は人間が造った理屈です。般若心経は人間が造った理屈ではありません。

 般若心経は人間が造った理屈は間違っていると言っているのです。人間が考えた理屈は一切間違っているというのが般若心経です。ところが、般若心経を読んでいながら、やはり仏教を信じている。なぜそんなばかなことをするのでしょうか。これが日本人の間違いです。

 日本で般若心経を愛好している人は、一千万人くらいはいるでしょう。もっと多いかもしれません。般若心経を読んだり書いたりしているのです。ところが、宗教的にしか考えていない。だから目の働きが死なない命を掴まえているということが分からないのです。これは本当に困ったことです。

 般若心経は人間の考え方は間違っていると言っています。こればかりを繰り返しているのです。五蘊皆空、遠離一切顚倒夢想、色即是空、究竟涅槃と言っている。人間の考えは間違っている。間違っていると言い続けているのです。

 私は皆様が本当の命を経験するために、どうしても必要な空という感覚をお勧めしているのです。

 般若心経は宗教ではありません。宗教は人間の理屈だということを般若心経は堂々と言っているのです。般若心経を真面目に勉強したら、自分の生き方が間違っているくらいは必ず分かるはずです。

 宗教ではない般若心経を勉強すると、人間が生きていることが空であることが分かるのです。ところが、死なない命がどこにあるかを般若心経は書いていないのです。

 現に皆様の目や耳は死なない命を見ているのです。太陽光線を見ていることは、死なない命を見ているのです。魚の味が分かるということは、天然自然の味が分かるのです。天然自然の味は死なない命の味です。

 このように、皆様は死なない命を毎日、飲んだり食べたりしているのです。ところが、皆様は世間並の常識を信じているのです。世間並の気持ちで生きていますから、必ず死ななければならないことになるのです。これをばからしいこととは思わないのでしょうか。

 般若心経は人間の考えが間違っていると言っているのです。しかし本当の命は何か、それがどこにあるかについては述べていません。

 人間はこの世に生きています。この世に生きていたら必ず死んでしまいますから、向こう岸へ渡れと言っています。向こう岸へ渡るとは、人間が考えていない考え方をしなさいということです。この世の習わしで考えないで、本当の真理によって自分の命をよくご覧なさいと言っているのです。

 命とは何か。これは宗教ではない聖書を見ないと分からないのです。キリスト教ではだめです。キリスト教ではない聖書を見るのです。命の実体をはっきり教えているのは、新約聖書です。

 日本人は宗教観念で固まっているために、聖書を見ないのです。これは困ったことです。これが日本人の大欠点です。

 太陽を見ていながら太陽の光が永遠の命であることが分からない。これが宗教に捉えられた人間の見方です。

 キリスト教ではない本当の命の文である聖書が嫌いで嫌いでしょうがないのが日本人です。これは宗教観念のせいです。

 皆様は宗教観念のために本当の空が分からないし、本当の命も分からないのです。宗教はこれほど悪いものなのです。

 宗教はこの世では通用しますが、この世を去ってしまえば全く通用しません。皆様はやがて宗教が通用しない所へ行くに決まっています。なぜ宗教を信じるのでしょうか。なぜ宗教にしがみつこうとするのでしょうか。これは日本人の悪い癖です。

 現在皆様は命を経験しているのです。五官の働きが命なのです。この命の本当の意味を知ることができれば、死なない命がはっきり分かるのです。

 日本人は聖書がキリシタンバテレンだという気持ちが未だにあるようです。キリシタンバテレンだという考え方は、ある意味では正しい点があるのです。当時の豊臣秀吉とか徳川家康の考え方によれば、そのように言えるのです。

 世界全体の流れという点から考えましても、織田、豊臣時代に日本に渡ってきたカトリックは、正しいものではなかったのです。現在でもカトリックはキリスト教ではありますけれど、純粋の福音を伝えていないのです。



イエスが死を破った


 新約聖書を煎じ詰めてみますと、イエスが死を破ったことを、そして復活したことを述べているのです。日曜日はイエスが復活した、死を破った記念日です。これを聖日と言っているのです。

 イエスが死を破ったということは、人間は死ぬべきものではないことを歴史的に証明したのです。新約聖書は現在百五十か国以上に翻訳されて、全世界で読まれています。世界中どこでも通用するものです。これはキリスト教として通用するという意味ですが、新約聖書は世界中どこでも通用するのです。

 現在般若心経を読んでいるのは日本人だけです。アジアにはミャンマーとかタイといった仏教国はありますけれど、般若心経を読んでいません。般若心経を読んだり書いたりしているのは日本人だけです。

 新約聖書は世界中に読まれているという点があります。なぜ世界中で読まれているかと言いますと、イエスが死を破ったからです。これは宗教的な問題ではなくて、歴史的事実としてイエスが死を破ったのです。

 現在の人間の命は、永遠のものではありません。ところが、本来の人間の命は永遠に保たなければならないものです。これをイエスが証明したのです。これがイエスの復活です。

 イエスが死を破ったことの他に、死を破ったという歴史的事実はどこにもありません。死んでいた者が一日や二日甦ったということはあります。甦ったとしてもまた死ぬのです。二百年も三百年も生きることはないのです。

 イエスが死を破ったというのは、新しい命の形で甦ったのです。永遠に死なない命として甦ったのです。

 イエスがどうして死を破ったのか。どういう気持ちで生きていたのか。これが分かりさえすれば皆様の間違いがよく分かるのです。死なない命を生きる生き方が分かるのです。

 現在間違っている点を直していけば、皆様は死なない命を掴まえることができるのです。死なない命を掴まえることは、新約聖書を勉強する以外にはできません。

 私も日本人の一人です。宗教や哲学や倫理道徳を色々勉強しましたが、本当のことが分かりませんでした。死を破るということは、イエスの復活の他にはないのです。釈尊でさえも死んでいるのです。死んでしまいましたから、仏舎利を納める塔があちこちに建てられているのです。

 永遠の命を掴まえるためには、イエスの復活の勉強をするしかないのです。これはキリスト教を推薦しているのではありません。

 どうしてイエスは甦ったのか。どうして復活したのか。このことを勉強なさるためには、新約聖書を勉強するしか方法がないのです。永遠の命の実体のあり方をはっきり捉えることは、新約聖書でしかできないのです。

 人間が死んだらどうなるかについては、どんな宗教家に聞かれても分からないと言われるでしょう。また、どんな哲学書や宗教書を読まれても分からないでしょう。これは命の問題でありまして、死んだ後にどうなるかということは、命を現在どのように受け止めているかということに関係があるのです。

 キリスト教では現世に生きている間に信仰を持ちなさいと言うでしょう。ところがキリスト教では現世に生きていることが何であるかということを、はっきり掴まえていないのです。

 人間は生きているうちになぜキリストを信じなければならないのか。イエスは、「生きていて、私を信じる者はいつまでも死なない」と言っています(ヨハネによる福音書11・26)。

 皆様は現在生きています。生きているということは、命の経験をしているのです。命の経験をしている時に、本当の命の経験のしかたをしますと、命の実物を捉えたことになるのです。そうすると死ななくなるのです。

 イエスは、「私は天から下ってきた命のパンだ」と言っています(同6・50~56)。またイエスは、「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言っています(同14・6)。

 イエスは自分が生きているその生きざまが、命そのものを経験して生きていると言っているのです。死なない命を経験していると言っているのです。命の実物をそのまま生きているから、死ぬことがないと言っているのです。

 太陽の光線が命ですから、太陽の光線を見て、その意味が皆様にご理解できるとしますと、皆様は死なない命が理解できたことになるのです。こういう気持ちで生きていたら、皆様は死にません。これは生きている間でないとできないのです。

 死んだら太陽の光線のない所へ行くのですから、生きているうちに本当のことを悟らなければならないのです。

 人間は死んでからどうなるかということですが、現在皆様が生きているということの中に、死んだ後の世界があるのです。死んでからの世界というのは宗教で考えるようなものではないのです。

 現在皆様が生きているという事実、また昨日の生活の記憶があるのです。こういうことをした時に、こういう気持ちを持った。ああいうことをした時に、ああいう言葉使いをした。またこういう時にこうなればいいと思った。また、嘘を言った。約束を破るようなことをした。

 こういう毎日の生活の記憶があるでしょう。これが皆様の地獄になるのです。自分が生きていると思っている間は誰でもこれをするのです。

 自分が生きている。自分の命があると思っているでしょう。これが大変な間違いです。これが毎日地獄を造っているのです。これが恐いのです。

 自分が生きていると思っていることが、死ぬ原因になるのです。自分が生きていると思っているから、自分が死んでいくのです。

 自分が生きていると思わなかったらどうなるのか。自分は死なないのです。これが本当です。イエスは自分が生きていると思わなかったのです。自分の命は神のものだと考えていたのです。

 イエスは自分のことを生ける神の子であると言っています。皆様も同じことです。命は皆様のものではないのです。この点にお気づきになれば、皆様の中から地獄が消えてしまうのです。

 自分が生きていると考えている間は、その人の中に地獄があるのです。永遠の命を見つける方法はこれです。般若波羅蜜多の秘訣はこれです。自分がないということが分かればいいのです。

 人間は誰でも自分が生きていると考えていますが、自分が生きているという事実はないのです。皆様は自分が生まれたいと思って生まれたのではないでしょう。自分が生まれたいと思って生まれたのでなければ、今生きているのは自分ではありません。

 今生きている命が自分のものであるという証拠は一体どこにあるのでしょうか。ところが、人間は自分が生きていると考えているのです。自分が嬉しいとか、自分が悲しいとか、自分が辛いとかと考えるのです。自分が生きていると思っているからです。

 自分の命があると思っている人は、毎日毎日罪を造っているのです。罪を造っているに決まっているのです。

 自分の思いどおりにならないのは当たり前です。この世は自分のものではありませんし、大自然も自分のものではありません。だから、自分の思うようにならないのが当たり前です。

 人間は毎日苦を造る。恨みを造る。憎しみを造っているのです。焼きもちを造っているのです。こういう気持ちを毎日造っているのです。二十年生きている人は二十年の記憶、三十年生きている人は三十年の記憶、五十年、六十年、七十年生きていますと、長い間の記憶が蓄積されるのです。これが皆様の霊魂の大きな負担になっているのです。これが死んでからの地獄になるのです。

 人間の記憶が人間の霊魂を裁くのです。人間の生活のあり方がその人の霊魂のあり方と矛盾した状態で生きているのです。これが裁きの対象になるのです。

 自分が生きていると思っているのは自我意識です。自我意識が最も恐ろしい悪魔の意識です。悪魔が人間の思いの中に住んでいるのです。

 自我意識が本当のことを勉強するのを妨害しているのです。本当の聖書の勉強をさせないようにしているのです。

 自分の命がある。命は自分のものだという考えは、天の命を奪い取っている考え方です。天の命を盗んでいるのです。

 人間は何十年の間、命を預かって生きているのです。天から預かっているのです。皆様のものではありません。そこで、生きている間に預かり物の命に気がついて、本当の命を本当に経験するのです。そういう生き方になりさえすれば、皆様は死なないものになるのです。地獄の内容ががらっと変わってしまうのです。

 お金を盗んだら刑務所に連れて行かれます。命を盗んだらただではすまないのです。皆様が盗んでいるのではなくて、この世の常識が盗んでいるのです。

 この世に生まれた人間は皆、この世の常識にまといつかれて、自分が生きていると思っているのです。この世の常識から逃げ出すことさえ考えれば、死後の世界へ堂々と入っていけます。死なない命が分かるからです。

 人間は命を知らないで自分の迷いに従って勝手に生きているのです。命を知らないで生きているのですから、どこへ行くのか、何をすべきなのか全然知らないのです。

 今まで偉大と言われた色々な人物がいましたが、イエスと釈尊を除いたすべての人間が何をしてきたのか、何のために生きていたのかというと、全く無意味に生きていたのです。

 何のために生きているのか分からずに、ただ盲滅法に生きていたのです。



極楽浄土


 親鸞上人は大変正直で素直な人でしたけれど、自分が極楽浄土へ行って何をするのか分からなかったのです。「自分はいかなる行も及び難き人間だから、地獄一定しかない」と言っているのです。「阿弥陀如来に頼るしかない」と言っているのです。私の先生の法然上人が言っていたから、私もそれに従うしかないと言っているのです。

 しかし、法然のいうことが本当であるという証拠はどこにもないのです。これは仏教で勝手にそう言っているだけなのです。

 西方極楽浄土が十万億土の彼方にあるということが仏説阿弥陀経に書いてあります。ところが、極楽浄土が何のためにあるのかという目的は、全く書いていないのです。人間を極楽浄土へ連れて行くことが仮に本当であるとしても、極楽浄土へ行って何をするのかがはっきりしていないのです。

 これは釈尊が考えていたような本当の意味での悟りは、実は他力本願とは何の関係もないのです。釈尊の悟りに関係なく、仏説阿弥陀経があるのです。

 仏説阿弥陀経の一番最初には如是我聞と書いています。これを書いたのは、多分、龍樹菩薩ではないかと思われるのですが、龍樹が釈尊の説をそのように解釈したのです。

 釈尊は悟りを説いたのです。悟りの内容を他力的に見ていきますと、阿弥陀如来に繋がると言えないこともないのです。他力的に聞けばそういう理屈も言えるということになるのです。

 釈尊は西方極楽浄土が十万億土の彼方にあるということは、全然言っていないのです。しかしこういうことを親鸞が信じていたのです。

 それを信じるのは勝手ですけれど、何のためにそれを信じるのか。そういうことを考えないで、親鸞は信じていたのです。日蓮も同様です。日蓮は日本という国土が安穏であるようにと、やかましく言った人物です。いわゆる立正安国を唱えた人物ですが、日本の国から考えれば大変結構なことです。

 現世で国家生活を送っているという人間から考えれば、国家安全であることは大変結構です。しかし、いくら国家が安全であっても、人間は死ぬに決まっているのです。人間が死ぬことに対しては何も言っていないのです。

 法華経は現世で人間が生活することについて述べているのです。現世で安穏に生活して、家内安全、商売繁盛していきたいという人は法華経を信じたらいいのです。

 こういうことに熱心な人はたくさんいますが、人間はやがて死ぬのです。天理教やPL教団を信じていれば死なないと言われるかもしれなせんが、そういうことを信じるのは勝手ですが、宗教信仰というのは、なぜ宗教を信じなければならないのか。死んだらどうなるかについて、はっきりした見通しを持っていないのです。

 日本人は宗教を信じるのが好きですから、信じるのは勝手ですが、私が宗教ではないとわざわざ言わなければならないのは、既成宗教と全然違った発言をしているからです。

 宗教は実は目的を持っていないのです。人間の文明が目的を持っていないように、宗教も目的を持っていないのです。

 死んでから仏国浄土へ行くことができる。死んでから天国へ行けると言っているのです。こういう思想は現世にいる間は通用しますけれど、死んでしまえば通用しないのです。

 やがて人間は現世を去って行かねばならない。こんな簡単なことが分からないのです。人生の嘘と実、霊と肉が分からないからこういうことになるのです。

 肉とは何かと言いますと、これは聖書独特の言葉ですが、霊という言葉の反対が肉です。例えば、白の反対は黒です。



霊と肉


 霊とか肉という言い方は新約聖書の独特の語り方でありまして、霊というのは日本人が考える幽霊の霊とは全然違うのです。霊というのは実質、実体、本質、本体をいうのです。

 肉は実体がないもの、形はあるけれども実質が存在しないものを肉というのです。

 これは皆様の肉体を考えればすぐに分かるのです。皆様の肉体はあるように見えますけれど、肉体は絶えず変化しているのです。

 皆様が毎日召し上がっている食物が皆様の血となり肉となっているのですが、これは肉体がいつも変化しているということを示しているのです。

 血液の循環は止まることなく動いているのです。これが肉体存在の基礎になっているのです。もし血液の循環が止まれば、肉体は腐っていくのです。

 そのように、人間の肉体はいつでも変化しているのです。電灯は常時点灯しているように見えますが、点滅しているのです。六十サイクルの電気では一秒間に六十回点滅を繰り返しているのですが、人間の目には常時点灯しているように見えるのです。これが人間の幻覚です。

 人間の知識は幻覚です。これを般若心経では五蘊皆空、色即是空と言っているのです。

 色(しき)というのは物理的に存在するもので、すべて色(いろ)があるのです。空気でも水でも色があるのです。空が青いのは空気の色です。水が青いのも水の色です。物質的に存在するものはすべて色(いろ)があるのです。物質的存在を色(しき)と言っているのです。

 色というのは川の水が停まっていないように、いつでも流れ動いているのです。空気が停まっていないように、いつでも動いているのです。

 皆様の肉体もそのとおりです。ガス体も液体も固体も皆動いているのです。従って物質の存在が空です。だから、物質が固定的に存在するという見方は幻覚になるのです。この反対の思いを霊というのです。霊は言葉を変えて言いますと、空になるのです。

 皆様の肉体が存在しています。存在している事がらが霊です。事がらは物質ではありません。それでは精神かと言いますと、精神でもありません。事がらは物質的なものでもあり、また精神的なものでもあるのです。これが霊です。

 日本人はこういうことを全然知りません。本当の命を知らないからです。本当の命なる神を知らないのです。だから霊が分からないのです。

 命が分かれば死ななくなるのです。霊なる命が分かれば死ななくなるのです。

 聖書に、「神は霊であるから、礼拝する者も、霊と誠とをもって礼拝すべきである」とあります(ヨハネによる福音書4・24)。

 神は霊です。例えば、皆様の心臓が動いている事がらが神です。霊も神も同じことです。皆様が召し上がった食物が血となり肉となっています。この血となり肉となるという事がらが神です。これが命です。これが日本人に全く分かっていないのです。

 宗教を信じているから分からないのです。すべて人間が行き着く所は一つしかありません。それが死ぬということです。

 すべて人間が行き着く所は死ぬという事がらですが、これを裏返したら生きるのです。人間は死ぬか生きるかどちらかです。こういう肝心要のことが日本人は分かっていないのです。お金儲けのこととか、利害得失のことなどは考えていますけれど、肝心の生きているということが全然分かっていないのです。

 生きているということは霊です。生きているということを正確に理解すれば、永久に亡くならないのです。生きているということを正確に理解していないから死ぬのです。

 霊ということをもう少し分かりやすく言いますと、平家物語の一番最初に、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文句があります。この諸行無常ということが霊です。

 平家物語を日本人は皆知っています。諸行無常という言葉も知っています。諸行無常という言葉は知っていますが、その意味を知らないのです。

 日本人は諸行無常という言葉を知っていながら、実感していないのです。諸行無常を実感しますと、本当の霊が分かるのです。

 命は霊です。人間が生きていることが霊なのです。肉ではないのです。人間は肉体的に生きているように見えるけれど、見えるだけのことです。

 肉は形があるけれど、実質がないことをいうのです。人間の肉体は形はありますけれど、実質もあるように思えます。しかしこれは絶えず血となり肉となって変化しているのです。呼吸機能、消化機能、排泄機能がいつも働いているのです。これが肉体という形で現われているのです。

 こんなことは中学生でも知っているでしょう。そのように、人間の肉体構造は分かりやすく言えば機能の働きです。機能の働きが霊です。機能の働きの実質は何であるか。これが命です。命が霊として人間の肉体を保っているのです。




 命とは何か。その本質は何かと言いますと、神です。日本の神ではありません。靖国神社に祀っているような神ではありません。これは人間が造った神です。

 人間が造った神ではなくて、皆様の肉体を機能させているもの、地球を自転公転させているものがあるのです。地球には非常に強力な電気と磁気があります。地球にだけ強力な電場と磁場がありますが、地球にだけなぜそのような特殊現象があるのか。火星や金星にはなぜそういうものがないのか。

 太陽系以外の外宇宙にはそういうものは一切ありません。特に地球だけに濃厚な電場や磁場が存在するというのはどういう訳なのか。これは神自身の認識のうちに、神自身の足台として地球が存在しているからです。

 地球そのものが神の足台であって、地球が生きていることが皆様の肉体が生きていることなのです。これを霊というのです。

 本当の神はキリスト教が考えている神とは違うのです。イエスが考えていた神を言っているのです。これを分かりやすくお話ししているのです。

 霊というのは存在の実質です。霊は精神的なものでもないし、肉体的なものでもないのです。ところが、精神的なもののように、つい思い込んでしまうのです。これが日本人の悪い癖です。

 日本人が考える神は、衣冠束帯の格好をして、髭がはえたおじいさんを想像するのです。これが日本人の頭にこびりついているのです。幼稚な神観です。日本人はこの神観から逃れることができないのです。私のように神が分かっている者でも、子供の時に教えられた神という概念が、未だに消え去らずに残っているのです。

 私はそんな神を問題にしていませんが、私の意識の中に微かに存在していることを否定できないのです。全世界の人間は、全部偽物の神ばかりを拝んでいるのです。だから皆死んでいくのです。

 神とは何であるのか。命とは何か。なぜ人間は死んでいくのかということを、はっきり勉強しなければいけないのです。本当のことをお話ししようとしても、人が集まってこないのです。嘘の話をしたら人が集まるのです。宗教の話をしたら人が集まるでしょう。

 人間が生きていることは霊です。霊というのは精神的な条件と物質的な条件とが、完全に一つになっていることなのです。

 唯心論とか唯物論という考えが間違っているのです。こういう哲学が間違っているのです。哲学者は命を知らないで理屈だけを述べているのです。命を知っていたら哲学者にはならなかったでしょう。

 この世に役に立つものは、本当の命には何の役にも立たないのです。霊は人間の命の実質、実体であって、皆様の目が見えることが霊です。心臓が動いていることが霊です。これは精神的なことでもあり、物質的なことでもあるのです。

 心と物が一つになっている状態を霊というのです。神はそういうものなのです。見えないけれども見えるのです。見えるけれども見えないのです。

 皆様はいつも神を経験しておいでになるのです。しかし、分からないのです。経験していながら分からないのが神です。

 皆様が現在生きていらっしゃるのは、命を経験しているということです。命を経験しているのですから、命の説明ができるはずです。ところができないのです。命が霊であることを知らないからできないのです。

 霊さえ分かれば死なないのです。人間がこの世に生きていることは大切なことです。お金儲けをするとか、家庭を持つためではない。そんなことは片手間でできることなのです。できなければしなくてもよいことです。

 命が霊であるというこの実体を掴まえることが、人生の目的です。この世を去ってから後に本当の人生があるのですから、このことを考えて生きなければならないのです。

 生あるものは必ず死する。形あるものは必ず壊れる。これが諸行無常です。人間は現世で諸行無常の状態で生きているのです。色即是空、空即是色の状態で生きているのです。

 般若心経では人間が生きていることは、色即是空、空即是色だと言っていますが、何のために人間が生きているのかという説明をしていません。

 般若心経は人生の実体が空であると言っています。ところが、般若心経には命の説明が一言もないのです。ないと断言できませんが、分からないように説いているのです。

 空は命の半面を説いているのです。空という言葉だけでは命の実体が分からない。そこでどうしても聖書を勉強する必要があるのです。聖書は実を説いているからです。

 般若心経がいう空と、聖書の実の両方を勉強する必要があるのです。般若心経と聖書を二つ並べますと、宗教にはならないのです。どちらか一つなら宗教になりますけれど、両方並べたら宗教にはならないのです。

 キリスト教とか仏教とかいう宗教を信じることが、人間が迷っている証拠です。

 今、ここに生きていることがはっきり分かれば、本当の神が分かるのです。本当の命が分かるのです。本当の神や命をはっきり認識できる精神状態を仏というのです。

 日本人が霊という言葉を使っている場合は、霊媒の霊のことを言っているのです。これはシャーマニズムの霊です。日本という国がシャーマニズムの国です。日本という国の成り立ちはシャーマニズムによるのです。

 日本の神はシャーマンの神です。竜神さんとか荒神さんとか言いますが、竜神さんは上等の方です。荒神さんは安物です。日本の皇室には祀っている霊があるのです。

 日本という国柄が霊媒の国です。日本人が考える霊はほとんどシャーマニズムです。お稲荷さんも日蓮宗もシャーマニズムです。霊媒的な形で情熱が沸騰しますと、座ったままでも飛び上がったり、暴言のようなことを喋ったりします。

 本当の霊はシャーマンではなくてロマンです。シャーマニズムとロマンチシズムとは全然違います。太陽の働き、月の光はロマンチシズムそのものです。皆様は太陽の光を感じています。太陽の暖まりを感じたり、明るさを感じていますけれど、太陽が働いている力の世界の中へ入っていません。

 太陽の働きの力の世界は大きくなりすぎですけれど、小さく言いますと花が咲いている世界がありますが、この世へ入って頂きたいのです。太陽が働いている世界も、花が咲いている世界も同じ霊です。事がらの大きいか小さいかの違いがあるのですが、事の大小は人間の常識で考えるから、太陽は大きくて花は小さいように見えるのです。本質的に言えば花も太陽も同じです。

 花が咲いていることを愛でる人、賞味する人はたくさんいます。しかし花が咲いているという世界の中へ入って行く人はめったにいません。

 昔から日本人は風流を尊んだのです。風流というのは人間の常識で月を愛でることです。人間の常識で花の美しさを鑑賞することです。

 風流は雅であって花の趣を風流というのです。この程度に終わってしまいますと、風流が命にはならないのです。命を捉えることはできないのです。

 例えば、芭蕉のような俳人でもすばらしい俳句を詠んでいるのですが、月の光の世界の中へ入っていなかったのです。だから、本当の命を知らなかったのです。

 「名月や ああ名月や 名月や」と詠んでいます。月の光に恍惚として打たれたのです。月の光の中には芭蕉の魂をぎゅっと握ってしまうようなすばらしい力があったのです。それを感じたのですが、月の光の命は何であるのかが分からなかったのです。「名月や ああ 名月や 名月や」で終わりなのです。だから、「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」という悲しい辞世の句を詠んで死んでいったのです。

 芭蕉は本当の命が分からなかったのです。風流ならこの程度でよかったのですが、皆様は現在生きているのですから、花が咲いている世界へ入って行くことを考えて頂きたい。

 どうしたら花の世界へ入って行けるのか。これが般若波羅蜜多です。これをしたらいいのです。何でもないことです。私たちはこれを実行しているのです。

 般若波羅蜜多とは向こう側の岸へ渡ってしまうことでありまして、これをしたら月の世界へ入って行けるのです。これは誰でもできるのです。私みたいな者ができますから皆様も必ずできるのです。



運、鈍、根


 それに一番必要なことは、運と鈍と根です。私は永遠の生命を得る方法についてたくさんの本を書きました。書店で本を買われた方は運が良かった方です。また、インターネットで私のホームページを見て接触してこられた方もいますが、この方も運が良かったのです。

 永遠の生命について根気に勉強をし続けるのです。そうすると花が咲いている世界、花の命の世界が分かってくるのです。これが霊です。これが分かりますと、自分の心臓が動いている世界が分かるのです。

 花は地球の命がそのまま現われているのです。地球の命が端的に花になって現われているのです。これが分かると、地球の命、天地の命が分かるのです。

 花は地球の命の現われですが、この花が太陽の光を受けて成長しているのです。これは地の命が天の命を受け取ろうとする荘厳な姿を現わしているのです。

 芭蕉が吉野山の桜を見て感嘆したのです。全山花で埋め尽くされているのを見て感心してしまったのです。

 西行法師が、「願わくば 花の下にて 春死なん そのきさらぎの望月の頃」と歌っています。贅沢な辞世の句を詠んだのです。

 そのように、人間は天地の命と一つになりたいという本能的な願いを持っているのです。これが人間の本心、本願です。これが神を求めている気持ちで、死なない命を求めてやまない気持ちが魂の中心にあるのです。

 現在の人間は目に見えることをそのまま信じているのです。聞こえることをそのまま信じているのです。人間の目が見えるというのは肉眼が見えているということです。肉眼の感覚をそのまま信じているのです。

 これは消えるに決まっている命を捉えているのです。人間が目で見ているのは幻覚です。織田信長は、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」という謡曲を舞っていますが、人生は夢幻だと言っているのです。

 人間は自分の心に騙されているのです。これが人間の罪です。人間は自分自身の無明煩悩によって、自分自身が騙されているのです。だから、今肉体的に生きているのが本当の命だと思い込んでいるのです。これは魂的には死んでしまっている証拠です。これが人間の幻覚です。

 なぜ分からないのか。第一に運が悪いのです。日本人の聖書嫌いが日本人の大欠点です。新約聖書を嫌ってやまない民族があります。第一はイスラエル、その次は日本です。この二つの民族は新約聖書が大嫌いです。その中でごくわずかの人々が新約聖書を信じていますが、信じているという格好をしているだけで、本当に信じているのではありません。

 ユダヤ人は自分の理屈に捉われて聖書を信じることができないのです。日本人は自分の霊に捉われて信じることができないのです。

 仏教には仏教の霊があるのです。神社仏閣は両方とも霊です。シャーマニズムの霊です。これが日本人の魂を腐らせているのです。日本人が拝んでいるものが日本人を地獄へ引きずり込んでいくのです。シャーマニズムによって日本人は皆地獄へ行くのです。ばかなことをしているのです。

 シャーマニズムは幻覚に基づく霊です。ロマンチシズムの霊というのは花が咲いている命です。本当の命の実体がロマンチシズムです。ロマンチシズムの本当の霊が神です。

 「神は愛なり」という言葉がありますが、これが本当のロマンです。イエス・キリストが十字架にかかって、すべての人の罪を消してしまったという驚くべき事実があるのです。これが世界歴史を貫く一番大きなロマンです。

 必要なものは鈍です。鈍な人間という言葉がありますが、鈍な人間でないと分からないのです。鈍というのは愚直なことです。ばか正直なことです。愚直、率直な人間でないと本当の命は分かりません。

 まず運が良いことです。宗教ではない本当の聖書に巡り会うことです。その次には辛抱強く続けて勉強しようという根気を持つことです。そうしてばか正直になることです。この三つがあれば必ず本当の命が分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書引用)

閲覧数:0回0件のコメント
bottom of page